オフコースが2人組デュオだったことを知る人は少なくなった。
もっとも、僕も後付け知識なのだが本当の初期のオフコースは3人だったらしい。その後入れ替わりもあったとか。ただ、1973年に「僕の贈りもの」で本格的な活動を開始したときには、小田和正さんと鈴木康博さんの透き通るようなデュオだった。名曲も数多い。
何年かしてオフコースはギター・ドラム・ベースを入れてバンドとなり5人編成となる。そして、「愛を止めないで」が大ヒットする。この頃僕もちょうどギターを始めていて、コピーして歌ったものです。
君の人生がふたつに分かれてる そのひとつがまっすぐに僕のほうへ…
オフコースサウンドの完成期だったのだろう。その後、「さよなら」が空前のヒットとなり、オフコースを知らない人はいなくなった。出す曲全てがヒットし、「言葉にできない」などは今もたくさんの人たちに愛されている。
僕が大学に入る頃には鈴木さんが抜け、そして何年か経ちオフコースは解散する。
しかし、今も小田和正さんは第一線でありオフコースサウンドは健在である。鈴木さんも頑張っている。デュオの時代を一期、バンドの時代を二期とするのなら、それぞれが活躍する現在を「第三期オフコース」と呼んでもいいのかもしれない。現在も連綿とオフコースサウンドは続いているような気がする。
僕は、オフコースを知ったときはまだデュオの時代だったので、初期の頃の曲に愛着が深い。名盤「JUNKTION」が今も手元にある。当時はまっていた深夜ラジオから流れる「秋の気配」「ロンド」といった曲に静かに浸っていた。それほど熱心なファンではなかったかもしれないけれども美しいメロディーは心に残った。
当時のギター雑誌には楽譜が付いていたので、とにかくコピーして悦に入っていた。しかし、小田・鈴木両巨頭の声はあまりにも高く、ギターは弾けても歌えない状況となり、カポタストのお世話に何度なったことか知らない。
僕はこうして中学1年でギターを始めたが、声変わりと重なり人前で演奏することはなかった。ごく一部の友人が「あいつはギター弾くぞ」と知っていたに過ぎない。高校に入っても音楽系のサークルには入らなかった。
高校の初めての学園祭。僕は1年生なのにシガラミがいろいろあって、学園祭の実行委員をやっていた。担当は「展示発表」。舞台をやりたかったのだがそれは先輩がやっていた。「展示」というのは地味な分担で(まあ1年生だからしょうがないけど)、教室をそれぞれ部に開放して展示をしてもらうだけである。書道部は書道を展示、美術部は絵画や彫刻を展示、華道部は生け花を展示…。地味だなぁ。これを統括していたのである。舞台や仮装行列や模擬店や体育祭や後夜祭や…もっと派手な分野はいっぱいあるのになぁ。
しかし、ひとつだけ派手に出来る部分があった。何年か前の先輩が「音楽展示」を始めたのだ。舞台発表には限界があって時間が足りない。演劇や合唱や吹奏楽や…。手一杯でフォーク部や軽音楽部の1年生連中まで出演が出来ない。なので音楽室を開放して第二ステージを作っていた。それは展示の分野だ。
僕の時には放送部と相談して屋外にオープンステージを作った。僕は当日そこのディレクターになることで溜飲を下げた。
参加申し込みを募ると、一年生のあぶれたバンドがどんどんやってくる。その中に、僕が当時ちょっと好きだった女の子もやってきた。
彼女がフォーク部に入ったことは知っていたが、エントリーしてくるとは思わなかったので少し嬉しかった。女の子デュオで、彼女がボーカル、もう一人がギター&コーラス。曲目は「秋の気配」だった。
前日のリハ。外でやるので風が吹く。彼女の長い黒髪がなびいてそれは絵になった(と、僕は思った)。綺麗な声をしている。オフコースを選んで正解だな、と思った。
そして当日。彼女の出番は午後からである。忙しくしていた僕のところへ、当の彼女がやってきた。
「○○君、困ったことになったんよ。△子が手を痛めてしもて…」
彼女の相方が左手を怪我した様子。当日のこととて棄権、というつもりだったらしい。彼女は本当に困っていたが、僕のほうは、こんなドラマのような事が実際に起こりうるとは到底考えられなかった。△子さんには本当に申し訳ないけど、幸運に感謝した。
「ギターが弾けへんってことやろ? そんなら僕が代わりに弾こか?」
「え、○○君ギター弾けんの? そんなん知らんかったわ!」
「秋の気配なら得意やけど…」
スケジュールが出来ているのに穴を開けることはない、と彼女に言い、職権濫用の疑いはあったが、マイクのセッティングだけ指示して僕たちは校舎裏に回った。別の意味で僕は緊張した。
あれがあなたの好きな場所 港が見下ろせる小高い公園
