凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも長屋王の変がなかったら

2006年10月20日 | 歴史「if」
 前回に書いた高市天皇、長屋親王のことであるが、もしも本当に高市皇子が即位していたとすれば、その長男の長屋はピカイチの皇位継承候補であるはずである。
 正史によれば、天武天皇の後は皇后であった鵜野皇女が持統天皇となって継ぐ。この持統即位は、彼女の孫(天皇になれなかった草壁皇子の子)である軽皇子を将来皇位に就けるための「つなぎ」の意味合いが濃いとも思われる。なので当然次期皇太子には軽皇子でなければならない。
 しかし、高市皇子が亡くなった後に、皇太子決定の会議が皇親で開かれたことになっている。これは何故だろうか。
 考えるに、高市は譲位の際に条件付ではなかったのだろうか。持統天皇の圧力から譲位はしたものの、すんなりと軽皇子立太子には賛成しなかったのではないか。持統は高市より約10歳年長である。もしも持統が先に崩御すれば、まだ自分、或いは自分の系譜に皇位を持ってくることが可能かもしれない。なので軽皇子立太子は留保させていたのではないか。
 だが高市は持統より先に死ぬ。これには暗殺説もあるのだが、これによって重石が取れた状況になったのかもしれない。これですんなり軽皇子立太子と持統はいきたかったのであろうが、やはりこの無理な皇位継承には反発も多かったのだろう。当然高市の遺児長屋もいれば、高市の兄弟たちも脂の乗り切った時期である。正史にはこの会議は書かれていないが、「懐風藻」にはその会議の模様が記されている。
 それによると、高市の異母弟である弓削皇子が兄弟相続を主張した際に葛野王が弓削を一喝したと言われる。理由は「兄弟相続は争いのもとであり直系相続が正しい」と。
 考えてみればおかしな話ではある。当時の天皇は持統であるはずで、持統の兄弟相続を論議しているのではない。これはやはり高市を指している。それに、当の葛野王というのは、天智の孫、大友皇子(弘文天皇)の遺児である。本来ならば天皇直系のはずで、天智と天武の兄弟争いの末に自分は路線から外れてしまった人物。その彼が「兄弟相続はいけない」と言うのは巨大な皮肉にしか聞こえない(その皮肉に説得力があるのだが)。
 そして、何故この皇親会議の席に葛野王が居るのか。本来であれば参加資格など無いはずであるのに。

 しかしながら、葛野王が直系相続を主張し、軽皇子立太子としたのは、後に大きな意味を持ってくる。
 これはつまり、草壁→文武(軽皇子)→聖武と続く、天武と持統の直系にしか皇位は認めないという宣言でもある。今で言えばその系譜以外に「宮家」を認めないという立場になる。多くの皇子を残した天武天皇であるが、その中の一系統しか皇位に就けない。
 しかしひとつの血筋の直系だけで繋ぎ他の傍系を排除すると、子孫が絶える可能性が高まる。これはその危険性を内包した、天武系先細り宣言でもある。
 これを天智の直系孫が主導したというところに、巨大なプログラムの開始が読み取れるのではないか。これは天武朝滅亡への第一歩となる。そして、このプログラムを描いた人物の影が葛野王、そして持統天皇の背後に見えてくる。
 もちろんそれは藤原不比等であると僕は考えている。
 持統、葛野、そして不比等の上の世代は、もちろん最強タッグだった中大兄皇子と中臣鎌足。彼らはかつて蘇我氏を倒して権力を手中にした。しかしその権力構造は二人が亡くなった後に大海人皇子(天武)に奪われてしまう。不比等そして天智の遺児たちは、この天武朝を最終的に壊滅させるために、気の長い大枠をはめたのだ。これは、現在武力に訴えることの出来ない、天武朝に追いやられた百済系の巨大な意志を背景にしているとも僕には思えるのだが、それはひとまず措く。

 さて、この先細りプログラムの大枠を確定した段階で、陰謀(と書いていいのか迷うが)は次の段階へと進む。そのひとつは藤原氏による先細り系譜への自らの「血の混入」による権力掌握。そしてもうひとつは、他の天武傍系皇子の粛清である。
 その最初の事例は「大津皇子事件」であったかもしれないのだが、プログラム確定後にまず手がつけられるのは「長屋王の変」だった。

 軽皇子立太子のあとの歴史は比較的穏便に進む。不比等はその権力を徐々に増大させた。その功績は、大宝律令の制定である。これにより日本という国家が成立したとも言える。朝廷による支配・統治が完全になったとも言えるからだ。この律令制は結局は明治まで続く。細々とではあるが幕府の時代も生き延びた。驚異的な生命力と言える。江戸時代でさえ越前守とか前中納言とかが幅を利かせた。現代でも、ついこの間まで大蔵省とかがあったなあ。ありゃこの時期に作られた律令制である。
 また、影の部分では日本書紀の制定も大きい。これにより「万系一世」の神聖にして侵されることのない天皇制度を作り上げた。この万系一世の神勅は先細りプログラムの正当化から始まったものだと思うが、この裏づけとして編まれた日本書紀の呪縛は天皇制が残る現在も生きていると言える。僕はよく「不比等の魔法」と表現するが、これほど千何百年も日本人を呪縛しているこの不比等が編み上げた政治体制と宗教性はもはや魔法としか呼べない。日本史上最大の政治家ではなかったか。
 さて、この大政治家はこうして自らが作った律令制の中で権力を握っていくが、その側面で天武朝に藤の蔓の如く巻きつき始める。軽皇子(文武天皇)に自らの娘(宮子)を入内させ後の聖武天皇の外戚となる。そしてその聖武にはまた自らの娘光明子を送り込む。徹底している。
 こうして着々と地位を築いた不比等であったが、正二位・右大臣として人臣を極めて63歳で死ぬ。
 その後に、あの高市皇子(天皇?)の長男である長屋王が頭角をあらわしてくる。

