凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも安政の大獄が無かったら

2009年06月15日 | 歴史「if」
 安政の大獄の直接の原因は「戊午の密勅」であろうと考えられる。だが、それは膨らみきった風船を刺す針と同じことであっただろう。それまでに積載された事象があった。
 少し整理してみる。
 前回書いたように、井伊直弼を中心とする勢力と水戸斉昭を中心とする勢力に、様々な対立軸があった。その中で、日米通商条約調印に関する開国・攘夷の問題と、幕府継嗣をめぐる南紀派と一橋派の問題を中心に状況を見てみる。時間は、ペリーによって日米和親条約が結ばれ、そしてアメリカからタウンゼント・ハリスがやってきて、米国総領事として今度は通商条約の調印を幕府に迫っている時である。
 もう和親条約の締結は終わっている。ここに及んで通商条約は、現実的にはもはや拒否出来ることでは無かった。ただ、この条約は実は関税自主権もない不平等条約であり、簡単に結んでもいいものでは無かったとも言える。しかし、アメリカの圧力はいかんともし難かった。戦争だけは避けたい。
 しかし反対論は多い。通商をすれば、日本に売る物資は無くただ一方的輸入に留まり日本がやせ細る、侵略の糸口になる、アヘン戦争の二の舞となるのでどうしても駄目だという攘夷論。
 さらに、もっと単純な反対論もある。和親条約は漂流民の救助や、さらには燃料、食料、水などの補給を要求するものであり、人道的にも納得がいき、さらには開いた港だけで事足りるために異国と付き合うという感覚が希薄だった。だが、通商条約となれば、異国ともっと深く付き合わざるを得なくなり、夷人が上陸し、神の国たる日本が穢されてしまう、という主張。攘夷の感覚とはそういうものだろうか。
 それらの反対論を抑えるためもあってか、幕府は朝廷の権威を借りようとする。天皇の勅許をもって通商条約を結び、反対派を押さえ込もうとしたのだ。
 幕府の権威もずいぶんと落ちたものだが、これが失敗の元であった。幕府首脳は、勅許など簡単に得られると思い込んでいたのだろうか。そして、政局は京都へ移る。朝廷にうんと言わせなくてはいけない。激動の安政五年が始まる。
 
 ここで「京都入説」なる行為が行われる。本来は朝廷への窓口は幕府一本に絞られており、幕府の使者以外が朝廷へ直接説諭工作をするのは御法度であるのだが、各有力者もこの時は大いに(建前上は秘密裏に)朝廷工作を行った。
 その朝廷工作における論点は、当然条約調印問題に絞られて然るべきであるのだが、ここにもうひとつの対立軸も登場する。それは前述した将軍後継者問題である。紀州家茂を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派。これも天皇の勅をもって解決しようとする動きが生じたため、京都入説は二つの論点を持つこととなってしまった。これが、糸を縺れに縺れさせる。
 整理してみる。
 まず、入説を受け入れる側の朝廷。これは、基本的には調印問題は否である。攘夷論が席巻している。もちろん中心たる孝明天皇が全く開国を受け入れていない。継嗣問題については白紙である。これは基本的に幕府の問題であって、朝廷が継嗣を決めるなどということはこの時点では考えていない。
 次に幕府。老中首座の堀田正睦が京都へ来た。つまり首相が直接説得にあたるわけであり、政局が京都へ移動したというのも大げさではない。堀田は「蘭癖」とも言われた開国論者である。そして、サブに川路聖謨と岩瀬忠震。両者とも幕府の外交官僚のエースだ。どんな細かな説明もこなす。基本的には調印に勅許を得るのが目的であり、継嗣問題にはあまり関わらない。
 ここからは、外野の京都入説である。
 彦根藩井伊直弼。この時点ではまだ大老ではなく譜代大名のトップである。国学者長野主膳を送り込む。論点は、調印問題は開国派であり幕府の説諭を助ける。継嗣問題では南紀派。関白九条尚忠に食い込む。
 越前藩松平春嶽。片腕である英才、橋本左内を送り込む。調印問題は開国派であり、幕府、彦根藩と同目的である。継嗣問題では一橋派。内大臣三条実万を筆頭に公卿多数、青蓮院宮など有力宮家にも食い込む。
 薩摩藩島津斉彬。調印問題には開国派であったが深く関わらず、継嗣問題に尽力する。一橋派。左大臣近衛忠煕の妻は島津家から来ていて、天璋院篤子は忠煕の養女になって後家定に輿入れしているため縁が深い。斉彬は書簡で入説し、西郷隆盛も送り込む。
 水戸藩徳川斉昭。調印問題は攘夷派であり、幕府と異にする。継嗣問題では当然実子である一橋派。前関白(太閤)鷹司政通は義兄(妻が斉昭の姉)にあたるが、それほどの強い食い込みは見せていない。
 京都在住の尊皇攘夷派。梅田雲浜や梁川星巌、頼三樹三郎ら。調印問題は当然攘夷、継嗣問題は一橋派。
 主なところはざっとこのくらいだろうか。
 入説の方向性、強弱は多少異なる。調印問題については、朝廷側は当時開国派は太閤鷹司政通くらい(後に変節する)でほぼ攘夷。取り付く島もないと考えた越前橋本左内は、ほぼ入説を継嗣問題に絞り、ほとんどの有力者を賄賂ではなく弁舌によって一橋派にしてしまう。幕府使者の川路聖謨も取り込んでしまう。これでほぼ南紀派は関白九条尚忠と武家伝奏くらいとなり内勅降下が具体化したが、その関白九条尚忠が土壇場で一人でこれを引っくり返す。この左内の敗北は、営業経験のある人なら辛さが分かるかと思うが(余計な話だな)。
 だが調印問題は関白九条尚忠ではどうにもならず、岩倉具視らが扇動して公卿88人の調印反対デモを起し、勅許ももちろん降りなかった。堀田正睦は悄然として江戸に帰ることになる。

