ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

これも、おバカブーム?

2008年05月12日 23時54分39秒 | Weblog
取調室で火付き死亡 名古屋、灯油かぶった男にたばこ(共同通信) - goo ニュース

なんでだよ(><)

保護したんなら服変えてやるとかしとけばいいのに、そのままだったのか・・・・
ご当人だけならまだしも、警官何人いたんだろう?


・・・・・・ Beavas & Butthead  見てるような展開。

笑えん。

人は水滴のようなもの

2005年12月23日 08時30分46秒 | Weblog
人間関係というのは、複雑でストレスの溜まるものだ。おそらくすべての人にとってある程度の苦痛や我慢を強いられるものだ。そういうことは幼少期の友達関係から学んでいくもので、喧嘩や和解を繰り返しながら、我慢することとか、相手を理解すること(厳密には理解しようとすること)を学んで成長していく。

「我慢」は「協調」のために必要なことで、「社会秩序」に大きく関係している。
最近は、「個人主義」とか「オタク」とか、わがままを正当化するには都合の良い言葉がもてはやされているから、勘違いしている人が多い。

その昔、「オタク」という言葉が使われる前の時代、彼らのような人たちは自分達が一般の人々とは異なる趣向を持っていることを認識し、あくまで自虐的な表現として、わがままな言動や行動を誇張して他人に伝えていた。彼らの心情としては、自分達のような偏った趣向が一般の人たちに理解されないことへの諦めと、それでも自分はその分野を追及するという意思表示の意味があった。僕の友人に「オタク」の見本のようなのがいたので、良くそういう発言を聞いていたが、決して本当にわがままだったわけではない。「俺は好きなようにやる」というのは、「こだわりがあるんだ。お前らにはわかるまい。」という意味で、本当にわがままな行動をとっていたわけではない。

ところが、最近はその「オタク」を自負する連中の中に、単なるわがままを自己表現と勘違いしている連中を多く見かける。先輩達の発言の真意を知らずに、形だけが伝わっていった結果、本質的なずれが生じているように思えて、とても悲しい。

個人主義も勘違されて、協調性を阻害する要因になっている。「自由」とは、「制約」の中で活用されるものであり、他者の「犠牲」によって成り立っていることを忘れてはならない。誰かが何かを手に入れるということは、同時に他の誰かがそれを失うということに他ならない。自分が何かを取り上げていることに無頓着にならず、提供してくれる人々に感謝することを忘れないようにしないといけない。

各企業は、「顧客第一」と称して、客のわがままに答えようとする。職場を離れた従業員達の多くは、プライベートで顧客に回ると容赦なくわがままを通して当たり前だと言わんばかりの行動をとる。まるで自分の提供した労力を取り返すかのごとく。結果、自分の仕事も辛いものになり、ストレスだけが蓄積されていく。

大人のこういう行動が、社会を貧しくして、悲しい事件を多く作り出してしまう。
人の人格は、たとえるなら「水滴」のように丸いもの。お互いが緩やかな自己主張を行い、相手を尊重するから均衡を保つことができる。お互いに心地よい距離感、奪うことより与えること、自分と異なる意見の存在を認めること・・・・
こういう部分が無くなって、人口密度が異常に高くなっていくと、自己主張の得意でない人たちは、徐々に押しつぶされて「水滴」の形を保てなくなる。形を保てなくなる前に、破壊的な行動に出るものも多いはずだ。周辺の全ての人が敵に思えることだろう。そんなことが、ここ何年も繰り返されている。

悪循環の出口があるのだろうか・・・・

犯罪を生み出すもの(性犯罪の再犯問題を問う番組を見て)

2005年11月09日 22時06分44秒 | Weblog
NHKの番組で、性犯罪の再犯の問題についてレポートしていた。
奈良の少女殺害事件が入り口になって、実状を知らしめる構成だ。

