ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

寝屋川の事件でのゲームについて

2005年02月27日 21時43分24秒 | 暗い事件について
ゲーム脳の話しや、残酷なゲームをすることを問題視する発言は多い。

実際、アクションゲーム、特に格闘ゲームは、子供たちの攻撃性を刺激するようだ。子供たち同士で対戦すると、案外意地悪な手段を使いあって、エスカレートするケースがある。このベクトルにも興味を引かれるが、親達が十分内容を吟味していれば回避できることだ。ゲームの仕方や、ゲームの内容について、子供と一緒に理解し、やめさせないまでも、親の視点で意見を言うことはできるはずだ。これだけでも子供たちは現実に引き戻され、仮想空間の論理から脱出できると思う。

何か起きるとこうした趣向の部分に着目して原因を求めるのは安直だと思う。

「残酷なゲームを好んでしていた」として、その「残虐性」を好んで選んでいる時点で、すでに危険な兆候があったことになる。メディアは、傾向を助長するが、必ずしも原因ではないと考えるべきだ。

まして、そのままメディアの存在価値を否定する傾向は、的外れな過剰反応だ。

ところで、寝屋川の事件でのゲームのもつ意味とは何だろう?

僕は逆に、ゲームが少年を支えていたように思える。
ゲームには、明確な達成感がある。何かを成し遂げると、必ずそれに見合う評価が得られる。そのように設計され、作られている。彼にとっては、その達成感がとても重要だったのではないだろうか?
そこにこの事件の闇を解くカギがあるように思う。

彼が失っていたのは、いったい何なんだろう?
彼に答えは期待できない。理解できていたら、こうならなかったろうから。

悪循環のベクトル

2005年02月26日 23時13分57秒 | 暗い事件について
「個人の希薄さ」が、どこから生まれるのか?

子供の頃、あれをしろ、これをしろと、よく言われたものだ。
親、特に母親というのは、子供を支配しがちだ。指示することで問題を回避させたいわけだけど、常に指示に従って育った「良い子」は自分で行動を決める判断や、「やりたこと」を考えなくなってしまうのではないか?

自我の強くなる十代に入ると、徐々に様々な欲求が強くなるわけだけど、本人には「自分が何をしたいのか」を考える習慣がないため、欲求をうまく処理できなくなる。すると、欲求不満がたまり、イライラが募る。やがて、闇雲にエネルギーを発散するようになるか、イライラが心理的な不安定さを助長し、孤立感を募らせ、やがて社会に対する攻撃的な思考を生むのではないだろうか?

若年層の犯罪の加害者について、「昔は良い子だったのに」というコメントをよく聞くような気がする。
「良い子」即ち、親の指示によく従っていた子供たちが、ある年代から情緒不安定になったり、ひどく無軌道になったり、暗黒面に取りつかれたりするのは、こんな工程を経ているのではないかと思う。
このベクトルがあるとしたら、とても重要な意味を持つかもしれない。

小学校頃、感想文を書くと、皆がこぞって「面白かった」と書いていたのを覚えている。「僕もりっぱな行動をとりたいと思います」なんてのは、誰もが書いていたでしょう?
沢山の子供たちがいて、今も昔も同じ感想、同じ発想なんて、不思議な結果だ。「こんなのつまんない」っていう子がいたら、親や教師はその子の文章を許容してくれるだろうか?
学校に提出するものに一般的でない考えを提出することは、悪いことで、一般的な内容でないと成績に繋がらないとしたら、その子独自の思考や感情は育たない。これもまた、「個の希薄さ」に繋がっているような気がする。個々の発想、その子らしさを否定して、型にはめているわけだから。
国語の読解の問題で、決まった回答に誘導されることなど、その典型的な例に思える。
このベクトルも、ずっと気になっているところだ。

学校が管理に走るのは仕方が無い。個性を許すことも必要だが、個性が強すぎれば、集団生活が困難になる。個性の育成は親の責任でということになる。

親は子供の特性をよく見なければいけない。その子に明らかにそぐわない方向で何かを求めるのは、良い結果を生まない。必要最低限なことは、当然させねばならないが、感じ方、考え方はその子が決めていくべきだ。親は子供と同等の立場で議論すべきなんだと思う。

「ママはこう思うよ」と言う会話が重要なのではないか?
基礎的な個人の育成に議論は重要だ。何事も自分できめさせる。どちらかを選ばせるを続けていたら、独自に考える習慣がつき、「自分自身を知る」ことができるのではないかと思う。


僕の母はいまだに僕の行動を支配したがる。僕自身は、ずっと彼女に反抗してきたのかもしれない。偶然にもそのことが「悪循環」へ向かわずに済ませたのなら、皮肉なことだ。

個人の希薄さ

2005年02月23日 21時10分09秒 | 暗い事件について
長崎の少女の件は、小学生ということもあるが、
寝屋川の事件では、すでに高校生の年代。

「個の希薄さ」を感じずにはいられない。

おとなしいで済ませてはいけない何かがある気がする。

「自己主張」は大切なことだ。
思うこと、感じることを的確に表現して、まわりの人に伝えることで、人としての存在を示すことができる。それをしないと、まわりの人たちにとっては価値のないものになってしまう。
徒党を組んで仲良しを装う前に、個としての己をしっかり形成すべきなんだ。

