ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

いまさら、誰も驚きもしない・・・

2005年05月30日 21時08分58秒 | 時事ネタについて
橋梁工事の談合の件は、やっぱり道路公団まで波及した。
こんなのが天下りの温床を作り、税率の引き上げに繋がるのかと思うと、怒る気も失せてしまう。

財政状態が悪いとしながら、あちこちでこんな工事をやろうとする田舎での議員さん方には、いったいどのくらいの額が帰ってくるのだろうか? それが即ちこの国の政治ということなのか?

どっちにしても都市部のサラリーマンは、いや応なくそのツケに付き合わされるわけだ。

役人のたかり根性と、田舎議員の金満体質は底なしに続くという、この国らしいお話しということか。

いまさら、誰も驚きもしないだろうが・・・・・

子供たちに伝えていたいこと

2005年05月25日 23時43分34秒 | Weblog
僕は、例の連続女性監禁事件の中で語られる親子関係が、とても気に掛かる。

こういうのって昔もあったんだろうけど、一人の親としてとても寂しい。子供を叱ってやれない親なんて、とても寂しいと思う。

僕自身は、大した人間でない。でも、子供たちと同じレベルになって喧嘩していたい。親とか指導する立場とかじゃなくて、そばに居る一人の人として、何かを伝えたいと思うから。

誰かが諭してやらないと、そなりに物事を感じている人がそばにいないと、子供たちも大切な感情を抱かないまま育ってしまうのだと思う。夜遅くにコンビニをうろつく小学生に、塾帰りに駅のホームで弁当をつつきながら座っている小学生に、そういうものが欠けていくのがとても恐ろしい。その子たちの子供は、もっと感情を失いそうだから。

そうやって、この国や社会の「心」は病んできたのだろうから。

ゲーム業界はどこへ・・・

2005年05月20日 23時37分35秒 | Weblog
最近の監禁事件の犯人が、アダルトゲーム好きだったことが話題となった。

彼の中では、現実も願望も一緒くただったのだろうから、AVでもコミックでも何でも同じように刺激を受けたんだろうと思う。その意味で、特にゲームに責任があるわけじゃない。

だた、冷静に販売されているこのジャンルの動向を見ると、本当にこれでよいのかと思うことが多い。

正直なところ、この手のジャンルのゲームを何本も経験はしていないが、パッケージやその説明書きから見えてくる内容は、相当に攻撃的で、非人間的なものに思える。男女関係というのは、お互いの愛情の上に初めて成り立つと思う。たとえその場の遊びで愛し合うとしても、その瞬間はそういうものだと思う。

僕が最近のこの手のゲームのパッケージから感じるのは、独善的な支配欲や屈折した復讐のような、卑屈で野蛮な欲求の開放であり、性的な願望と同調して、女性を差別的にというか、本当に節操無く侮辱することを、あえて意図しているように思う。一番恐ろしいと思うのは、それが業界の常識或いは、製作者たちの共通の願望、渇望する行動であるかのように思えることだ。

もし仮に、この手のゲームの製作に関わる人達が、一応にそのような感情、つまり、女性に対する非常なまでの攻撃性を持って生きているとしたら、未成熟なゲーマー達は大いに影響を受けるだろう。たかがゲームといえるほど、無視できる存在ではない。ゲームというメディアは、既にこの時代を象徴するメディアに成長しているからだ。

メディアは、社会的な影響力を持つものだ。市場のイニシアティブは製品を提供する側にある。どのような製品を供給するかで、マーケット自体を構築できる。現状のこの手のメディアのあり方について、より正常な人間性を求めるというのは、馬鹿げた感情なのだろうか?

性は人の本質に関わる問題でもある。このレベルで人間性を失うのは、とても悲しいことだと、僕は思う。

福知山線の報道で思うこと

2005年05月08日 23時53分25秒 | 時事ネタについて
着目したいのは、2点だ。

1.事故電車に乗り合わせた通勤途中の運転士の行動

2.ボーリングなど、不適切と評された行動

どちらも、JRが全社体制で対処していなかったことの証明だと思う。組織が大きくなると、様々な関連した仕事を各部門で分担するようになる。それが、ある種の「セクショナリズム」を生み、他部門の仕事には口をはさまず、関与せずというのが習慣になっていく。JRの例でも、事故対応の担当部門とそうでない部門の意識は大きく違ったと思う。2.の件は、そうした背景を考えると必然的に起こったものと推測できる。
1.については、冷静に考えると必ずしも批判できない部分がある。JRが周辺の運行を維持するためには、彼らが正常に出勤することも必要だったはずだからだ。社として、救出活動に組織だった要員投入ができていて、会社の責任において、「周辺の運行維持に必要なので、いち早く出社することを命じた」と明言していれば納得できない話ではないと思う。

同時に、経営陣・管理者と現場の間に大きな乖離を感じる。恐らく現場から叩き上げた管理者が少ないのではないかと思う。無理なダイヤ編成や問題視されている日勤教育の実の無さなどから推察するに、管理側は現場の実運用の詳細を理解していない。

問題解決には、その要因を絶つ必要がある。オーバーランなどの小さな事故が運転士に依存して起こっているという判断ならば、運転技量の向上が重要な対策のひとつになるはずだが、そうした実運用に即した対応がなされず、精神論的な勤務態度の修正のような指導に指向したのは、現場の実務を指導できない背景があったからではないか。シミュレーターの導入や車両区での運転実技実習など、工夫のできる部分があったはずだが、対処されていなかったとすれば、潜在的な問題を放置したのと同じことだと思う。

ダイヤの組換えに当たって、現場職員の意向や意見が反映されていたかどうかにも興味がある。運転士たちは実施できると考えて受け入れたのか、それとも、彼らの意向には関係なく決定されるものなのかは、今後、重要なポイントになるのではないだろうか。

事故や異常に際して、各部門が共通の課題として受け止めることが大事故の予防のために最も重要なポイントだ。そうした意識作りをするには、まず、組織内への情報開示が前提となる。全員に知らせ、状況を理解させ、対応方針や実際の対策の実施と徹底を求め、履行されていることを監視する。
このプロセスを、小規模な事象に対しても徹底して、継続的に行うことで、組織全体がそれを習慣にするようになる。そういう習慣ができると、問題が発生しづらくなり、小さな人為的なミスも激減する。

もうひとつは、実際の行為者(今回の例では運転士たち)が彼らの視点で対策を検討し、施策することが重要だ。決して、傍観者にしてはならない。同時に、行為者をフォローする立場の者(今回の事例では車掌たちと保線区の要員)は、実運用上の検証者として機能する立場にあり、その観点から問題を分析し、自らの立場で実施できる施策を提案し、業務に実装することを要求されるべきだ。これが継続的に求められることで、一体感が生まれ、相互にフォローする体制が出来上がる。

今回の一連の報道や、JRの会見の様子からは、こうした組織的な対応を全く感じ取れない。
これは、経営陣がしっかりと反省すべき問題だと思う。

組織が大きくなればなるほどこうした対応は困難ではあるが、信頼を取り戻すためには、実質的な運用の質を引き上げて実績を示す以外にない。安直なその場しのぎの対応に走ることなく、地道な体質改善を進めて欲しいと心から願っている。

犠牲が大きければ大きいほど、実質的な対応を、誠意をもって推進する以外に道はない。
謝罪や保障で、この問題が解決できるわけではないのだから。

多くの方々の痛みが癒されるように、本質的な解決がなされることを願いたい。