凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

夕陽を追いかけて

2014年03月31日 | 旅のアングル
 普段、日没などはほぼ気にして暮らしていない。だいたいは、日常生活の中のひとつの流れの中に埋没している見慣れた風景に過ぎない。ビルの向うに大きくなって沈む夕日をたまたまみて、ふと美しさを感じることはある。だが夕刻高速道路を西に向かいながら、まぶしくてたまらないギラギラした太陽を疎ましく感じる日もある。いずれにせよ、特別なものではない。
 ところが、旅に出るととたんにsunsetが素敵なものにかわる。旅とは日常を離れることなのだとつくづく感じる。

 自転車で旅をする場合、基本的に夜は走らない。知らない暗い道を走るのは危険を伴い、だいたい楽しくない。なので、日のあるうちにその日の走行は終えるようにする。
 しかしながら旅に出始めた最初の頃は、ペース配分がよくわかっていなかったのか、宿への到着時間が夕刻にかかってしまうことがあった。こういうときは、焦る。日が暮れれば、宿を探すのも一苦労になる。
 19歳の僕は、自転車で日本海側を北上していた。その日は新潟市泊りの予定で既に宿も予約していて、新潟市内には午後4時頃には着いた。
 家を出て5日目、着替えの予備が尽きていた。まだ時間も早く、街中にちょうどコインランドリーがあったので、洗濯をしてから宿に入ろうと思った。ところが、僕はコインランドリーというものを使用するのは、そのときが初めてだったのである。だいたい、実家暮らしのため洗濯というものもほとんどしたことがなかった。
 手間取っているうちに、時間が経ってしまった。ようようのことで洗濯機が回り始めたが、約40分かかると説明書に書いてある。えっそんなに時間がかかるのか。ふと外を見ると、少しづつではあるが日が傾いてきている。洗濯が終われば、乾燥させねばならない。今日風呂に入って履き替えるパンツもないのだ。乾燥機に洗濯物を入れ、最小時間でも10分。うわどうしよう。しかし自分の力ではもうどうしようもない。10分が経ち、なんだか生乾きのような気がしたがかまわずビニール袋に入れ、一路宿を目指した。海岸近くの日和山というところに、予約した宿がある。
 ところが焦ったのか、道を間違えてしまった。海岸をただ目指せば着くと思ったのだが、どうやら信濃川の東側を走っていたようだ。海岸は西側である。ところが、河口近くに川を渡る橋がない。
 今にして思えば、子供だったなとつくづく思う。オマエもっと落ち着けよ。19歳の経験浅いガキというものは、こういうものか。薄暗くなった頃、ようやく宿を見つけた。
 宿は、ほぼ海の家のような立地だった。ふと海を見れば、日本海の向うに佐渡島が大きく広がっている。そこへ、夕陽が沈む直前だった。
 なんと美しい夕陽だろうと思った。
 間抜けな状況でみた夕陽だったのだが、心を動かされた。新潟の人、日本海側に住む人にとっては見慣れた夕陽なのだろうけれども、盆地に生まれ育った僕にとっては、海に沈む夕陽というのはそのときが初めてだったのだ。紅色にみなもが染まり、ゴウと音を立てるように日が沈む。あまりにも、大きい。僕はカメラを向けることも忘れ、見入ってしまっていた。
 強烈に印象に残った。その後僕は日本海側に住むことになって、海に沈む夕陽を何度も見たけれども、そのときの感動を凌駕することがなかなか出来ずにいる。生乾きのパンツとともに、旅の思い出として鮮明に今も残る。

