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首都圏からバスで1日。サマール地方。とにかく貧困な地区。フィリピン共和国の首都圏以外の地方は今でもわれわれ日本人には考えられない貧困な状態が。フィリピンは非常に暑いくに。フルーツ王国でもあるので首都圏お乞食のように飢え死にするようなことはあまりないようだ。確かに国立の小学校もあるが、その僅かな学費年間150ペソも支払えず、小学校へもろくに行けない子供達が相当数いる。フィリピンは確かに国立は学費が安い。しかし、プロジェクト費用が結構かかる程度。20ペソくらいから100ペソであるが、日本人の考え、われわれが育った環境では考えられないことでも、ここフィリピン人にとっては大変な負担である。その殆どが田畑を耕し自給自足でどうにか食える状態。殆どが畑の耕作が主。ジャガイモやサツマイモ等の穀類を作り、それを売っては僅かな収入でまかなうのだが、得られる収入は非常に小額。したがって、子供達の学費までまかないないのが実情である。
東南アジアの子供たちは、確かに世界中から非難を浴びるように貧困状態の家族のために幼少から僅かな金銭で働いているようだが、フィリピンは非道である。生活のためには自分の子供を平気で売ってしまうこともある。特に女の子は最も被害を被る。12、3歳で首都圏へ働きに出される。職種はメイド。月額給料500ペソから。その子供たちは、その僅かな金銭を田舎へ送金する。勤務状態は24時間。その家族の都合でいつ起こされるか命令されるか分からない過酷な仕事。掃き掃除、洗濯、こま使いが主な仕事。中には15歳くらいで成熟した子供もいる。このような子供は、置屋へ売られる場合が多い。マネージャーと称する銭ゲバ婆が親へ契約前金として1万ペソ程度渡し、首都圏へ連れてくる。ある程度スキンケアー後、初物卸と証した処女売りを始める。小学校を卒業するかしないかで畑仕事をしていて、15歳くらいで首都圏へ兄弟や知り合いを頼りに出てくる。このくらいの年齢になれば、以前紹介したバクラーラン辺りの小売店の店番として働く。
田舎から出てくる女性、その殆どは、生活苦に喘ぐ家族のため売られたり、働きに来る者、しかもその殆どが女性である。薄給にもめげず、いつ帰省できるか分からずに表現に苦しむような環境下で、雇用主にもよるがその環境は惨い一言に尽きるかもしれない。
バクラーランでセールスレディをしている知り合いの女性。現在23歳の私生児持ち。友人の紹介で、洗濯専門のパートタイマーを依頼している女性だ。
彼女の生い立ち。サマールの漁業の長女として生まれた。小学校は卒業。ハイスクールへ進学した。2年ほどで親の生活苦からやむなく中退。16歳でパサイ市に住むテタ(叔母)に誘われ首都圏へ。叔母の経営するバクラーランの洋服店でメイド兼店番の仕事に付いた。メイドにしては顔も小さくスタイルもよい。ほかのメイドと比較すると数段見栄えのする女性。マニラの生活にもなれ、友人もそれなりにできた。毎月の給料は1000ペソ。ほかのこの業種の女性に比べれば、叔母の家で衣食住が無料なだけに、田舎への送金も結構多いが、所詮1000ペソ。19歳の時に近所に住む同郷の25歳の男性といい中になった。2年ほど交際が続いた。彼女が妊娠した。妊娠4ヶ月目。その彼氏が突然姿を消した。どうやら田舎には女房子供がいたようだ。彼女は日増しに大きくなる腹も気にせず働き、無事子供を出産。出産後、子供は田舎の母親へ預け、再度セールスレディー。勤勉なだけに給料も増額され2500ペソに。日中の仕事が終わる7時。一旦帰宅、食事後、パートタイム。洗濯オネーチャンである。性格もよく勤勉なことから、依頼客も付き収入もそれなりに。年齢にしては珍しく、携帯電話も持たずに、こつこつと働いている。しかし、彼女の同僚は今ですら1000ペソ。
これだけひどい環境にも関わらず、今でもサマールから首都圏マニラへ出向いてくる女性が後を絶たない。いかにフィリピンの地方は生活が苦しいか。1日に1個の馬鈴薯を兄妹で分けて空腹に耐えている。このような状況は恐らく10年経過しても果たして改善されることなのだろうか?