僕が驚くのは、刑務所での無策ぶりだった。

明治以来、罰としての労務だけで刑期を終えて、受刑者を社会へ戻していたわけだから、再犯の対策は「仕事に就けるようにする」という、せいぜい窃盗犯向けのものだけだ。

社会への適応力とは、職業技術で成り立っているわけではない。雇用があろうが無かろうが、社会に同化する意識のない人たちはいずれ問題を起こす。奈良のケースは、起こるべくして起きたものといえる。罪の意識を問われることもなく、「罰」によって「自分の愚かな行為」が清算されたと考えられてしまえば(番組内で犯歴のある男性が自ら明言していたように)、「また、しばらく入ってくればいいいか・・・」という感覚で、無関係な人々を犠牲にしても、なんの不思議もない。
現状の制度では、性犯罪に限らず再犯率は高いはずだ。

性犯罪、特に子供に向けられるものは、被害者がずっと背負わされる重荷は大きい。被害を出さないことが如何に重要かについては、議論を必要としないだろう。それでいて、この状況はいったいなんなのか?これこそ「何もしない」という「犯罪」だと思う。

しかし、これは問題の本質ではない。犯罪者を生み出しているのは、我々の社会そのものなのだから。

「個人主義」とか、「自己主張」とか体裁の良い言葉に踊らされて、他人の感情や立場を尊重しない人々が増えている。それが、結果として「いじめ」、ショッキングな数々の少年・少女の事件につながっている。人間性の欠如。それは、この時代に生きるほとんどの人に突きつけられている指摘ではないだろうか?

刑務所や役人の無策の前に、我々一人一人が本当に今のままで良いのか真剣に考えるべきだ。競争社会の中で無節操に他人を犠牲にしている我々は、我先に品物を奪い合っている我々は、彼らと同じように自分本位に立ち回っているではないか?

「優しさ」とか「おもいやり」とか、言葉だけは沢山出回っているが、そういうものをちゃんと持っていると、我々は言い切れるのだろうか?
そういう我々の子供たちは、果たして反社会的な存在、犯罪者にならないと言い切れるだろうか?

犯罪の温床は、間違いなく我々自身にある。僕は改めてそれを感じさせられた。

先端技術の危うさを見せてくれた番組

2005年11月07日 22時29分58秒 | Weblog
11月5日(土)のNHK特集で、最新のサイボーグテクノロジーの紹介していた。

興味深かったのは、脳に電極を繋いでの病気の制御、道具の利用というあたり。
鬱病の治療にまで利用可能ということは、人の感情の制御が可能になるということ。悪用するヤツが出ないわけはない。
現に、米軍は本気で軍用に転用するつもりのようだ。やがてサイボーグが戦場に立つ、で済むなら話はお気楽なものだが、文字通り、直接的に人の行動を制御できる技術につながるわけだから、これは恐ろしいことだ。

神経工学が病気や怪我から人々を救うという部分には大いに期待する、と同時に、このそら恐ろしい技術の行く末に強い恐怖感を抱いたのは、昨今、人の心の弱さを強烈に感じさせられるからだ。

我々はこの技術を正しく利用できるのだろうか?

既にこの時代、人の心は脆弱なものに成り下がっているのに・・・・。

子供たちに伝えていたいこと

2005年05月25日 23時43分34秒 | Weblog
僕は、例の連続女性監禁事件の中で語られる親子関係が、とても気に掛かる。

こういうのって昔もあったんだろうけど、一人の親としてとても寂しい。子供を叱ってやれない親なんて、とても寂しいと思う。

僕自身は、大した人間でない。でも、子供たちと同じレベルになって喧嘩していたい。親とか指導する立場とかじゃなくて、そばに居る一人の人として、何かを伝えたいと思うから。

誰かが諭してやらないと、そなりに物事を感じている人がそばにいないと、子供たちも大切な感情を抱かないまま育ってしまうのだと思う。夜遅くにコンビニをうろつく小学生に、塾帰りに駅のホームで弁当をつつきながら座っている小学生に、そういうものが欠けていくのがとても恐ろしい。その子たちの子供は、もっと感情を失いそうだから。