 この後を時系列的に。
 4/27井伊直弼が大老となる。と、直弼は大目付土岐頼旨、勘定奉行川路聖謨、目付鵜殿長鋭、京都西町奉行浅野長祚を立て続けに左遷。皆阿部正弘に引き上げられた英才たちである。浅野長祚など何故左遷なのか全く分からない。掘割問題を引きずっているとしか思えず、直弼の公私混同振りが少し見える気がする。
 6/1継嗣内定の発表。ただ家茂決定とはまだ言わない。そして6/19条約調印。続いて内閣改造を行い、堀田正睦、松平忠固を罷免。後任にイエスマンを据える。違勅調印と継嗣問題で水戸斉昭、松平春嶽、尾張慶勝らが登城して直弼に抗議するも取り合わず、家茂を継嗣と発表する。さらに7月に入ると直ぐ、斉昭、春嶽、慶勝、一橋慶喜らを不時登城のことで謹慎、隠居などの処分とする。恐怖政治だ。同時に、将軍家定死去。
 一橋派並びに攘夷派は当然怒る。京都では水戸藩がついに暗躍し始める。越前、薩摩藩も動く。攘夷志士梅田雲浜らも動く。そしてついに、島津斉彬が兵を率いて上洛、というところまで来る。越前藩もまた呼応して出兵となる運びだった。
 もしもこれが実現していたら歴史は大きく変わったはずだ。
 おそらく兵力を背景に、幕政改革の勅が出ていたに違いない。さすれば、井伊直弼も独断専行は出来まい。同調する雄藩が続く可能性もある(土佐藩や佐賀藩、宇和島藩など)。そして、圧力によって幕政改革が行われる。それは橋本左内の構想通り、将軍家茂は変わらずとも後見職に一橋慶喜、大老に春嶽、斉昭、斉彬が国務大臣、佐賀藩鍋島閑叟が外務大臣。その他雄藩による内閣の誕生となった可能性が高い。そして幕府は左内の構想に沿って富国強兵の道へ邁進する。産業の近代化は、既に薩摩や佐賀藩に雛形がある。そして、いずれは統一国家へと進むことになっただろう。薩長による倒幕、明治維新より以前に近代化日本が誕生することも夢想とは切り捨てられない。
 だが、島津斉彬はこのクーデター直前、7/16に死ぬ。
 暗殺説が根強いが、このタイミングではそういう説も出るだろう。日本は変わり損ねた。
 この薩摩藩の上洛は、4年後に島津久光によって実現する。そして慶喜は将軍後見職、春嶽は政治総裁職(つまり大老みたいなものか)となった。左内の構想通りのようだが、この4年間で世の中は劇的に変わってしまっていた。時すでに遅し、と言えばいいのか。そもそも、4年後に橋本左内は居ない。そして幕府が自ら主導して維新を実現出来る程の力を相対的に失っていた。

 話がそれた。
 斉彬の死去を受け、武力を背景とした改革が頓挫したため、水戸藩は次の手を打つ。「戊午の密勅」の降下だ。8/8、水戸藩に勅諚が下賜される。幕府派の関白九条尚忠を外して事が運ばれたため、密勅と言われる。内容は、違勅による無断調印を責め、どういうことか説明せよ、そして攘夷に邁進せよ、公武合体を強化せよ、ということでさほど驚くようなものではない。例えば以仁王の令旨とは相当違う。しかも、同様の勅を2日後の8/10には幕府にも降下している。
 ただし、幕府の頭越しに水戸藩へ先に直接下賜したという所に問題があった。しかも、上記内容を水戸藩は諸藩に廻覧せよとの副書が付いていた。幕府としては面目丸潰れといったところだろう。
 井伊直弼は怒り、安政の大獄がスタートする。
 8/16新京都所司代酒井忠義が上洛のため出発。9/3老中間部詮勝が出発。間部が京都に着く前に、梅田雲浜が逮捕。直弼の懐刀長野主膳が摘発の主体となっている様子が伺える。そして、次々と逮捕、処分が続いていく。
 主だった処分対象者は以下。
 公卿側は、鷹司政通、輔煕、近衛忠煕、三条実万が辞官、謹慎、そして落飾。落飾とは出家だ。他、青蓮院宮の隠居永蟄居など多数。公卿家臣らも、飯泉喜内が死罪、小林良典が遠島など多数。水戸藩では家老安島帯刀が切腹、京都留守居役鵜飼吉左衛門、藩士茅根伊予之介が死罪。吉左衛門子息の幸吉は晒し首という苛烈さである。
 そして、京都での扇動者頼三樹三郎は死罪。梅田雲浜は獄死した。梁川星巌は逮捕前にコレラで死去。さらに、越前橋本左内、長州吉田松陰が死罪となる。西郷隆盛も逃げてなければ危なかった。勤皇僧月照と入水自殺を図り、西郷は蘇生したが公的にはこの時死んだことになっている。ので、助かった。藩の方で遠島。
 幕府内部でも、岩瀬忠震、永井尚志は禄を召し上げられ永蟄居。岩瀬は2年後に病死している。憤死だ。他にも幕臣に処分者多数。
 井伊直弼再評価論も知っている。だが、やはり独裁者と言わざるを得ない。足利義教に擬しては行き過ぎだろうか。

 橋本左内という若きリーダーの下、岩瀬忠震ら英明幕臣、江藤新平ら佐賀の秀才が並び立つオールスターキャストの新政府というものをやはり見てみたかった。個性派ばかりで衝突もあるだろうが、彼らが作る日本は、また大久保利通が作る日本とは一味違っただろう。惜しい。

 さて、吉田松陰である。松陰は、なんでこの大獄に連座したのか本当に分からない。処分者は主として一橋慶喜を擁立しようと実際に奔走した、井伊直弼の政敵(もっと突き詰めれば長野主膳の敵)ばかりである。ところが、松陰だけは少し毛色が違う。結局、梅田雲浜との関係を疑われ取調べを受け(なんせ黒船に乗って国外飛翔しようとした前科持ちだ)、その部分はシロだったものの、自分から別件の老中間部詮勝暗殺計画などを滔々と喋ってしまいクロ判決、斬首である。
 誘導尋問に乗ってしまったようなものであるが、口が滑らなければ松陰は生き延びていただろう。取調掛もまさかそんな計画など関知していなかったのだから。

