1965年
三十八年暮、ノンプロ八幡製鉄のエースとして鳴り物いりで入団した。三十八年暮の秋季練習では、シート・バッティングでピッチャーを努め、一軍選手を牛耳った。そのときにこういったものだ。「プロの打者は低目にさえ投げていれば絶対に打たれない。こわがることは全然ないね」この度胸に着目したのが、別所ヘッド・コーチ。「笠崎はプロ入り一年目で10勝はかせぐだろう」と語っていた。ところが、春のオープン戦に登板してもコントロールがない上に、球威の冴えがみられず散々のデビュー。「口ほどのピッチャーじゃないな」というのがチーム内の評判になった。その後ファームで内外野を守ったが、いずれも成功しなかった。宮崎二軍監督は「器用な選手だからなんとかものにしたかった」といっているが、しょせんは器用貧乏に過ぎなかった。まだ就職は決まっていない。
三十八年暮、ノンプロ八幡製鉄のエースとして鳴り物いりで入団した。三十八年暮の秋季練習では、シート・バッティングでピッチャーを努め、一軍選手を牛耳った。そのときにこういったものだ。「プロの打者は低目にさえ投げていれば絶対に打たれない。こわがることは全然ないね」この度胸に着目したのが、別所ヘッド・コーチ。「笠崎はプロ入り一年目で10勝はかせぐだろう」と語っていた。ところが、春のオープン戦に登板してもコントロールがない上に、球威の冴えがみられず散々のデビュー。「口ほどのピッチャーじゃないな」というのがチーム内の評判になった。その後ファームで内外野を守ったが、いずれも成功しなかった。宮崎二軍監督は「器用な選手だからなんとかものにしたかった」といっているが、しょせんは器用貧乏に過ぎなかった。まだ就職は決まっていない。
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