「いじめられる」のは、ちゃんとした主張ができないから、
「いじめる」のは、異質の存在に怯え、それを許容できないからだ。
どちらも「個の希薄さ」に起因する。

ネットでの乱暴なふるまいも、「個の希薄さ」の証明と言える。
攻撃的な行動で、自分を認めさせたいのだろうが、認められてもなにも得られない。

子供たちは、狂った大人たちの中で育っている。
大人たちがもっとしっかりした「個」を持たなければ、彼らもまともに育ちはしない。エリートを気取って税金にタカる高級官僚や、事なかれ主義で成り上がった無責任経営者たちが、この国を代表する現状では、人格を云々するのは馬鹿げたことかもしれない。

我々大人たちが、自覚を持って成長しないと、この国の不幸な循環を止めることはできない。

寝屋川の事件・長崎との共通点

2005年02月22日 22時37分16秒 | 暗い事件について
個人的には共通の心情を感じる。

長崎の少女の場合は、バスケをやめてしまった喪失感がトリガーとなって、
生きがいを失った「虚無感」に沈んでいたんだと思う。

寝屋川の少年の場合は、「本当の自分」が求める何かを掴めずに、
彼自身が「家族の望んでいる自分」になろうとし続けて、
強い「虚無感」に沈んでいったんじゃないかな。

本人が気づいていなかったかもしれないが、
大きなずれがあるのを彼自身では調整できなかったんだと思う。
「僕はこんな人です」って自己主張のできる子じゃなかったんだ。

「いじめがあったのに・・・」は、彼がいかに人が苦手だったかの、
「助けてくれなかった」は、彼の孤立感・孤独感の現れだと思う。
 実際に客観的にそう認められるものがあるかどうかには関係なく、
 彼はそう感じていたんだ。

「虚無感」は、一旦心の中に生まれると、なかなか消えないものだ。
彼らは、その中に凶行に至るまで、飲み込まれてしまったんだ。

ネット上の匿名性を盾に暴言を吐き続ける連中と同化して、
攻撃的になり、イライラを募らせて、世界中が敵だと思ってしまた彼女も、

自らの立場や思いをひたすら押し殺して、
強い孤独感から世界が敵となり、やり場の無い不安感と虚無感に沈んだ彼も、
共に「虚無」にとりつかれてもがいていたんだと思う。

学校の警備とか、いじめがどうとかよりも、僕はこの「虚無」に注目したい。

過去のいくつもの事件で、「虚無」が関わっていたはずだ。

大人がそれに目をむけ、一緒に戦ってあげないと、子供たちはその闇の中で
溺れてしまう。

「虚無」はどこから生まれてくるのか?

もっと早く救ってあげられないものだろうか。

寝屋川の事件・動機の考察

2005年02月21日 21時03分52秒 | 暗い事件について
なぜ小学校だったんだろう?

彼にとって良い時代だったから?
彼を追い詰めている何かを背負っていなかった時代、
或いは、それに気づいていなかった時代だったとしたら、
そういう推論が成り立つかもしれない。

最後の手段として、そこに「安堵」を求めたのかもしれない。
受け止めてくれないだろうことは、彼の理性が十分知っていたから、
彼の思いが届かなかったときには、戦う覚悟だったんじゃないかな。

刃物はそのための、自己主張する最後のチャンスを死守するための道具で、
それを必要としたとしても、何かを伝えたかった、又は、すがりたかったんだと思う。

学校はやはり受け止めてはくれなかった。
彼が不審者として扱われるのは当然だ。学校としたら、そうするしかない。
でも、彼には許せなかったんだ。
きっと、最後の望みで、他には行くあても無かったんだと思う。

明白な拒絶を感じた時、彼は強い怒りを感じたんだろう。
世界中が彼を拒絶しているように思えて、とても腹が立ったんだ。
「どうして誰も聞いてくれないんだ」って。

殺人は肯定されないよ。絶対に。
でも、なんとなくわかるような気がするよ。

強い疎外感と、訴える先の無い漠然とした不満の渦に沈んでいる気持ちが。

おそらくは、彼自身、自分の求めているものが分からなかったのだろうけど、
彼の行き先を見つけてあげられたら、救ってやれたかもしれないね。

こういう時、家族や親に何ができたんだろう?

このケースでは、気づいてやれないのは、無理も無い。
だって、彼は「家族の望む彼」になろうとしていたんだからね。
いつも、良い子であろうとしたはずだから。
ある程度の結果も返していたんだし。

寝屋川の事件について

2005年02月20日 23時01分08秒 | 暗い事件について
きっと何も見つからなかったんだと思う。ずっと満たされなかったんじゃないかな?

彼にとって行くべき何かがあっても、彼自身の望むものではなかったのか、それなりの結果が出ていたにもかかわらず、とても強い孤独感と閉塞感と、より良い結果を期待する焦りのようなものを感じる。

彼自身は自分の心理状態を理解できていない。それが問題を悪化させたんだろうけど、
やっぱり「仮面」に近い「別の自分」になりたがったように思えるんだ。

多くのこの年代の子たちが、「別の自分」を演じて生きているように思う。「親の求める自分」「仲間に大切にされる自分」「憧れの誰かに似ていく自分」・・・・。

ありのままにいることは難しいことだけど、演じ続けるのはもっと辛いはずなのに、
そうしなければならないのは、なぜなんだろう?  親たちが教える何かなのだろうか?