前回、はしだのりひことシューベルツの「風」について書いたのだが、なんだか幼年期の思い出話ばかりしてしまった。もう少し音楽シーン的なことも書いてみたい。
と言って、前回も書いたとおりこの時代のことを話すには僕は幼すぎたのである。全然リアルタイムじゃない。リアルタイムで話をすると「最古の記憶」まで書かなくてはいけないので、そこは遡った知識も入れて。
シューベルツのはしだのりひこという人は、ご存知の通り「ザ・フォーク・クルセイダーズ」のメンバーとして著名でもある。フォークルは1965年結成、もちろんアマチュアである。加藤和彦と北山修、そしてオリジナルメンバーは平沼義男さんだった(最初は五人居たという話も聞いた)。その学生バンドは、1967年に解散ということになり、自主制作アルバムを作成する。
ところが、そのアルバムに「帰って来たヨッパライ」が収録されていたことから、関西のラジオを中心に火が付く。
オラハシンジマッタダ オラハシンジマッタダ
この録音回転早回しはあっという間にブームとなったようで、メジャーデビューの話が多数持ち込まれた。しかし既に解散していて、加藤和彦さんと北山修さんは一年限りという前提でプロデビューする。その際、新しくメンバーに加わったのが端田宣彦さんだった。
この頃の京都の音楽シーンというのはさぞかし熱かった(厚かった)のだろうと思う。杉田二郎、またロック・キャンディーズ(谷村新司)。岡林信康も現れようとしていた。もちろん僕は京都在住だったが幼すぎて全く知らない。
フォークルは「悲しくてやりきれない」「さすらいのヨッパライ」などの名曲を残し、「青年は荒野をめざす」を最後に約束どおり一年で解散。北山修さんは大学院に進学し、後にお医者さんになる。本当は自切俳人とヒューマンズー(ここらへんは僕はリアルタイム)の話も書きたいが割愛。加藤和彦さんはソロとなり、後にサディスティック・ミカ・バンドを結成する。
加藤和彦&北山修は後に「あの素晴しい愛をもう一度」という不朽の名曲を世に送り出すことになるのだが、はしだのりひこさんはどうしていたか。
シューベルツの結成は、フォークル解散とほぼ同時期だった。切れ目はなく、フォークル解散コンサートにも出演している。メンバーははしださんの他に杉田二郎、越智友嗣、井上博。二郎さんは既にジローズも結成していた。そして「風」の大ヒット。
このシューベルツは、井上博さんが亡くなるという悲劇をもって解散してしまう。内臓疾患であったそうだが、残念なことだった。井上さんは僕の実家の近くにいらっしゃって、母親も「あそこんちの息子さん」という言い方をして残念がっていた。父が僕に繰り返し「風」を聴かせたのもなんとなしに近所のご縁というものがあったのかもしれない。
なお、シューベルツというのはシュー(靴)のベルトということで靴紐のことらしい。ずっと「歌曲の王」シューベルトからの由来だと思っていた。まあ洒落も入っているのだとは思うけれども。
はしださんは、シューベルツ解散の後はクライマックスを結成する。メンバーは藤沢ミエ、中嶋陽二、坂庭省悟。そして「花嫁」というヒットを飛ばす。この曲も完全にスタンダードだ。
花嫁は夜汽車に乗って嫁いでゆくの あの人の写真を胸に海辺の街へ
いい歌だなとつくづく思う。イントロを聴いただけで何か胸に迫るものがある。
この歌は、北山修作詞、端田宣彦・坂庭省吾作曲ということになっている。いろいろなことが言われていて僕も本当のことは知らないのだが、この曲の大半は坂庭省吾さんが作ったと信じている。ただ端田宣彦という名前は重要なので共作ということになったのではないか。
坂庭省吾さんについては、クライマックスに参加する前は中嶋陽二さんらと「マヨネーズ」というフォークグループ(ブルーグラスか?)をやっていた。音源を以前聴いたことがある。昔から声の高い人だった。そしてクライマックスを経て、「高石ともやとナターシャセブン」に参加、それからは「日本列島ズバリリクエスト」などのDJをやっていたこともあって僕らにはお馴染みとなる。
