飛行機に乗りそこなった私+ナンパ(?)した明日帰国の大学生4人+ガイドのローレンスでのSOWETOへいよいよ出発!
SOWETOというのは、アパルトヘイトの時代に政府によって人種ごとに区分けされた居住区で、黒人居住区のことを指す。
今ではもちろんその制度自体はなくなって、白人でもSOWETOに住んでいる人はいるし、立派な家の立ち並ぶエリアもある。政府が「SOWETO=危険」というイメージを払拭するための施策を行って、今ではだいぶ整備されているらしい。
それでも、経済レベルによって厳然とした住み分けがされていた。
一戸建ての立派な家が立ち並ぶ地域もあれば・・・
いわゆる長屋が並んだエリア。
一つの長屋に5家族が住んでいるそうだ。
水道も共同なので、こんな風に水汲みする光景が見られる。
長屋エリアの向こうに一軒家エリアが見えて、くっきりブロックが分けられている整然さに厳然たる区別を感じる。
そしてバラック小屋の最貧地区。
トタン屋根は固定されていないのか、石や 錆びた自転車なんかを屋根の上に乗せて押さえているようだ。
これが今なお貧困や失業問題に悩まされる南アの現実か、と思う。
このSOWETOには今300万人の人が住んでいるそうだ。
さすがサッカーの国南アらしく、道路脇のあちこちにサッカーを思わせるモニュメントがたくさん。
カラフルなブブゼラが道なりに続いたり、(写真じゃちょっと見難いけど)街灯にサッカーボール がデザインされていたり。
そしてあのW杯開会式の会場となったスタジアムがここ!!
SOWETOでまず立ち寄る場所といえば、ネルソン・マンデラの生家、マンデラハウス。
大学生くんに「ネルソン・マンデラって生きてるんでしたっけ・・・?」と小声でこっそり聞かれて、亡くなったって話は聞いたことないなぁ・・・となんとも曖昧な返事しかできなかったけれど、2013年現在、闘病中でしたね。
一度現地に行くと、そういうニュースを聞いて心にちゃんと残るんだけどね(言い訳)。
ここはマンデラハウスとは関係ない路上だけれど、マンデラ大統領の反アパルトヘイト活動家時代から、投獄され、解放され、大統領になって・・・という半生が描かれた壁画がある。
最後に訪れたのは、ヘクター・ピーターソン博物館。
1976年にSOWETOで大規模な反アパルトヘイト暴動が起こったときに亡くなった少年ヘクター・ピーターソンの名前を冠した博物館で、当時の映像や写真が生々しく展示されている。
このとき暴動を最初に起こしたのは10代の子供たち。
と最初に聞いて私が最初に連想したのは、高校生や大学生くらいの(60年代安保闘争のイメージ)子たちが起こした暴動かと思ったら、なんとこれがローティーンズだったらしい。
アフリカーンス語で学習することを強制されていた子供たちがこれに反発して、「英語で勉強させろ」と訴えたことが始まりだったそうだ。
その説明を聞いてちょっと混乱した。
「アフリカーンス語」っていう響きが、いかにもアフリカ的な言語のように思えたから、敢えて「英語で勉強したい」というのは、反植民地運動とは逆行してるんじゃないかと。
よく聞くと、アフリカーンス語というのはヨーロッパ系言語をミックスしてできた言葉で、植民地時代にアフリカで普及した言語。人種差別の象徴と看做されることがあるものなのだという。
このとき最初に亡くなった少年が13歳のヘクター・ピーターソン(3人の子供が写った写真で、抱きかかえられている子がヘクター)。
亡くなった子供たちのために共同の石碑を建てたい遺族とそれに反対する国との間で折衝の末、採られた折衷案が「最初に亡くなった子供の名前をつけた博物館を建てる」というものになったとか。
博物館の中庭の石畳には、亡くなったその他の大勢の子供たちの名前が彫られているのが見えた(立ち入り禁止なので、小さな窓からちらっと見えるだけ)。
世界史の教科書ではほんの数行しか語られないアパルトヘイトの史実を目の当たりにした気がした。
鶏を持って歩いている女性がいたので、もしやと思ったら、やっぱりit's gonna be slaughteredであった・・・。たくましい。
学校帰りの制服を着た学生たち。
危ない危ないとばかり言われるヨハネスだけれど、そこには当然市井の人の暮らしがある。
ほんの半日前まで、立ち寄るなんて全く想像もしなかったヨハネスブルグの姿を垣間見ることができて、こんな千載一遇のチャンスを得られたことに感謝した。