さあて。焼き鳥屋で酔っ払った頭で、どこまで書けるのか。
『柳生暗殺帖』第17話-平行線の正義-(3)
小次郎との決闘後、姿を消した飛鳥武蔵はある寺院に身を寄せていました。
『風魔の小次郎』(JC5巻)に、その三門と、彼が妹を供養するために仏像を彫っていた方丈が見えます。
おそらく、瑞竜山太平興国南禅寺(京都市左京区南禅寺福地町※)を資料として描かれているのでしょう。
※観光地のど真ん中で《華悪崇(カオス)》と小次郎達が大立ち回りをやらかした、というわけではありません。そんなことになったら超法規的措置がとられ、(なにができるのか、という点は置いて)自衛隊が出動したかもしれませんから。
南禅寺は禅宗、臨済宗南禅寺派の総本山です。
寺院建築は時代や宗派によって様式が似通うので、武蔵が禅寺に滞在していたことは間違いない。
それだ。
夭折した絵里奈ちゃんの冥福を祈りたい、という純粋な気持ちはもちろんですが、なぎらは、彼がある疑問に対する回答を禅に求めていたのだと推測します。
禅宗は本尊を定めず、「己事究明」、すなわち徹底的に自己を見つめることを修行とします。
仏道をならふといふは、自己をならふ也。
『『正法眼蔵』講義』(竹村牧男/大法輪閣)
その宗旨は武士に受け入れられ、鎌倉時代に浸透しました。
自己とはなにか。
自己にはどのような意味があるのか。
自己の在り処はどこなのか。
想像に過ぎませんが、参禅したのかもしれない、書見に没頭したのかもしれない、小次郎が看破したごとく「生きるべき理由を失」いかけていた武蔵にとって、これらは生死を懸けた命題です。
少なくとも回答を得るまで、武蔵は《黄金剣》を手放すわけにはいかなかった。ただひとつ、残された心の拠りどころを。
ところが運命は待ってくれず、彼もまた《聖剣戦争》へ駆り立てられ、そして「すべて」だと信じたものを失ってしまう。
地上への帰還を一瞬でも願ったのかどうかはわかりません。ただ、気づいた時、彼の足は地を踏んでいた。
同じです。あの雪の日と。
どれほどあがこうと繰り返しだ、と思った瞬間に悟ったのか、武蔵。
自己とは。
自己の意味とは。
自己の在り処は。
“無”と。
(続く)