ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

「死刑になりたい」無差別犯罪について

2008年05月10日 16時45分36秒 | 暗い事件について
先日もあるブログでこの手の事件についての記事を読んだ。
気になっている人はたくさんいると思うけど、彼らの心の内に思いを踏み込ませる人は少ないだろう。

「死刑になりたい」無差別犯罪なぜ(朝日新聞) - goo ニュース

無差別な殺人を起こす人は、薬物中毒や幻覚が理由で無い限りに於いては「世界中が敵だ」という意識があるはずだ。「誰でもいいから殺してやる」というのはその社会から既に乖離した存在になっている証拠。地域社会・職場・学校、どういうコミュニティーの中でもなんの接点も作れていないか、絶たれているか、絶っているのか・・・・彼らの心は周りの人々との交流を持てずに周囲の人々に敵愾心を抱いている。

会話があるかどうかではない。買い物や挨拶は誰とでも出来ても、気持ちを伝え合ったり一緒に考えたり行動したりする人がいないと、徐々に「孤立感」は強くなっていく。やがて周囲の人との間に格差を感じはじめる。人は無意識に自分が劣っていることを認めたがらない。自分自身の存在を否定してしまいかねないから。すると格差は漠然とした不満となり、周囲に強く敵愾心を抱く様になり、さらに孤立し、攻撃的な発想が生まれてくる。
これも、人が己の存在を維持するための無意識な防衛本能のようなものだと思う。

「死刑になりたい」とは、必ずしも「死に切れない」からではないと思う。
ある種の挑発であったり、己の負けを認めないための決着のつけ方であったりするように思う。また社会に対する敵愾心が強くない場合は、攻撃性とそういう自分に対する嫌悪感との狭間に揺れての結論、自らの行動を抑えられないがそれを罰する気持ちは残っているというような、デリケートな部分もあるように思う。

刑罰がどうこういう問題ではない。
心が病んでしまうのは個々の資質の問題もあるが、あくまでも平均的で均一なものを望む社会環境や教育環境にも起因していると思う。
「違い」というものは常にある。個々の固体に差があるのは当然なのに、同じでないといけないかのように親や学校に求められてきた。少なくとも僕はそうやって育ったと感じている。周りの考え方ややり方に違和感を感じながら、あえて特殊でありたいと願い独自の道を選ぼうとしてきた。結果的にはとても平凡な存在になってしまったけれども、そのおかげで孤立感や孤独感に押しつぶされずには済んでいるように思う。

思い当たる人もいるのでは?
人とは違う自分がいてとうぜんなのに、周りに合わせることに必死になっている人も多いと思うけど、それに疲れてしまうと急速に孤立に向かってしまう。自分の中でそういう思いを膨らませてしてしまうから。本当はお互いの違いを認め合うことが大切なのに、排他的な社会環境は案外多いように思う。

こういう事件が増えるのは自己主張の下手な人たちが押しつぶされていることの表れだと思う。
我々はもっと周りの人々に寛容であるべきだ。
「思いやり」とはそういうところにあるのだと思う。

山口の母子殺害事件の判決について

2008年04月22日 23時49分35秒 | 暗い事件について
「死刑」が妥当かどうか と問われたら妥当ではないのかもしれない。
ただ、本人の反省も無しに減刑は正しくないと思う。
最近「心神耗弱状態」という表現をよく耳にするようになった。精神鑑定と「心神耗弱」がセットになって弁護手段に使われているわけだ。

この辺りは、この国の社会モラルがそのまま反映されたものなのだろう。要するに「無責任」なんだ。己の行為に対しての「義務感」や「責任感」が欠けている。だから、平気で責任逃れをする。多くの社会問題が公になっているけど、いずれもそういう話。「潔さ」を美意識をもって尊んだ日本文化は、「個人主義」とか「自由」とかいう「わがまま」に淘汰されてしまったのかもしれない。
少なくとも、法律家にはそうなって欲しくないのだけれど・・・・・