 吉田松陰のifは山ほどあるのだが、新たに記事を書くよりもこの場で少し簡単に考えてみたい。何故かと言えば、逃げである。吉田松陰という人物が僕にはよく分からないのだ。難しすぎる。何冊本を読んでも分からない。そもそも何で、あの佐久間象山を師として、国禁を犯してまでアメリカやロシアに渡って先進技術を学ぼうとした人が、尊皇攘夷の巨魁とされるのか。それには水戸学から勉強しないと理解が及ばないと思われ、荷が重過ぎる。
 さて、吉田松陰が安政の大獄に連座しなかったとしたら。
 長州藩へ還れる可能性もあるが、それでも、良くて蟄居生活は免れまい。野山獄に再び収監されることも考えられ、松下村塾は閉鎖だろう。ただ、久坂玄瑞や高杉晋作との交流はずっと続くかと。普通に考えれば、長州過激尊皇攘夷派のリーダーとして君臨すると考えられる。
 しかし、だ。長州藩の尊攘派のその後の激流は、松陰の死をきっかけに成立したのではないのか、との考え方もしてみる。弟子が過激に走り出したのは松陰が処刑されて後のことである。それまでは比較的慎重で、松陰の「狂気」とは距離を置こうとしていた節もある。松陰の死、ということが起爆剤となり、久坂玄瑞がその狂気の部分を継承し、「松門党」のようなものが結成されていったのではないか。
 長井雅楽の「航海遠略策」にせよ、さほど松陰の主張と差異が見出せない。長井は松陰と仲が悪かったとされるが、松陰の大攘夷的思想と航海遠略策には多少の方法論の違いなどがあるかもしれないが、結局は同じことであり、さらに言えば航海遠略策の骨子は後の坂本龍馬の主張とも近く、さらには明治維新の富国強兵・殖産興業も筋道は同じである。つまり「正論」だった。これを葬ったのは、久坂以下の松門党である。
 久坂らは、航海遠略策の中に「謗詞」があるとして朝廷工作を行い、これを引っ込めさせる。しかし、その謗詞とは「昔を思い国威を五大州に振るうの大規模なかるべからず」という文言が、昔の国家朝廷と現在とを比較し誹謗しているという、いわば「言いがかり」みたいなものであり家康の「国家安康・君臣豊楽」のいちゃもんとさほど変わりはない。ここには、長井に対する怨恨のようなものが内包されているのではないか。長井は、松陰を庇うことなく幕府の松蔭江戸償還令を伝えた、松陰の仇。それが「藩論」である航海遠略策を葬り、長州藩に過激尊皇攘夷思想で突き進む道を選ばせ、ただ破約攘夷を唱え、唱えるだけでなく外国船に砲撃を加え、それが八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変、連合艦隊下関攻撃、第一次長州征伐と続き追い詰められて最終的に暴発して倒幕へと連なっていく。
 これらは、松陰の死によってその思想(死去した時点の過激思想)が神格化され一人歩きしてしまった結果であるような気もする。
 松陰はまだ若かった。変節という言葉は穏当ではないが、その考え方も徐々に変貌する様子が見て取れる。生きていれば、もう少しその考え方にも発展が見られたかもしれない。その晩年は倒幕論者となったが、松門党の思想が破約攘夷一辺倒のまま推移したかどうかは疑問だ。
 そして何よりこの流れの中で、長州藩の人材は次々と失われた。周布政之助、長井雅楽の両巨頭をはじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田彦麿、入江九一らも皆死んだ。木戸孝允はよくぞ生き残ったとも思うが、他は前原一誠や伊藤博文、井上馨や山県有朋らだけが残った。
 松陰の刑死によって、大きく運命が変わったということも考えられるのではないか。あくまで可能性ではあるが、また違った維新というものも浮かび上がってくるのである。大久保利通の独壇場だけではない明治政府というものが。

 ただ、明治政府の成立には、尊皇攘夷思想というものが強烈に関わってくる。尊皇攘夷無くして倒幕は在り得たか、というifを考えざるを得ない。だがそれを考えるには紙面が尽きた。文字制限もあるのでまた改めて書いてみたい。

 
 

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15 コメント

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Unknown ()
2010-01-23 11:40:02
小説家ではあるんですが、山岡荘八の「徳川慶喜」と「吉田松陰」が参考になるんじゃないでしょうか
自分がただの攘夷の首魁としてしか見なかった徳川斉昭に興味を持つきっかけとなった人です。
戦前の人なんで、天皇崇拝色が強いんですが、却ってそれが水戸学を基調とした異色の作品を描いています。
フィクションだというのは理解しています。
徳川家康に思い入れのあるアクの強い作家ですが、一つの史観と見れば面白いかと思われます
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>あ さん (凛太郎)
2010-01-24 19:02:37
山岡荘八は、昔むかーし(少年の頃ですね^^;)あの徳川家康を読んだだけで、それ以外は全く…。しかしながら、それだけの経験で申しますとおっしゃるとおりの作家さんだと思っています。
もういい歳なんで、歴史、特に人物像を考える際には残された手紙などの史料や当時の人たちの評価なんかを参考に自分で浮き上がらせたいとは思っていますが、山岡荘八も機会があれば読んでみたいと思います。ありがとうございました。
返信する
Unknown ()
2010-01-26 19:48:10
蛇足ですが、山岡荘八は明治ものをいくつか書いているんですが、この時期が一番アクが強いですね。
歴史小説という史実とフィクションがごっちゃになった所謂矛盾の産物は、いかなる視点で歴史を語るかに重点が置かれている気がします。
アクの強さはたぶん、天皇崇拝に禅知識までとりいれてごった煮に書くところにもあるでしょう。正直、現代人の自分には尊皇がわからないので違和感を感じてしまう。
ただ、天皇崇拝者である山岡荘八の目で幕末と尊皇を語っているのが架け橋の様で面白かった、という面があったので薦めました。
流石にここでも家康が大事な役割を果たすのはなんだかなあ、という感じはしますが
小説読んでると資料に当たりたいと思ったり、小説だからこれでいいんだと何とも半端な気持ちになります。

