凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも古事記が偽書でなかったなら 2

2009年12月13日 | 歴史「if」
 前回の記事において、古事記が偽書でなく上代より成立していた歴史書であったならば、疑問となる事柄があることを列記した。

 ①なぜ同時期の文献に現れないか。日本書紀は「一書に曰」と他文献を多く引用するが、古事記はどうして現れないのか。続日本紀は古事記成立をなぜ記載しなかったのか。
 ②古事記は、神代から始まり推古天皇で終わる。なぜここで終わるのか。序文は怪しいが一応荒唐無稽でもないとして、天武天皇期に勅がなされたとする。なぜ天武紀まで記さないのか。
 ③古事記は、推古朝までの記述はあるものの、実際は記述としては顕宗天皇で記事は終わっている。仁賢天皇以降は、淡々と系譜を記すのみである。見方によっては、古事記は未完成品である。なぜこのように中途半端な終わり方なのか。
 ④序文は偽作の可能性が高いが、なぜこのような内容なのか。太安万侶一人に編纂を託しているのはなぜか。稗田阿礼という人物を登場させたのはなぜか。
 ⑤なぜ二つの歴史書がほぼ同時期に、ほぼ同内容で存在したのか。

 これらについて考えてみたい。

 その「序文」は偽作の可能性が高いと前回考えたが、仮に多人長が書き上げたものだとして、人長がまさか夢に見た事を記したわけでもあるまい。なぜこのような内容にしたのかを考えなければならない。他の文献に記載がない以上、結局手がかりはこの序文と古事記本体しかないのだから。

 「古事記」序文は本文とは異なり漢文で書かれ、三段に分けられる。
 その第一段は、神代からのダイジェストである。混沌に始まり、神の系譜が語られ、ニニギが天孫降臨し、神武天皇が東征し、各天皇が善政を連ねる。崇神、成務、仁徳、允恭天皇の事績を見て取れる。
 第二段は、ほぼ天武天皇の話だ。前半は壬申の乱。非常に天武を顕彰する意気強く、スーパースターぶりが描かれている。殷の紂王を滅ぼし周を建てた武王になぞらえられており、正義の王朝交代であることを意識しているようにも見受けられる。そして戦を制し、即位することとなる。ここまで顕彰するか、と思われるほど天武を褒めてある(当然かもしれないが)。
 後半に至って、稗田阿礼登場である。天武は言う。「帝紀及本辭 既違正實」と。それぞれの氏族に伝わる帝紀(皇室の系譜伝承のことか?)と本辞(各氏族伝来の歴史書か?)は相当に間違い多く伝えられている。今ちゃんとしておかないと歴史が狂って伝えられるぞ。よって、よくよく調べ直して正しく伝えねばならない。そして天武は記憶力抜群の28歳の舎人稗田阿礼を召し、(正しい)帝皇日継(帝紀か?)と先代旧辞(本辞か?)を誦習させた。
 これは、なんで覚えさせたのだろうか。やまとことばを表記する文字がまだ確立されてなかったからだろうか。和語に天武は拘ったのか。それはともかく、稗田阿礼はそれを暗誦した。この時点で稗田阿礼は「人間古事記」である。だが、それが撰録されることがなかった。
 どうして撰録されなかったのか。この部分を序文は簡単に「然運移世異 未行其事矣(然れども運移り世異なりて未だ其の事行いたまはず)」と記すのみである。「運」は「とき」と通常訓される。運悪く、の運とはちょっと違うようだ。しかしこれだけでは事情が全く分からない。簡略化せねばならない事情があったのかもしれないが、もう少し詳しく記述してくれてもいいのに、と思う。阿礼の年齢とその英才ぶりまで詳しく記しているのに。それとも、このように抽象的に書かねばならない事情でもあったのか。
 第三段は、元明天皇の顕彰に始まる。素晴らしき天皇だ。この元明天皇が、旧辞(本辞か?)と先紀(帝紀か?)の誤りを惜しみ正さんと(結局天武の時代と変わっておらんのだな)、阿礼が覚えている(正しい)歴史を撰録せよと太安万侶に命じた。そして、安万侶が採録した、という次第が書かれる。
 後半は太安万侶の苦労譚である。和語を輸入物の漢字しかない日本でどう書くか。まだひらがなも何もない時代に。で、苦労の末何とか仕上げて三巻にまとめ献上した、ということである。
 