「ズバリク」そして「宵々山コンサート」にも僕は出没していたので坂庭省吾さんのことについては直の話を聞く機会も多かったのだが、坂庭さんは「花嫁」についてはほとんど語っているのを知らない。ただ、「坂庭省吾がもう作曲をしなくなったのは、花嫁を作るのに苦労しすぎたせいだ」という一文をどこかで読んだことがある。花嫁は坂庭さんの代表曲だと僕は思いたいのだが。
坂庭省吾さんは、4年前癌で他界した。享年53歳。
これを聞いた時はショックだった。木田高介さんが亡くなったときもショックだったし、城田じゅんじさんがああなっちゃったこと(詳細は書かない)も辛かったが、坂庭さんが亡くなってしまうとはなあ。いつまでも僕は「花嫁」の作者として憶えておきたい。
命かけて燃えた恋が結ばれる 帰れない何があっても心に誓うの
この歌もかつて「サンキュ論争」ではないが、歌詞をめぐっていろいろな憶測が飛んだことを憶えている。「あの人の写真を胸に」とか「故郷の丘に咲いてた野菊の花束」などの歌詞から、もしかしたらもう彼は亡くなってしまったのではないか? という話が広がり、それでも彼の元へ急ぐ花嫁は本当は後を追おうとしているのでは、などと言われた。夜汽車に乗って。まあそんなに深読みしてもしょうがないとは思うのだが、一度北山修さんに聞いてみたい。
はしださんはクライマックスを解散後、エンドレスを結成する。メンバーは林竹洋子、和泉常寛、北村謙。
この北村謙という人は、僕と同世代の関西(京都以外も)在住の人で深夜放送族だったひとには非常にお馴染みだろう。当時はきたむらけん(ひらがな表記)で、日本列島ズバリクをはじめ、MBSヤングタウンでも有吉ジュンさんとDJをつとめ、またそのグループ「ばっくすばにぃ」は関西のラジオで広く活躍した。公録番組「丸物わいわいカーニバル」で鶴瓶師匠が司会をしていた時代はほぼレギュラーゲストだった。「しあわせ京都」は地域的ヒットだったとは思うけれども。
きたむらけんさんはその後一線を引かれて(突然アニメ「イタダキマン」のエンディングで復活されたのには驚いたが)、僕も京都を離れて後はどうしてらっしゃるのかは知らなかった。だが、KBS京都テレビがケーブルで西宮にも映るようになって、冠番組を持って復活されてらっしゃったのには快哉。最も当時の面影はあまりなく、コワモテのおっちゃん風になってたけど。ただ、先日の番組ではバンジョーも弾いてくれていた。
閑話休題。エンドレスについては僕はよく知らないのだけれど、「嫁ぐ日」という名曲については、テレビ番組のテーマ曲(西條凡児の「娘をよろしく」)となったので、僕同様知っている人が多いのではないかと思う。
とってもおしゃべりでよく笑う どこにもいるような
あなたもいつの日か恋したら 今日の私のような
きたむらけんさんが結婚するとき、奥さんとなる人を伴ってこの番組に出演し、その時だけ既に解散していたエンドレスが復活したことがある。はしださんがギターを抱えて登場し、「嫁ぐ日」を生演奏した。そのときTVから録音したカセットテープをまだ所持している。何年くらい前の話だろうか。これも本当にいい歌だと思う。
愛の中で育ってきたのに 知らずに生意気ばかりを言っていたのを…
はしだのりひこさんは、その後フォークル関係の人たちとはあまり接点がなく活動をされているらしい。フォークルは何回か期間限定の再結成が行われているが、北山・加藤両氏の他は坂崎幸之助氏が臨時メンバーのような形で入り、はしださんは仲間に入っていない。身体を壊されていたという話も聞くし、また様々な憶測も呼んでいる。いずれも僕が聞くのは噂話の域を出ず本当のところは知らない。
「風」や「花嫁」そして「嫁ぐ日」。坂庭しょうごさんやきたむらけんさん。また全然話とは関係ないけれども自切俳人とヒューマンズー。永冨研二とテネシーファイブやばっくすばにぃ。シャトレセカンドやラブウィンクス。僕が本格的にフォークが好きになって吉田拓郎やかぐや姫のLPが買えるようになるより以前の、ラジオだけを唯一の音源としていた小学生後半から中学生の頃の、大切な大切な思い出とリンクしている音楽やミュージシャン達のことを、今またじんわりと思い出している。