更に蛇足
・徳川慶喜
藤田東湖と西郷の掛け合いから始まり、徳川斉昭と松平忠固と井伊直弼、幕府と長州と薩摩、慶喜と薩摩、と軸が流れていく
当時最大の西洋通である徳川斉昭の尊皇攘夷思想が、いつの間にか、覇道の申し子、異端児とも言える大久保や岩倉らによって倒幕にすり代わったというストーリー
孝明天皇暗殺説、蜷川相模守の系譜から徳川家茂毒殺説とかも匂わしている

・吉田松陰
・高杉新作
吉田松陰からは至誠を、高杉晋作は若さを感じる。
和魂洋才という様に西洋の侵略性と西洋の技術力を別けた上で、日本という国柄を追っている様に思える
慶喜が権力と尊皇の狭間で苦しんでいたのに比べこちらは一直線。

・坂本龍馬
・明治天皇
二つともどうも書ききれなかった印象。両者が歴史的になにをなしたかは皆無。打ちきり臭が強い。

・小説太平洋戦争
たぶんこれが山岡荘八の本領。史実はともかく、明治生まれ、従軍作家、山岡荘八が見た太平洋戦争と言うものがよくわかる。
天皇を絶対とした上で理想を追い求めている感覚は伝わる。山岡には天皇が何々をしたから尊敬するに値しないって言ってもたぶん無意味。天皇とはかくあるべき、という感じで動いているのでそれが勤皇なのかなあと思ったり思わなかったり。
一応、天皇ぬきにしても悲壮さは伝わる、はず。

・織田信長
一番アクが少ない。巻数も五巻。大衆小説らしい大衆小説。爽快さだけで突き抜けていく。青年向き。山岡はこれから入るべきだと思うけど、徳川家康選んでふるい落とされる人が多いなあと思う。
返信する
>あ さん (凛太郎)
2010-01-26 22:47:55
うわぁこれはたくさんご紹介いただいてありがとうございます。
何とか長い人生で少しづつでも読む機会をもてれば…とは思います。m(_ _;)m
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Unknown ()
2010-01-27 00:54:57
ひかれるだろうなあ、と思いながらも薦めずにいられないのが信者の悲しいところです。
特に薦めたいのは「小説太平洋戦争」と「徳川慶喜」ですね。
理想一直線の傾向がある山岡荘八は苦境の方が映えます、個人的に。
特に小説太平洋戦争は見るのが辛いのに目を背けてはならないという生々しさ。それに比べると、徳川家康は出来すぎの感があるでしょう。

最近このブログを見つけたのですが、随分楽しませていただいてます(先に言うべきでした)。
逆に何か、これは読んどくべき!というのはあるでしょうか?
ちなみに幕末では慶喜、斉昭贔屓です。

あと、坂本龍馬の記事で、龍馬は尊皇攘夷に平等思想を見たとありましたが、山岡荘八の解釈もそんな感じだった様な気がします。
「坂本龍馬」で龍馬本人に「日本の国体は君民一体。あなたも天皇、わたしも天皇、そして天朝様も民」、「万物は無限に生成してゆく。その生成してゆく生命体が日本国なのだ。日本国は天壤とともに無窮です。行き詰まるというのは、どこかで国体の掴み方が違うておるからだ」とか言わせたりしてます。
ちなみに攘夷については「徳川慶喜」で勝に「何もなさらず、黙って天下を照らしてござれば、それがご攘夷で。天朝様は人をきっちゃならねえ。しかし政治家は斬らなきゃすまねえ。斬るべきものを斬るのが政治、斬らねばならぬ者は出すな、と仰るのが天朝」とか語らせてたり
一君万民。君民一体。同じ日の下に住む大和の民であり、太陽を追いながら共に生きよう、というのが山岡なりの勤皇観なのかなと。

何か小説ばっか語ってすいません。ただ、山岡荘八が天皇と幕府の二元体制に理想を置いているのを見たりしたあとにこのブログの記事を読むと、何だか日本らしさを感じずにいられなかったのです
返信する
>あ さん (凛太郎)
2010-01-27 22:31:05
ブログを読んでいただいているようで、ありがとうございます。
僕のことを申しますと、歴史小説から離れてもうずいぶんと経ちます。時代小説はエンターテイメントとして読みますけれどもね。
歴史小説を読んでいたのは、本当に少年の頃から20代前半くらいまででしょうか。それ以降はほとんど読むことがなくなりました。これは、当方が長編小説を読む根気が欠落してきたというのも一因なんですがね(汗)。
歴史好きではありましたが、歴史を考えるという趣味に本当にのめりこんだのはここ14、5年であるかもしれません。それには、若い頃に読んだ司馬遼太郎などの影響も絶対にあるとは思いますが、それよりも梅原猛らの影響の方が強い、と自己分析しています。
そんな話は、以前に書いたことがあります。
http://p-lintaro2002.jugem.jp/?eid=453
http://p-lintaro2002.jugem.jp/?eid=454

三つ子の魂百まで、でありまして、なかなか僕も龍馬と義経贔屓から抜け出せないでいます。しかしながら、人物像に肩入れしたくないという気持ちもやはり強いのです。歴史を見る目はフラットでありたい、といつも願っています。そうしないと偏りが出て説得力を失うと思うのです。
小説は、史実を捻じ曲げているとまでは思いませんけれども作家の考え方が強く出ます。そして、それに乗っからないと読んでいても面白くない。「これは参考意見だ」と思いながら小説を読むのってつまらないじゃないですか。
作家と自らの解釈の乖離がみられるようになったことが、小説から離れた原因のひとつではなかったかと思っています。同様に映画やドラマも観なくなりました。
なので「慶喜、斉昭贔屓です」とおっしゃられましてもそれに合致した話を僕が書いているかと言えば…疑問です(汗)。

結局、僕のものの考え方が狭量であるために、「歴史」か「小説」かの二者択一をしたうえで、小説を脇に措いてしまったのですね。今、どういう本を読んでいるかといえば、学者の書いた書籍か、現物史料ということになります。そちらの方が精神衛生上いいのです。

しかしながら人間ですので(笑)、ものの考え方も変わります。僕も歴史小説を読みたくなるときがくるかもしれません。そのときは、山岡荘八も選択肢には入れたいと思いますよ。