 TVなどの青春ドラマでは、若者は夕陽に向かって走る。演出としては古典的なものになっていて、今はパロディとしてしか使われないかもしれない。
 実際に、夕陽を追いかけて走った人はいるだろうか。僕は走ったことがある。
 以前に人力移動の旅3で書いた話だが、出雲→萩の行程約200kmを一日で走ったことがある。なんでそんなことをしたのかと言えばそれは書いたように実に粗忽なことなのだが、それだけではなく、自己挑戦的意味合いもあったらしい。
 らしい、というのは、昔の旅日記を見ているとどうもそんなことが書いてある。前日の日記。
 「朝5時発はムリ。YHの朝食は7時から。いくら早くても7時半発。向かい風。砂つぶて。アップダウンキビしい。これで、おれは落陽より早く走り抜けられるだろうか。でもやるんだ。ここで絶対に200kmを超えておきたい」
 まあ恥ずかしい文章だが(だって日記やもん 汗)、このあたり、少し記憶がある。
 それまでも旅の話題として「一日何km走るの?」とよく聞かれた。そんなときはまず「100km平均ですねー」と答える。これはそんなに間違っていない。一応その数字を目途にしている。ただそのあとたいてい「最高どれだけ走った?」と続けられる。
 どうして人はそんなことに興味があるのかよくわからないのだが、だいたいそう続く。僕はそういう記録的なことは意識していなかったので即答できない。多分距離が伸びるのは旅の初日だよなー。夜明けとともに家を出発するから。でも何kmだろう?
 こういう話のとき、他にサイクリストがいるとすぐに答えている。「230kmかな?」とか。それを聞いて女の子たちは「すごーい」とか言う。うーん、即物的に示せるのは距離なんだな。
 もちろん、僕は距離をかせぐために自転車に乗っているのではない。それはスポーツだろう。僕は旅行をしているつもり。なので、あちこち観光もする。寄り道多し。しかし世間のイメージとしては、ひたすら突き進むサイクリストの方がどうも格好いいらしい。
 ひとつの旅を終えて、家に帰って地図に載る数字で計算をしてみると、一日の最高距離は142kmしかなかった。旅の初日である。うーんそんなもんなのか。これでは「一日最高どれだけ走った?」の答えとしてはちょっと物足りない。やっぱり「すごーい」と言われたいじゃないですか。それには、200kmを超える必要がある。
 20歳のその旅の初日は、京都から兵庫県浜坂まで。張り切って走った。ところがこれが、182kmにしかならない。山を越えてゆくため、ルート的にしんどかったのである。うーん。どっかで200kmを超えなくては。
 そんなこんなの出雲~萩だったように記憶している。女の子を追いかけて走るのが一義だったかもしれないが、距離も一度出しておきたかった。

 ただ、これは結構大変な距離だった。山陰の海岸線というのは、結構リアス式なのである。道のアップダウンが実に多く、体力を消耗する。海岸線なので風も強い。
 その日は、ただひたすら走った。夏のことであり、暑さも敵である。そしてこれは、日没との戦いでもあった。何とか日のあるうちに到達したい。僕は、ずっと太陽を見ながら走り続けた。
 益田市あたりで、日が傾きだした。いかん。まだ萩には60kmくらいある。僕はずっと太陽を見ながら走った。そのため、日が徐々に赤く染まっていくその行程を見た。そんなこと初めてだった。ちょっと待ってくれ。昔平清盛が厳島神社を建築するときに日没を扇で防止したという逸話があるが、そんなことが出来るならやりたいと思った。道は、海岸線。目前に夕陽が沈む。それに向かって僕はひたすら走った。厳しかったが、夕陽に向かって走る青春ドラマを地でやっている気もそのときはしていた。気持ちも高揚した。アドレナリンが出ていたと思う。
 その夕陽が沈む風景は、実に美しかった。空の色も海の色も刻々と変わってゆく。それをずっと見ながら走ったことは、強い思い出となっている。結局間に合わなかったのだが、黄昏時、萩に到着した。
 この話は、先のリンクでも書いたとおりネタにしやすい。その後も僕は「一日最高どれだけ走ったことがあるの?」と問われ続けたが、「いやー旅行だから観光も寄り道もするしいつも移動は100kmくらいを目途にしてるよ。そうでないと面白くないし。けど一度だけ210km走ったことがあるんよ。何でかというとかわいい女の子を…」てな話をすると、たいていは「すごーい」と同時に笑いもとれる。実際は地図上で計算すると203kmくらいだったのだが、ゲタを履かせて210kmといつも言っていた。まあそのくらいは誤差としていいでしょう。
 ちなみに、現在はいろんなサイトがあって、二点間の距離など簡単に表示してくれる。試みにMapFanで測ってみると、なんと出雲の宿~萩の宿間は194kmしかない(笑)。これは、あれから30年経って初めて知る真実である。うーん、あのときは手持ちの地図に記載されていた距離を単純に足したつもりだったのだけど、何か間違いがあったか。しかし今さら訂正はできない。まあいいか。わはは。
 夕陽を追いかけて走った話を書こうと思ったのだが、何の話かわからなくなった。

