凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも鎌倉仏教が興らなかったら 2

2008年04月16日 | 歴史「if」
 前回の続き。

○もしも道元が長生きしていれば
 鎌倉仏教と呼ばれる様々な宗派は多種多様である。仏教というものは釈迦が説いたただひとつの教えであったはずだと素人には思えるのだが、何故にこうも分かれるのか。その答えはひとつではないし、大乗仏教が日本に最初に伝えられた時点でそれは既に救済を求める宗教となっていたと言えるかもしれないのだから、解脱を説く哲学であった釈迦の教えとは多少の趣きが変わっていたとも言える。
 その中で、道元が開宗した曹洞宗は、本来の釈迦の思想に近いように素人には思える。道元の仏性についての考え方は単純なようで実に奥深く、今日分かったと思っても翌日にはよく分からなくなってしまったりする僕なので全然当てにはならないのだけれども。坐禅を組んで考えないとやはり無理か。
 禅宗は、比叡山延暦寺にももちろん存在したし、道元よりも以前に栄西が臨済宗を開宗している。道元は天台教学を修めた後比叡山を出、建仁寺(臨済宗)に入る。栄西から見れば孫弟子に相当する。宋に渡り天童山で如浄に師事して帰国、曹洞宗(当時はそう道元は名乗らなかったが)を開宗することになる。
 鎌倉仏教の特色として、教科書的に言えば「易行・選択・専修」が挙げられる。寺に入って修行するのがそれまでの仏教であるが、武士や庶民はそんなことは出来ない。庶民は寺も建てられないし学問もやれない。よって誰でも出来る易行を説いた。修行ではなくひとつの道を選び取り(選択)、ひたすらその道を進む(専修)。これによって、大衆にも道が開けた。
 道元は「只管打坐」を説いた。ひたすら坐禅をするのである。これもある意味「易行・選択・専修」である。臨済禅は公案を用いるが(いわゆる禅問答)、曹洞宗はともかく坐禅。釈迦が解脱について考え続けた瞑想と、既に仏性がある道元の坐禅とは違うのかもしれないが、共通項もある(悉有仏性について、如来蔵思想や本覚思想ともまた違うように思えるが僕も分かっていない)。
 道元は京都で布教し、また後年は福井の永平寺を拠点として、鎌倉でも教化活動を行ったが、残念ながら54歳で死去する。法然が80歳、親鸞が90歳まで永らえたことを考えると、いかに早熟であったとはいえあまりにも早すぎる死だった。ただ、このことが今に至っても曹洞宗が隆盛しているひとつの要因であるとも思えるのである。それは何故か。
 道元は求道者であり、宋の如浄の戒めに従い権力者との結びつきは拒絶していた。臨済宗が鎌倉幕府の庇護を得て五山十刹制度の中核となっていったのに比して、あくまで大衆のものであろうとしていた。北条時頼が一寺を寄進しようとしたのを固辞し、永平寺領の寄進状を受け取り衆中に触れまわった(とされる)弟子の玄明を破門、彼の坐禅の席下の土を七尺も掘って取り除いたと言われる。伝説であるかもしれないが高潔すぎる人物像である。
 この迎合しない姿からも想像出来るように、純粋すぎた。このためごく限られた人物しか理解し得ず、早くに亡くなってしまったことから教団の進む道が安定しなかった。分派、合派があり、騒動宗などと言われたこともある。結局道元の遺風を継ぐ保守派と、民衆教化のために大伽藍を建造し布教活動を推し進めようとする改革派の争いであり、三代相論と呼ばれる。結果改革派の三世義介が永平寺を出ることになるが、この義介が加賀に大乗寺を開き独立、こちらの改革派が隆盛して永平寺側は衰退していくことになる。改革派から後に瑩山紹瑾が出て、祈祷なども取り入れ民間禅として栄えることになる。
 道元が法然や親鸞並みに長生きしていれば、おそらく三代相論はおこらなかったと考えられ、純粋な只管打坐の教えがまだ続いただろう。しかしそうであれば、現在約15000の日本一の寺院数を誇り800万の檀信徒を擁する大宗団曹洞宗は在り得たか、と考えるとまた難しい問題となるのだ。