なんかご期待に添えなくてすみません。m(_ _;)m
また、批判なりなんなりあれば頂戴できれば幸いです。ブログにINDEXはつけてありますので、歴史記事だけを抽出することは出来ます。
返信する
Unknown ()
2010-01-28 16:22:01
いえ、こちらこそ何だか自分勝手に書いて申し訳ありません。
歴史小説から離れてしまう、というのはよくわかります。
自分は今学生真っ只中ですが、贔屓からちょっと足を踏み出して、という中間の時期な気がします。
山岡荘八の伊達政宗、織田信長辺りが原点なのに、もう戦国小説は山岡ものですらあまり読めません。確かに、柳生石舟斎、千葉周作辺りの時代小説が落ち着くようになりました。

斉昭、慶喜贔屓というのは贔屓というだけで、もう少し知りたい、それ以上の意味は特にないです
こんな抽象的な質問はするべきじゃなかったなあという気が今はします。
すみません

徳川斉昭をなぜ贔屓にしているのかというと、山岡の影響と言えば影響なんですが、徳川斉昭はなぜ攘夷家だったのかに興味があるからです。
頑迷な攘夷家と切り捨てられかねない人物ですが、本当にそうなのかと。
孫引き程度の知識ではありますし、この程度の事はわかった上なのかもしれませんが、このままこの記事の内容に触れてしまいます。
吉田松陰の事です。
別に尊皇攘夷と開国は同ラインにあるというか、絶対的には矛盾していないのでしょう。
徳川斉昭と松平春嶽の様なラインもあるわけで。
狂気の継承というのは根本的に同感です。井伊直弼から始まる、三つの記事で書かれた流れも基本近い考えです。
水戸学というのは確かに現代人からは分かりにくく、簡単に割りきってはいけないのですが、結局は天皇という大義を中心とした挙国一致の追求ではないでしょうか。
水戸学の思想内容をできるだけ避けるなら、水戸学を撒き散らした徳川斉昭の考え方に原因があると思います。まあそれが水戸学とも言えますが。
あるサイトは「列強の軍事力を知っていたか」「攘夷をするか」の二つの軸で幕末を語っていましたが、案外それが分かりやすいかもしれません。
1.知った上での攘夷
2.知らない上での攘夷
3.知った上での開国
4.知らない上での開国
徳川斉昭は1にあたり、一番嫌ったのが4であると。
徳川斉昭にとっての尊皇攘夷は侵略されないための一致団結方法。一番恐れているのは列強の侵略性。当然背景は阿片戦争。弱肉強食の時代、生半可な団結意識、危機意識では食われてしまう。食われてからでは遅い。安易な開国は絶対正義ではない。だから戦力的に勝てないのを知っていながら、あえて尊皇攘夷を煽ったと見ています。
危機意識を煽るにはまず攘夷であるし、団結を図るには尊皇(と公武合体)である。この二つは最初はセットでこそ成り立ってくる。
特に薩摩はイギリス、幕府はフランスで対立するみたいな構図が一番危なかったんではないでしょうか。
幕府が幕府で固いと改革も進まず侵略されるし、反対勢力も出て更に乗じられる。
極論、天皇のもと平等なんだから、幕府も藩もないし身分もないと挙国一致の改革を叫んだわけです。
松平春嶽の逸事史補で徳川斉昭は、「開国はけしからんが、時勢が時勢なので仕方がない。自分は攘夷論者で死ぬが、あとは君に任す」となっております。
島津成彬といった開明的な人物たちに、なんで徳川斉昭が尊敬されているのかというのが子供の頃の疑問でした。
実際徳川斉昭自体は進歩性逞しく、医学の発展に貢献していますし、蘭書の翻訳とかやっています。
そこら辺は水戸市史や茨城史にもあります。
その中に賛天堂記という徳川斉昭の自著で医学館設立の趣旨が書いてあるのですが、これが斉昭を斉昭たらしめているような気がしました。
「昔は自給自足でなんとなかっていた。しかし中世から奇を好む日本人の弊害が助長し、外国ものばかりを有り難がり、日本のものを捨てて、顧みない。これらの輸出を止められたらどうするのか。しかも外国ものは高くて高貴な者しか手に入らない。どうせ外国に金を渡し続けるなら、その金を使って自分達で開発してみんなに分け与えようではないか」
安易な迎合主義、それに伴う外国依存、更には支配を恐れたんではないでしょうか。徳川斉昭はある意味国粋なんですが、西洋の物品にも興味を持っていたことと春嶽成彬慶喜等の開明派ラインがあることの二つから考えると、自身は警鐘たらんとし、後を任せるという絵を書いていたように思います。
確か堀田上洛の時、鷹司にも攘夷は不可能と手紙を送っているというのを何かで見たように思います。
つまりは挙国一致の攘夷から挙国一致の開国に転換をし、列強に対抗する。その挙国一致の大義が尊皇。攘夷は本来は警戒論みたいなもので、そこが狂った大本でしょうか。
斉昭の惜しむらくは激しさと敵の多さ。味方がほぼ外様。幕臣に警戒されすぎ、それは慶喜にまで引きずっている。
徳川斉昭の改革論は保守派の反対を引き起こし、さらにそれが倒幕を呼んでしまう。
やはり継嗣問題に、安政の大獄で全てが狂ったとみるべきでしょう。
井伊直弼は迎合主義とは言えないかもしれないので、そこにはすれ違いがあったと思います。
正直、融通がきかなかったなと。ただでさえ殿様育ちで激情家の斉昭。しかも藤田ら側近を失って歯止めが効かない。
開国と攘夷だけならまだしも、他に対立軸がありすぎる。焦点がぶれ、斉昭はいつの間にか引くに引けない渦中の人となっている。
継嗣問題で出来た対立に端を発し、斉昭が団結の大義を見いだしている天皇を軽視されたということで激怒してしまった。
井伊にしても、斉昭達を開国問題以上に否定しているのだから、火に油を注いでいるようなもの。
最終的には大弾圧に繋がってしまう。
井伊直弼のやった行為は幕府強調路線であり、先に挙国一致が崩れてしまったわけです。斉昭含めた攘夷論者は本質的には挙国一致の大義を追っているのに、井伊直弼(より松平忠固?)は開国だから正義と思っているから噛み合わない。
求心力のある慶喜や春嶽で、更には天皇の許可を得て開国できなかったというのが全ての悪夢。開国に井伊の悪名が付きまとってしまう。
吉田松陰としては日本を分裂させてはいけない、ありきだったような気がします。開国が正しいのは解っている。それでも国作りには核がなければならない。だから、やむにやまれぬ大和魂、なんだと思います。それにやはりまだ若かったというのもあるでしょう。二十一回猛士。あと十八回は死ぬ覚悟というのだからある意味狂ってる。
長州の暴走は吉田松陰の天皇への思慕を拡大させ、幕府を天皇の敵と見てしまったことにあるし、攘夷に拘ってしまったことにあると思います。
斉昭と同じ尊皇攘夷でも別ベクトル。列強を知らんで攘夷をやっている。
吉田松陰でさえ、深くは外国を知らなかったのだからある意味純粋だったのかもしれない。
しかも天皇が近すぎたせいで、権威を乱用し、権威を低下させた。
長州はいつしか窮鼠となり、薩摩のてこ入れでまた狂う。大久保や岩倉はもっとえげつない。
本来は開国に転向するはずだった路線が、幕府を倒すためだけに攘夷を煽ってみせる。
幕末において、一番苦しかったのは慶喜じゃないですかね。将軍なんか継ぎたくなかったというのは本音だと思います。
父達が権威付けた水戸学を、薩長は地に落としながら歯向かってくる。幕臣は幕臣で父の面影に怯えて信用しない。列強は容赦なく迫ってくる。
最悪国内は分裂する。発端はある意味斉昭ですが、斉昭は分裂を望んでないでしょう。
最後は父の仲間であった薩摩に裏切られるが、それでも耐えるしかない。慶喜はよく分からんという評価が多いですが、こう考えるとつい判官贔屓で見てしまいます。
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>あ さん (凛太郎)
2010-01-30 07:25:09
ネット上でものを書く、ということは、一応全世界に向けて発信するということであり、書いたものについては責任が生じる、と考えています。個人のブログ記事なんで大目に見てくれ、という言い訳は本来通用しないことです。
その段で申しますと、この三つ連なった記事には、その本来通用しない甘えが散見されますね。これは申し訳ない。その「甘え」とは、水戸学に踏み込んでいない部分だと思います。
以前から、尊皇攘夷思想については一言書きたかった。それは「政治思想」としての尊皇攘夷についてです。しかし、政治思想としての尊皇攘夷と、その大元である水戸学の尊皇攘夷は、別物というわけではない。発展あるいは飛躍、また拡散はあったにせよ、水戸学における尊皇攘夷思想を無視しては語れないものであるのは自明です。
しかし、僕の場合、ほぼ無視してしまったともいえる(汗)。これは、やっぱり難しかったからなんですよ。哲学はそんなに一朝一夕に学べるものでもない。中途半端に知ったかぶりをするよりは「難しい」「荷が重い」と正直に書いてしまったほうが良かろうと思いそのように記述しましたが、それでは「論じる」ことにはならなかったのではないかと反省しています。
ともあれ、僕は井伊直弼から話を始めました。