「秋の気配」なら楽譜も全く必要ない。イントロから細かな部分まで完全にマスターしている。よくぞ完コピーしていたものだと神に感謝した。なので、初めて合わせたのに完璧だった。彼女の嬉しそうな横顔がただ眩しかった。
そして本番。
黄昏は風を止めて 千切れた雲はまたひとつになる
彼女とひとつのステージで偶然にも一緒に演奏をしていることが信じ難かった。しかし、現実に僕の前で、彼女は風になびく黒髪を抑えつつうたっている。僕のギターに合わせて彼女はメロディーを紡いでいる。僕はもう彼女以外のものは何も目に入らなかった。
ああ…嘘でもいいから微笑む振りをして
僕の精一杯の優しさを あなたは受け止めるはずもない
こんなことは今までなかった 僕があなたから離れてゆく…
最後にアドリブでリードを入れて、短かった一曲だけの邂逅は終わった。僕に振り向いた彼女は最高の笑顔を見せてくれた。僕も親指を立ててそれに答えた。そしてステージを降り、握手をして(僕にとってはそれは抱擁に等しかった)彼女は観客席に、僕はまた仕事に戻った。
16歳のほんのささやかな「秋の気配」にまつわる思い出です。
もっとも、僕も後付け知識なのだが本当の初期のオフコースは3人だったらしい。その後入れ替わりもあったとか。ただ、1973年に「僕の贈りもの」で本格的な活動を開始したときには、小田和正さんと鈴木康博さんの透き通るようなデュオだった。名曲も数多い。
何年かしてオフコースはギター・ドラム・ベースを入れてバンドとなり5人編成となる。そして、「愛を止めないで」が大ヒットする。この頃僕もちょうどギターを始めていて、コピーして歌ったものです。
君の人生がふたつに分かれてる そのひとつがまっすぐに僕のほうへ…
オフコースサウンドの完成期だったのだろう。その後、「さよなら」が空前のヒットとなり、オフコースを知らない人はいなくなった。出す曲全てがヒットし、「言葉にできない」などは今もたくさんの人たちに愛されている。
僕が大学に入る頃には鈴木さんが抜け、そして何年か経ちオフコースは解散する。
しかし、今も小田和正さんは第一線でありオフコースサウンドは健在である。鈴木さんも頑張っている。デュオの時代を一期、バンドの時代を二期とするのなら、それぞれが活躍する現在を「第三期オフコース」と呼んでもいいのかもしれない。現在も連綿とオフコースサウンドは続いているような気がする。
僕は、オフコースを知ったときはまだデュオの時代だったので、初期の頃の曲に愛着が深い。名盤「JUNKTION」が今も手元にある。当時はまっていた深夜ラジオから流れる「秋の気配」「ロンド」といった曲に静かに浸っていた。それほど熱心なファンではなかったかもしれないけれども美しいメロディーは心に残った。
当時のギター雑誌には楽譜が付いていたので、とにかくコピーして悦に入っていた。しかし、小田・鈴木両巨頭の声はあまりにも高く、ギターは弾けても歌えない状況となり、カポタストのお世話に何度なったことか知らない。
僕はこうして中学1年でギターを始めたが、声変わりと重なり人前で演奏することはなかった。ごく一部の友人が「あいつはギター弾くぞ」と知っていたに過ぎない。高校に入っても音楽系のサークルには入らなかった。
高校の初めての学園祭。僕は1年生なのにシガラミがいろいろあって、学園祭の実行委員をやっていた。担当は「展示発表」。舞台をやりたかったのだがそれは先輩がやっていた。「展示」というのは地味な分担で(まあ1年生だからしょうがないけど)、教室をそれぞれ部に開放して展示をしてもらうだけである。書道部は書道を展示、美術部は絵画や彫刻を展示、華道部は生け花を展示…。地味だなぁ。これを統括していたのである。舞台や仮装行列や模擬店や体育祭や後夜祭や…もっと派手な分野はいっぱいあるのになぁ。
しかし、ひとつだけ派手に出来る部分があった。何年か前の先輩が「音楽展示」を始めたのだ。舞台発表には限界があって時間が足りない。演劇や合唱や吹奏楽や…。手一杯でフォーク部や軽音楽部の1年生連中まで出演が出来ない。なので音楽室を開放して第二ステージを作っていた。それは展示の分野だ。
僕の時には放送部と相談して屋外にオープンステージを作った。僕は当日そこのディレクターになることで溜飲を下げた。
参加申し込みを募ると、一年生のあぶれたバンドがどんどんやってくる。その中に、僕が当時ちょっと好きだった女の子もやってきた。
彼女がフォーク部に入ったことは知っていたが、エントリーしてくるとは思わなかったので少し嬉しかった。女の子デュオで、彼女がボーカル、もう一人がギター&コーラス。曲目は「秋の気配」だった。