 帝紀だの帝皇日継だの先紀だの、また本辞だの先代旧辞だのと、これらは二つの伝承群なのか、統一されていないのでよく分からない。同じ文の中に書かれているのだから違う表記であればそれは違うもの、と考えるのが普通であると思うが、従来は同じものとしてとらえられているようだ。
 だが序文においては、帝紀・本辞は「間違って伝えられているもの」であり帝皇日継・先代旧辞は「正しいもの」である。そして先紀・旧辞はやっぱり間違ってるものだ。少なくとも序文においては、それぞれに異なりがある。
 なお、日本書紀には推古28年(620年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「天皇記」「国記」があったとされている。これを帝紀・旧辞に対応させる説もある。これは、乙巳の変の際に焼け、国記のみがなんとか助かったとの話もある。
 さかのぼれば日本書紀欽明天皇2年3月に「帝王本紀多有古字 撰集之人」との文言が見える。この帝王本紀とは帝紀なのか。結局よく分からない。
 そもそも帝紀や旧辞とは何か。既に現物がないわけで、結局全て推論でしかない。倉西裕子氏の「日本式紀伝体」説は傾聴に値すると思うけど。詳細は著作に譲るとして。

 さて、日本書紀には注目すべき記載がある。天武10年(681年)、「令記定帝妃及上古諸事」の文言がある。川嶋、忍壁皇子、その他に命じ帝紀・上古諸事(また違う言葉だ)を記させたと。「大嶋 子首親執筆以録焉」とあり執筆は中臣連大嶋、平群臣子首だったことが分かる。中臣大嶋が出てきた。この人は実によくわからない人物で、不比等との繋がりをいう梅原猛氏などもいるが、深入りはしない。この詔が、後の日本書紀へ発展したのではないかという説もある。書紀が出来る720年よりまだ40年も前の話なのだが。
 この書紀の記載。古事記序文には日付がないのでよく分からないが、天武が稗田阿礼に誦習させた時期とほぼ重なるのではないかと思われる。見方によれば、書紀と古事記が同時期に出発したとも読める。この同時性にはどうも頷けない。
 序文が偽作だとする僕の立場からすると、稗田阿礼という人物を創作して誦習の時期をここに合わせたのだろう、と考えたくなるが、この書紀の記載だって解せないのである。書紀が出来る40年も前で、そもそも天智の皇子である川島皇子を筆頭に置いているこの記載は。
 古事記序文は確かに後世の偽作であるとは思われるが、その元になった伝承はあったのではないか、とは考えている。いきなり架空の人物を創造して託したりはしまい。天武は、稗田阿礼一人を相手にしたかどうかはともかく、この時期何か国史の作成作業に入ったのだ。それを書紀は、川島皇子や中臣大嶋らの作業に置き換えたのだ、とすら考えている。
 いきなり飛躍してしまった。
 
 僕は以前、天智百済朝と天武新羅朝という記事を書いたことがある。これはちょっと題名が扇情的に過ぎると反省はしているが、乙巳の変を経て成立した天智政権が、白村江に破れ亡命百済人を多く抱え、それが国際情勢にも国内世論にも合致せず、天武が立ち上がり親百済的王朝を倒したのでは、という話である。
 通説によれば、壬申の乱を挟むもののこれは兄弟間の帝位移動(弘文天皇は措いて)であり、王朝交代ではないとされる。
 しかしこれは、王朝交代だったと僕はみている。書紀では天智と天武は兄弟とされているが、これを疑う説は多い。僕もその説に与している。古事記序文もそうはっきりは書かないものの、天武を周の武王になぞらえ王朝交代を暗喩している。
 その後の天武朝については、形式上は称徳天皇まで続く。しかし、事実上は天武の後、高市天皇が続くものの(発見された木簡「長屋親王」の文言から高市皇子は即位したと考えている)、その後は親百済政権を担った天智天皇・藤原鎌足の子である持統天皇・藤原不比等に牛耳られ、天武朝は傀儡と化した可能性があるとみている。そのことについての詳細は、もしも高市皇子が即位していたら以下連載し既に述べた。