「あ」さんが例として挙げてくださった4つのパターン。分かりやすいと思います。そしてその1のパターンは、いわゆる「大攘夷」という思想であると考えてもそう間違いではないのではないでしょうか。
斉昭もそうであったと思いますし、吉田松陰もその考え方であったと思っています。本文にもそう書いています。2のパターンは、例えば大楽源太郎はそれにあたるのでしょうか。大奥や一部公家もそうであったかもしれません。デモを起こした88人全てが「大攘夷」思想であったとは思えません。孝明天皇については、単純に2のパターンに入れられないということは記述したとおりです。
3のパターンとして、この時代の代表的論客である橋本佐内を挙げることは出来ます。そして、井伊直弼が3のパターンであったのかどうか。阿部正弘は一応そうであった、と考えられるのですが。
井伊直弼の思想というのもまた分かりにくく解明されていない部分もあるのでしょうが、本来は攘夷家だったとのふしがあります。その攘夷の部分を押し殺して現実を直視し開国した、という部分に直弼評価の論点もあるように聞き及びますが、実際のところはよく分かりません。
あの時代の「論点のずれ」が相当に影響していると思います。やはり直弼は継嗣問題を最も重視していた感じがしてしまいます。また彦根藩運河問題も安政の大獄の結果を見ると頭から抜けていない。この時点で最も重要なことは、後世の僕らから見ますと当然開国問題であったと思うのですが、それを論点のずれと判断できるのもまた後世から見るからであって、当時は表裏一体であったと思いますので。
僕の印象で語って申し訳ないとは思うのですが。ただし、鎖国攘夷の論点から考えますと、直弼はさすがに4のパターンであったとも思えない。列強の軍事力に脅威を感じていなければ、打ち払いを命じたと思いますので。
結局4のパターンの人物は、史上には現れない。市井にはいたかもしれませんけど。そして直弼や堀田が4のパターンだとは斉昭も考えてはいなかったでしょう。そこまで斉昭は愚鈍ではない。「あ」さんがおっしゃるところの、斉昭が4のパターンを最も嫌ったのだとすれば、それは未来において、直弼が開国することによって生まれるかもしれない安易で能天気な人物像を嫌ったのではないでしょうか。そして、それを抑止するために徹底攘夷を叫んだ、と。
捨石となる覚悟でそう主張していたのであれば、それは立派な人物像であった、とある意味言えるかもしれません。しかし、それが「あ」さんのおっしゃる「そこが狂った大本」であったと思います。本来の水戸学からある意味乖離してしまったのかもしれませんし(本来の水戸学とは何か、という問いには、やはり答えられませんので説得力はありませんが)、水戸藩の思想を頑なにしたとも言えますし、最終的には慶喜も縛ってしまう結果になったとも考えられます。「あ」さんのおっしゃるように、融通がきいていない。