 朝日も夕日も、風景としては似たようなものである。山際や水平線に太陽が接する時間帯。色合いも同じ。どちらも美しい。
 朝日にも思い出は多く、機会を改めて書きたいとは思うけれども、sunsetというのは、日が昇るときよりも何故か感傷を伴う。それは、一日のフィナーレということもあるし、そのあと漆黒の闇がやってくるから、ということもあるだろう。
 旅先で見る夕陽と都会で見る夕陽の何が違うのか、と言えば、その闇にかかわる部分もあるような気がする。街は、日が沈んでも明るい。なので感傷を伴いにくいのかもしれない。もちろん旅先が都会である場合も多く、人によっては地元のほうが暗い、という人もいるだろうから、あくまでこれは主観的なことではあるのだが。
 人によっては、都会の夕陽のほうが美しい、と言う。それは空気がクリアでないために、陽の光がいろいろな大気の汚れや塵に乱反射して想像を超えた色彩を生み出すことがある、と。
 確かに、紫色の西の空なんてのを見たことが何度もある。見方によってはあれは不気味なものであるが、美しいといえば美しいかもしれない。しかし僕にとっては旅先の夕陽を凌駕することはない。やはり、それを見る気持ちの問題もあるだろう。
 僕が見た夕陽の中でベスト5に入る光景を考えると、その中にある日の大阪南港の夕陽がどうしても入る。あれは、本当に美しかった。都会の、しかも「悲しい色」と言われる大阪湾に沈む陽なのに、どうしてあの日はあんなに美しく映えたのか。
 それは沖縄からの帰りのフェリーが接岸するときに見た夕陽だったからであるかもしれない。何十日かの長旅が今終わる。そのセンチメンタルな気持ちが、思い出とともにどっと押し寄せた結果、感動を呼んだのだろうと振り返れば思う。
 日が暮れる、という状況は、どこであっても同じなのだ。もちろんとりまく自然環境によって見え方は全然違うものであるし、だから夕日の名所というものが存在するのだが、やはり見る側の気持ちという部分も大きく影響することは否めない。

 思い出に残るいくつもの夕陽がある。
 例えば、与那国島の夕陽。この日本最西端の島で見た夕陽は、旅の者にとってはどうしても感動を伴う。この夕陽は、日本で一番最後に沈む夕陽。そして沈む先は、もう日本じゃないのだ。
 そうした付加価値もあって、さらに天候に恵まれ、海と空の色が刻々と変わってゆく光景を間近にしたあの日の夕陽を忘れることは出来ない。
 また、潮岬の夕陽。御前崎の夕陽。知床の夕陽。みんなで見たクッチャロ湖の夕陽。全てが、宝物として心の中にある。
 その中で一番を決めるのはまことに難しい話なのだが、僕は北海道の日本海側の町である羽幌から見た夕陽を、どうしても忘れることができない。

 最北端宗谷岬を目指した旅は、僕にとって最初の長旅だった。最初に書いた新潟の佐渡に沈む夕陽を見てからも僕は自転車を漕ぎ続け、北の端まで到達し、そしてその帰路だった。もう幾日かで旅も終わる。そんな中で、僕は羽幌という町で投宿した。
 その日は早いうちに宿に入り、風呂に入ってくつろいでいた。三々五々、いろんなところから旅人が集まってくる。談話室にギターが一本置いてあり、みんなで歌をうたったりして楽しく過ごしていた。
 外にいた誰かが叫んだ。「陽が沈むぞ!」と。
 夕陽か。見に行こうぜ。僕たちは外へ駆け出した。
 ここに来るまでも、いくつもの忘れがたい夕陽を見てきた。それらは決して色褪せない思い出である。そんな夕陽の記憶を反芻しつつ、宿の前の広場へと出た。宿は高台にあり、西側に海が広がっている。
 そこで見た夕陽は、ちょっと信じられないほど美しかった。
 羽幌の沖には、天売島と焼尻島という小さな島が浮かんでいる。羽幌からは並んで見えるのだが、その島の間にわずかに隙間がある。その短い水平線に向けて、太陽がじりじりと音をたてながら沈んでゆく光景が目前に広がった。
 太陽がなぜ沈むときに大きく見えるのか。それは、比べる対象物があるからだと聞く。真昼間の太陽と夕陽の大きさは全く変わらないはずなのに、何かが隣にあると普段は気付かないその大きさが実感できるのだという。
 島と島の間に沈む夕陽は、巨大だった。そして、真っ赤に染まっていた。その大きな夕陽が、じわりじわりと短い水平線に没してゆく。僕は、息を呑んだ。陽は半分隠れ、そしてそこからはスピードを上げるようにして、最後のひとかけらまで鮮明に輝きつつ沈んだ。あとには、夕映えが残った。
 まわりを見ると、泣いている人もいた。こんな夕陽は見たことがない、とみな口々に言った。僕らはそのまま立ち尽くしていた。徐々に、夜の帳があたりを覆ってきた。
 
 今までで見た最高の夕陽が、これだ。言葉ではなかなか書きつくせないが、今もその光景は鮮やかに脳裏によみがえる。
 それから何年も経って。
 僕は旅行で、再び羽幌へとやってきた。今度は妻が横にいる。時期も、あの日と同じ頃。これは狙ってきたのだ。ちょうど晴れてくれている。日没前に僕らはキャンプ場にテントを張り、そして高台に上った。
 同じように、あの日と同じように陽は島の間をめがけて沈んできた。これを見せたかったんだ。最高の夕陽を。
 わざと大きな前振りをせず連れてきたため、妻は感動してくれたようだ。こういうのは、共有したいじゃないですか。
 陽が落ちた後、二人で飲んだビールのうまかったことも記憶に残る。いつかまた行けるだろうか。そんなことを今ぼんやりと考えている。
 

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