と言って、前回も書いたとおりこの時代のことを話すには僕は幼すぎたのである。全然リアルタイムじゃない。リアルタイムで話をすると「最古の記憶」まで書かなくてはいけないので、そこは遡った知識も入れて。
シューベルツのはしだのりひこという人は、ご存知の通り「ザ・フォーク・クルセイダーズ」のメンバーとして著名でもある。フォークルは1965年結成、もちろんアマチュアである。加藤和彦と北山修、そしてオリジナルメンバーは平沼義男さんだった(最初は五人居たという話も聞いた)。その学生バンドは、1967年に解散ということになり、自主制作アルバムを作成する。
ところが、そのアルバムに「帰って来たヨッパライ」が収録されていたことから、関西のラジオを中心に火が付く。
オラハシンジマッタダ オラハシンジマッタダ
この録音回転早回しはあっという間にブームとなったようで、メジャーデビューの話が多数持ち込まれた。しかし既に解散していて、加藤和彦さんと北山修さんは一年限りという前提でプロデビューする。その際、新しくメンバーに加わったのが端田宣彦さんだった。
この頃の京都の音楽シーンというのはさぞかし熱かった(厚かった)のだろうと思う。杉田二郎、またロック・キャンディーズ(谷村新司)。岡林信康も現れようとしていた。もちろん僕は京都在住だったが幼すぎて全く知らない。
フォークルは「悲しくてやりきれない」「さすらいのヨッパライ」などの名曲を残し、「青年は荒野をめざす」を最後に約束どおり一年で解散。北山修さんは大学院に進学し、後にお医者さんになる。本当は自切俳人とヒューマンズー(ここらへんは僕はリアルタイム)の話も書きたいが割愛。加藤和彦さんはソロとなり、後にサディスティック・ミカ・バンドを結成する。
加藤和彦&北山修は後に「あの素晴しい愛をもう一度」という不朽の名曲を世に送り出すことになるのだが、はしだのりひこさんはどうしていたか。
シューベルツの結成は、フォークル解散とほぼ同時期だった。切れ目はなく、フォークル解散コンサートにも出演している。メンバーははしださんの他に杉田二郎、越智友嗣、井上博。二郎さんは既にジローズも結成していた。そして「風」の大ヒット。
このシューベルツは、井上博さんが亡くなるという悲劇をもって解散してしまう。内臓疾患であったそうだが、残念なことだった。井上さんは僕の実家の近くにいらっしゃって、母親も「あそこんちの息子さん」という言い方をして残念がっていた。父が僕に繰り返し「風」を聴かせたのもなんとなしに近所のご縁というものがあったのかもしれない。
なお、シューベルツというのはシュー(靴)のベルトということで靴紐のことらしい。ずっと「歌曲の王」シューベルトからの由来だと思っていた。まあ洒落も入っているのだとは思うけれども。
はしださんは、シューベルツ解散の後はクライマックスを結成する。メンバーは藤沢ミエ、中嶋陽二、坂庭省悟。そして「花嫁」というヒットを飛ばす。この曲も完全にスタンダードだ。
花嫁は夜汽車に乗って嫁いでゆくの あの人の写真を胸に海辺の街へ
いい歌だなとつくづく思う。イントロを聴いただけで何か胸に迫るものがある。
この歌は、北山修作詞、端田宣彦・坂庭省吾作曲ということになっている。いろいろなことが言われていて僕も本当のことは知らないのだが、この曲の大半は坂庭省吾さんが作ったと信じている。ただ端田宣彦という名前は重要なので共作ということになったのではないか。
坂庭省吾さんについては、クライマックスに参加する前は中嶋陽二さんらと「マヨネーズ」というフォークグループ(ブルーグラスか?)をやっていた。音源を以前聴いたことがある。昔から声の高い人だった。そしてクライマックスを経て、「高石ともやとナターシャセブン」に参加、それからは「日本列島ズバリリクエスト」などのDJをやっていたこともあって僕らにはお馴染みとなる。
