絵じゃないかおじさん

言いたい放題、自由きまま、気楽など・・・
ピカ輪世代です。
(傘;傘;)←かさかさ、しわしわ、よれよれまーくです。

あ@「西国バイク行」   1/8

2015-01-03 07:46:23 | 雑文集

copyright (c)ち ふ
絵じゃないかおじさんぐるーぷ




 91年8月24日より91年10月26日まで、
 延べ8日間で、
 西国33ヵ所を、バイクで廻りました。
(これは、そのころのつぶやきです。
 ワープロに打ち込んでいたものを、行換えなどして、
 時代に合うように(実体は、機械に合わせるため)
 再編集いたしました。内容には、極力触らないように
 しています)


 バイクの走行距離数、約3,100km。
 ガソリンの消費量、約100リッター。


 排気ガスのまき散らし、かなりのはず。
 しかし、資料が無いので、
 詳しい数字はつかめません。


 では、日を追って、
 短歌らしからぬ、
 短歌つきの拙き文を連ねてまいります。


 お読みづらい点、
 カンノンさまの、
 お慈悲の心を学ぶと思って、
 西国33ヵ所めぐりに、
 おつきあいいただければ、幸いに存じます。



 その日は、午前8時半に、
 奈良県S市の自宅を出発しました。


 バイクの走行メーターは、
 17,398kmを指していました。
 利用した主な国道は、
 168号、42号、24号線です。



  粗末なる 心溢れて 流されて 
   抗し難きは 内なる己


 私は、何のために生きているのだろう?

 何をするため生まれ落ちてきたのだろう?

 ものごころがついた時から、
 30数年にもなりますが、
 これらの疑問は、
 その頃から、今だに私を襲って来ます。

 おそらく、
 これらの疑問に対して、
 私は、
 一生明快な解答を、
 見出せないように感じています。
 それも一つの人生であろうかと、
 思っております。

 このごろでは、
 そう考えることが、
 私に課せられた義務であるのではないかと、
 思うようになってきております。

 人生、生きれば生きるほど、
 心が汚くなってゆくように感じます。

 もともと、私の心が、
 清いものであったなどとは、
 思いもしませんが、
 実感としましては、柵に絡みつかれて、
 心が、ますます縛られて来るように
 感じているのです。



  真っ黒い 衣服に包まれ 観音の
    み心求めて ただに路走る



 私は、
 バイクに乗る時には、
 季節に関わらず、
 黒いヘルメット、
 黒い革のジャンバー、
 黒い革のスラックス、
 黒っぽいロングブーツ、
 革の手袋で、身を固めます。


