ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

悪用はメディアではなく「利用者」の責任

2008年06月18日 00時10分17秒 | 時事ネタについて
小中学生の携帯電話禁止 自民有志、議員立法めざす(朝日新聞) - goo ニュース

なんでも短絡的に「犯人」を作り出して禁止って、愚の骨頂ってやつだ。

携帯電話というメディアは既に時代を象徴するものになっている。
「使うな」で「はいそうですか」になりっこないでしょう。

そもそも、まともでない方向に使われたり依存症になったりするのは「利用者」の使い方の問題。そっちを変えないと何しても一緒。超シンプルな理屈でしょ?

子供たちは日々様々な形で周辺とコミュニケーションをとっている。携帯もその一つ。使うこと自体は「悪」ではないはず。親が責任を持って子供たちに指導をし、子供たちに「自ら判断する力」を身につけさせれば済むこと。

難しい?
当たり前。でも、それが親の義務。
親とは子供たちを成長させるために尽力するもの。彼らを操るためにいるわけじゃない。決まりを与えて守らせる前に、決まりを自分達で考えさせることも大切。子供と上辺だけ付き合わないで、普段から同じ高さで喧嘩したり、話したり、遊んだりしながら人生観みたいなものを伝えていく。そういう付き合い方が必要なんじゃないの?


良くも悪くも親を見て子供は育つ。建前ばかりの「正義」など子供達は直感的に「偽善」と見抜く。毎日それを積み重ねていったら、やがて親など取るに足らない存在になってしまう。

絶対正義などいらない。本人達が考える材料を与えればいい。
親としてどうこうというより、親自身が人として志してきたこととか、貫いていることなど、しっかり示すべきなんだ。正しいかどうかは子供が判断すればいい。
彼らの純粋な目で見て、しっかり考えて正しいことと、そうでないことを切り分けさせればいい。その元となる判断基準をしっかり培ってあげることが子供を育てるということだと思う。
それとも、親自身にそういう大切な何かがないの?

原点は「人」。
この時代のほとんどの問題は、そこに原因がありそうだ。
我々一人ひとりが、心して成長すべきときなのだ。

規制は矛盾しか生まない。
特に、こうした普及速度の速いメディアは。



この事件、このまま終わらせていいの?

2008年02月15日 21時29分00秒 | 時事ネタについて
鹿児島12人無罪 法相 冤罪発言を謝罪 「一晩考えて、反省」(西日本新聞) - goo ニュース

この大臣も暴言癖があるようだ。「友達の友達はアルカイダ」もそうだけど、僕にはなんでそういうことになるのかまったく理解できない発想だ。どうしてわざわざ口にしたいのかわからない。法務大臣という立場もそうだが、それ抜きでも問題になるのは確実なネタだ。

ところで、もっと気になっているのは鹿児島の選挙違反冤罪事件についての報道がされなくなったこと。「みんな無罪になってよかったね^^」で終わらせてはダメでしょう?

酷い目にあった方々には申し訳ないが、冤罪とか違法捜査とかはこの事件の核心ではない。仮にも県警が組織だってこれだけのことやったのだから、「やるだけの理由」があったはず。それこそがこの事件の「核心」だ。「選挙違反で逮捕」を県警がでっち上げたということは、「警察が選挙に介入した」ということであり、明らかな政治的背景が存在するはずだ。そこを蔑ろにして「めでたし、めでたし」はあまりにも視聴者・読者を馬鹿にした報道姿勢だ。

地元の新聞やテレビが調査・報道できないとすれば、「背景」が「事件の隠蔽」を狙って圧力をかけていると見るべきで、ならばキー局や大手新聞社、雑誌等が取材を行って明らかにするくらいの「報道魂」を見せてもらいたいものだ。

とかく芸能人の発言などには声高に「良識」や「モラル」を振りかざしてバッシングする彼らが、本来の「自分たちの仕事」を放置しているように思えて、腹が立ってしかたがない。

報道が腐れば社会の浄化機能は失われてしまう。他人の色恋沙汰に首を突っ込む前に、「報道の持つ使命」を果たす意欲の欠片くらい示して欲しい。
こういうことで役に立たないで、どんな価値があるというのか?
大上段に「公共性」を振りかざした連中に、伺ってみたいものだ。

これこそ、チャンス!! 農業政策、地方行政の転換を

2008年02月10日 20時16分12秒 | 時事ネタについて
75%が「中国食品利用せず」 ギョーザ事件で共同通信調査(共同通信) - goo ニュース

一連の農薬混入問題を見ているうちに、随分長いこと放置していたブログをもう一度使ってみようと思った。
声を上げるべきは消費者の方。
政治家や官僚が頼りにならないのは周知の事実だから。

