☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

人生を善くする根本的悟り (3)

2013-11-12 22:28:26 | 今日の光明法語


日本人の古代からの自覚


日本人は古来、自分自身を某の命といっておったのであります。


即ち、古代の日本人は 現代の唯物論の科学者が人間を肉体という

単なる物質の塊(かたまり)だと思っているのとは違って、

人間には 神の生命が宿っている、即ち 「 某(なにがし)の命(みこと) 」 であると、

こういうように自覚しておったのです。


そして男を 「 何々彦命(ひこのみこと) 」 といった。

“ 彦 ” というのは “ 日の子 ” 言い換えると “ 日の大神 ” の命ということである。


そして女を 「 姫(ひめ) 」 といった。

“ 日女(ひめ) ” というのは、 “ 日の大神 ” の女(むすめ)であるという意味であります。


こういう素晴らしい自覚を持っておったわけですね。


西洋では 即ち 神の子であると、

「 神の子(サンノブゴット) 」 とこういうふうにいったんです。

キリストが先ず “ 神の子 ” たることを自覚してそう言ったんです。




つづく・・・





人生を善くする根本的悟り (2)

2013-11-11 23:32:58 | 今日の光明法語


修養と宗教的悟りの区別


「 『 修養 』 は腹が立ったりするのを外から抑えて行くのですが

宗教の 『 悟り 』 は心の中から善くしてまいります。


道を歩く時でも 机に向った時でも、

『 自分は神々しい神の子である 』

『 自分はミコトである、神々しい存在である 』

ということを 心に唱えて 思い出すようにすると好いのであります。」




つづく・・・





人生を善くする根本的悟り (1)~

2013-11-10 22:57:21 | 今日の光明法語


『 光の泉 』 昭和四十二年四月号  谷 口 雅 春 大聖師


人間は“神の子”である
この自覚が根本である



『 愛と光との生活 』 の二百十二頁の四行目のところから読みながら話すことに致します。


「 『 命(みこと) 』 という字は 同時に 『 命(いのち) 』 という字であって、

神様という意味であります。

自分の生命(いのち)が神様だ、ということであります。


男なら某(なにがし)の日子命(ひこのみこと)であり、

女なら某の日女命(ひめのみこと)であるのであります。

西洋ではこれを 「 神の子(サンノブゴッド) 」 というのです。

どこでも同じことであります。


ところが、それを自覚しないで、自分自身をいい加減な下らない人間だと思っているから

“ 下らない行い ” が自然に現れてくるのであります。


自分の自覚が 外へ現われるのでありますから、自覚を改めようとしないで

『 現われる 』ところの形ばかりを抑えようとしても中々難しいのであります。


しかし、『 現われ 』 の根元であるところの潜在意識を浄(きよ)めて、

自分は神の最高の自己実現であるから神々(こうごう)しいものなんだ、

本来 “ 日子 ” であり、 “ 日女 ” であるというこの自覚を持つようにしますと、

自然に神々しい行ないが出来てくるのであります。」



つづく・・・





無限供給の法則

2013-11-09 14:48:27 | 今日の光明法語


出来るならば自己に負債ある者を赦して、

他の人に対して負債の払い易いようにしてあげよ。


其人が既に豊かに富める状態を心に描いて祈ってやれ。

これが却(かえ)って自分に豊かなる富の流入を来らす方法になるのである。


ケチな心を持つな。

ケチケチした小細工で金を拵(こしら)えようと思うな。


無限供給の法則を利用すれば 無限に富が流入して来るのである。

法則を破って富を集めようとすることは、

漏電によって電流の供給を受けようとするに等しいのである。


ケチな心によって貧しくなった状態を癒やす道は

ケチな心を捨てることである。


自己に負債ある者を赦してやるのは必ずしも帳簿を消すことではない。

心の世界にその負債を放つことである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 二十八日の法語 谷口雅春先生





富むために必要な心掛け

2013-11-08 17:36:51 | 今日の光明法語

彼が栄えるのは自分が栄えるのである。

彼が貧しくなるのは自分が貧しくなることである。


人の栄えるのを喜ぶような心のものでないと、

みずから栄えることは出来ないのである。


富める者を観て 「 搾取者 」 だとケチをつけるような心の者は、

「 富 」 を排斥する心があるのであるから、

自分の方へ富が集って来ないのである。


人の幸福を見て羨(うらや)むような心の者は、

幸福を排斥する心があるのであるから

真に幸福になることは出来ないのである。


損したことをクヨクヨ思うな。

「 損 」 を心に抱いている限り

「 損 」 を 此次(このつぎ)も引寄せることになるのである。


「 損 」 をしたときに、

今迄(いままで)、自分が富む事を妨げていた塵埃(ごもく)が消えて

富の道が開通したと思え。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 二十七日の法語 谷口雅春先生





因果昧(くらま)さず

2013-11-07 00:35:34 | 今日の光明法語


恩に着せがましい心を起してはならないのである。

恩はすべて神から来るのであって、すべての人間は受身である。


真の宇宙は 神によって造られたものであるから、

実相に於いては 全体が平等釣合っていて、

恩の貸し借りなどは存在しないのである。


甲が乙に与えても、乙が丙に与えても、

それは釣合の原理に従って、天地の法則に従って

高き所の水が 低き所に流れるが如く行われるのであるから、

自分が恩を与えたのである。


原因結果の法則は 恢々(かいかい)として漏らすことなく

他の処(ところ)で取り過ぎがある時に奪われるようになっており、

他の処で与え過ぎがある時に与え返されるようになっているのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 二十六日の法語 谷口雅春先生





