ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

教室に爆弾が投げ込まれた事件について

2005年06月27日 22時18分32秒 | 暗い事件について
いまさらこの時期にコメントでもなのだか、自分なりに整理がついたので記事にしてみた。

子供の頃、同じように花火から爆弾を作って遊んでいた子がいた。彼らは別に誰かに投げつけようとは思っていなかったようだが、ある程度簡単に出来るものだったようだ。だから、特に爆弾の内容について驚きはしなかった。花火の火薬程度では、相当な量で無い限り大した爆発は期待できないので、当然何かを入れるという発想も出でくるし、釘というのはいかにも入手しやすいうってつけの材料だ。

この事件では、動機も理解しやすい。「いじめられての復讐」というのは理解しやすい。但し、対象となる相手がクラス単位になっている点が問題だと思う。

「いじめ」には、中心的な実行者がいるものだと思っていたが、そうでない状況が今はあるのだろうか?
 もし、あるとしたら誰も疑問を感じないまま、弱いものいじめをするのが、当たり前ということなのか?

資本主義の自由競争社会では、弱者は切り捨てられるものという社会感性が、親を通して植え付けられているかのようで、恐ろしい状況だ。

 別の見方をすると、犯行に及んだ少年の感性、或いは、モラル感に疑問を感じずにはいられなかった。
犯罪は、当然常識的なものではないが、昨今流行のオタク文化的な、極めて主観的な発想がそこから感じ取れるからだ。その昔、オタクと言う言葉が使われ始めた頃、彼らはよく自虐的に己を卑下し、わがままな行動や発想、意見を述べ、周辺の人々と一線を画すポーズをとっていた。しかし、最近の流れでは、自己中心的な発想は当たり前で、それに対して一切疑問も持たない連中が多い。さらにやるせないのは、他人に対して攻撃的な点だ。主観的発想から敵視した相手に対して攻撃的になる。この時点で既に正常な状態ではない。しかし、現実にこういう感覚の青年達の実に多いこと。モラルの欠如以上に、心の貧しさを感じる。

いつかの少女監禁犯のような、あまりに稚拙で独りよがりの世界観が、あたかも正当なもののように、彼らの世代の感性の柱になっているような気がしてならない。

モラルの喪失は指摘され続けているが、根っこは何処にあるのだろう?
僕らを含め、彼らの親や祖父母の世代が如何に無責任な世代だったかは、今の国の借金が証明している。

談合を黙認し私腹を肥やす官僚達、9割を無駄遣いする外郭団体の予算や会計報告を調査もしなかった監査体制、年金システムの壊滅的なダメージ、それをもってさらに非を認めないあつかましいエリート達の姿・・・・
これらがこの国の全てを表している。

この20~30年で我々は多くのものを失ってしまった。特にモラルの崩壊は目に見えぬところで進み、全ての人を蝕み、社会的な矛盾をより一層大きくしてしまった。

本来なら完成度の高い人格を持ちうる年寄り達、大いなる戦犯たるエリートを気取る方々、そして、我々のような子供のいる世代が、意識してモラルや人格の向上に努めないと、彼らのような子供達が本当に大切なものに気づかぬまま、同様の暴走を繰り返し、悲劇を生み続けることになる。

我々は、これまでの生き方を振り返り、子供達のために「心」を取り戻さなければならない。
形だけの正義ではなく、誰かの損得ではなく、真理・本質に関わる何かを求める心を。

ひょっとすると、今はルネッサンスのように、「古き良き何か」を取り戻すべき時代なのかもしれない。