山口の事件では、遺族の男性が冷静に犯人に反省を促し続けてきたが、今回の弁護団の手法はその努力を大きく後退させたように思う。動機の如何にかかわらず、「殺害した」という事実に対して反省があって初めて減刑ではないのだろうか?
理由をつけて悪気は無かったというのは、不毛で且つ、遺族や被害者を著しく蔑ろにした主張だ。

法律の不備や死刑の是非を問う前に、弁護団には「弁護」と「法廷」に於ける正義のあり方を真剣に再考して欲しい。客観性に欠けるかもしれないが、弁護団の主張にはどうしても納得がいかなかった。

園児刺殺事件について

2006年02月18日 11時56分54秒 | 暗い事件について
「まさか引率者が…」登園中の惨事に衝撃 園児2人殺害 (朝日新聞) - goo ニュース

動機について語ることは無いかもしれない。
本人は殺人そのものよりも、殺された子供達の存在を排除したかったのではないかと思う。彼女にとってはとても重い存在で、心理的に耐えられなくなったのだろう。

親同士の関係は、案外微妙なものだ。思惑の違う部分が多々あるはずだ。新興住宅地は、別々の環境から別々の嗜好を持った、関連性のない人たちが集まっているから、既存のコミュニティーが存在しまい場合もある。そうなると、もともと自力で人間関係を作るのが苦手な人にとって、まわりの人とのコミュニケーション自体が難しいものになる。内向的で、文化背景も違う外国人なら、なおさら難しい状況だっただろう。

僕の住む地域にも、多くの外国人がいるし、子供の小学校にもフィリピン出身のお母さんもいる。以前お隣にいた中国出身のご夫婦とは、お互いが引っ越した後も葉書のやり取りが続いている。ご本人達も、自分達が日本の生活に慣れてはいても、周りの人たちと同じにできないことがあることを意識しているし、そのことを回りも理解してフォローしている。どこでもそうだとは思わないが、日本人は外国人には優しい。

ただ、なじめないまま離婚して帰国したお母さんもいた。その人の場合は、内向的で自分から人と話すのが苦手なようだった。どのように対処していいかわからないことが多く、よく迷っていたようだが、例えば「担任の先生と話してみたら?」というようなリードでは、話を進められなかった。そのように勧めてしまうと、突き放されたように感じていたようだ。積極的にコミュニケーションできない人には、慣れない土地で関係の薄い人たちと話しをするというのは、とても大変なことなのだ。

生活自体が負担になっている人がいて、うまく相手に気持ちが掴めないまま、コミュニティーの中で一定の役割を果たし続けることの心理的な負担は、周りの想像を超えるストレスだったはずだ。その中で、他の子供達を預ること自体が重く苦痛なものになり、重圧を排除しなければ耐えられなくなったとしたら、犯行へのベクトルは理解できなくもない。

殺人なのだから、理由を付けて肯定するものではない。数々の事件が起きている時期だから、社会的な影響も大きいし、父兄にとってはあまりにもショックな出来事だろう。ただ、彼女の心の動きを解き明かしていくことは、最近ありがちな犯罪の温床を理解する大きな鍵になる。もし、この推察が正しければ、今回のケースは比較的理解しやすい構造になっている気がする。

孤立。内向する思い。限界に達した時の悲しい結末。加害者を憎んでも、何も解決しない。社会はこういう心理的弱者をどのように救っていくのかを考える必要があるのだろう。ご主人の影が出てこない点も気になるが、諸事情があるだろうし、批判するつもりはないが、誰かが何とか支えてあげられないものかと考えてしまうのは、僕だけではないと思う。