吉田松陰についてですが。
前述したように、松陰のものの考え方が大攘夷にあった、とはその書簡や行動から見てとることが出来ます。ここを掘り下げると、さらにひと記事必要になったでしょう。なので、僕は逃げました。これも反省点ではあります。しかし松陰は本当に難しい。何が難しいかといえば、松陰の思想には必ずしも一貫性がない部分があるからです。
といって、ブレていたとも思いません。これは、口幅ったい申し方ですが、松陰は日々成長していたからだ、と僕は解釈しています。
もしも、もう少し松陰が生きていたら。また違った方向性へと向かった可能性があります。松陰は頑なではありますが、反面斉昭ほど融通がきかないわけではなかったでしょう。それは、松陰の若さに原因を見ることも可能かもしれません。頭脳はまだ柔らかかった。大攘夷から発展し、もしかしたら坂本龍馬のような思想を最終的に得なかったとも言い切れません。宮部鼎蔵繋がりで横井小楠との会談の機会もあったかもしれません。そんなアホな、と思われるかもしれませんが、「歴史if」なのでお許しを。
もしもそうなっていれば。
長州藩は、過激攘夷へとは進めない。これは、本文に書きました。松陰があの「狂気」の状態で刑死することによって、藩論の(というか高杉晋作の言う正義派の)ベクトルがそちらへ向いたと考えていますので。あの時点での安政の大獄なかりせば、長州藩が結果的に火の玉になる可能性が低くなる。
もしも、松陰が死なず大攘夷からの開国路線を主張したとしたら。そして、長州藩が(というより長州藩内の過激攘夷派が)それでも攘夷を旗頭に倒幕へと進もうとするならば。
松陰は暗殺されていた可能性もあります。足枷になる。久坂玄瑞がそういう命令を下す、とは思いたくないですが。

当時の日本における指導者層、またイニシアティブをとろうと画策した層には、結局1と3のパターンの人物しか居なかったのではないでしょうかね。で、それら人物の多数派工作、また扇動のために、2か4の層を拡大して取り込もうとした。それらは、一般大衆です。愚民と言いそうになって言葉を飲み込みます。情報を知る術がなかった人々を愚民と言ってはいけない。ただ指導者層は、愚民であると考えていたのではないか。だから、そういうやり方が嫌いなのです。
斉昭は4のパターンを嫌い、その層の登場を抑止したかった。しかしながら、2も4も最終的には同じなのだ、との思いが抜けません。情報操作された層という面においては。
岩倉具視は公家を扇動して攘夷デモを起こし、久坂は後に長州の藩論を過激攘夷とした。いずれも、1のパターン層が2のパターン層を作り上げたのだと思います。そういうやり方をせずとも、他に道はあったのではないか。そんな思いが、この記事を書いた底の方にあります。
結局2のパターンに乗っかって「尊皇攘夷」で倒幕を成した薩長は、明治新政府において一般大衆に浸透させたスローガンは「脱亜入欧」「文明開化」であり、これは4のパターンに近いように思えます。なんなんだこれは(汗)。
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Unknown ()
2010-01-30 14:32:20
自分なりに考えると
・侵略性重視
・戦力差重視
この二軸の強弱のような気もしてきました。
極論すれば、力には全て従うべきか、尊厳のためには命を捨てるべきか、になりかねないんで答えのでない問題かもしれません
ただ、指導者層からすればやはり、侵略されてからでは遅い、でしょう。また後で対立を作るよりは先にまとめるべき、というのもあるかもしれません。
侵略され始めてから「迎合主義の政府が悪い」と国内分裂したら手の打ち様がありません。

吉田松陰についてですが、アホなとは思いません。
歴史は数多の軸の上に成り立ち、かつ、我々は限られた軸で見てしまう。だから難しい、と足を踏み入れたばかりの自分は思ってしまいます。
くどいですが、やはり山岡荘八は読んでほしいです。
なぜなら、過激な攘夷志士も吉田松陰も徳川斉昭も坂本龍馬も対立だけではなく一本の軸で語っている感じがするからです。
山岡なりとはいえ、水戸学を血肉にし、水戸学を軸として歴史を語る数少ない人間ではないでしょうか。


しかし、薦めるばかりも問題なんで自分なりに簡単に解釈してみようとも思います
ただ、自分もあまり理解してないので正直怖い
山岡と自分を介すので以下におけるズレは随分あるかもしれません

水戸学はたぶん大和主義です
端的に言えば、平和が一番
上から見れば右も左も同軸にある

世の中には平和を乱すものがいる
平和を乱すのは悪だ、と説いたのが徳川斉昭達
日本の平和を乱す悪は許さんと単純に理解したのが志士達
外国人との平和もありえる、と考えたのが吉田松陰達
正直、すごい難しい話だと思います
現代的にわかりやすくするなら「殺人はありか?」が近い
一人一人の個を統御する政府、集合としては殺人願望は許しがたい思想
なぜなら殺されたくないと望む人が多いから。もしくはそのための政府だから
政府は、「殺人はいけない」という理念を打ち出す
しかし、それは殺人願望がある人を悪人としかねない(仮に殺人衝動を抑えていても)。また、そういった個を殺す政府も悪になりかねない

山岡流に水戸学を語れば、天皇とは絶対正義の象徴でなければならない、です。
政府や個人は悪になりかねないため、これらを絶対としてはいけない。
功は全て天皇に、罪は全て人民政府に。
力を全てとしないためには、力の支配者が正義のもとには平伏してみせないといけない、そこに徳川慶喜の悲しさがある。
天皇を握る一部の人間が、天皇の名でコロコロと言動を変えてみせる、そこに歪みがある

山岡荘八の「徳川慶喜」で好きなキャラは勝ですね
「上様は政治を知らねえ」
「上様のお父上がまた一つにしようとしなさった」

理想と現実
理想が何かすら分からない自分達には、やはり難しすぎるとしか言いようがないのかもしれません
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>あ さん (凛太郎)
2010-01-30 19:02:40
難しいことになってきました。
以下に申し上げることは、揶揄でもなんでもありません。ものを考える上での相違点みたいなものをちょっと申し上げたいだけです。