「ズバリク」そして「宵々山コンサート」にも僕は出没していたので坂庭省吾さんのことについては直の話を聞く機会も多かったのだが、坂庭さんは「花嫁」についてはほとんど語っているのを知らない。ただ、「坂庭省吾がもう作曲をしなくなったのは、花嫁を作るのに苦労しすぎたせいだ」という一文をどこかで読んだことがある。花嫁は坂庭さんの代表曲だと僕は思いたいのだが。
坂庭省吾さんは、4年前癌で他界した。享年53歳。
これを聞いた時はショックだった。木田高介さんが亡くなったときもショックだったし、城田じゅんじさんがああなっちゃったこと(詳細は書かない)も辛かったが、坂庭さんが亡くなってしまうとはなあ。いつまでも僕は「花嫁」の作者として憶えておきたい。
命かけて燃えた恋が結ばれる 帰れない何があっても心に誓うの
この歌もかつて「サンキュ論争」ではないが、歌詞をめぐっていろいろな憶測が飛んだことを憶えている。「あの人の写真を胸に」とか「故郷の丘に咲いてた野菊の花束」などの歌詞から、もしかしたらもう彼は亡くなってしまったのではないか? という話が広がり、それでも彼の元へ急ぐ花嫁は本当は後を追おうとしているのでは、などと言われた。夜汽車に乗って。まあそんなに深読みしてもしょうがないとは思うのだが、一度北山修さんに聞いてみたい。
はしださんはクライマックスを解散後、エンドレスを結成する。メンバーは林竹洋子、和泉常寛、北村謙。
この北村謙という人は、僕と同世代の関西(京都以外も)在住の人で深夜放送族だったひとには非常にお馴染みだろう。当時はきたむらけん(ひらがな表記)で、日本列島ズバリクをはじめ、MBSヤングタウンでも有吉ジュンさんとDJをつとめ、またそのグループ「ばっくすばにぃ」は関西のラジオで広く活躍した。公録番組「丸物わいわいカーニバル」で鶴瓶師匠が司会をしていた時代はほぼレギュラーゲストだった。「しあわせ京都」は地域的ヒットだったとは思うけれども。
きたむらけんさんはその後一線を引かれて(突然アニメ「イタダキマン」のエンディングで復活されたのには驚いたが)、僕も京都を離れて後はどうしてらっしゃるのかは知らなかった。だが、KBS京都テレビがケーブルで西宮にも映るようになって、冠番組を持って復活されてらっしゃったのには快哉。最も当時の面影はあまりなく、コワモテのおっちゃん風になってたけど。ただ、先日の番組ではバンジョーも弾いてくれていた。
閑話休題。エンドレスについては僕はよく知らないのだけれど、「嫁ぐ日」という名曲については、テレビ番組のテーマ曲(西條凡児の「娘をよろしく」)となったので、僕同様知っている人が多いのではないかと思う。
とってもおしゃべりでよく笑う どこにもいるような
あなたもいつの日か恋したら 今日の私のような
きたむらけんさんが結婚するとき、奥さんとなる人を伴ってこの番組に出演し、その時だけ既に解散していたエンドレスが復活したことがある。はしださんがギターを抱えて登場し、「嫁ぐ日」を生演奏した。そのときTVから録音したカセットテープをまだ所持している。何年くらい前の話だろうか。これも本当にいい歌だと思う。
愛の中で育ってきたのに 知らずに生意気ばかりを言っていたのを…
はしだのりひこさんは、その後フォークル関係の人たちとはあまり接点がなく活動をされているらしい。フォークルは何回か期間限定の再結成が行われているが、北山・加藤両氏の他は坂崎幸之助氏が臨時メンバーのような形で入り、はしださんは仲間に入っていない。身体を壊されていたという話も聞くし、また様々な憶測も呼んでいる。いずれも僕が聞くのは噂話の域を出ず本当のところは知らない。
「風」や「花嫁」そして「嫁ぐ日」。坂庭しょうごさんやきたむらけんさん。また全然話とは関係ないけれども自切俳人とヒューマンズー。永冨研二とテネシーファイブやばっくすばにぃ。シャトレセカンドやラブウィンクス。僕が本格的にフォークが好きになって吉田拓郎やかぐや姫のLPが買えるようになるより以前の、ラジオだけを唯一の音源としていた小学生後半から中学生の頃の、大切な大切な思い出とリンクしている音楽やミュージシャン達のことを、今またじんわりと思い出している。