彼女もきっと、やがて自問することだろう。どうして、そこまでに至ってしまったのか。そして、我々は何ができるのだろう。

広島の少女の事件について

2005年11月23日 21時01分21秒 | 暗い事件について
粘着テープで箱にふた 人通り少ない現場付近 女児殺害 (朝日新聞) - goo ニュース

こういう事件を防ぐ手段は、実質的に無いのだと実感させられる事件だと思う。学校や地域社会が手を尽くしたとしても、一人一人の子供達を四六時中保護することは不可能だ。

わずか2時間程度の間に、拉致→殺害→死体遺棄という展開は、あまりにも短絡的で稚拙な行動に思える。衝動的な行動と、その結果がもたらした少女の抵抗が、最悪の結果をもたらしてしまったという流れなのだろうか・・・
ダンボールに入れて道端に遺棄というのも、なんともお気軽なことだ。犯人の動揺ぶりの表れと解釈する方が自然なのか、そともテレビで誰かが言うように犯行を誇示する行動なのか・・・
僕は、また孤独で寂しい誰かの影を感じている。近所にいて、人知れず彼女を愛しく思っていた誰か・・・・願わくは犯人が近い年代でないことを願いたい。大人の犯行なら、何が救いになるというわけでもないのだが・・・・

自分と対等な立場以上にある人たちとまともな関係を築けない人たちがいる。僕もその中に入るが、人間関係の維持が得意でない人は世の中に沢山いる。その中で、特に欲求の対象が子供に向かう傾向のある人たちがいるそうだ。子供は自分の思い通りにできる対象だということらしい。失礼な表現になるが、人間的に成熟していないということなのだろう。大人になりきれない人達は、我々の想像以上に大勢いるのかもしれない。昨今の事件はそれを物語っている。

子供の遊びは、子供達同士で遊ぶ中で人と人との関係や自己主張の方法など、社会性を育成する大切な場のはずだ。我々の子供時代は、学校や広場に集まって、日が暮れるまで遊ぶことが多かった。最近の子供達は、集まって遊ぶときも少人数だったり、ゲームを交代でして、待ちの時間は勝手に本を見たり、別のことをして遊んだりしている。人間的な関係が希薄で、友達という言葉の意味が変わってしまったかのようだ。約束を守ることの意味や、相手の立場を理解することの重要さが、こんな関係から理解できるのだろうか?

僕が小学生の頃、中学校の受験のために学習塾に行ったり、家庭教師がついたりしていたが、とても殺伐とした虚しさを感じていたのを良く覚えている。当時受験のために散々教えられたことは、単純に表現すると「点数を取るテクニック」だった。そんなのは勉強じゃない。まして「周りの子達を敵だと思って出し抜け」と教えられるに至っては、子供ながらに大いに矛盾を感じていたものだ。塾帰りの子供達の姿や、たまに耳にする親達の話しからすると、今もぼらの頃と変わらない感覚が、少なくとも多くの母親達の中に延々と生きている。少なくともその間、30年くらいの間は、多くの日本人がそういう物の考え方の中で育ってきたということになる。

僕には、この時代の希薄な人間性の根源が、こうした親の意識にあるように思えてならない。僕らの親達の世代が僕らに期待したのは、「良い成績」で「良い学校(有名校に進学率の高い学校)」に行き「良い会社(有名な大企業)」で「楽に暮らす(休まず、遅れず、働かずという言葉が象徴する働き方)」ことだつた。冷静に考えれば、如何に無責任で自分勝手な生き方か誰にでもわかるはずなのに、親達はどこかで、自分の子供だけはそうあって欲しいと思っているわけだ。

マンションの構造設計の問題で、会見する設計士の言葉には、妙に現実感が無い。責任を云々する前に、そういう感覚の人々が大勢世の中で要職に就いていることを改めて直視して欲しい。保険金の不払い、粗悪品の販売、慢性的な談合、公金横領・・・心無い事件の数々に登場するようなエリート達の多くが、受験戦争の中で勝ちあがった人々だということを思い起こしてほしい。

僕は一人の親として、子供に外で遊ぶなとは言えない。そのことが彼らの社会性を大きく阻害したら、救ってやりようが無い。子供達の人間性を育成するために、親ができることがあるはずだ。少なくとも、友達を裏切っても成績を上げろとは絶対に教えない。

危険はぬぐえない。子供達を危険に晒すことになるかもしれない。でも、子供達に周りの人を信じるなと教え続けたら、こういうことの繰り返しになるのではないだろうか?