輸入牛肉の問題、大豆の高騰、原油高に端を発する相次ぐ食料品の値上げ、そして中国製品に対する不信感を煽る今回の問題。
これらが示すのは、「食料自給率を上げろ」という神の声のようだ。

まず生産者の方々へ。
価格で勝てないと言われていますが、高価になっている原因は?
気候や季節に合わないものを無理やり作っているからじゃないの?
より安く作るためにやり方を変える勇気がある人たちは成功しているのではないですか?
農協の方針やこれまでのやり方が本当に正しかったのか、プロである皆さんが個々に検証するときです。時代は「原点回帰」を求めているはずです。作物本来のあり方に帰って大規模で収支の良い生産方法を検討することが出来るのではありませんか?

食品生産、流通系の企業の皆さんへ。
安全性は監視や規制の届く範囲でしか管理できません。国内の農業生産事業に積極的に投資して、より自然な本来あるがままの生鮮品を供給することで、消費者の意識を変えることができるのでは?
安いに越したことはないです。だから国内での大規模生産が必要になる。産業基盤を失いつつある休耕地域に投資することで、新たな生産基盤を確保すれば、企業自体にも地域にも国にも消費者にも大きなメリットをもたらすはずです。

地方自治に携わる皆さんへ。
「負のループ」から抜け出すためには、補助金で公共事業を継続するよりも産業基盤の確立が急務です。工業誘致よりもむしろ、農業基盤の強化・充実を大手流通業とともに推進する方が効果的では?
「利権」を断ち切り、一部の支持者のためにではなく、多くに住民のために「脱・補助金」の決断を求められているのに、そういう議論が出来ないのはなぜ?
これまでの「赤字経営」に責任を感じて欲しい。
都市部の人間はいつまでもあなた方の浪費に付き合ってはいられません。
黒字の自治体がほとんど無いという現実を、危機感をもって受け止めるなら、今こそ大胆な変革を行うチャンスでしょ?

最後に消費者の皆さんへ。
我々は多くを求めすぎていませんか?
極端な健康志向もどうかと思いますが、もっと自然や季節に合わせた生活があってもいいのでは?
食料自給率の低さは我々消費者がわがままな要求をしすぎている証なのでは?
一年中食べれるのは本当に良いことなのでしょうか?
その時期にしか食べられないことで、食べる喜びをもっと感じられるのでは?
それが本来の姿ではないかと思うのです。

東京でアンズを買うことの難しさを感じたことありませんか?
販売される時期が短く、あっという間に店頭から消えてしまいます。だからこそ「今年は食べられた」という喜びも感じられる。
都市部の人間は、こういうことの繰り返しで「食」を生産者への感謝につなげるような生活を求めるべきだと思うのです。子供たちの世代が、まともなものを食べられるように、我々は馬鹿げた現実を変える努力を求められているのだから。

道路公団 副総裁逮捕について

2005年07月31日 23時41分59秒 | 時事ネタについて
改めて、官僚のモラルにあきれている。
民営化委員会での答弁といい、その後の出席拒否の会見といい、よくもあそこまで嘘をならべられるものだ。良心のかけらも感じないし、彼らにとっては当たり前のことなのだろう。あんなのの下で働きたくない。かけらも、尊敬できない。

仕事というのは、泥臭いものだ。時にはルールを越えた対応が必要なことだってある。絶対正義のような、青臭いことを言うつもりはない。ただ、明確に過去の清算をしようとしている流れの渦中にありながら、ああまで頑固に利権にしがみついていれる感性の鈍さにあきれるばかりだ。これだけの批判を受けている中、あれほどの税金の無駄遣いを続けていることに、かけらも痛みを覚えていないモラル感覚が理解できない。

他の幹部連中もほとんど同じ感覚だろうから、膿みを出すにはまだまだ逮捕者が必要だ。これは、偽証とか独禁法の問題とかではない。彼らの行動は国家に対する「特別背任」だ。

国を破綻させるぼとに甘い汁を吸い続けてきた官僚達、それを利用して後援者に金を運んでいる地方議員、郵政民営化の本当の目的は、そういう仕組みを壊すことだ。郵便局のサービスの問題などに議論をすり替えられてはいけない。国家プロジェクトの名の下に多額の税金を地方へ吸い上げるルートを潰してしまわないと、都市部の人間は、生活できなくなる。それどころか、国家そのものを失いかねない。

解散総選挙になっても投票するあてがない。この国には、国家レベルの問題を解決できるような政治家がいないのだから。目先の権力闘争と限られた後援者の利益にしか興味のない、場違いなグスばかりだ。我々がどんなに怒りを覚えても、地方の有力者に操られた恥知らずな有権者達はクズどもを国家に送り出す。しがらみを捨てられず、彼らもずっと食い物にされ続けるんだろう。

いまさら、誰も驚きもしない・・・

2005年05月30日 21時08分58秒 | 時事ネタについて
橋梁工事の談合の件は、やっぱり道路公団まで波及した。
こんなのが天下りの温床を作り、税率の引き上げに繋がるのかと思うと、怒る気も失せてしまう。

財政状態が悪いとしながら、あちこちでこんな工事をやろうとする田舎での議員さん方には、いったいどのくらいの額が帰ってくるのだろうか? それが即ちこの国の政治ということなのか?

