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pcfx復活ブログ

カルテットとファンキーK.H

2011年07月03日 | げーむ
1986年に偉大なるセガ社が発売したアーケードゲーム「カルテット」。ナムコ/アタリの
「ガントレット」への当て馬的ポジションの四人プレイアップライト筐体と、テーブル
筐体に対応した二人プレイの「カルテット2」があった。システム16で音源はYM2151
PCM。音楽は「ファンキーK.H.」氏。



ゲームは4種類のキャラから選び、ザコ敵を倒しながら面毎のボスを倒して鍵を奪い、仲間
よりも早く脱出するアクションシューティングだ。敵と戦うよりも仲間内でアイテムの奪い
合いをするのが楽しい。



で、4人でプレイする場合のこのゲームのキモは、「誰がマリーでやるか」につきる。マリー
は私設救護隊「カルテット」の紅一点であり、武器の強さで定評があるキャラだ。だが
それ以上に他のキャラより欠点が多く優位なキャラとはいえない。それでも「女の子キャラ」
である事がゲーオタの心をつかみ、どうしてもマリーを選びたくなるのだった。正直、他の
キャラはどうでもいい。例え有利でもだ。

マリーは露出の高いコスチュームでセガ屈指の人気キャラだが[要出典]、セガ社は未だにマリーが
主人公のゲームを作るに至っておらず、他社のキャラ「初音ミク」に依存する始末であり、
多くのコアなゲーマーから「ええいセガは何をやっておるのか、マリーを出せマリーを!」
と罵声を浴びせられている
[要出典]



で、このゲームの最大の特徴は、実はゲーム自体にはない。それなりに面白いゲームだが、
セガを代表するレベルには至っていない。
では、何が最大の特徴なのかというと、BGMだ。

当時セガで最高にクールな音楽を作っていた「ファンキーK.H.」こと林克洋氏の音楽は、
その独特なスネア音やベースラインのかっこよさによってセガ音楽陣の中でも際立っていた。
カルテットの他にも「スーパーハングオン」「ギャラクシーフォース」「SDI」「サンダー
ブレード
」などを手がけている。セガの昔のゲームミュージックで「この曲のベース、
超かっちょえ~」と思ったら、それは大抵ファンキーK.H.氏の曲だ。

そんな和歌山県の太陽を一杯に浴びて育った[要出典]ファンキーK.H.氏の曲は当時のゲーオタでも
味のわかる層に人気があり、特にYMOファンだった者は朝な夕なにウォークマンで彼の曲を
聞いて通学したものだ
[要出典]


pcfxは今でもファンキーK.H.氏の大ファンであり、テクノ四天王の一人に数えられている[要出典]

「カルテット」はもちろんだが、一番好きなのは「サンダーブレード」の曲だ。しかし
「ギャラクシーフォース」の2面の曲も捨てがたい。でも「SDI」も最高だ。結局は彼の曲
ならばなんでもいいのであり、選べないのだった。ああでもサンダーブレードいいわ~。



スラップベースで彼の曲をコピろうとすると親指が折れそうになるが、ともかく今聴いても
古さを感じない通好みの音楽を伴ったゲーム、それが「カルテット」であり、「マリちゃん
むずかしくてわかんな~い」であり、セガにはとっととマリを主人公にした社運全ツッパリ
の大作ゲームをアーケードに登場させてほしい所だ。そのゲームの曲は「ファンキーK.H.」
以外には考えられないので、是非初音ミクで儲けた金を1億積んでも彼を呼び戻してほしい。
天才は金に変えられない。

pcfx世代はゲーセンに行ってもやるゲームがなくて困っている。ゲーセンを蘇らせるのは
セガしかなく、業界の仁義もしらないでゲーム業界に割り込んできた家電メーカーを潰せる
のもセガだけだ。セガとファンキーK.H.だけなのだ。