 黒い色は、
 私の気持ちに、
 似合っているように思われるし、
 革製品は、常に、転倒することを、
 想定しているからです。

 そういう出で立ちで、
 交通法規を守って乗っていれば、
 バイクといえども、
 99%は、
 大怪我をしないように思います。


 けれども、
 歩いていても、
 ビルからの落下物や、
 交通事故に遭う時代であります。


 どんな事故に遭うのか、
 想像もつかないというのが、
 正直なところです。



  バイクなど 乗らぬに越したこと 無けれど
   乗るは行なり 生の刻みつけなり


 私の黒ごきぶりのような姿を見て、
 妻は、いい歳をしてとからかいます。
 しかし、
 じっと寝て過ごしても、
 時間は流れます。


 ということは、
 人生の持ち時間が、
 費消されるということでもあります。


 私は、出来れば、
 己の納得ゆく形で、
 時間を使いたいと思っています。


 かといって、その時間、
 バイクに乗りなさいと、
 言っているのではありません。

 バイクは、鉄を中心素材として、
 実に様々な資源から合成された、
 現代的な商品であります。

 動かすには、石油がいります。
 走れば、NOxなどとも、
 無縁ではないでしょう。
 道路も痛めます。
 痛めれば、修理の期間も短くなります。

 このように関連づけてみてゆきますと、
 私の一挙手一投足が、
 これでいいのか、
 これでいいのかという、
 疑問符つきの行動に変わってきます。


 これは、私たちの暮らしの、
 一つひとつについても、
 言えるのではないでしょうか。
 けれども、一人では、どうしようも出来ません。


 人間は、息をすれば、
 酸素を消費して炭酸ガスを吐き出す存在です。

 この炭酸ガスが、
 地球の温暖化に、
 拍車をかけるというではありませんか。

 そうして、
 もう一つの命の綱である食料品は、
 農薬や化学肥料の恩恵を、
 被っているものばかりです。

 今の時代、
 農薬や化学肥料なくして、
 作物を大量供給するのは、
 不可能なような気がします。

 また、食料品を加工するには、電気やガスが必要です。

 このように、
 生活に係わる一切のものが、
 地球環境にとっては、
 良くないのでは、
 という指摘も、なされています。

 一人ひとりの人をとってみれば、
 大したことはないのでしょうが、
 50億もの人となると、
 話は変わってくるのでしょう。


 それでは、

 いったい、私は、どうすればいいというのでしょう。

 正直なところ、私は、どうしていいのか分かりません。

 分かりはしないので、
 安易な生活を送り続けている、
 というのが本音のところです。

 厳密に、
 ものごとのつながりというものを、
 求めてゆきますと、
 人間のまま、
 一日生きるということは、
 悪事の数々を犯しているということに、
 つながってしまう、
 ご時勢でもあります。

 好ましくない知恵というものが、
 つきすぎたのかもしれません。

  あの世など 在ればあるで良し 無いならば
   それもまた良し われは合わせん



 そんなことを考えますと、
 もし、地獄というものがあるのなら、
 地獄に送りこまれるとしても、
致し方ないのではないでしょうか。


 未来に続くであろう、
 子々孫々のことを深く考えもせず、
 日々の欲望を満たす、
 消費生活を謳歌しているのだから、
 当然の報いではないでしょうか。


 人間の存在が、
 決して讃められたものではないのだから、
 仕方ありますまい。


 まあ、仏教の教えに従えば、
 今ごろ、人間界をうろついている者は、
 下等な有情ばかりなのだから、
 世の中、悪くなる一方であるというのが
 道理というものでしょう。


 上等な有情は、さっさと悟りなるものを開いて、
 輪廻という無限のループからは、
 とっくに足を洗って、
 ご浄土に生まれ変わっているのだから、
 残るはクズばかりと、
 言われても仕方ありません。

  しかし、
 私は、地獄に送られたとしても、
 単純な地獄の生活は、送りたくはありません。

 改革できるところがあるならば、
 精一杯の抗議をしてみるつもりでいます。

 そのためには、
 地獄の道理というものを学ばねばなりますまい。

 ただ、私としましては、
 芥川龍之介の言うように、
 地獄に住み慣れしたくはないと
 思っているのであります。


  納め札 写経も判も 目に止めず 
   ただに巡るは わが行の道


 私は、仏教徒ではありません。
 といっても、外人などの眼を借りれば、
 非の打ちどころのない仏教徒に
 見えるのではないのでしょうか。


 今の時代、
 カンノンさまに魅かれて、
 西国めぐりをするのだから、
 そう見られても、当然のように思います。


 そうです。

 私は、カンノンさまの信者なのです!


 と、言いたいところなのですが、そうは問屋が卸しません。


  経ひとつ 口にせぬ身に 観音は
   如何なる教えを 授け給うや


 私は、お経が読めません。
 縁もありません。

 といっても、
 四国の生家は、真言宗であったのだから、
 小さい時から、仏教に親しんで育ったという、
 事実は否定できません。

 それを縁と呼ぶのなら、
 縁と呼んでいただいて、一向に差し支えございません。


 さて、少しばかり本道に戻ります。

 熊野あたりから小雨が降ってきました。
 新宮あたりに入る頃には、大雨に変わってまいのました。
 この分では、前途が思いやられます。

  しばし待て ふだうつ心を 止め正す
   阿吽の仁王の 闇の大き手


 青岸渡寺の477段の石段を、
 小雨に濡れながら、
 重いロングブーツで
 小走りで歩いて登ってゆきました。

 山門の仁王さまの手が、
 なぜか、
 「お前のようなものの来るところではない」と、
 私を制止しているように感じました。

 その日は、午後の9時半に自宅に帰りつきました。
 帰りも雨に悩まされたのは言うまでもありません。

 帰り道にある、紀三井寺、粉河寺にも寄りたかったのですが、
 雨で予定が大幅に狂ったので、寄れませんでした。
 最近では、お寺さんも、
 午後の5時前後には、門を閉めてしまう所が多いようです。

 これも、世の流れの一つなのでしょう。

                    
                    2/8へ


コメントを投稿