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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

中谷忠己

2025-06-08 19:57:21 | 日記
1991年
練習熱心。その苦労が花開こうとしている。阪神からは移籍して3年目になるが、もう誰もそんな目でみない。若々しいチームのムードがぴたりと合い、水を得た魚のような働きぶり。故障で出遅れたものの左の貴重な代打、指名打者として68試合に出場、打率3割4厘は合格点。今年は守備力をアップし、外野の一角を狙いたい。


1992年


チャーリーヒットを知ってるか?勝負所で放つ中谷独特の渋い当たりを、チームメートはこう呼ぶのだ。チャーリーの語源は自転車通勤時代のチャリンコ。そしてあの赤鬼マニエルもチャーリーだった。最強助っ人にあやかり、中谷がV奪回のキーマンになる。

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古里泰隆

2025-06-08 18:56:30 | 日記
1991年


米教育リーグから帰国後、急成長。キレのいいシュート、角度のあるスプリットで、「1軍入り」が期待される秘密兵器だ。


1994年
同期の新庄選手に続けとばかりに、1軍定着を目指した昨年だが、登板の機会もなく辛酸をなめた。課題であったコントロールも徐々に克服。より安定感を増したピッチングで、再び一軍定着をはかる。

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田吹昭博

2025-06-08 18:51:55 | 日記
1991年
近藤監督が鴨川秋季キャンプで最も伸びてきた新人投手らの名を挙げたが、その中の一人に田吹の名もあった。ランナーを背負った時ちょっぴり不安もあったが、球威そのものは入団時よりも俄然増した。ややまとまりに欠けていた投球内容も、このところグンと安定してきた。カーブとスライダーのキレも増し、すぐに活躍というわけにはいかないが、じっくりと腰を据えて臨めば将来きっと開花するはずだ。

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小坂勝仁

2025-06-08 18:49:08 | 日記
1992年

プロ入り2年目。入団1年目で10試合に登板し16三振を奪い本格派としての片りんを窺わせる。


1994年
祝勝会で歓喜を爆発させる小坂の姿が実に印象的だった。開幕30試合消化時点で12試合に登板。4月24日には飯田のサヨナラ安打を引き出す好投。これがサヨナラ伝説の始まりであり、小坂のプロ初勝利。今シーズン、登板機会はますます増えていきそうだ。


1995年


昨年は13試合1勝1敗。不完全燃焼のシーズンだった。誰からも好かれる明るい性格はチームの人気者だが、今年こそはピッチングで真価を見せてほしい。度胸の良さと、フォークボールの切れで、中継ぎ陣の柱へと期待がかかる。とにかく5年目の今季は勝負の年だ。


1996年


「日本一軍団」ヤクルトからトレードで移籍。完投能力のある先発投手が少ない近鉄では、佐野、池上ら中継ぎ投手陣に負担が大きかっただけに、心強い「助っ人」が加わった。「とにかく起用してもらえるところで、きっちり仕事して、信頼を得たい。肩はすぐできるタイプだし、いつだって投げる」初心に戻った小坂に、大車輪の活躍が期待される。

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小坂勝仁

2025-06-08 18:48:46 | 日記
1992年

プロ入り2年目。入団1年目で10試合に登板し16三振を奪い本格派としての片りんを窺わせる。


1994年
祝勝会で歓喜を爆発させる小坂の姿が実に印象的だった。開幕30試合消化時点で12試合に登板。4月24日には飯田のサヨナラ安打を引き出す好投。これがサヨナラ伝説の始まりであり、小坂のプロ初勝利。今シーズン、登板機会はますます増えていきそうだ。


1995年


昨年は13試合1勝1敗。不完全燃焼のシーズンだった。誰からも好かれる明るい性格はチームの人気者だが、今年こそはピッチングで真価を見せてほしい。度胸の良さと、フォークボールの切れで、中継ぎ陣の柱へと期待がかかる。とにかく5年目の今季は勝負の年だ。


