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凛太郎の徒然草

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とんぼちゃん「ひなげし」

2011年05月31日 | 好きな歌・心に残る歌
 最近、とんぼちゃんばかり聴いている。特に理由はない。だが強いてあげるなら、郷愁かもしれない。なんかいいんですよね。
 とんぼちゃんをちゃんと聴いたのは、実は80年代半ばになる。知ったときには、もう解散していた。正確には「ひと足遅れの春」はラジオのエアチェックにより知っていたけれども、それ以上深入りすることはなく。

  ひとつめくり忘れた暦が寒そうに震え柱に貼りついている
  冬の間君からの手紙が何故かこないままで季節はめぐるよ
 
 いい歌なのだけれども、そのときはそれ以上広げることは出来なかった。
 これは言い訳ではないが無理もないことで、音楽を聴くのにはお金がかかる。「ひと足遅れの春」は僕がまだ小学生の頃であり、レコードなどほいほい買えない。親にねだってやっとのことで小椋佳のあのNHKライブ盤を手に入れたときは嬉しかったが、そこまでである。中学高校くらいでようやく周りに同好の士が現れ所持しているLPの貸し借りなどで底辺を広げ、またアルバイトなども出来るようになり、そして貸しレコード屋があらわれる。それまでは、完全にラジオに頼っていた。もちろんTVもあるけれども、フォークシンガーの多くは当時はTVに出なかった。
 とんぼちゃんは、それほどラジオで頻繁にかかるわけでもなく、深められなかった。

 さて。
 フォークという音楽ジャンルに、男性デュオ、もしくはトリオが多い。何でなのかと思う。もちろん統計があるわけでもなし、僕の感じ方だけで言っているだけかもしれないけれど。
 ひとつは、海外の影響か。キングストントリオの存在は大きかったのかも、と考えてみる。しかし、PPMだっていたはずである。日本で最初に世に出たフォークグループは五つの赤い風船なんだろうか。これは、女性ボーカルのフー子さんがいてPPMに近い。次は六文銭かな。これは最初男性ばかりだったけれども、後に女性ボーカルが入る。そもそもPPMフォロワーズがその前身であり、やっぱりPPMかな。
 トリオで最初に出てきたのは…よくわからないけれどもフォーククルセイダーズがまず思い浮かぶ。デュオは、ブレッド&バターかビリー・バンバンか。もちろん、それ以前に星の数ほどのグループがいたはずだが、このあたりがごく初期なのかなとも思う。いずれも、吉田拓郎以前の60年代。
 結局よくわからないんだけれども、ビリーバンバンを見ると面白いなと思う。構成は、兄ちゃんがベースで進さんがギター。最小限のバンドなのだなと。フォークは歌謡曲と違って、昔はメンバーだけで成立しなくてはいけなかった。フォークルはギター2、ベース1。以降、トリオだとかぐや姫もNSPも、ベースがいる。
 昔はウッドベースだったから、運搬が大変だっただろう。よくこうせつおいちゃんが「タクシーが止まってくれないからパンダさんは隠れていて止めてから交渉した」という話をするけれども、電車移動と津々浦々ライブが当たり前だった時代は苦労が絶えなかったのだろうな。アリスなんて極めて特殊な構成のグループは、当然ドラムセットなど持ち運べず、キンちゃんはコンガだったらしい。それだって、移動は骨折りだっただろう。

 それはともかく、フォークのデュオ、もしくはトリオというのは、ボーカルとバックバンドという関係でないのがいい。もちろんメインボーカルという存在は居たとしても、たいていはハモってくれる。それが心地いい。
 そんなのフォークに限らんだろ、と言われそうだが、実は当時の歌謡曲などでは、案外こういうスタイルは少ない(と、思う)。ハーモニーということで言えばそりゃダークダックスなどのしっかりとしたコーラスグループはいたけれども、歌謡曲では少なかった。
 基本、当時の日本の歌手はソロである。演歌のハーモニーなんか聴いたことが無い。こまどり姉妹なんて知っている年代ではない。クールファイブとか居たけれども、ああいうのも完全にメインボーカル制だった。まれにデュエットもあったけれども、ハーモニーという感じではなかった。
 ポップスではグループもいた。GSなどはスパイダースみたいにツインボーカルもあったようだけれども、それを詳細に知る年代でもなく。せいぜいフォーリーブスか(スリーファンキーズやジャニーズは昔過ぎる)、女性だとゴールデンハーフかキャンディーズくらい。ザピーナッツはこれまた古すぎる。
 だから、ビリーバンバンが少しハモるだけでおおっと思い、赤い鳥なんてのはものすごくきれいに聴こえた。