僕は結局、自分達の心の問題を問う。そんな悠長な課題ではないのに・・・・

町田の少女刺殺事件について

2005年11月13日 23時04分39秒 | 暗い事件について
僕にとって、この事件もまだ不可解なものだ。

犯人とされる少年と、被害者の少女の間に深い接点を感じられないのが不思議だ。怨恨で無い限りあんな刺され方はしないと思う。よほどの怒りや、憎しみがあったのか?  だとすれば、この2人の間にもっと接点が見えてくるはずだ。

「少年の一方的な思い」という報道もあるが、本当にそうなのだろうか?

そもそも人間関係に於いて、一方的なんてありえない。相手と自分との間で、相互に何らかのやり取りがないと、関係なんて成り立たない。もし、ほとんど接点がないまま、誰かに対して何らかの感情(恋愛感情でも、嫌悪感でも)を抱くとすれば、それは自分の感情であって、相手との関係によるものではない。
その感情を相手にぶつけるというのは、まるで幼稚園入学前の子供のようだ。
高校生の年代になって、そこまで幼いとも思えない。

とすれば、我々には見えてこない何らかの関係があったはずだ。その中で少年は何を感じていたのだろう? 気持ちのすれ違い? 単純に好意なのだろうか? 

少年にとって、少女がとても大切なものだったのだとすれば、理解できない事件ではないが、それにしては激しすぎる行動だと思う。

静岡のタリウム毒殺未遂事件について

2005年11月03日 13時52分48秒 | 暗い事件について
容疑を否認する少女を犯人と断定するのは、早急な気がする。

彼女自身が、犯行を確認できない何かがあるのかもしれない。
もしかすると、真実が欠片も表に出ていない可能性も残っている。彼女が優秀な科学者を気取ったのなら、あるいは冷静に実験を行ったのなら、それを雄弁説明してもおかしくないからだ。
何かの影を感じる。それが誰かなのか、それとも何かなのか・・・・

プログを検索すると、彼女のブログのコピーが散見される。
断片かもしれないが、その内容を垣間見れそうな気がして読んでみた。
特に、「僕」と「君」の関係が気になる。
途中で「彼女の存在を感じなくなった」という記述があった。分離した「僕」は「君」を飲み込んでしまったのか、それとも、「君」がそれを望んでいたのか・・・。
「僕」が「君」を食べる夢の記述(正確には、彼女を食べる夢とあった)とともに、2つの人格の存在がとても気になる。

これまでこのブログで取り扱ったの事例がそうだったように、彼女にも強い孤立感を感じる。ただ、他の事例と違って、家族や社会に対する憎悪はそれほど強くない気がする。その点に、彼女の心理を解く鍵があるように思う。

孤立感は、社会的なモラルや人間的な優しさを薄めてしまうのだろう。強烈な孤立感と、自身の存在を定義できない苦悩は、本人が優秀であればなお辛いものなのだろうが、その中で共感者を求め、たどり着いたのが毒殺者グレアム・ヤングというのは皮肉な結果だ。

科学は分野を問わず冷徹なものだ。多々ある分野の中で、化学そして、毒を選んでしまった理由は、おそらく、例の孤立感と社会に対する漠然とした対立感なのではないだろうか。

彼女は共感者と同化しようとしたのか?
それとも、孤立感と虚無感の中で漠然と抱いていた攻撃性を、分離した別の自分として具現化してしまったのか?

そもそも、彼女が本当にその人物なのだろうか?

どこかに奇妙な乖離感のある事件だ。
いまさらヤングが蘇るばずもないのだが、そんなことさえ感じさせられる。

自殺志願者殺人事件について

2005年08月06日 23時40分34秒 | 暗い事件について
こういうのはどう考えたらいいのだろう?

死にたい人に死を与えること。やっぱり罪なのだろうか?
死にたかった人は、殺されて救われたのだろうか?
彼女は自分の望んだ結果として、それを受け入れられたのだろうか?
そもそも、我々には自らの人生をクィットする権利はないのだろうか?