1996年


「日本一軍団」ヤクルトからトレードで移籍。完投能力のある先発投手が少ない近鉄では、佐野、池上ら中継ぎ投手陣に負担が大きかっただけに、心強い「助っ人」が加わった。「とにかく起用してもらえるところで、きっちり仕事して、信頼を得たい。肩はすぐできるタイプだし、いつだって投げる」初心に戻った小坂に、大車輪の活躍が期待される。

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中ノ瀬幸泰

2025-06-08 17:38:00 | 日記
1996年
魔球と評される中ノ瀬フォークと146㌔のストレート。その威力は、初めて金属バットが採用された一昨年の都市対抗で、2試合連続完封勝利したことで証明済み。度胸の良さと三振ピッチングで、新守護神誕生!?


1997年


林投手同様、ルーキーながら開幕一軍。4月5日の巨人との開幕戦で早々プロデビューを果たした。シーズン終了後にはハワイ・ウインターリーグに参加。中継ぎから、途中で先発に転向し好成績。その自信を財産に、今季プロ初勝利を狙う。


1998年


一軍で思い通りの働きができないままに、7月25日、右足首の疲労骨折が判明。しかし、10月の黒潮リーグには元気に参加。川尻の90キロ台のスローカーブを凌ぐ、78㌔の超スローカーブを有効に使う投球を披露するなど、135㌔のストレートとの併用で新境地を拓く。

1999年

ウエスタン・リーグでは17試合に登板、7勝3敗、防御率「1.34」で、最優秀防御率投手のタイトルを獲得。また、一軍でも登板数は少ないながら、奪三振率は「1.06」と虎投ナンバーワン。9月にはフロリダ教育リーグにも参加し、みっちり1か月半、武者修行。マウンド度胸も十分に、一軍定着を虎視眈々。


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西村基史

2025-06-08 17:32:44 | 日記
1991年
平成1年にあげたプロ初勝利は、たった4球投げただけで転がり込んできたものだった。「おめでとう」のナインの祝福に「どうも」と頭を下げたものの、もうひとつ手応えのない勝利に、かえって気恥ずかしそうに体を縮ませていたが、昨年の2勝は、持てる力を十分に発揮したうえでの、堂々胸を張れるものだ。5月15日の近鉄戦では、先発柴田が打たれたあとの中盤をしめてピタリとしめて、チームの猛反撃を誘い出し、9月5日、オリックス戦での2勝目は、7-7の同点で迎えた7回途中から4番手として登板、つけるスキを与えない西村の力投に、藤王が決勝ホーマーで応えたものだ。もちろん勝利投手になるのにこしたことはない。だが、西村の存在感は、ピンチに強打の左打線を迎えたときにこそ大いにアピールされるべきものだろう。仕事の量は少なくても、ここ一番の必殺投球こそ与えられた使命。外角への鋭いスライダーに、さらに磨きをかけることだ。


1995年


一軍のマウンドに上がったのがたった一度だけ。プロ10年目の区切りのトシはまことに寂しいシーズンになってしまった。その1試合が10月2日のダイエー戦(福岡)先発白井康を4回途中からリリーフ。以後ダイエー打線を内野安打1本に封じる好投を演じ、首脳陣に存在をアピールしてみせた。左腕からキレのいいスライダーを武器に、今年こそ一軍にガッチリ定着したいところだ。


1997年


昨シーズンは29試合に登板して、防御率2.93。ホークス投手陣のなかでヒデカズに次ぐ数字を残したのは西村だった。時にはワンポイントで交代することもある地味でハードな役割だが、黙々と投げ続ける姿に熱いプロ魂が見えた。彼のような存在が、きっとチームを奮い立たせる。

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伴義太郎

2025-06-08 17:27:13 | 日記
1993年
アメリカ野球留学で、スプリット系のチェンジアップをマスター。抜群の制球力に加えて、効果的投球術で自信も大いに拡大。今後の活躍が楽しみな存在だ。