東南アジアの子供たちは、確かに世界中から非難を浴びるように貧困状態の家族のために幼少から僅かな金銭で働いているようだが、フィリピンは非道である。生活のためには自分の子供を平気で売ってしまうこともある。特に女の子は最も被害を被る。12、3歳で首都圏へ働きに出される。職種はメイド。月額給料500ペソから。その子供たちは、その僅かな金銭を田舎へ送金する。勤務状態は24時間。その家族の都合でいつ起こされるか命令されるか分からない過酷な仕事。掃き掃除、洗濯、こま使いが主な仕事。中には15歳くらいで成熟した子供もいる。このような子供は、置屋へ売られる場合が多い。マネージャーと称する銭ゲバ婆が親へ契約前金として1万ペソ程度渡し、首都圏へ連れてくる。ある程度スキンケアー後、初物卸と証した処女売りを始める。小学校を卒業するかしないかで畑仕事をしていて、15歳くらいで首都圏へ兄弟や知り合いを頼りに出てくる。このくらいの年齢になれば、以前紹介したバクラーラン辺りの小売店の店番として働く。
田舎から出てくる女性、その殆どは、生活苦に喘ぐ家族のため売られたり、働きに来る者、しかもその殆どが女性である。薄給にもめげず、いつ帰省できるか分からずに表現に苦しむような環境下で、雇用主にもよるがその環境は惨い一言に尽きるかもしれない。
バクラーランでセールスレディをしている知り合いの女性。現在23歳の私生児持ち。友人の紹介で、洗濯専門のパートタイマーを依頼している女性だ。
彼女の生い立ち。サマールの漁業の長女として生まれた。小学校は卒業。ハイスクールへ進学した。2年ほどで親の生活苦からやむなく中退。16歳でパサイ市に住むテタ(叔母)に誘われ首都圏へ。叔母の経営するバクラーランの洋服店でメイド兼店番の仕事に付いた。メイドにしては顔も小さくスタイルもよい。ほかのメイドと比較すると数段見栄えのする女性。マニラの生活にもなれ、友人もそれなりにできた。毎月の給料は1000ペソ。ほかのこの業種の女性に比べれば、叔母の家で衣食住が無料なだけに、田舎への送金も結構多いが、所詮1000ペソ。19歳の時に近所に住む同郷の25歳の男性といい中になった。2年ほど交際が続いた。彼女が妊娠した。妊娠4ヶ月目。その彼氏が突然姿を消した。どうやら田舎には女房子供がいたようだ。彼女は日増しに大きくなる腹も気にせず働き、無事子供を出産。出産後、子供は田舎の母親へ預け、再度セールスレディー。勤勉なだけに給料も増額され2500ペソに。日中の仕事が終わる7時。一旦帰宅、食事後、パートタイム。洗濯オネーチャンである。性格もよく勤勉なことから、依頼客も付き収入もそれなりに。年齢にしては珍しく、携帯電話も持たずに、こつこつと働いている。しかし、彼女の同僚は今ですら1000ペソ。
これだけひどい環境にも関わらず、今でもサマールから首都圏マニラへ出向いてくる女性が後を絶たない。いかにフィリピンの地方は生活が苦しいか。1日に1個の馬鈴薯を兄妹で分けて空腹に耐えている。このような状況は恐らく10年経過しても果たして改善されることなのだろうか?
よく調査されているようですね。その時間たるや
大変なエネルギーではないでしょうか。本当に
どの様な職業に付かれていらっしゃるのか、とても興味がありますが、これからもづっと続けて下さい。
励ましを賜りまして有難うございます。暑さにも負けず頑張ってみます。
コメント有難うございました。m(__)m
コメント有難うございました。