ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

悪循環のベクトル

2005年02月26日 23時13分57秒 | 暗い事件について
「個人の希薄さ」が、どこから生まれるのか?

子供の頃、あれをしろ、これをしろと、よく言われたものだ。
親、特に母親というのは、子供を支配しがちだ。指示することで問題を回避させたいわけだけど、常に指示に従って育った「良い子」は自分で行動を決める判断や、「やりたこと」を考えなくなってしまうのではないか?

自我の強くなる十代に入ると、徐々に様々な欲求が強くなるわけだけど、本人には「自分が何をしたいのか」を考える習慣がないため、欲求をうまく処理できなくなる。すると、欲求不満がたまり、イライラが募る。やがて、闇雲にエネルギーを発散するようになるか、イライラが心理的な不安定さを助長し、孤立感を募らせ、やがて社会に対する攻撃的な思考を生むのではないだろうか?

若年層の犯罪の加害者について、「昔は良い子だったのに」というコメントをよく聞くような気がする。
「良い子」即ち、親の指示によく従っていた子供たちが、ある年代から情緒不安定になったり、ひどく無軌道になったり、暗黒面に取りつかれたりするのは、こんな工程を経ているのではないかと思う。
このベクトルがあるとしたら、とても重要な意味を持つかもしれない。

小学校頃、感想文を書くと、皆がこぞって「面白かった」と書いていたのを覚えている。「僕もりっぱな行動をとりたいと思います」なんてのは、誰もが書いていたでしょう?
沢山の子供たちがいて、今も昔も同じ感想、同じ発想なんて、不思議な結果だ。「こんなのつまんない」っていう子がいたら、親や教師はその子の文章を許容してくれるだろうか?
学校に提出するものに一般的でない考えを提出することは、悪いことで、一般的な内容でないと成績に繋がらないとしたら、その子独自の思考や感情は育たない。これもまた、「個の希薄さ」に繋がっているような気がする。個々の発想、その子らしさを否定して、型にはめているわけだから。
国語の読解の問題で、決まった回答に誘導されることなど、その典型的な例に思える。
このベクトルも、ずっと気になっているところだ。

学校が管理に走るのは仕方が無い。個性を許すことも必要だが、個性が強すぎれば、集団生活が困難になる。個性の育成は親の責任でということになる。

親は子供の特性をよく見なければいけない。その子に明らかにそぐわない方向で何かを求めるのは、良い結果を生まない。必要最低限なことは、当然させねばならないが、感じ方、考え方はその子が決めていくべきだ。親は子供と同等の立場で議論すべきなんだと思う。

「ママはこう思うよ」と言う会話が重要なのではないか?
基礎的な個人の育成に議論は重要だ。何事も自分できめさせる。どちらかを選ばせるを続けていたら、独自に考える習慣がつき、「自分自身を知る」ことができるのではないかと思う。


僕の母はいまだに僕の行動を支配したがる。僕自身は、ずっと彼女に反抗してきたのかもしれない。偶然にもそのことが「悪循環」へ向かわずに済ませたのなら、皮肉なことだ。