1994年


課題のスタミナの問題も克服。一昨年、ともに野球留学した同期のライバル山崎投手を追い越せとばかりに虎視たんたん。タイミングよく決まるカーブ、自慢の制球力に磨きをかけて、1軍のマウンドに挑戦だ。

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橋本大祐

2025-06-08 16:52:33 | 日記
1999年
ウエスタン・リーグでは18試合102投球回を投げて6勝、防御率「2.29」で堂々の第三位。オールスター期間中には一軍の練習に合流、ナチュラルにスライドする真っスラは首脳陣の絶賛を博した。今季はコンビネーションに磨きをかけて、いよいよ一軍デビュー。一気に初勝利と意欲も十分だ。

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忰田幸也

2025-06-08 16:48:25 | 日記
1990年


サリナスの約半年間で忰田が身につけたものは、シンカーという決め球と度胸という心の武器だった。渡米前に同僚の郭建成に教わったシュートしながら落ちるシンカーは留学中にさらに磨かれより鋭く球威も増した。その成果は142試合中、33試合に登板して10勝8敗(完投10、完封2)奪三振はリーグ2位の167個という数字が見事に忰田のシンカーの威力を物語っている。技術面だけでなく精神面でも大きな成長を遂げた忰田は帰国後すぐに立った一軍のマウンドでも緊張感が全く無く余裕の投球が出来たという。また92㎏あった体重も食生活がフィットしたせいか帰国時には98㎏にもなり体格まで一回り大きくなった。その分球質を重くする技術を身につけることが今季の課題、一軍入りはすぐそこだ。

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麦倉洋一

2025-06-07 20:18:42 | 日記
1991年
「オープン戦の後半で球は行ってたけれど、コントロールが甘くなって結果が出てないんで、どうかなと思ってたんです」と麦倉。オープン戦4試合に投げたところでは、カーブ、スライダー、SFFと多彩な球種に加え、ケン制やフィールディングの巧さに光るものがあって、若手投手陣の中でも目立った存在だった。


歩み寄る中村監督、「ムギよ、ごくろうさん。よく投げたぞ」七回二死一、二塁から久保の救援を受けたがプロ初勝利ー。そして、チームの連敗をも止める白星。「二日前に登板を言われて、きのうは実家(栃木)に電話しました。頑張って投げるよって」初の先発。しかもこの日一軍登録されたばかり。しかし十九歳の右腕はなえることなく、縮んでしまうこともなかった。「先輩たちから、自分のピッチングだけに専念しろと言われました。でも内心、なんとか(連敗を)止めてやろうという気はあった」初回、1点を失ったものの、以後の立ち直りも素早かった。伸びのあるストレートを主体にして、安芸キャンプ中に村田兆治氏(評論家)から伝授された「抜かずにたたきつけるように投げるフォーク」で大洋打線をほんろうした。四月十七日にファーム落ちした際、復調を焦るあまり左足を止めてタメをつくるフォームにした。結果は以前の悪癖に戻しただけだった。体重移動をスムーズに、と大石コーチとこの二日間、二人三脚でフォーム修正に努めてきた。いわば突貫工事が生んだ快投だった。6回2/3、90球。熱く燃えたマウンドが、麦倉のタテジマ・ストーリーの華々しい第一幕である。