インターネットという商売

2011年07月03日 | そのた
いろんな矛盾や無茶を孕みながら、とりあえず他にいい方法が見つからないので多くの国が
採用している暫定ルールが資本主義だ。だから資本主義とか経済至上主義とかを論理の根底に
置くと、たいがい間違う事になる。そして経済学はだいたい間違っている。

個人が確かに所有している物品など実はなく、本来は強盗でもすればいつでも所有でき、奪われ
ればいつでもなくす性質のものだ。しかしそれだと不便だったりするので、とりあえず自分の
所有を確保するために他人の所有も認めるという相互ルールが発生する。また、物品の所有を
固定すると、その代わりに他人が持っている物を永久に自分が所有できなくなってしまうので、
一時的な貸借りや交換という妥協が起こる。

言い換えれば、自分の所有を放棄すれば他人の所有を認めなくてもよいことになり、すなわち
なんにも持ってない人は自分の所有という前提が無効になっている状態なので、他人の所有を
認めなくてもよいので奪ってもよい事になる。しかし奪った瞬間に自己の所有が発生するので、
奪い返されても仕方がないということにもなる。


犬とボール遊びをすると、ボールで遊び慣れてない犬でも投げたボールを取りに行くことは
するが、それを犬が所有すると「動かないもの」になってしまい面白くない。ボールを飼い主に
返せば再び投げてくれて「動く面白いもの」になるのだが、せっかく手に入れたのに手放したく
ない。飼い主に返しても必ずまた投げてくれるという保証はなく、動かない面白くないボールを
隠し場所に持っていくか、それとも投げ返してくれないかもしれないリスクを承知で飼い主に
返すのかダブルバインドに陥る。飼い主との信頼関係が強固であれば、そのボールは飼い主が
自分と遊んでくれるためのもので、飼い主はその所有にこだわっているわけではない事が理解
される。投げ返してもらうために飼い主に預けるのであって、基本的にはボールは犬のもの
なのだ。利口で信頼関係を築けた犬ほどそれを飲み込むのが早く、利口でなく信頼関係を築け
なかった犬ほどダブルバインドに嵌ったままになる。

人とお金遊びをすると、お金を使い慣れてない人でも投げたお金を取りに行くことはするが、
それを人が所有すると「流通しないもの」になってしまい面白くない。お金を社会に返せば
再び投げてくれて「流通する便利なもの」になるのだが、せっかく手に入れたのに手放したく
ない。社会に返しても必ずまた投げてくれるという保証はなく、流通しない不便なお金を貯蓄
するか、それとも投げ返してくれないかもしれないというリスクを承知で社会に返すのか
ダブルバインドに陥る。社会との信頼関係が強固であれば、そのお金は社会が人に利便性を
もたらすためのもので、社会自体はその所有にこだわっているわけではない事が理解される。
投げ返してもらうために社会に預けるのであって、基本的にはお金は人のものなのだ。利口で
信頼関係を築けた人ほどそれを飲み込むのが早く、利口でなく信頼関係を築けなかった人ほど
ダブルバインドに嵌ったままになる。

貯蓄率の高い国ほど経済に利口でなく、社会への信頼感が低いと言う事だとすると、日本人は
総じて経済に未熟で社会を信用してない人々だと言う事になる。


さて、魚市場や魚屋やスーパーが魚の市場であるように、インターネットは情報の市場だ。
魚市場などは魚がお金と必ず交換されるが、インターネットでは情報とお金が必ずしも交換
されない。通信費にかかるコストは支払う事になるが、それは情報量に応じた課金とは限ら
ない。従量制でないプランに加入しながら、一日に何度かメールをやり取りするだけの人も
いれば、大量の動画をこれでもかとダウンロードする人もいる。有料コンテンツに別途の
料金を支払う人もいれば、それがコピーされた無料コンテンツを利用する人もいる。使う人
次第で受け取る情報量とコストがまちまちだ。