 そういった自説を踏まえつつ、古事記の立脚位置を考えてみる。
 古事記は、上代特殊仮名遣からみて、和銅5年(712年)成立を遡る可能性がある。おそらく、天武10年(681年)あたりに据えるのが妥当ではないかと考える。この時期に、正史編纂の目的で古事記が編まれたとしたら。
 古事記は、天武朝の正史だったのではないか。

 国史編纂事業というものは、律令の制定と並んで国家事業の基盤だろうと推測される。同時期に(天武10年2月)、飛鳥浄御原令制定の詔が出ている。古事記と飛鳥浄御原令は対の存在だったのではないか。
 この飛鳥浄御原令は、完成しなかった。飛鳥浄御原令が公布されたのは持統称制3年(689年)6月。ただし、律は結局制定されず、令のみが公布された。つまり、未完成品である。通説では、皇太子草壁皇子の死で朝廷が動揺し、天武朝の継承を明示するために、未完成ながら令だけが唐突に公布されたのだとする。
 へんな話である。正史では以後も編纂が続いたことになっているが、結局701年に大宝律令が公布される。もちろん大宝律令は飛鳥浄御原令の発展系ととらえられているが、一応は別のものである。
 これは、飛鳥浄御原令の編纂が途中で打ち切られたのではないか。
 689年は、僕が考えるところの高市天皇の最終年である。翌年持統天皇が即位し、高市天皇は太上天皇(上皇)となる。天武朝親政は一旦ここで終止符が打たれ、以後持統朝と称すべき藤原氏が重鎮となる朝廷に代わる。飛鳥浄御原令は危機意識を持った高市天皇がそれこそ「天武朝の継承を明示」するために令のみを無理やり途中公布したものの、結局政権を奪われ、未完成で終わる。
 そして、天武朝の国史編纂事業もここでストップしてしまったのではないか。
 ③の疑問に言う、古事記が推古朝までの記述はあるものの、顕宗天皇で記事は終わり仁賢天皇以降は系譜を記すのみという「未完」の状態におかれたのもここに原因を見つけたい。いわゆる「帝紀」の部分である系譜は成立したものの、「旧辞」の部分である記事は顕宗天皇までしか編纂が出来なかったのではないか。
 そして、古事記は封印される。以後アンタッチャブルな書物となったのではないだろうか。持統・藤原朝は、天武朝と一線を画した新たな国家基盤の律令と国史作成に向けて、不比等が大宝律令を編纂し、同時に日本書紀の編纂も始める。

 古事記・飛鳥浄御原令は天武朝の事績であり、日本書紀・大宝律令は天智朝の流れを汲む持統朝の事績である。
 こう結論付けたいと考える。

 これらの上で、疑問点を考える。  
 ①の、なぜ日本書紀、続日本紀に古事記が現れないかという疑問も、古事記を封印したのだとすれば解ける。実際は編纂に古事記そのもの、また古事記編纂のための収集資料を参考にした部分もあっただろう。だが、後世に伝えるべき史書ではないために記載を止めたことは想像出来る。古事記の名を正史に残してはいけなかったのだ。
 そして②の、古事記の記載が推古朝までであることも分かる。推古朝以後は舒明朝へと移る。舒明天皇は天智天皇の父(書紀では天武の父ともされているが)。この「百済大寺」を造営し「百済宮」を造り、崩御の際は「百済の大殯」と言われた舒明天皇は、親百済朝の始まりであると考えている。舒明・天智が百済からの渡来人であったか、とまで大胆なことは言えないが、相当に百済に近しい系統でありここでも一種の王朝交代があった可能性もあるとみている。この舒明・天智朝を打ち倒したのが天武であり、歴史は推古朝で一旦区切られるのだ。
 その後の歴史は、天武朝からすればどのように記述すべきか迷う場面となったと想像される。二転三転の王朝であったことも考えられるが故に。もしも「続古事記」が後年成立したとすれば、ここからの歴史が天武朝の視点で語られたことだろう。だが「ふることのふみ」は一応、推古朝で区切られる。

