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pcfx復活ブログ

ドルアーガの塔

2011年07月27日 | げーむ
何が理不尽と言って、「ドルアーガの塔」ほど理不尽なゲームはない。当時の我慢強いゲーマー
ですら音を上げた者ばかりであった。ドルアーガの塔は1984年の夏にゲーセンに出回ったが、
当時は情報源がない時代だったし、毎日ゲーセンに行っていたわけでもない。pcfxが存在を
知ったのは秋も深まった頃だった。



「ドルアーガの塔」を初めてプレイした時のことをよく覚えている。「とにかく鍵を取って
扉から出ればいいんだろう」という、今までのゲームのつもりで進めていたのだが、途中から
敵が見えなくなったり、画面が真っ暗になったり、扉が見えなくなったりと、まるでバグだらけ
な展開になってくる。酷いゲームなのでやめようかと思っていた折、ゲーセンで先にプレイ
していた兄ちゃんは、ノートを見たり書いたりしていた。そのノートを後ろからチラっと見た
のだが、そこには何か攻略法のような事が書いてあった。そして自分の時は見えなくなっていた
敵やマップや扉が、その兄ちゃんのプレイでは表示されていた。

そこでやっと、それらの現象がバグではなかった事に気がついた。そしてこのゲームには、必ず
一面に1つ宝箱が隠されており、それぞれに出し方が決まっているという法則があったのだ。
それから戦いの毎日が始まった。当時中学生だったpcfxの財力は限られており、少ない小遣いの
中で、この不条理なゲームをいかに効率良くプレイするのかという事に、持てる力を全て
使って挑むことになった。

とはいえ金には限度があるので、他人のプレイを参考にする事も多かった。詰まっている面で、
プレイヤーの動きと宝箱の出現の因果関係を見て覚える。だが、自分よりも進んでいる人が
あまりおらず、特定のドルアーガゲーマーが店に来るまで、ひたすら待ち続ける毎日だった。
そうこうしているうちに高校生になり、pcfxが真っ先にしたことは、高校生でも雇っている
バイトを探すことだった。幸いにも学校の近くの喫茶店や印刷屋などが雇ってくれたので、
夕方から夜8時までバイト、そこからゲーセンに行き終電で帰宅。家でファミコン、学校で
睡眠という生活が始まったのだ。

当時のドルアーガノートを見ると面白い。苦戦した事がありありと記されている。必要ない
アイテムがあるという事に気がつかず、また25階の「宝箱なし」というトラップで長期間
悩んだ事、それを飛ばした事が後の階の宝箱出現の障害になっているのではないかという疑念
がいつまでもつきまとった事など、ボロボロになって破れまくりのノートが語る。なぜか
他のプレイヤーとの情報交換という事ができなかった。お互いにライバルであり、同じ時期に
同じくらいの進捗だったので、時には他のゲーセンに行って新しい情報を仕入れては、
少しづつ進んでいくのをお互いに盗み見するといった状況だった。

そんなこんなで、自力でやっと56階まで到達し、どうしても空箱しか出ない事に悩みぬいて
いたある日、いつものゲーセンのドルアーガの筐体に、見慣れない紙が貼ってあった。

「宝箱の出し方リスト」。

pcfxと、ライバルプレイヤーの落胆たるや、おわかり頂けるだろうか。数ヶ月を費やして自力
で挑んできた不条理ゲーム。使った金も相当な額に登っていた。その努力が全て無になった
瞬間だった。店側は親切のつもりだったのだろうが、余計なお世話だった。自分らよりも
先にクリアした人が何らかの方法で周知していたのだろうが、当時はネットも情報誌もない
時代だったので、多くの人が自力でクリアを目指していたのだ。ガッカリした。でも、もう
あきらめて、そのリストを見ながらとりあえずクリアし、ノートに書き写した。ノートの
最後には、「無念」の文字。ライバルのプレイヤーと、その時初めて言葉を交わした。

「あ~、なんか、終わったね」

「うん、せっかくここまで来たのにね」

「俺、もうこのゲームやめるわ。ここにももう来ない」

「自分も他所にいくわ」

短い会話だけを残して、二人は別の店を探した。ライバルは「ゴジラ屋」に、自分は「最前線」
に、それぞれ散っていった。たまに顔を合わせる事があったが、苦笑いを交わすだけだった。

57階以降は比較的簡単な条件であり、そのままでも数日内にクリアできたであろう。だから
実質は自力クリアと言っても過言ではない。pcfxは「ほぼ自力クリア」と公言してきたが、
実際にはこのような顚末だったわけだ。



「ドルアーガの塔」はpcfxにとって、最も入れ込んだゲームであり、またトラウマを残した
ゲームだった。虚しく響くクリア音楽とエンディングテロップが忘れられない。だがこの曲は
ナムコの小沢純子氏のデビュー曲であり永遠の名作だ。8ビット最強のCPU、6809が処理する
ナムコのオリジナル音源が、筺体を響かせて奏でる重厚で美しい曲は少年pcfxの脳に電撃を
食らわせた。またレコードに入っていた弦楽四重奏のエンディング曲が元々の原曲だという
事を、後から何かで読んで知った。ずっとアレンジだと思っていた。

このゲームが作られた経緯も何かで読んだが、確かマッピーの基板を流用してもう一稼ぎする
のが目的だったと聞く。だからこそ採算などあまり考えずに実験的な作品を投入できたらしい。
そのような事情など一般プレイヤーが知るはずもなく、通常のゲームとして始めてしまった
不運なゲーマーの一人がpcfxだったというわけだ。