 長屋王は天皇の血筋(高市天皇はともかく天武の長男の子ではある)であり母は御名部皇女(天智の娘であり持統の異母妹)である。血統がいい。それにもしも高市天皇が存したとすればそれは折り紙つきの存在となる。
 不比等も長屋王を警戒し、娘(長蛾子)と娶わせていた。懐柔しようとしていたのだろう。不比等は政治的に動き、強硬手段はさほど用いていない。しかし不比等には四人の息子が居たが、不比等が没したときは、息子たちはまだ若かった。したがい、すんなり権力の移譲とはいかず、その間隙をぬって長屋王が台頭することになった。
 長屋王は有能であったのだろうと思う。これがボンクラであれば放置してもいいのだろうが、そうでなかったことが不幸とも言える。さらに、妃は草壁の娘吉備内親王で、文武、元正天皇と兄弟である。瞬く間に長屋は大納言から右大臣、さらに左大臣となった。長屋内閣である。
 天皇はこの時、元正。あの苦労して立太子し即位させた文武(軽皇子)は早世し、その文武の遺児である首皇子(後の聖武天皇)は幼く、持統の時と同じような状況になっている。文武崩御の後、その母である阿閉皇女が元明天皇として起ち、それでもまだ首皇子が若いので娘の氷高皇女(元正天皇)に譲位した。この不自然な皇位継承状況から、長屋王待望論も出てくる。長屋は妹(吉備内親王)の夫であり従兄弟にあたる。
 これは不比等亡き後の藤原氏には忌々しきことであっただろう。また、長屋王は親新羅的な態度も見せていて、コントロールの効かない存在になっていたかとも思える。
 長屋王が昇進するのはしょうがない。しかし、権勢を振るったとも言われるのは惜しい。本来はどうであったかはわからないが、藤原氏に敵対するような動きをしたのは事実のようだ。聖武天皇は即位した際、母である藤原宮子夫人に大夫人の尊号を贈ろうとしたのだが、長屋の反対で勅を撤回させられている。藤原氏牽制の意味もあるだろうが、長屋の言う事は正論なのである。このことで藤原四兄弟との対立が明らかになったとも言われる。
 藤原氏としては、光明子を皇后にしたい。しかし長屋健在であればそれは通らないことであろう。皇族でない臣が立后するなどあり得ない。
 ついに藤原四兄弟は粛清に乗り出す。「長屋は密かに左道を学んで国家を傾けようとしている」との密告を受けて邸を軍勢で囲む。おそらく讒言であったのだろう。そして糾弾の結果長屋王は自殺に追い込まれる。

 長屋王は皇位を狙っていたのか。それはわからない。しかし対抗勢力の旗頭に十分なり得る人物であった。もう少し情勢をよく見ていたらこんなことにはならなかったのかもしれない。しかし長屋王は藤原氏によって危険人物と見なされてしまった。
 こういう事件がおこらずもう少し穏便に歴史が進行していたら、あるいはこの後に続く「血の粛清」は起こらなかったかもしれない。歴史はどんどん危うい方向に動き、「血塗られた奈良時代」となってしまうのである。
 この後、この長屋王の変を起こした首謀者である藤原四兄弟があいついで死去するという異常事態が発生する。これは天然痘であるといわれているが、当時の人間は「祟り」であると認識した。
 これ以降、藤原氏も弱体化する。天武の子孫はまだまだ居る。祟り怖さにもう皇族には手が出せなくなるかと思えばそうではなかった。弱体化した藤原氏は、ここに至って畏れを知らない鬼っ子を生み出す。それは、藤原仲麻呂である。
 この仲麻呂の台頭には、長屋の祟りで死んだ四兄弟による藤原弱体化の切り札としての意味がある。これにより粛清の嵐が吹き荒れるのであるが、それは次回




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2 コメント

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ありゃりゃ (jasmintea)
2006-10-21 14:45:44
ごめんなさい!最近どうも凛太郎さんと気が合ってるみたいでまた同じような内容をupしてしまいました。

つい、記述を発見したのが嬉しくて書いてしまったんですよね…。

また小説の話で恐縮ですが高市に毒を盛ったのは但馬で不比等の差し金だった、ってのがありましてこれも面白かったです。



長屋は皇位を狙ってたかはわかりませんが「皇親政治」を狙っていたのは確かだと思います。

その一環の発言が例の宮子のことですよね。



今日の記事を拝読して長屋の死の意味、それがどう次の時代につながっていくかがバッチリ理解できました。

今度は仲麻呂ですね♪鬼っ子の話を楽しみにしています。

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>jasminteaさん  (凛太郎)
2006-10-22 08:10:46
高市は暗殺されたのか? これは本当に霧の向こうですが、これ以上長じられても困ったことになったでしょうね。いいタイミングで亡くなられてしまったことになります。

長屋王についてもどう解釈していいか難しいですが、「ひとつ箍が外れてしまった」とは言える様に思います。正史に残らないような消し方、というのは古来いろいろあったかもしれませんが(高市もそうだったかも)、ああも堂々とやるとは。不比等であればもう少しうまくやったのではないかと思うのですが。あまりに無法ですよね。

その外れた箍を長屋王本人が怨霊化して締め直す。さすれば、もう仲麻呂のような人物が出てこざるを得ないのではないかとも思えるのです。

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