○もしも日蓮が討たれていたら
 法華宗は日蓮が宗祖である。この法華宗の開宗にあたっては、ほぼ日蓮のスタンドプレーで行われた。千葉の漁村で生まれたと言われる日蓮は、幼少時より寺に入り後出家、約二十歳で比叡山に登り学ぶ。日蓮は研鑽を続け、法華経(妙法蓮華経)こそ釈迦の教学の本道であるという結論に達した。
 そもそも比叡山の天台教学は法華経を円教とし、中心教学である。だが最澄は他に戒律、禅、密教も重視し、後に浄土教も含め総合大学的様相を呈している。しかし日蓮は、法華経以外は全て邪教であるとして認めず、自らを末法の世に出現するとされる法華経の行者、上行菩薩の再誕として布教活動を始める。その方式は、「南無妙法蓮華経」と法華経のタイトルを唱えることである。これもやはり「易行・選択・専修」である。ひたすら題目を唱える。
 日蓮、そして法華経の説く、釈迦は久遠実成の存在であり、菩提樹の下で悟りを開く前から既に仏陀であったということ、そして信仰を持つもの全てに成仏が約束されるという教義は理解出来る。しかし、それが題目を唱えることによって成就するのだということまではまだ僕には勉強不足でよく分かっていない。
 日蓮の激しさは、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という四箇格言によってよく表現される。他宗を批判し、自ら辻説法を行いとにかく法華経を信じよと「折伏」に励む。対義語の「摂受」が穏やかに説得するやり方に対し、折伏は激しい。これが当然他宗を信仰する層から反発を食うのは自明のことで、日蓮は何度も生死の境目を潜ることになる。
 時は末法と言われ、日蓮が布教活動を展開する13世紀後半は飢饉、地震など天災が相次ぎ疫病も蔓延していた。日蓮は「立正安国論」を著して北条時頼に提出した。邪教がはびこることがこれら天災の原因であり、このままでは内乱、侵略が起こると。その後も天災が続き、朝廷の持明院統と大覚寺統の対立、さらに北条家の内紛(北条時宗と時輔の対立等)、そして元の使者による臣従の牒状などから、予言が的中したとみなされ支持者の数が急増した。
 反発勢力は当然黙ってはいない。時代は前後するが、この間に日蓮は「四大法難」に代表される危険に遭い続ける。まずは草庵焼打。鎌倉の松葉谷に居を定めていた日蓮を反対勢力が襲撃した。日蓮によると数千人押し寄せたと言われるが、そこまでではなくともかなりの大人数の計画的襲撃であっただろう。当然武装していなかったはずの日蓮が、よくぞ生き延びたものと思われる。鎌倉は城塞都市であり逃げ場が少ない。何故討たれなかったのか全くのところ不思議である。
 逃げ延びた日蓮は再び鎌倉で辻説法を始める。が、伊豆へ流罪となる(伊豆法難)。これも岩礁に置き去りにされ、満潮に溺れんとするところを漁船に助けられたとされている。伝説でないとすれば相当に危ない。
 後に赦免された日蓮は、生地である千葉の小湊に帰るが、ここでかねてより対立していた念仏信者の地頭、東条景信が待伏せ襲撃をかけた(小松原法難)。
 この襲撃が事実とすれば、日蓮が生き残ったのは奇跡というしかない。武装していない日蓮一行が(10人ほどだったと言われる)、戦闘者である武士の攻撃(日蓮は数100人と記す)に晒され、矢を射られ斬りかかられて生き延びたのである。むろん日蓮は頭部に傷を負い腕を折られ、弟子一人(鏡忍坊日暁)は死亡、二人は重傷。駆けつけた支持者工藤吉隆他下僕は討死。史実とすれば凄い。武士団に待ち伏せされ囲まれて、僧侶一行が生き延びられるわけがない。工藤吉隆や弟子の鏡忍坊は相当の剛の者であったと思われる。鏡忍坊は松の木を引き抜き奮戦したと言われるが、本当なら武蔵坊弁慶以上だろう。
 この後、高名な龍口法難が起る。内管領平頼綱が日蓮を捕らえ斬首に処そうとしたが、まさに処刑のその時、暗闇に光明が走り太刀取りの目を眩ませ、兵たちは恐れおののき処刑が断念されたという事件である。
 あまりにも伝説めいてにわかには信じられないが、刑を敢行出来ない何かは起ったのだろう。結果日蓮は佐渡流罪に処される。
 こうした受難をことごとく撥ね返してきたことから当然支持者は増えていくことになり、法華宗は隆盛していくことになるのだが、この法華宗の弘教はやはり日蓮のカリスマ性とバイタリティーに因る部分がかなり大きい。もしも前述の法難により日蓮が絶えてしまうという事態になったとしたら。
 ことに、草庵焼打は立正安国論を提出して40日後の事件である。建白は北条時頼が無視した。ここで日蓮が討たれてしまったら、法統は果たして途絶えずに広まっただろうか。立正安国論は歴史に残っただろうか。
 この時点で、日昭、日朗、日興は既に弟子となっているがまだ日が浅い。日向、日頂、日持はまだ弟子入りしておらず後の六老僧と呼ばれる高僧たちは揃っていない。カリスマ日蓮無くしてこの時点での法華宗の未来は考えにくいのである。
 この状況は4年後の小松原法難でも変わっていない。そして小松原法難は生き残ったのが信じられない奇跡である。ここで日蓮が絶えることになっても客観的には全く不思議ではない。そして、日蓮の名を高らかしめる元寇はまだ後のこと。これより4年後に元の国書が届くのである。ここで日蓮が歴史から消えていたとしたら、法統が途絶える可能性が強いのではないか。
 現在では「南無妙法蓮華経」という題目は子供でも知っているし、法華宗の法統は各派に分かれて隆盛を極めている。法華系の新宗教も、創価学会をはじめ立正佼成会や霊友会など巨大なものが多い。創価学会は800万世帯を超えると言われ、折伏を旨とする日蓮以来の習いで海外にも信者を多く獲得し、公明党は政治のキャスティングボードを握る。これらの勢力がもしも無かったとすれば、という仮定はなかなか考えにくいのである。

次回、浄土教系仏教について。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もしも鎌倉仏教が興らなかっ... | トップ | もしも鎌倉仏教が興らなかっ... »

コメントを投稿

歴史「if」」カテゴリの最新記事