ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

これも、おバカブーム?

2008年05月12日 23時54分39秒 | Weblog
取調室で火付き死亡 名古屋、灯油かぶった男にたばこ(共同通信) - goo ニュース

なんでだよ(><)

保護したんなら服変えてやるとかしとけばいいのに、そのままだったのか・・・・
ご当人だけならまだしも、警官何人いたんだろう?


・・・・・・ Beavas & Butthead  見てるような展開。

笑えん。

「死刑になりたい」無差別犯罪について

2008年05月10日 16時45分36秒 | 暗い事件について
先日もあるブログでこの手の事件についての記事を読んだ。
気になっている人はたくさんいると思うけど、彼らの心の内に思いを踏み込ませる人は少ないだろう。

「死刑になりたい」無差別犯罪なぜ(朝日新聞) - goo ニュース

無差別な殺人を起こす人は、薬物中毒や幻覚が理由で無い限りに於いては「世界中が敵だ」という意識があるはずだ。「誰でもいいから殺してやる」というのはその社会から既に乖離した存在になっている証拠。地域社会・職場・学校、どういうコミュニティーの中でもなんの接点も作れていないか、絶たれているか、絶っているのか・・・・彼らの心は周りの人々との交流を持てずに周囲の人々に敵愾心を抱いている。

会話があるかどうかではない。買い物や挨拶は誰とでも出来ても、気持ちを伝え合ったり一緒に考えたり行動したりする人がいないと、徐々に「孤立感」は強くなっていく。やがて周囲の人との間に格差を感じはじめる。人は無意識に自分が劣っていることを認めたがらない。自分自身の存在を否定してしまいかねないから。すると格差は漠然とした不満となり、周囲に強く敵愾心を抱く様になり、さらに孤立し、攻撃的な発想が生まれてくる。
これも、人が己の存在を維持するための無意識な防衛本能のようなものだと思う。

「死刑になりたい」とは、必ずしも「死に切れない」からではないと思う。
ある種の挑発であったり、己の負けを認めないための決着のつけ方であったりするように思う。また社会に対する敵愾心が強くない場合は、攻撃性とそういう自分に対する嫌悪感との狭間に揺れての結論、自らの行動を抑えられないがそれを罰する気持ちは残っているというような、デリケートな部分もあるように思う。

刑罰がどうこういう問題ではない。
心が病んでしまうのは個々の資質の問題もあるが、あくまでも平均的で均一なものを望む社会環境や教育環境にも起因していると思う。
「違い」というものは常にある。個々の固体に差があるのは当然なのに、同じでないといけないかのように親や学校に求められてきた。少なくとも僕はそうやって育ったと感じている。周りの考え方ややり方に違和感を感じながら、あえて特殊でありたいと願い独自の道を選ぼうとしてきた。結果的にはとても平凡な存在になってしまったけれども、そのおかげで孤立感や孤独感に押しつぶされずには済んでいるように思う。

思い当たる人もいるのでは?
人とは違う自分がいてとうぜんなのに、周りに合わせることに必死になっている人も多いと思うけど、それに疲れてしまうと急速に孤立に向かってしまう。自分の中でそういう思いを膨らませてしてしまうから。本当はお互いの違いを認め合うことが大切なのに、排他的な社会環境は案外多いように思う。

こういう事件が増えるのは自己主張の下手な人たちが押しつぶされていることの表れだと思う。
我々はもっと周りの人々に寛容であるべきだ。
「思いやり」とはそういうところにあるのだと思う。