前日のリハ。外でやるので風が吹く。彼女の長い黒髪がなびいてそれは絵になった(と、僕は思った)。綺麗な声をしている。オフコースを選んで正解だな、と思った。
そして当日。彼女の出番は午後からである。忙しくしていた僕のところへ、当の彼女がやってきた。
「○○君、困ったことになったんよ。△子が手を痛めてしもて…」
彼女の相方が左手を怪我した様子。当日のこととて棄権、というつもりだったらしい。彼女は本当に困っていたが、僕のほうは、こんなドラマのような事が実際に起こりうるとは到底考えられなかった。△子さんには本当に申し訳ないけど、幸運に感謝した。
「ギターが弾けへんってことやろ? そんなら僕が代わりに弾こか?」
「え、○○君ギター弾けんの? そんなん知らんかったわ!」
「秋の気配なら得意やけど…」
スケジュールが出来ているのに穴を開けることはない、と彼女に言い、職権濫用の疑いはあったが、マイクのセッティングだけ指示して僕たちは校舎裏に回った。別の意味で僕は緊張した。
あれがあなたの好きな場所 港が見下ろせる小高い公園
「秋の気配」なら楽譜も全く必要ない。イントロから細かな部分まで完全にマスターしている。よくぞ完コピーしていたものだと神に感謝した。なので、初めて合わせたのに完璧だった。彼女の嬉しそうな横顔がただ眩しかった。
そして本番。
黄昏は風を止めて 千切れた雲はまたひとつになる
彼女とひとつのステージで偶然にも一緒に演奏をしていることが信じ難かった。しかし、現実に僕の前で、彼女は風になびく黒髪を抑えつつうたっている。僕のギターに合わせて彼女はメロディーを紡いでいる。僕はもう彼女以外のものは何も目に入らなかった。
ああ…嘘でもいいから微笑む振りをして
僕の精一杯の優しさを あなたは受け止めるはずもない
こんなことは今までなかった 僕があなたから離れてゆく…
最後にアドリブでリードを入れて、短かった一曲だけの邂逅は終わった。僕に振り向いた彼女は最高の笑顔を見せてくれた。僕も親指を立ててそれに答えた。そしてステージを降り、握手をして(僕にとってはそれは抱擁に等しかった)彼女は観客席に、僕はまた仕事に戻った。
16歳のほんのささやかな「秋の気配」にまつわる思い出です。
こういうの、大好きです。
女の子にとって、凛太郎さんはものすごいスーパーマンのように思えたでしょう。
私なら、惚れてました(笑)
彼女しか見えない瞬間
歌声に包まれる瞬間
その時の凛太郎少年の気持ちを考えると
きゅんとしちゃいます。
秋の気配は私も大好きな曲です。
恋の熱さにうなされて、その熱が引き始める頃
この曲が心に流れました。
何気ない気持ちの動きをとてもよく表した言葉を使った曲だなって思っています。
思い出せる思い出があるのは素敵なことですね。
風景が目に浮かぶようです。時間よとまれ
>僕に振り向いた彼女は最高の笑顔を見せて くれた。
凛太郎さんの宝物ですね
エルボードロップで、つい熱くなり
「秋の気配」でまた泣かされました。
私には、甘い想い出というものが殆どありませんので、凛太郎さんやジョーさんが書いてらっしゃる、恋愛に関するエッセイを読んでは、その彼女になりきり、遅咲きながら“恋”を体験させていただいてます。
もしかすると、男性の方がいつまでも忘れられないものなのでしょうか?
「愛を止めないで」も大好きですよ。
小田さんを理想の人と、憧れた時期がありました。
これで僕がカッコ良かったのならスーパーマンなのですが(笑)。まあ世の中はそんなに全てを与えてはくれないのです。
「秋の気配」。切なさを積み重ねた詩が胸に刺さりますね。「僕は黙って外を見てる…」なんてことも昔ありましたっけ。
こんなふうな感情の揺れなど、今はもう忘れてしまったのでしょうか。あの頃は本当に毎日切なさを繰り返していました。今は、何故か僕も涙もろくはなったのですけれどもね(笑)。
ジョーさんはともかく、僕もそんなに甘い想い出など多くはないのですよ。恋愛話などさほど書けません。酔って潰れた話は得意なのですが(笑)。
しかしながら、「男性の方がいつまでも忘れられないものなのでしょうか?」 これは正解かもしれません。一般論として書くと語弊がありますが、男のほうが未練たらしいのかもしれませんね(笑)。
読みながらドキドキしてしまいました
まるで一編の小説のようなドラマチックな展開、
続編が読みたくなってしまいます…
あの歌声があれば…人生変わっていましたな(笑)。
素敵なエピソードと言っていただいて恐縮ではありますが、主人公があまりたいしたことないからなぁ(汗)。まあこれまでどおり想い出の断片みたいな記事はときどき書きたいとは思いますが。いつも独りよがりですみません。
続編ねぇ…。(;^_^A アセアセ