生死の問題はどこまでも難しい。
それなのに真剣に悩む人を利用しての殺人は、酷く残酷に思える。

深く暗い闇のそこから沸いてくるような欲望は、力が強い。
人の心はもろいものだから、こういう強い力を抑えるのが難しい。
昔から「悪魔」や「魔物」に喩えられ、恐れられるのがこういう部分だ。
これも人の心の一部、もしかしらこれこそが本来の人の姿かもしれない。
人類は、地球上で最も残虐で獰猛な生物は、楽しみのために仲間をも虐殺する。

多少の差はあるにしろ、我々の中に獰猛で残虐な感性が埋もれているのは確かだ。
人の持つそういう部分から目をそらしてはいけない。
こういう時代こそ、人を美しい存在と思ってはいけないのかもしれない。

その昔の心ある時代を取り戻すために、何をするべきなのだろう?
せめて犯罪を鏡にして、優しさを取り戻せないものだろうか。

教室に爆弾が投げ込まれた事件について

2005年06月27日 22時18分32秒 | 暗い事件について
いまさらこの時期にコメントでもなのだか、自分なりに整理がついたので記事にしてみた。

子供の頃、同じように花火から爆弾を作って遊んでいた子がいた。彼らは別に誰かに投げつけようとは思っていなかったようだが、ある程度簡単に出来るものだったようだ。だから、特に爆弾の内容について驚きはしなかった。花火の火薬程度では、相当な量で無い限り大した爆発は期待できないので、当然何かを入れるという発想も出でくるし、釘というのはいかにも入手しやすいうってつけの材料だ。

この事件では、動機も理解しやすい。「いじめられての復讐」というのは理解しやすい。但し、対象となる相手がクラス単位になっている点が問題だと思う。

「いじめ」には、中心的な実行者がいるものだと思っていたが、そうでない状況が今はあるのだろうか?
 もし、あるとしたら誰も疑問を感じないまま、弱いものいじめをするのが、当たり前ということなのか?

資本主義の自由競争社会では、弱者は切り捨てられるものという社会感性が、親を通して植え付けられているかのようで、恐ろしい状況だ。

 別の見方をすると、犯行に及んだ少年の感性、或いは、モラル感に疑問を感じずにはいられなかった。
犯罪は、当然常識的なものではないが、昨今流行のオタク文化的な、極めて主観的な発想がそこから感じ取れるからだ。その昔、オタクと言う言葉が使われ始めた頃、彼らはよく自虐的に己を卑下し、わがままな行動や発想、意見を述べ、周辺の人々と一線を画すポーズをとっていた。しかし、最近の流れでは、自己中心的な発想は当たり前で、それに対して一切疑問も持たない連中が多い。さらにやるせないのは、他人に対して攻撃的な点だ。主観的発想から敵視した相手に対して攻撃的になる。この時点で既に正常な状態ではない。しかし、現実にこういう感覚の青年達の実に多いこと。モラルの欠如以上に、心の貧しさを感じる。

いつかの少女監禁犯のような、あまりに稚拙で独りよがりの世界観が、あたかも正当なもののように、彼らの世代の感性の柱になっているような気がしてならない。

モラルの喪失は指摘され続けているが、根っこは何処にあるのだろう?
僕らを含め、彼らの親や祖父母の世代が如何に無責任な世代だったかは、今の国の借金が証明している。

談合を黙認し私腹を肥やす官僚達、9割を無駄遣いする外郭団体の予算や会計報告を調査もしなかった監査体制、年金システムの壊滅的なダメージ、それをもってさらに非を認めないあつかましいエリート達の姿・・・・
これらがこの国の全てを表している。

この20~30年で我々は多くのものを失ってしまった。特にモラルの崩壊は目に見えぬところで進み、全ての人を蝕み、社会的な矛盾をより一層大きくしてしまった。

本来なら完成度の高い人格を持ちうる年寄り達、大いなる戦犯たるエリートを気取る方々、そして、我々のような子供のいる世代が、意識してモラルや人格の向上に努めないと、彼らのような子供達が本当に大切なものに気づかぬまま、同様の暴走を繰り返し、悲劇を生み続けることになる。