「あ」さんが水戸学を解釈しようと試みられることは立派だと思います。ただ、「あ」さんのコメントだけを読んで(行間まではさすがに読めていません。なので反論があればおっしゃっていただいて結構です)、僕が思うことは、「あ」さんが書かれていることは「あ学」であろうということです。
系譜は、「あ」さんがおっしゃることを全面的に肯定すれば、「水戸学」→「山岡学」→「あ学」です。なぜ全面的に肯定すれば、という但し書きを付けるかというと、僕は山岡荘八を読んでいないために、水戸学が本当に山岡荘八の血肉になって、水戸学を軸として語っているのかどうかの確認がとれていないからです。
これは「あ」さんが「山岡と自分を介すので以下におけるズレは随分あるかもしれ」ないと書かれている以上、僕が揚げ足取りをしていると思われるかもしれません。が、もちろんそんなつもりはありません。「あ」さんの態度は立派だと思っていると繰り返します。
ただ、山岡荘八を読めば、水戸学が理解できるのでしょうか。そこが、読んでいない僕には合点がいかない。
「小説離れ」の話を最初にしましたけれども、小説家という生業の人は、たいていは思想家として一家を成しているように思います。水戸学を参考にはしているでしょうが、それが水戸学の解釈本ではない限りは、自分の言葉で語っているはずです。水戸学を啓蒙しようと思って小説を書いているわけでもありますまい。つたない僕の読書経験から言って、山岡荘八は人間の生き様を書いている人だと思っています。

以上のこと、どうかご立腹のないように(汗)。「あ」さんが山岡荘八をここまで強く薦められるのは、決してこれを読んで水戸学を勉強しろと仰っているのではないだろうと信じてのことですので。

水戸学を理解するには、特に幕末思想に大いに影響を与えた(後期)水戸学を学ぶなら、もちろん藤田幽谷の「正名論」が根本であろうと思いますし、会沢正志斎の「新論」がそれを具体化したものだとされています。したがってこれを勉強しないと話が進まないわけですが、こういうものを読み下す学力が僕には無い(汗)。なので、岩波の日本思想体系の当該図書を図書館で借りました。その程度のことであるため、ブログ記事には「深入り出来ない・逃げる」と書いたわけです。これははなはだ無責任な態度ではありますが、無責任の謗りを受けるのを承知で、これ以上ブログ記事書くのに勉強する時間はありませんよ(汗)。歴史を考えるのに、深化させるのには事象だけでは足りないことは確かにありますが、だからと言って発言してはいけないということもないだろう、と自己正当化をしておきます。本当は時間を巻き戻して今から大学通いたいな(笑)。一日中こういうことについて勉強し考えていたい。

そのつたない理解で多少の物言いをします。
水戸学は、やはり体制を重んじているのではないでしょうか。平和のためには身分秩序が重要であり、その身分に応じた責務を果たすことで安寧が保たれる、ということ。そして、その体制とは、天皇を頂点とした国体であるということではないのでしょうか。これは、僕なりの解釈です。反論があれば仰ってください。
その天皇に委任された幕府がしっかりと内憂外患を解決できる力があれば、水戸学としてはそれでいいのです。それがどうも出来ない様子を見て、幕政改革および倒幕の方向性が出てきてしまいます。何が最も大切か。それは、「あ」さんがおっしゃる平和でしょう。
その「平和」の解釈として、僕などは新憲法下の生まれなので戦争の無い世の中、そして人権が守られる世の中をすぐに念頭においてしまいます。思想信条の自由があり大過なく暮らせるならば、属国化もまた可。あるいは国なんていらねぇ、世界連邦でいいのだ、と。しかし、水戸学はそんなことは許さないでしょうね。平和の意味も、また様々であります。
「世の中には平和を乱すものがいる」
その平和とは何か、を考えると、また迷宮に入りそうですね。とりあえず水戸学においては、便宜的に「国体護持」という言葉をあえて使おうと思います。

日本には、易姓革命の思想がありません。天皇一筋です。これを僕はよく「不比等の魔法」と表現します(笑)。藤原不比等が「日本書紀」によって日本に大枠をはめました。以来、そこから抜け出られた人物はいません。そして水戸学もその枠内に入ると思っています。
「あ」さんのおっしゃる山岡流の水戸学「天皇とは絶対正義の象徴でなければならない」も、見事にその枠内です。政治が民のためにならないなら、為政者(つまり天皇)を取り替えてしまえ、という思想は全く無い。「功は全て天皇に、罪は全て人民政府に」人民政府はつまり天皇が委任した政府でありますから、大元の責任は委任者の天皇に存するはずですが、そこまで責任は問わない。不可侵の存在です。魔法だなとつくづく思う次第です。

話が逸れたかもしれません。
ただ、最初に僕は「但し書き」を書きましたが、ここに至って山岡荘八が「山岡なりとはいえ、水戸学を血肉にし、水戸学を軸として歴史を語」っているとするのは正しいのではないかと思えてきました。
天皇不可侵の思想。これは「現人神」ですが、現代に生きる僕からしますともはや哲学というより宗教的にも思えます。絶対神GOD的存在であるような。そのことに疑いは全く挟まれていません。
これは、江戸幕府が宗教統制をしたことにも関わりがある、と僕は考えています。檀家制度を作り宗教を傘下に入れ、もはや一向一揆などは起こりえない。キリスト教は禁止。そして、儒学~朱子学を徹底させた。さすれば、もはや拠り所は天皇しか存し得なかったのではないか、という想像です。これは、勉強して何年後かにまた記事がひとつ書ければいいなと思っています。ネタを書いてしまいますと、宗教統制が「尊皇教」を産み出した可能性があるということ。2のパターンですね。

本音を申しますと、「あ」さんがここまで強く「読め」と薦められますので、当方は困惑気味ではあるのです。毎日が日曜日であるわけじゃなく限られた時間しかねーんだ、読書くらい自分の趣味でさせろ、と(笑)。
しかし、読んでもいいかなと思えてきました。これは、山岡荘八によって水戸斉昭や吉田松陰を学ぶのではなく、山岡荘八自身の思想をちょっと知りたい、という興味です。その戦前の作家の、天皇崇拝による思想とはいかなるものかという興味ですね。これは、「あ」さんにとってはしてやったりかもしれませんし、そういう読まれ方は本意ではない、なのかもしれませんし(笑)。
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