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プロ野球 OB投手資料ブログ

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木原義隆

2018-01-28 21:04:59 | 日記
1964年

一日神宮球場で行われた東大戦で秋季リーグ戦の全日程を終えた法大の木原義隆投手(22)=法学部四年、右投げ右打ち、1㍍83、73㌔=は、試合後「プロ入りする。秋季リーグの閉会式のあと、実家(和歌山県海南市)に帰って家族とも最後の話し合いをしてから意思表示するが、意中の球団は決まっている」と語った。木原争奪戦には近鉄、南海が名乗りを上げていたが、近鉄の独走の形となっており、近鉄入りは確実である。

東京六大学リーグの好投手のひとりとして、木原には早くからプロの勧誘の手がのびていた。和歌山・海南高から法大に進み、二年生の春エースにのし上がったとき中退ープロ入りの動きさえあった。しかし二年秋のリーグ戦からフォームに迷い、以後山崎武昭投手(東映)の陰にかくれて低迷、プロの手も一時遠のいた。だが山崎が卒業して、四年生になった木原が再びエースの座につくと、巨人、大洋、東京、国鉄、南海、阪急、近鉄など各球団がつぎつぎと名乗りを上げた。下手投げだが、1㍍83の長身、しかもからだが柔らかいことに各球団は注目した。激しい争奪戦のすえ南海は鶴岡監督、近鉄は大西調査部長と、法大野球部OBで法友会に顔の広い切り札を動員。この両チームが勝ち残った。大洋は保井スカウト(現近鉄二軍ヘッドコーチ)が和歌山の自宅を中心に熱心に誘ったが脱落。南海、近鉄のつば競り合いも学校関係と実家に両面攻勢をかけた近鉄が、八月中旬にはほぼ確実の優位に立った。近鉄大西部長が、法大で鶴岡監督の先輩であるところから、同監督も巻き返しはできず、一歩ゆずった。九月末から十月中旬にかけて近鉄は別当監督の辞任、法大の先輩関根選手の退団など大きな人事の変動があり木原も動揺したが、大西部長が九月十九日上京してダメを押したとみられている。木原はことし春のリーグ戦ではまだ本調子ではなかったが、秋のリーグ戦では見違えるほどの進境をみせ、7勝8敗の好成績をあげた。上手投げのバック・スイングでサイド・ハンドから投げていたが、秋のリーグ戦を前に、先輩藤田省三氏から「それでは無理がある」と指摘され、完全な下手投げにフォームを変えたのがよかった。木原の武器は内角に浮き上がるシュートと落ちるシュートを投げ分け、外角をカーブで攻める下手投げ特有の投球の多彩さ。しかもスピードじゅうぶん。好不調の波のあるのが難点だが「調子のいいときはちょっと打てない」といわれるほどで、近鉄の大きな戦力になるだろう。

最後の東大戦を完封勝ちして有終の美を飾った木原投手は、さっそく報道陣の矢面に立ち、将来の野球についての抱負はと遠回しに水を向けられると、一瞬張りつめた顔になったが、あとはただニヤニヤ。川崎市今井仲町の合宿に帰ってひとふろあびるといくぶん気持ちもほぐれたようだったが、明確な意思は明かさなかった。

木原投手の話 もうゲームはありませんが、最後の閉会式には出たいから、まだなにも話せません。ただ僕自身の気持ちは九分九厘決まっています。あと一分がどうですかね。閉会式がすみしだい海南の実家に帰って、そこで意思表示をすることにします。

近鉄・大西調査部長の話 木原には八月から会っていない。木原は閉会式後一度和歌山へ帰り、兄さんと身の振り方を相談するだろう。高校生と違い、大学生は最後は自分で行く先を決めるのだから。私はg閉会式のとき上京する予定だが、すべてはそれからだ。もちろん一応の自信はあるつもりだ。

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