ゲームセットの瞬間、麦倉は目を潤ませていた。ナインから握手攻めに合ったときも、こぼれそうになる涙を抑えようと、うつむき加減にいっぱいの照れ笑い…。それは決して2勝目を挙げた喜びからではなかった。「この前負けて、初心に帰っていくつもりが、ボールが多くて…。5点も取ってもらったのに、こんなピッチングで、木戸さんに迷惑かけたし、僕が一番悪いんです」プロ初勝利を挙げた六日の大洋戦(甲子園)と同じく、七回降板で完投できなかった悔しさが涙につながったのだ。しかし、中盤までの投球は堂々たるものがあった。確かに、カウント0-3になるのが五度と制球に難はあったが、カーブ、フォークで大洋打者のタイミングを外し、四回までは無安打。五回に谷繁、代打・横谷の長短打で無死一、三塁。大ピンチのここからが麦倉の真骨頂。続く宮里の痛烈な投手右を襲うライナーを、瞬間的な反応でグラブに収め、併殺に。「あそこは出るもんですよ。手は。だって体に当たりたくないですからね」フィールディングではチームの一、二のうまさを誇る麦倉。さすがに、この場面だけはちょっぴり自慢げな表情を浮かべた。ともあれ、白星は二つに増えた。そして、ここ横浜では五年前。栃木・都賀中時代に全国大会で優勝して以来の白星。「僕としては、まだ完投もないし、一回でもいいから九回まで投げ切ってみたいんですよ」と後ろを振り返ることより、その目を見据えている。「ストライクを先行させる。完投する」前回KOされた時(十六日、中日戦)に決めた目標は達成できなかった。けれど、「今度は絶対、完投を目指しますよ」この負けん気さえあれば、実績はもとより、虎投の救世主として羽ばたけるはずだ。

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山本勝哉

2025-06-07 19:56:08 | 日記
1987年
巨人は19日、岡本圭右外野手(31)、山本勝哉外野手(28)の自由契約を決めた。岡本圭は今年南海から移籍したが、1軍では5打数0安打。山本勝は今季1軍では24打数6安打。巨人は松本、仁村に引退を勧告するなど、チームの若返りをはかっており、1、2軍を往復する高年齢の両選手が整理対象となった。


今季限りで自由契約になった中島、山本勝、林の3人も選手会ゴルフに参加した。通告を受けてから数日しかたっておらず、それぞれまだ次の人生は決まらないままで、笑顔のプレーとはいかない。「とにかく実家(岐阜)に帰ってから…」と林。「まだ全くの未定。でも10年も野球をやったから、もう野球とはスッキリおさらば」と山本勝。「普通の男に戻ります」と中島は寂しいジョーク。

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杉山知隆

2025-06-07 19:44:39 | 日記
1981年
日本ハムの杉山知隆投手(34)が二十一日、任意引退選手となった。球団は同投手をトレード要員に挙げ、各球団に打診していたが、応じるところがなく、この日小島取締役と本人が話し合い、任意引退が決まった。杉山は昭和四十八年大洋に入団、日本ハムに移籍した五十三年と翌五十四年は先発として活躍したが、昨年、今季と低迷。若手投手の成長もあり、来年の戦力構想から外れていた。プロ九年間で通算40勝58敗。なお、本人はまだ現役でやる意思は持っており、他球団から獲得希望がある場合には球団レベルで話し合い、任意引退を解いての復帰もあり得るが、引退した場合は実家のある静岡県清水市で食料品販売業の第二の人生を始めることになる。


杉山投手の話 自由契約を望んだが(トレードだの)話があった場合には、移籍の方向で処理してくれるということで了承した。新しい場所でもう一度、自分のすべてを出し切って投げてみたいのだが…。