「ドルアーガの塔」を攻略本を読んでプレイするのは、このゲームの面白さのほとんどを
なくしてしまう。だが、自力でプレイした者から言わせてもらうと、自力でプレイするのは
非常に困難であり、それは不可能と呼んでも構わない種類のものだ。それだけの努力をして
まで得られるものがあったとは言えない。だからこのゲームを攻略本を読んでプレイする事に
反対はしないし、むしろ推奨したいくらいだ。アクションゲームとしても十分に面白いのだ。
アイテムがクリアの絶対条件でなくともよかったとさえ言える。

だから「ドルアーガの塔」はそのゲームバランスにおいて「クソゲー」であると、苦労した
プレイヤーであるpcfxは堂々と言い切れる。但し「クソゲー」という称号はそのゲームの全て
を否定するものではない。「クソゲー」とは、他においしく料理し様のあった食材を、マズく
作ってしまったという意味であり、材料の否定ではなく調理法の否定だ。よりよい明確な
調理法を提示出来る場合にのみ「クソゲー」と言える。ドルアーガの塔の場合、アイテムは
補助的な立場に徹して、テクニックさえあればクリア可能なアクションゲームであったら正解
だった。だからこのゲームは純粋な「クソゲー」だと断言できる。無論、材料からダメな
ゲームとは一線を画している上、意図的にそのように作られたのだから異論もあるだろうが、
あえて愛を込めて「クソゲー」と呼ぶ。また「正解」だったドルアーガの塔などただの平凡な
アクションゲームであり、その評価は「クソゲー」以下だったろう。正解でなかったからこそ
「名作」であり「伝説」になり得たのだ。だからドルアーガは「クソゲー」でよかったのだ。



ドルアーガの塔は、ファミコン版に移植された時に攻略本がバカ売れした。攻略本なしでは
プレイ不可能なのだから当然だ。攻略本ブームを作ったのはこのゲームだとも言える。

欲しい情報が直ちに手に入る現在は、ある意味「チート社会」だ。ゲームのチートモードを
使用した経験があればわかるだろうが、ゲームの面白さは99%失われる。だから現在の情報
社会は、人生の面白さの99%を失っているようなものだ。野生動物は食糧確保に自分の時間
のほとんどを費やして生きるが、食糧確保が約束されたペットや人間はチートで生きている
ようなものであり、人生そのものを持て余す。持て余した結果、あまりにヒマなので何かを
していないと生きていられない。だから文化とはチート社会の暇潰しであり、高等な文化は
より高度なチートの上にある。一切の生活不安がない環境を持つ者はより高度な文化を手に
入れる可能性がある。だが手に入れるものは高度な暇潰しの方法に過ぎないのだ。

いつかほとんどの人類がそれに気がついて、それを自己表出できるようになった時、チートに
制限をつけるようになるだろう。そこで文化は停滞してしまう。虚無主義が蔓延し、自殺率が
急激に増えるだろう。既に日本は現在そうなりかけている。今まで便利に使えたチートを捨てる
気にはならないが、チートのまま生きても面白く無い。そして社会不安がなくなったわけでも
なく、逆に一昔前よりも将来に不安が多くなった。それらのアンバランスが鬱の蔓延であり
ニートの増加であり自殺率の高さだ。ネット依存もチートによる精神的な安定を求めてのこと。
文化的な人間ほどその傾向にはまりやすい。

現代人に必要なのはチートの制限や生活の束縛などではなく、生活の不安を取り除く政治だけ
だと言ってよい。生活さえ保証されてチートの制限をしなければ、人類は勝手に新しいハードル
を自ら開発して、それを暇潰しにして精神の安定を図ることができる。それを阻害しているのは
政治であり、現在の世情不安だ。政治などあんな連中にやらせずにVIPPERに任せたほうがよほど
うまくやれるはずだ。もう政治家など必要なく、逆に旧体制はことごとく阻害要因になっている
という事を、文化的でない人々は理解していない。日本で革命が起こるとしたら、旧態の
イデオロギーの革命ではなく、本当の意味での「文化大革命」だろう。もう資本主義や共産主義
がどうとか、衆愚の民主主義や独裁がどうのとか、そんな些細なことに拘らずに根源的な文化の
効率化と整理が行われる。そしてそれは人的チートを利用して行われるのだ。

で、革命の末に日本人が真っ先にやることは、「新しい暇潰しの開発」であり、そのモデルと
なるのが「ドルアーガの塔などの不条理なクソゲー」であることは間違いない。政治や経済は
チートで「正解」を採択し、文化は「クソゲー」であるべきなのだ。その球根はネットの中に
既に顕著であり、オタク文化という芽を出している。盲目な者はそれが見えていない。最も
文化的な国で始まる革命は、最も文化的な者が起こすのだ。後の歴史には「オタク革命」と
記述されるだろう。その際の旗印は「クオックスのシルエット」だ。


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1 コメント

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Unknown ( )
2011-12-17 00:26:08
ドルアーガの塔って懐かしいなあ
こんな難しいゲームを良くやったと思うよ
今だったら、絶対にしないね

ところで、攻略本ブームを作ったのは「スーパーマリオブラザーズ」だと思うよ
2年連続でベストセラー1位になったはず
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