フィリピンりぱぶりっく狂笑国

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マラテの灯

2020-09-06 | フィリピン

変わりゆくマニラマラテ。

ラモン市長 1972年から1986年 メルロペス市長1986年から1992年がマニラ市長時代。マルコス政権の後半時代です。

この時代がマラテの最盛期。つまりディルピラー通りが不夜城と言われた時期です。なんでもありの時代でした。

ディルピラー通り。今ではLAcafeが有名ですが、もともとディルピラー通り一体はほとんどの店がゴーゴーバーでした。凄まじい渋滞とクラクションの音。店へ一歩踏み入れた途端、爆音と化す店内。アメリカはじめヨーロッパからの客が多く、日本人はその多くがバーファインを支払って回春が主な時代でした。

海外からの多くの客がマラテに集中していた時代で、当時の日本レストランは「ふるさと」(ツムラやタナベの社長がコックをしていた日本レストラン)「さいさき」、マビーニの伊勢屋一階にあった食堂。ディルピラー通りとキリノ通り交差点近くにラーメン店があったくらい。

どの店もすさまじいお客で混雑して居たのですが、当時、日本人は日本食よりもカマヤンレストランでフィリピン食やスペイン料理などを食べて居た記憶があります。日本カラオケはスポーツマンクラブが大繁盛していた時代です。

当時1ペソ40円から38円くらいの時代で、最高紙幣は100ペソ。1万円で250ペソくらいだった記憶があります。現在と比較、当時の観光客の浪費は高かったと記憶して居ます。

韓国で遊び飽きた日本人がフィリピンへ流れ始めた頃で、ちょうどマルコス政権の戒厳令が敷かれていた頃です。

マラテを訪れる観光客は、ラスパルマスホテル、ロツマンホテル、リビエラマンションホテル、ボリバードマンション、現在ロビンソンのある場所にあったミッドタウンホテル(のちにラマダホテルに変更)。ハリソンプラザのシェラトンホテルが外国人の滞在先。ダコタマンション、マニラマナーホテルが安く人気があった時代です。ダコタマンションはなぜか日本からの893様の御用達マンションで、ホテル階下のハップチャンで朝お粥が大繁盛していた頃です。ダイヤモンドホテルやランドバンクホテル界隈には、フィリピンのお土産屋さんが立ち並んでいたころです。

ミッドタウンホテルの一階にあったロビーにはかなりの流しの売春婦がタムロしていて、ベルボーイの利権の場所でもあり、予約を取るのに一苦労した時代です。

1992年リム市長に変わってから、マニラの不夜城は一気に灯りが消えました。経済発展地区政策により、多くの回春施設は灯りが消えゴーストタウン化した時代です。その後、アティエンツア市長時代に入り日本カラオケが多く営業を始め現在に至ります。

コロナ感染が拡大、ロックダウンが開始されてから日本人カラオケは多くの店が閉店あるいは休業に追い込まれ、相当のご苦労をされていると思います。

また、海外からの観光客が入国できない現状、開国時期が、全く予想がつかないこと。マラテ界隈に住む日本人数が非常に少ないこともあり、日本人相手の商売は大変な状況かと思います。5スター以外の小さなホテルはほとんど休業していて、いざ開国となったとしても、元へ戻るまでにはかなりの時間がかかると感じています。

果たしてマラテが昔の様な脚光を浴びる場所に戻れるのか。おそらく来年に入っても自由に出入りができるのかは不透明です。5月8月12月の日本人が最も多く入国する繁栄期を1年間営業ができない状況下、多くの観光客がベトナムやタイへ逆戻りしてしまうことも考えられます。

そして一番懸念されること。外国人に平気で危害を加えるマラテ界隈。このマラテの治安がさらに悪くなると考えられます。

一旦消えた灯を再度灯すには特に大三次産業に関しては相当の苦労があるとおもいます。

 

 

 

 

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