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服部浩一

2025-06-05 22:33:01 | 日記
1989年
ついたあだ名が大魔人、身長193㌢、体重93㌔という恵まれた体から繰り出すパワーで、例年キャンプ、オープン戦の時期にはポスト・バーストして期待されていた服部。その彼が入団七年目にして引退を申し出たのは昨年九月の半ば、一軍はまだシーズン中のことだった。「そのころ、僕はファームにいたんです。本当なら上(一軍)の公式戦が終わってからいうのが筋だったんですが、キャンプの時から、もし納得いかないシーズンになったら辞めようと思っていたので」だが、いざ辞める段階になっても、とりたててやることは決まっていなかった。知り合いから仕事の紹介や誘いもあった。運送店、薬品会社、スポーツ店を出すなら、バックアップしてもいいと名乗り出てくれる人もいた。しかし、彼はすべてを遠慮した。「子供のころから野球一筋で、実社会に関しては、はっきりいって無知。正直いって怖かったですね。辞めた人でもいろいろなことやっている人の話を聞きますけど、失敗してる人も多い。野球やっていた知名度で、とりあえず始めても、そう長続きするほど世間は甘くないと思っていたから」幸い、父親は建設省の下請け会社を、弟も土木会社を経営していた。そこで、しばらく自分の方向がはっきりするまでは、そちらで手伝いをしていくことになった。父親の会社は、京都の伏見界わい、淀川、桂川の護岸工事が主な仕事。「技術を持っているわけでもないし、職人の手助けみたいなもの」とはいうが、朝七時過ぎから夕方は六時ごろまで現場に出るというから、決して楽な仕事ではない。「将来的にはまだ漠然としていてはっきりしていない」という服部だが、なにをするにしても、野球から離れ、自立した仕事をしたいという。「野球で成功できなかった分、別のところで成功しなければ。そのためには、のんびりしているように見えても、慎重になりますわ。一生の仕事を思えるものに巡り合うまではね」年が明ければ、熱心に誘ってくれている大阪の建築・不動産関係の会社に世話になることにしているという。「まだ条件面など、細かな相談が残ってますが、まずそこで勉強を始めることになると思います」彼は三十歳、まだ独身。「結婚も今の状態ではできませんよ。若ければともかく、今の年齢じゃ一緒になってくれる相手がいても苦労かけたくないし…。一、二年して生活も見通しがたったら、そのころにね」

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関根浩史

2025-06-05 21:56:58 | 日記
1989年
通算成績9勝26敗、だが、その数字以上に、巨人キラーとしてのイメージが強かった大洋の関根。昭和六十一年に肩を壊し、古葉監督時代にはリハビリ生活を余儀なくされ昨シーズンもわずか1試合に登板したに過ぎなかった。そして暮れに退団となる。「今だから話せることですが、実は肩だけでなく、肝臓も悪くしていたんです。ちょうどオリックスの石嶺さんと同じ症状でした。でも、こちらはより運動量の多い投手。とくに自覚症状もなかったんですが、球団にも無理はさせられない、と言われまして」そして知人の紹介で、横浜に本社を置く建築・不動産会社「関工務店」に就職したのが三月のことだった。肩書は管理部秘書課。しかし、秘書課といっても、人員は彼ひとりだ。「僕のために作ってもらったような部署なんです。秘書の名目でどこへ行くにも社長に連れて行ってもらいました。建設業界の方々と顔合わせをする中で、仕事を覚えるようにとね」関郁夫社長も慶応時代には柔道でならした人物。同じ運動選手としての理解もあったのだ。会社にいるときは一般事務。ワープロや図面の見方を覚えたり、所轄の法務局へ出向くなど、一つひとつ勉強していった。それでも最初のころはなかなか雰囲気になじめず、気疲れするばかり。だが、そんな彼を救ったのは、ほかならぬ野球だった。「会社に軟式野球部がありましてね。月に二回、部長から新入社員、めったに顔を合わせない建築現場の担当者まで集まって試合をするんです。それで溶け込めるようになりました」社長秘書ともなれば、得意先相手に酒宴の席に出ることも少なくない。そんなときもやはり野球の話になる。「ピンチになったとき、監督がマウンドに行ってどんな話をしているのか、なんてよく聞かれました。最初は嫌でしたよ。未練を残して辞めただけに、実社会に出たら当時のことは忘れようとしてましたからね」現役のころはいくら飲んでも酔わなかったが、入社早々は、家に戻れば酔いが回ってくることもあったという。しかし、今シーズン終了後ごろから次第に慣れてきた。武器になるなら、過去のことでも活用しようと割り切れたからだ。当面の目標は「宅地建物取引主任者」(通称宅建)の資格を取ること。「不動産業界では、宅建の資格を持ってようやく一人前と認められるんです。簡単にはいかないだろうけれど、第二の人生のほうが長いんですから、頑張りますよ」

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