>心の世界に無限の富を実現するには、神想観に及ぶものはないのであります。
>何故(なぜ)かというと、神想観に於(おい)ては、吾々は心の中(うち)に
>「 神の無限の 愛と智慧と生命と供給 」 とを 今 現実にあるように、
>観(かん)じて心に はっきりと描(えが)くからであります。
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「 人のためになろう 」 という考えは 「 愛 」 でありますが、
ただ たんに 「 人のためになろう 」 と考えるだけで、どうしたら
ためになるのか わからない。それでは何(なん)にもならないのであります。
そこで富というものは、たんなる 「 愛 」 だけでは駄目であって、
「 愛 」 を実践する 「 智慧 」 が ともなわなければならないのであります。
大体 「 富 」 というものは 「 物質の蓄積 」 ではないのでありまして、
「 ためになる智慧 」 が具象化したものであります。
「 ためになる 」 即ち 愛と、そのための智慧と ― この二つの精神的存在が
形の世界に具象化した現象にすぎないのであります。
もっとも それを具象化さすためには、 「 生命力 」 が加わらなければ
ならないのであります。「 人のためになるよい智慧 」 を考え著(つ)いて、
どうすればいいということがわかっただけで、ただ寝ころんでいるだけでは、
その智慧も愛も 形に現(あらわ)れては来ないのであります。
それを形の世界に現(あらわ)すには是非(ぜひ)とも生命力を働かせることが
必要なのであります。愛と智慧と生命力が加わる、するとそれが具象化して
無限の富となって来るのであります。
そこで吾々が地上の世界に神の国そのままの豊かなる供給の世界を実現しようと
思いましたならば キリストのいったように、 「 まず 神の国と神の国の
義(ただしき)とを求め 」 なければならないのであります。
「 神の国 」 というのは 実相の世界 ― 即ち 現象世界の以前にある世界 ―
であって、その世界にある 「 正しき存在 」 が 即ち 「 義 」 であります。
即ち 「 神の国の義 」 というのは、 「 神の国にあるところの無限の智慧、
無限の愛、無限の生命力 」 であります。
これを吾らが求めたならば、それが自(おのず)から現象界に現れて来て、
無限の富となって実現して来るのであります。
愛と智慧と生命とは目にみえない存在 ― 即ち 「 心的存在 」 でありますが、
「 富 」は すべてこの心的存在の具象化でありますから、
実は 「 物質 」 そのものではなく、 「 富 」 の本質は 「 心 」 であります。
だから吾々が心の世界にまず無限の富を実現すれば、現象界に無限の富が
実現するのであります。
心の世界に無限の富を実現するには、神想観に及ぶものはないのであります。
何故(なぜ)かというと、神想観に於(おい)ては、吾々は心の中(うち)に
「 神の無限の 愛と智慧と生命と供給 」 とを 今 現実にあるように、
観(かん)じて心に はっきりと描(えが)くからであります。
『 新編 生命の實相 』 ( 第 15 巻 観行篇 50頁~53頁 )
谷 口 雅 春 先 生
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「 基本的神想観実修(道場での口伝(くでん))」( 『 詳説 神想観 』 102頁 ~110頁 参照 )
谷 口 雅 春 先 生
※ 「 神の無限の生かす力に 満たされている、生かされている・・・・・ 」
>神の無限の智慧に 満たされている、生かされている・・・・・
>神の無限の愛に 満たされている、生かされている・・・・・
>神の無限の生命に 満たされている、生かされている・・・・・
>神の無限の供給に 満たされている、生かされている・・・・・
>神の無限の悦びに 満たされている、生かされている・・・・・
>神の無限の調和に 満たされている、生かされている・・・・・