罪を他に転嫁すれば一層苦しくなる

2013-11-06 08:07:59 | 今日の光明法語


自己を呪い、また他を憎み怨むすべての意識と別れを告げよ。


「 自己及びすべてのわが知れる人々の罪は既に消えたのである。

自分は自分を審判(さば)かないが如く他の人々をも審判かないのである。」 と

繰返し繰返し神想観中に念ぜよ。


自分に後ろ暗い感じがあると、他を責めたくなるものである。

自己嫌悪感が他に向けられて、他の人の罪をさばきたくなるのである。


それは罪悪感の転嫁であるが、

他に罪を転嫁したとて自分の罪悪感は減らないのである。


他を責める心が二重三重の罪悪感となって自分に返って来るものであるから、

その人の内心の苦(くるし)みは減らないで増す許(ばか)りである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 二十五日の法語 谷口雅春先生





自己の罪を赦す道

2013-11-05 13:08:32 | 今日の光明法語


自分の潜在意識の底に 「 罪を犯した 」 と云う考えがある場合には、

自己処罰として 病気や不幸がやって来る場合がある。


「 罪を犯した 」 と云う考えが 現在意識にない場合でも

「 何(なあ)に、これ位のこと 」 と思っている場合にでも、


潜在意識の奥底には 良心の囁きがあって 「 罪人 」 としての観念があって、

「 自己浄化 」 の方法 又は、 「 贖罪(あがない) 」 の方法として

「 病気 」 や 「 不幸 」 を起したりし勝ちである。


しかし 人間は真性(super consciousness)に於いては 「 罪はない 」 のであるから、

自己の内に宿れる 「 真性 」 を呼び出せば、一切の罪は消えるのである。


「 自己に宿れる神性よ 輝き出でよ、

その輝きによって自分の潜在意識の中にある罪の観念は消え去った、

もう罪は無いのだ 」 と

神想観中に自己暗示せよ。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 二十四日の法語 谷 口 雅 春 大聖師





神との接点となるべき 「 愛 」 の場所をつくれ

2013-11-04 11:44:49 | 今日の光明法語


他の人が、自己の掲ぐる道徳的又は宗教的標準にかなわないからとて、

始終 それを非難する心をもっている限りは、


自分自身が神と接触すべき最も肝心の場所に

「 非難 」 と云う絶縁体を置いているのと同じである。



だから、自分の標準をもって 他の人を審判(さば)いてはならないのである。


人を審判いたり、人を怒ったりする前に、自分自身の心の中に

「 神と接触する完全清浄の場所 」 ( 愛の場所 )をつくることが大切である。


人を責めることによって自分の心が汚れることを 慎まねばならないのである。

人を責める心を起した程度に、自分自身の受け得る神の愛を遮っているのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 二十三日の法語 谷口雅春 大聖師






愛は幸福を集める天使である

2013-11-03 13:13:02 | 今日の光明法語


愛は、たとえば幸福を集めるために眼に見えない

メッセンジャーのようなものである。


そして すべての憎みや怨みの精神的弾丸を防ぎとめてくれるための

防壁を築いてくれるのである。


どんな種類の警備網よりもすぐれたる幸福の護り手は 「 愛 」 である。


自分でいくら智慧がすぐれ、聡明であるからとて、

神の眼から見たらどんなに愚かな者であるかわからないのである。


だから 自分を賢者だと思い上って、

他の人の 「 行き届かなさ 」 を罵ってはならないのである。


他の愚かさを見ては、自分の愚かさを省み、

みずから智慧をみがくようにすれば、

彼も亦自分を省みて聡明になるのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 二十二日の法語 谷口雅春 大聖師






愛と信頼と善き言葉と

2013-11-02 13:35:11 | 今日の光明法語


愛と信頼と善き言葉によってのみ 人々の能率はあがり、

仕事の品質は高まるのである。


愛と信頼と善き言葉とは心の砂漠の中にサフランの美しき花を咲かしめ、

その香気は力つきた人の疲労をいやすのである。


それは奇蹟を演じ、つぶれかけた事業を建て直し、

破壊しかけた家庭の裂け目に油をぬり、

乾ききった夫婦の愛情に 温い蒸気を噴き込むのである。


病を治す力も其処(そこ)から動き出して来るのである。


他が自分を害しはしないか、損害を与えはしないかと恐怖する心が、

傷害(そんがい)と損失とを招(よ)びむかえるのである。


その人を警戒していると 其人(そのひと)から害を与えられるが、

その人を愛すれば其人がわが為に働いてくれるのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 二十一日の法語 谷口雅春先生






愛のみが天国である

2013-11-01 11:49:01 | 今日の光明法語


憎みと愛とは一つの心の中で同居することは出来ないのである。

憎みは地獄であり、愛は天国である。憎みは鬼であり、愛は神である。


憎んでいる心の中に 「 神 」 を招(よ)び迎えようと思っても、

それは地獄の中に 「 神 」 に住んで貰(もら)おうと思うのと同じような愚かさである。


「 近くにいる隣人を愛することが出来ないで、

どうして眼(め)に見えない神を愛することが出来よう 」 と

イエスは云っているが、


家族や、同僚や、知人などを愛することが出来ないで、

神の愛の癒す力を、自分の内に流れ入らしめることは出来ないのである。


先ず隣人に対する憎みと怨みとを解き、

自分の心の塵埃(じんあい)を除き去って、

神の愛を流入させるべきである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 二十日の法語 谷口雅春先生