プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

氏家雅之

2024-09-12 22:05:21 | 日記
1970年
氏家は無名ながら未完の大器といわれた。学生服に運動グツをはき、いかにも高校生スタイル。容ぼうも、あどけなさがやけに目立った。記者会見で報道陣の後ろからのぞき込んでいた父親充夫さん=新日鉄名古屋勤務=母親よしいさんがいかにも心配そうだったのが印象的。「若い投手がまたはいりました。地元ということでなく、十分期待出来る投手です」小川球団社長のことばを神妙に聞いていた氏家。心境を聞かれ「気持ちが非常に楽になりました。気持ちの整理が出来たからです」と顔つきとは違い、ハキハキと答えた。ドラフト会議第一位指名、十二選手の中ではもっとも無名の選手。甲子園大会どころか、中部大会にも出場したことがなく、最高の成績が今春の愛知県大会で準決勝進出というから無理もない。「春の中部地区予選で名門中京と当たって、ロッテの一位に指名された樋江井と互角に投げ合うピッチング内容。フォームが安定しており、将来性は樋江井以上と思った。未完成ではあるが、将来中日を背負って立つ大型投手になると思う」山崎スカウトは氏家を見出したいきさつをこまごまと説明していたが、その語調は自信たっぷりだった。無理のないフォームからのスピードボールは高校生離れしているといわれる。カーブがまだ覚えたてだという未完成さも魅力の一つといわれている。「中日のゲームは夏の大会が終わった後二試合見ましたが、非常に明るいチームだと思いました。とにかく期待されているので一日も早く第一線に出たいと思います」と氏家はきっぱりいい切っていた。「小さいときからほしいと思ったものはどんなことがあっても自分のものにしないかれば承知しない子でした」母親よしいさんはわが子を頼もしそうにながめていたが、無名の選手ほど大成するといわれる中日だけに若い星への期待も大きい。

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バール・スノー

2024-09-12 21:53:37 | 日記
1974年
日ハムは二十六日午後四時から東京・六本木の球団事務所で三原球団社長、中西監督が立ち会い、ローレンス・バレット・スノー投手(29)=183㌢、86.5㌔、右投げ右打ち、ユタ州立大卒=の入団を発表した。同投手は元ニューヨーク・メッツのアウバーン球団(A級)に所属したことがあるが、その後の交通事故で左足を骨折、好きな野球が断念できず日ハムのテストを受け合格したもの。なお球団登録名はニックネームからバール投手となる。背番号は18。ビールの酔いも手伝ってか三原球団社長のほれ込みようは大変。「アメリカでの球歴はやや不足かとも思いますが要は実力です。最低でも10勝、私が保証しますよ」一度は口先から20勝が飛び出して報道陣をギョッとさせたが、そこは魔術師で鳴らした三原社長。「だれがそんなことをいいました。あんたたちの耳がおかしいんですよ」でチョン。もちろん三原球団社長、中西監督は第二のバッキーとして期待。「スピードもあるしカーブ、スライダーもいい。二週間くらいかけて体づくりをすればローテーション入りできるのでは…」投手陣が手薄なだけにバール投手にすがりたいわけだろう。気になるのはバール投手の球歴。ユタ州立大学卒業後の1966年メッツのファーム、アウバーン球団(A級)で6試合に登板、そこで1勝2敗。翌1967年もインデアンスのA級チームで13試合に登板して1勝3敗ーこれがすべて。プロ野球最低ランクのA級で2勝しただけ。おまけに1964年に交通事故で左足を骨折。それで大リーガーの夢をあきらめた」というから球歴はお粗末すぎる。1968年以降はユタ州テクニクス大学の野球コーチをつとめてきたというから、なおさら?マークがつく。「とにかく15勝を目標にがんばり抜く。15勝すればどんな球団でも満足してくれるはずだから…」とバール投手。背番号18のエース番号を手に夢がかなってニコニコ顔だった。

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