そうやって、この国や社会の「心」は病んできたのだろうから。

ゲーム業界はどこへ・・・

2005年05月20日 23時37分35秒 | Weblog
最近の監禁事件の犯人が、アダルトゲーム好きだったことが話題となった。

彼の中では、現実も願望も一緒くただったのだろうから、AVでもコミックでも何でも同じように刺激を受けたんだろうと思う。その意味で、特にゲームに責任があるわけじゃない。

だた、冷静に販売されているこのジャンルの動向を見ると、本当にこれでよいのかと思うことが多い。

正直なところ、この手のジャンルのゲームを何本も経験はしていないが、パッケージやその説明書きから見えてくる内容は、相当に攻撃的で、非人間的なものに思える。男女関係というのは、お互いの愛情の上に初めて成り立つと思う。たとえその場の遊びで愛し合うとしても、その瞬間はそういうものだと思う。

僕が最近のこの手のゲームのパッケージから感じるのは、独善的な支配欲や屈折した復讐のような、卑屈で野蛮な欲求の開放であり、性的な願望と同調して、女性を差別的にというか、本当に節操無く侮辱することを、あえて意図しているように思う。一番恐ろしいと思うのは、それが業界の常識或いは、製作者たちの共通の願望、渇望する行動であるかのように思えることだ。

もし仮に、この手のゲームの製作に関わる人達が、一応にそのような感情、つまり、女性に対する非常なまでの攻撃性を持って生きているとしたら、未成熟なゲーマー達は大いに影響を受けるだろう。たかがゲームといえるほど、無視できる存在ではない。ゲームというメディアは、既にこの時代を象徴するメディアに成長しているからだ。

メディアは、社会的な影響力を持つものだ。市場のイニシアティブは製品を提供する側にある。どのような製品を供給するかで、マーケット自体を構築できる。現状のこの手のメディアのあり方について、より正常な人間性を求めるというのは、馬鹿げた感情なのだろうか?

性は人の本質に関わる問題でもある。このレベルで人間性を失うのは、とても悲しいことだと、僕は思う。

記憶についての考察

2005年03月10日 01時14分50秒 | Weblog
人格の構成に、記憶が大きな役割を果たすはずだ。
特に潜在意識の中に埋もれている沢山の記憶は、その人の発想に大きく関わる。

コンピュータに絡む仕事をしていると、人の記憶の情報量には、あきれるばかりだ。わずか数秒の動画を圧縮してもメガ単位なのに、膨大な時間の映像に音も、匂いも、その他の感情要素まで含んで記憶している。

そこで、ふと思った。

記憶は、人の脳の中に収まりっこない。ナノテクのメモリーで構成しても、あんなサイズの中に収められっこない。まして生物学的な細胞構造の組み立てによって情報を維持するなんて、現実的ではない。

では、いったいどこに収納しているのだろう?

もし、記憶がイメージの集合体なら、イーメージそのものがある種のエネルギー波動でできているなら、説明がつかないでもない。非物理的なエネルギー波動として、光以上の周波数の波動として存在するなら、その存在自体が、時空にとらわれずにすむ。

だとすると、脳はそれを取り出すインターフェースだと考えることができる。

これなら、現実的なサイズだし、生物学的な構造物でも十分機能しそうな気がする。人は必要なときに、過去の様々な記憶を引き出したり、探したりできる。時に、未来が予測できる可能性もある。未来は変化するものだが、ある時点での未来像を把握することができる可能性はある。

心霊現象も、占いも、サイコメトリーやテレパシーの類まで、一気に科学的な事象として考えられるようになる。神秘主義的であり、心理学的な世界が開けて来る。

仮にこの理屈が正しいとしても、実証するすべない。

ただ、その昔からある様々な謎に解決の糸口を与えてくれそうな気がする。

馬鹿げた発想だろうか?