1974年
日ハムは二十六日午後四時から東京・六本木の球団事務所で三原球団社長、中西監督が立ち会い、ローレンス・バレット・スノー投手(29)=183㌢、86.5㌔、右投げ右打ち、ユタ州立大卒=の入団を発表した。同投手は元ニューヨーク・メッツのアウバーン球団(A級)に所属したことがあるが、その後の交通事故で左足を骨折、好きな野球が断念できず日ハムのテストを受け合格したもの。なお球団登録名はニックネームからバール投手となる。背番号は18。ビールの酔いも手伝ってか三原球団社長のほれ込みようは大変。「アメリカでの球歴はやや不足かとも思いますが要は実力です。最低でも10勝、私が保証しますよ」一度は口先から20勝が飛び出して報道陣をギョッとさせたが、そこは魔術師で鳴らした三原社長。「だれがそんなことをいいました。あんたたちの耳がおかしいんですよ」でチョン。もちろん三原球団社長、中西監督は第二のバッキーとして期待。「スピードもあるしカーブ、スライダーもいい。二週間くらいかけて体づくりをすればローテーション入りできるのでは…」投手陣が手薄なだけにバール投手にすがりたいわけだろう。気になるのはバール投手の球歴。ユタ州立大学卒業後の1966年メッツのファーム、アウバーン球団(A級)で6試合に登板、そこで1勝2敗。翌1967年もインデアンスのA級チームで13試合に登板して1勝3敗ーこれがすべて。プロ野球最低ランクのA級で2勝しただけ。おまけに1964年に交通事故で左足を骨折。それで大リーガーの夢をあきらめた」というから球歴はお粗末すぎる。1968年以降はユタ州テクニクス大学の野球コーチをつとめてきたというから、なおさら?マークがつく。「とにかく15勝を目標にがんばり抜く。15勝すればどんな球団でも満足してくれるはずだから…」とバール投手。背番号18のエース番号を手に夢がかなってニコニコ顔だった。
日ハムは二十六日午後四時から東京・六本木の球団事務所で三原球団社長、中西監督が立ち会い、ローレンス・バレット・スノー投手(29)=183㌢、86.5㌔、右投げ右打ち、ユタ州立大卒=の入団を発表した。同投手は元ニューヨーク・メッツのアウバーン球団(A級)に所属したことがあるが、その後の交通事故で左足を骨折、好きな野球が断念できず日ハムのテストを受け合格したもの。なお球団登録名はニックネームからバール投手となる。背番号は18。ビールの酔いも手伝ってか三原球団社長のほれ込みようは大変。「アメリカでの球歴はやや不足かとも思いますが要は実力です。最低でも10勝、私が保証しますよ」一度は口先から20勝が飛び出して報道陣をギョッとさせたが、そこは魔術師で鳴らした三原社長。「だれがそんなことをいいました。あんたたちの耳がおかしいんですよ」でチョン。もちろん三原球団社長、中西監督は第二のバッキーとして期待。「スピードもあるしカーブ、スライダーもいい。二週間くらいかけて体づくりをすればローテーション入りできるのでは…」投手陣が手薄なだけにバール投手にすがりたいわけだろう。気になるのはバール投手の球歴。ユタ州立大学卒業後の1966年メッツのファーム、アウバーン球団(A級)で6試合に登板、そこで1勝2敗。翌1967年もインデアンスのA級チームで13試合に登板して1勝3敗ーこれがすべて。プロ野球最低ランクのA級で2勝しただけ。おまけに1964年に交通事故で左足を骨折。それで大リーガーの夢をあきらめた」というから球歴はお粗末すぎる。1968年以降はユタ州テクニクス大学の野球コーチをつとめてきたというから、なおさら?マークがつく。「とにかく15勝を目標にがんばり抜く。15勝すればどんな球団でも満足してくれるはずだから…」とバール投手。背番号18のエース番号を手に夢がかなってニコニコ顔だった。
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