 その後古事記はどういうふうに生き延びたのだろうか。
 「アンタッチャブル」と書いたが、焚書されてもおかしくはなかった。結果として古事記はその後、秘された。おそらくは、多(太)氏がひっそりと、世に憚りながら伝えたのではないか。
 多品治という人物がいる。壬申の乱において、天武(大海人皇子)が吉野から東国へ逃れる時、美濃国で最も早く兵を挙げ不破道を塞ぎ、天武を勝利に導いた大功臣である。その後も天武天皇に近臣として仕えた。
 古事記はこの多品治が、天武・高市朝が「然運移世異(運移り世異なりて)」となった時に、焚書・抹殺を恐れ秘した。そして多(太)氏一族で守り伝えたのではないかと想像する。
 それから100年以上も時が過ぎ、壬申の乱の記憶も薄れ天武・高市朝ももはや天智・持統・光仁・桓武朝に完全に呑み込まれ歴史の一部となった。その天智・持統朝の史書である日本書紀さえ、時代が下ると読むのに苦労を伴う有様であったと考えられる。
 平安初期に、貴族対象で日本書紀を解読し講義する会が設けられることになった。古事記を門外不出として伝えてきた多(太)氏一族の末裔である多人長は、その「書紀講筵」に博士として選任される。その千載一遇の機会に、多人長は古事記を日の当たる場所に出そうとしたのではと考えられる。
 講義記録にあたる「弘仁私記」の序文には、古事記のことが顕彰され記載されている。これが、古事記が文献に載る初出である。この時に、古事記は歴史上に現れる。そして人長は、秘本であった古事記に上表文の形をとった「序」を付ける。そこには、多(太)氏に継承されてきた伝承を盛り込む。ただし、現朝廷批判を避け、形を変えて。天武天皇を周の武王に擬すだけである。ただ、祖である多品治が活躍した壬申の乱については明確に顕彰する。
 実際は天武10年(681年)前後に古事記は編纂が始まったのだろう。だが、そこでは稗田阿礼が誦習したと記すにとどまり(日付明記せず)、その経過については「然運移世異 未行其事矣(然れども運移り世異なりて未だ其の事行いたまはず)」とだけ。これ以上は書けないはずである。そして、元明天皇の代に撰録の時期をずらす。
 和銅5年(712年)撰録という日付はどこから出たか。それは様々に考えられるが、少なくとも日本書紀よりは前の日付にせねばならない。続日本紀には、和銅7年(714年)の「詔從六位上紀朝臣清人 正八位下三宅臣藤麻呂 令撰國史」と記載がある。おそらくはここからの由来なのだ、と偽書説は言う。詳しくは大和岩雄氏「古事記成立考」(と書けば孫引きなので本来は友田吉之助「日本書紀成立の研究」)を参照してもらいたいが、弘仁私記序は暦法を書紀の紀年法とたがえた別の暦法を用いており、これによると和銅5年正月28日の古事記序と、和銅7年2月戊戌(10日)の続日本紀が完全に一致するという。詳細は実は僕もよく分かっていないのだが、一応それに賛同しておく。
 紀清人と三宅藤麻呂の国史撰とはまた何のことかは分からない。だが、古事記序はこの日付で撰録とした。この時期に該当する多(太)氏ということで、太安万侶という人物を人長が浮上させたのではないか。
 太安万侶はしたがって、古事記撰録には携わっていない。人長が設定した古事記撰録期の多(太)氏の氏長だったということだけではないだろうか。だから、墓誌には古事記のことが一行も記されてないのだ。

 ⑤の疑問である、古事記と日本書紀がほぼ同時期に歴史書として存在する謎は、つまり序文の記載によって古事記の撰録時期が遅らされたために生じたものである、と考える。古事記が、本来撰録作業が始まったのは、天武10年(681年)あたり、そして持統称制3年(689年)頃にその作業は終わった。ただし未完である、と考える。
 そして、④の疑問については、その序文の性格と日付上、太安万侶しか名を記すことが出来なかったのである。しかし、実際は太安万侶が撰録したわけではないと推察する。編纂はもっと前代だ。

 古事記は、天武朝の正史として編纂された。おそらく681年あたりがその出発点。ただし、その編纂作業は未完に終わった。689年あたりで中断した。それは、運移り世異なりて天武朝が終焉を迎え、持統・藤原朝が始まったからである。その後、古事記は多(太)氏によって秘本として伝承された。持統・藤原朝は古事記に替わる正史として720年、日本書紀を編んだ。古事記は忘れられた存在だったが、平安初期(弘仁年間)に多人長によって再び歴史上に現れた。