どっちにしても都市部のサラリーマンは、いや応なくそのツケに付き合わされるわけだ。

役人のたかり根性と、田舎議員の金満体質は底なしに続くという、この国らしいお話しということか。

いまさら、誰も驚きもしないだろうが・・・・・

福知山線の報道で思うこと

2005年05月08日 23時53分25秒 | 時事ネタについて
着目したいのは、2点だ。

1.事故電車に乗り合わせた通勤途中の運転士の行動

2.ボーリングなど、不適切と評された行動

どちらも、JRが全社体制で対処していなかったことの証明だと思う。組織が大きくなると、様々な関連した仕事を各部門で分担するようになる。それが、ある種の「セクショナリズム」を生み、他部門の仕事には口をはさまず、関与せずというのが習慣になっていく。JRの例でも、事故対応の担当部門とそうでない部門の意識は大きく違ったと思う。2.の件は、そうした背景を考えると必然的に起こったものと推測できる。
1.については、冷静に考えると必ずしも批判できない部分がある。JRが周辺の運行を維持するためには、彼らが正常に出勤することも必要だったはずだからだ。社として、救出活動に組織だった要員投入ができていて、会社の責任において、「周辺の運行維持に必要なので、いち早く出社することを命じた」と明言していれば納得できない話ではないと思う。

同時に、経営陣・管理者と現場の間に大きな乖離を感じる。恐らく現場から叩き上げた管理者が少ないのではないかと思う。無理なダイヤ編成や問題視されている日勤教育の実の無さなどから推察するに、管理側は現場の実運用の詳細を理解していない。

問題解決には、その要因を絶つ必要がある。オーバーランなどの小さな事故が運転士に依存して起こっているという判断ならば、運転技量の向上が重要な対策のひとつになるはずだが、そうした実運用に即した対応がなされず、精神論的な勤務態度の修正のような指導に指向したのは、現場の実務を指導できない背景があったからではないか。シミュレーターの導入や車両区での運転実技実習など、工夫のできる部分があったはずだが、対処されていなかったとすれば、潜在的な問題を放置したのと同じことだと思う。

ダイヤの組換えに当たって、現場職員の意向や意見が反映されていたかどうかにも興味がある。運転士たちは実施できると考えて受け入れたのか、それとも、彼らの意向には関係なく決定されるものなのかは、今後、重要なポイントになるのではないだろうか。

事故や異常に際して、各部門が共通の課題として受け止めることが大事故の予防のために最も重要なポイントだ。そうした意識作りをするには、まず、組織内への情報開示が前提となる。全員に知らせ、状況を理解させ、対応方針や実際の対策の実施と徹底を求め、履行されていることを監視する。
このプロセスを、小規模な事象に対しても徹底して、継続的に行うことで、組織全体がそれを習慣にするようになる。そういう習慣ができると、問題が発生しづらくなり、小さな人為的なミスも激減する。

もうひとつは、実際の行為者(今回の例では運転士たち)が彼らの視点で対策を検討し、施策することが重要だ。決して、傍観者にしてはならない。同時に、行為者をフォローする立場の者(今回の事例では車掌たちと保線区の要員)は、実運用上の検証者として機能する立場にあり、その観点から問題を分析し、自らの立場で実施できる施策を提案し、業務に実装することを要求されるべきだ。これが継続的に求められることで、一体感が生まれ、相互にフォローする体制が出来上がる。

今回の一連の報道や、JRの会見の様子からは、こうした組織的な対応を全く感じ取れない。
これは、経営陣がしっかりと反省すべき問題だと思う。

組織が大きくなればなるほどこうした対応は困難ではあるが、信頼を取り戻すためには、実質的な運用の質を引き上げて実績を示す以外にない。安直なその場しのぎの対応に走ることなく、地道な体質改善を進めて欲しいと心から願っている。

犠牲が大きければ大きいほど、実質的な対応を、誠意をもって推進する以外に道はない。
謝罪や保障で、この問題が解決できるわけではないのだから。

多くの方々の痛みが癒されるように、本質的な解決がなされることを願いたい。