我々は、これまでの生き方を振り返り、子供達のために「心」を取り戻さなければならない。
形だけの正義ではなく、誰かの損得ではなく、真理・本質に関わる何かを求める心を。

ひょっとすると、今はルネッサンスのように、「古き良き何か」を取り戻すべき時代なのかもしれない。

死と殺戮を指向する流れ 

2005年04月26日 23時48分59秒 | 暗い事件について
絶望か、虚無感か、ともかく行き場のない思うを抱え込むと、人は自分の存在を破棄したがる。

共通して彼らは、「死」と向き合い、「自身の死」と重ねるように人の死に興味を持ったように思える。
自殺者は、自らの死へ指向し、社会への不条理や矛盾に怒りを抱くものは、殺戮へ指向する。
一見大きく異なる2つの行動は、結局、自らの存在を否定する行動からくるのではないかと考えている。

集団自殺、弱者への残虐な攻撃、無差別の殺人、これらが同じ起源だとするならば、その要因を取り除けないのだろうか?

失望や虚無感を生むのは、いったい何なのか?
家族や社会は、どのようにして子供たちをそこから救うことができるのか?

子供の頃からよく死にたいと思っていた僕としては、正直なところ家族が必ずしも救いになるとは限らないと思う。むしろ、失望や虚無を加速することもある。ひどく落ち込んだときは、人がそばに居ること自体がとても重たい。僕自身の経験では、できれば誰とも関わりたくないと思うことが多かった。

結局、僕を支えていたのはなんだったのか?

馬鹿げたことに、単に義務感だったのかもしれない。そんなものが残っていること自体が不思議なのだが、いつも最後には、妙な義務感だけが支えになっていた気がする。

誰かとの約束を果たすとか、頼まれていた仕事を全うしようとか、およそ虚無感の中で見出せっこない感覚のはずなのに・・・・「やるべきことがある」と思うことで、自分自身に価値を与えていたのだろう。

では、本当に将来に失望した人たちにどうやって自身の価値を見出させたらよいのだろうか?

そもそも、彼らは何故、何に対して絶望するのだろう?
漠然と何もかも虚しくなってしまうあの感覚は、いったいどこから生まれてくるのだろうか?

ある種の悪魔のようなものなのかも知れない。

またしても「虚無」の影(東大阪の少年の事件)

2005年04月23日 13時55分31秒 | 暗い事件について
また、悲しい事件になってしまった。

被害者には申し訳ないけれど、彼の行動にある程度のブレーキが掛かってくれたことを幸運に思う。

受験がきっかけかどうかは分からないが、希望や将来展望を失っていたのは確かだと思う。

「虚無に捕らえられた者」は、建設的・創造的にはなれない。自分自身に存在価値も見出せない。
その中で彼らは、自己を放棄し、攻撃的な行動をとる。自暴自棄、全てを終わりにしたい思い。その場合、彼らの敵は社会全体であり、その社会に大切にされている「何か」は憎むべき存在になるということなのだ。

「全てを終わりにしたい」という思いは、自殺者とも共通するものだ。(偶然にも有名人が自殺したニュースも流れているが・・・)
自殺者との違いは、攻撃の方向性だけだ。内に向くか、外へ向くかの違い。それだけだ。

今回も、目的や希望を失って自分の存在を放棄しようとする、社会全体を敵視している様子がありありと感じ取れる。

家族の問題なのか、受験の問題なのか、社会の問題なのか、全て複合した問題なのか?
大手の新聞も今のところ経過を大きく取り上げていないが、このケースは経過を詳細に報道すべきだ。

最後の工程でブレーキが掛かっている点から、彼がまだ正常に思考できる範囲内に留まっている可能性が高い。それなら、彼の心の内が出てくるはずだ。
「心の動き」がこの事件の本質だあり、多くの人々に知らせることが、この手の事件を防ぐ最も有効な手段になるはずだから。

虚無に落ちていく人々、特に子供たちを救うために、「ひとごと」にして聞き流してはいけない。
多くの人たちが、親たちが、自分自身に問い掛けることが必要だと思う。