 以上のように結論付けたいと思う。

 ここで、最後に解けない疑問が残る。稗田阿礼とはどういう人物か。
 全く架空の人物ではないとは思う。多(太)氏の伝承に残った、おそらく古事記編纂の中心人物である。そして天武朝において「爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心」と称えられた聡明で記憶力抜群の人物で、681年頃に28歳。舎人。
 無論のこと日本書紀・続日本紀には全く姿を見せない。これは、墓誌などの新たな史料が見つかりでもしない限り絶対に判明しないだろう。
 一人だけ、681年頃にはおそらく朝廷に出仕していたとみられ(当時は多分まだ20歳代)、聡明の誉れ高く、しかも不思議なことに稗田阿礼と同様、正史に全く記載されていない人物を我々は知っている。それは、柿本人麻呂である。
 ただ、稗田阿礼=柿本人麻呂などということは全くのところ妄想に過ぎない。結局は、永遠の謎である。

 
 関連記事:
 もしも白村江で日本軍が勝っていたら
 もしも…番外編・天智百済朝と天武新羅朝
 もしも高市皇子が即位していたら
 もしも長屋王の変がなかったら
 もしも恵美押勝の乱が成功していたら
 もしも…番外編 奈良時代とは何か

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もしも古事記が偽書でなかっ... | トップ | 根田成一 「哀しみのバラード」 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
日本の古代史に興味があって (hayato)
2011-02-17 15:54:52
ぶらりと寄らせていただきました。文章とてもお上手ですね。思わず引き込まれて読んでしまいました。日本の古代史はどうしてもイデオロギーが絡んでくるので難しいのに「だからこそよく…」という御姿勢に感動いたしました。同意です。

柿本人麻呂ですか…あるかもしれない、面白いと思いました。書紀に比較して物語っぽいといわれるから、稗田阿礼は芸人だったのかなあと思っていたのですが、そこまで思いつきませんでした。とにかく、古事記はやはり反体制派だったかも知れませんね。新羅VS百済なんていうのもあるし。

私的には、高市の即位はなかったかなと、根拠は天武天皇の死後すぐに大津が謀反を着せられた(?)ので、持統天皇の即位は相当もめたのちの強引だったか(藤原京遷都)天皇が並列したか(日本書紀の隠ぺい)…ではないかと。またお話読ませてください。楽しみにしています。



返信する
>hayatoさん (凛太郎)
2011-02-19 08:32:01
ご丁寧にありがとうございます。
古代史を語るのは難しいですね。イデオロギーを語るつもりはもちろん全くないわけですが、そう受け取ってしまう人がいる。この時代は史料が実に少なく、だからこそ解釈次第で他の時代よりも自由に語れるはずなのですが、そういった理由でやはり言葉を選んでしまいます。
人麻呂については何の根拠も無く(汗)。人麻呂は宮廷歌人として多くの天皇・皇族賛歌および挽歌をうたいあげていますが、そのそれぞれの歌に、例えば人麻呂の政治的立場と異なる貴人に対する賛歌に苦渋の色でも浮かび上がっていれば面白いのですが、日本史上最大の歌人とも言われる天才人麻呂がそんなボロを出すはずもなく。
しかしながら、僕のような素人でも気が付くのは、高市皇子への挽歌は人麻呂作品で最も多く言葉を費やした長編であるということです。万葉集の中で最も長い歌。草壁皇子への挽歌よりも遥かに長い。もちろん、これをもって人麻呂は天武・高市朝寄りの人物であったとはもちろん言えないわけですけど。
それに、そもそも高市の即位があったかどうか(笑)。僕は、そうであれば辻褄が合うことがいくつもあるのでそういう説をとっていますが、もちろん穴もあります。この当時の即位、天皇位というものがどういう位置づけであったのか、ということも含めて、わからないことが多すぎましてねぇ。大津皇子の断罪には、積極的ではないにせよ高市皇子も絡んでいるのでは、と僕は思っているのですが、全く難しいところです。
ありがとうございました。またいろいろ教えてください。
返信する

コメントを投稿

歴史「if」」カテゴリの最新記事