だからインターネットという市場は、持ち帰りOKの食べ放題レストランみたいなもので、
貪欲な者ほどトクをするシステムだと言える。タッパーを山ほど持って行き、食べ放題の
料理を片っ端からタッパーに詰め込むどっかのオバサンみたいなのが許されている。これが
本当の食べ放題レストランなら倒産してしまうのだろうが、インターネットの食べ放題
レストランの厨房には「食品無限コピー機」があるので潰れることはない。そのかわり、
周辺の他の飲食店や食品小売店は軒並み潰れることになる。
現実にテレビも出版も新聞も衰退しており、ネット通販の影響で小売店も衰退し始めている。


これらの現象を「良い悪い」と議論するのは不毛だが、フェアな取引の市場でないことは
明らかだ。その市場では基本的に、「どんどん無料化していく」というトレンドがあり、
有料コンテンツは競合に押されてどんどん低価格化し、最後には無料になる。無料でも継続
できるスタイルにせざるを得ず、広告だらけのコンテンツに落ち着く。終いにはコンテンツの
大部分が広告になり、そんなものを誰も望んでないのでコンテンツは衰弱していく。

「どんどん無料化する」というのは逆に考えると「コストを極限まで分散化する」のと同義
であり、それは「共産主義化」とだいたい等しい。「共産主義」が「良い悪い」という
思い込みの話は置いておくとして、少なくとも「情報」は「共産主義化」していくトレンド
にある。

共産主義だから義務労働、平等分配、社会保障というスタイルに落ち着き、また弊害として
一党独裁、秘密主義、奴隷社会というリスクを伴う。
つまり、情報を発信する義務、情報を誰でも受取る平等、情報を保障される福祉があり、
その反面、誰かが情報を一手に握り支配し、重要案件情報は秘匿され、民衆は情報奴隷に
なっていく。そのような方向性にあるのが現在の「インターネット」である。


このように考えると、ネットというのは商売には向いていないメディアである。むしろ商売を
破壊して共産主義化を進めるツールであり、マーケティングを価値相対化し、無力化する
結論を持って愚か者を待ち構えている。資本主義者の視点から見れば悪夢の世界であり、共産
主義者から見れば理想郷の橋頭堡だ。

これらの仕掛けに気がつかない人が多い現在、ネットビジネスはまだ開拓の余地があるが、
その行く末には情報資本主義の破綻があるので、いつかは飛び降りないといけない列車に
乗ることになる。この論のフラクタルなモデルとして、公社や図書館のあり方がある。


情報の共産主義化をモデルにし、物品の共産主義化も進んでいくことになる。限られた資源
の中での共産主義は閉塞感と不満と絶望を孕みながら腐敗していくが、宇宙を開拓する事に
よってそれらを誤魔化すことができる。「人類共通の利益、宇宙開拓のために、皆んな平等に
頑張ろう!」というスローガンでしか全人類を一つにできない。だから物品の共産主義は
宇宙開拓の進渉と共にあり、共産主義が宇宙開拓を進め、宇宙開拓が共産主義を浸透させる
のだ。残る問題は言語と宗教で、それらを解決するソフトウェア開発が最後の金儲けの
チャンスだ。そしてそのノウハウはgoogleと日本のオタ文化にある。

これが今後100年の課題であり、政治経済のトレンドだ。政治家を目指そうとか、アフィで
姑息に儲けようとか考えるのは時代遅れの20世紀頭であり、今後は「人類の夢と希望」
ではない、「仕方なく必要に迫られた」宇宙開拓と、「しょうがないので共有してる情報
共産主義」と、「お互い様なので干渉しない価値相対化されたオタ趣味」の時代だ。


広告だらけの宇宙ロケットに、ひときわ大きく描かれた萌え少女、これが21世紀の象徴だ。
痛ロケットに乗って宇宙へ行こう。日常知った全てをデータにしてUPしよう。それで得た社会
貢献ポイントを貯めてフィギュアを買おう。そうするとほら、見えなかった22世紀が見えて
くるのだ。