僕は、この「花嫁」の記事の前の「風」の記事でも書きましたが(あの記事に音楽のことは全然書いていませんが)、シューベルツの時代は本当に子供で、同時期の記憶、TVで見ていたとかそういうことは全く憶えていないのです。なので、この記事も聞き書きみたいなものです。どうもすみません。
ただ、井上さんのことについては、僕の母親がよく「格好いいひとやったわ」と言っていました。「プラタナスの枯葉舞う~」は井上さんだったかと思います。今はジャケット写真などで井上さんを見るくらいですが、男前ですよね。
夜が明けたらもう旅に出る
ふるさとのあの丘に もう帰れない 今はもう帰れない
さすらい人の子守唄。いいうたですよね。ウッドベースを弾く井上さんも旅に出られてずいぶん経ちました。今でも空の上では素敵なままなのでしょうね。
大人の言うことは身勝手といつも怒っていた あなたも今にすぐ~ 「嫁ぐ日」はいいですよね。
はしだのりひこさんの歌声は本当にやさしくてやわらかでしたよね。シューベルツ以降は、藤沢ミエさん、林竹洋子さんと女性ボーカルでグループを組まれましたが、この綺麗な女性の声にはしださんがからむ時が良かったですよね。命かけて燃えた~とはしださんの声が聴こえるときが最高です。
「嫁ぐ日」は確かはしださんがベストを出された時に収録されていたと思うのですが、どうだったかな? (汗)
大竹まことの番組に月一で出てるようですね。
ところで、ばんばんの「ラジオDEしょー」、まだ聴けていないのですよ(汗)。せっかく教えていただいたのに。こうなったら録音しかないかなぁ…。
初めまして。
シューベルツの井上さんのお話が出ていたのでお邪魔します。当時田舎の高校生だった私、関西フォークの大ファンでした。特にシューベルツが好きで中でも井上さんが大好き。突然に亡くなられたときのショックは今でも忘れられません。
夜行列車に乗って京都のご実家にお悔やみに行きました。お身内以外はご遠慮下さい、とありましたが博さんのお父様が、そんなに遠くからよく来てくれはった、といって中に入れてくださったんです。
まだ祭壇も整ったばかりでしたが、棺の前に、ぽつんとハイライトが一箱おいてあり、それを見た途端、一緒についてきてくれた友達にすがって号泣したのを今でも覚えています。
本当にカッコイイ、素敵な方でした。
(今頃遅すぎますが・・)
きたやまおさむさんはご案内のように月1のゲストとして
大竹まことさんの文化放送ゴールデンラジオ(月~金昼ワイド)に
出演されています。
リアルタイムでは関東圏以外は無理ですが、きたやまさんをはじめ
メインゲストのコーナーはPodCastで頻繁に更新されています。
文化放送のサイトあるいはiTune storeのサイトで簡単に入手できます。多分、過去の出演分も全部聴けるのでは・・
余談ですがさすが東京という感じで、文化放送の大竹さん、TBSの小西さんと結構聴きごたえがあります。しかも毎日PodCastで配信されるので音楽以外はすべて把握可能です。
直近ではパッチギに関して、イムジン河の評価について
井筒監督の解釈に結構明確に異議を唱えられていたのが
印象的でした。当然アグリーな反応が返ってくると思った
大竹さんの困惑ぶりも伝わってきて面白いと思いました。
このコメント欄の最初になちさんが書き込み下さっていますが、pipiさんのお話を伺うにつけまた井上博さんのお姿が甦るような気がしてなりません。
もうあれから40年近く経っているのですね。あの新大宮商店街一の男前(僕の母親談)が亡くなってから。
それだけの月日を乗り越えてさらに色褪せない井上博さんという人は、本当に魅力的な方だったのでしょう。僕は同時代を知らず、そのうたごえだけをわずかに遡って偲ぶことしか出来ませんが、あらためてその早すぎた生涯が惜しまれてなりません。
以後探して北山修さんを追いかけてみたいと思います。貴重な情報ありがとうございます。しかしたくみさんは本当にお詳しいですね。いつも助かります。
しかし、なるほどね(笑)。イムジン河の評価で硬派ぶりをまた発揮されてらっしゃいますね。迎合しないところがいいなぁ。