 70年代半ばには、フォークデュオ、また三人組がどっと出てくる印象がある。
 NSPがデビューしたのが73年。その翌年に、ふきのとう、グレープ、マイペース、三輪車、とんぼちゃんなどなど。男女デュオだとダカーポもこのあたり。
 翌年、「風」が結成される。シグナル、俄などがデビュー。伝書鳩もこの年くらいかな。デビューではないけれども、クラフト、そしてバンバンがいちご白書で売れたのもこの年。古時計もこのくらいかなあ。女性デュオでは、たんほぽもいた。
 その中で追いかけられたのは、風と、NSP、ふきのとうくらい。みなあまりTVに出なかったから、小学生だとなかなか耳に入ってこない。
 例外的にグレープはよくTVに出ていた。賞レースにも参加していたのではなかったか。中条きよしと新人賞を争っていたような記憶があるぞ。まっさんが歌謡大賞を狙っていたというだけで面白いが、だから「精霊流し」はよく知っている。
 当時の僕などは、フォークはTVに出ないものと決めてかかっていたので、こういうのは珍しかった。TVに出ていたのは、ガロと、海援隊とグレープくらいじゃなかっただろうか。あとはたまにかぐや姫。チューリップはフォークと言うにはあまりであるし。
 これはもちろん、出ないと宣言されている方もいれば特定の番組だけ出ていた方もいるし、そもそもTV向きじゃないと呼ばれなかった方もいるだろうし、事情は様々だとは思うけれども、とにかく「あんまり」出ていなかった。
 そのTVに出ていた数少ないフォークデュオの中に「ちゃんちゃこ」が居た。
 ちゃんちゃこの「空飛ぶ鯨」はヒットしたので、ご存知の方は多いと思う。作ったのは、みなみらんぼう氏。
 そのちゃんちゃこの鯨を今聴いてみると、「みんなのうた」に出ていてもおかしくないような童謡っぽさも持ち合わせつつ、実にフォークっぽいフォークだとも思える。なにせ、テーマは文明批判である。当時であれば公害問題、今で言えば環境問題を歌っている。反社会的な骨太のフォークに聴こえる。
 ところが、当時の小学生の僕はちゃんちゃこを全然フォークだと思っていない。兄貴が購読していた「中一時代」か「中一コース」か何か忘れたけれども、そこにちゃんちゃこの特集が確か組まれていた(記憶による)。「好きな食べ物は何?」とか、そんな質問に答えている。扱いはアイドルや。実際それに並列するようにあいざき進也とか城みちるなんてのも同じ質問を受けて答えていた。知らないけれども、多分明星や平凡にも登場していたのではないか。
 ジャンルってのは、わからんな。
 結局「~っぽい」ということしか言えないのであって、それは弾き語りであるとか、自分で曲を書いているとか、編曲の雰囲気とか。そんな要素でしかなくて、そのうた自体は、うたでしかない。「神田川」なんて八代亜紀がうたえば演歌だ。「山谷ブルース」しかり「赤色エレジー」しかり。
 そうやって思えば「とんぼちゃん」に郷愁をおぼえるのも無理ないような気がする。どうも70年代の歌謡曲っぽい。これは、何でだろうか。メロディーラインなのか、編曲なのか。以前「俄」の雨のマロニエ通りの話を書いたけれども、あれもそれに近い。NSPも、近い雰囲気を持つ曲が多い。
 「ひと足遅れの春」は、曲だけで言えば当時ちょっと寂しそうな雰囲気を持つ、例えば豊川譲や片平なぎさがうたってもそれなりに聴けたような気も、一瞬してしまう。
 この「ひと足遅れの春」については、友人のよぴちさんも考察をされていて、「歌謡曲の親しみやすいメロディーライン」とおっしゃる。同世代なので感じ方が近い。この融合が「ニューミュージック」なのかどうかはさておき、とんぼちゃんとちゃんちゃこを対比させると、当時の印象はとんぼちゃんがフォークでちゃんちゃこはアイドル的。しかし今うたを聴けば、ちゃんちゃこがフォークでとんぼちゃんが歌謡曲的。ジャンルって無意味だなと。
 ただひとつ言えるのは、とんぼちゃんは(ちゃんちゃこも)デュオだったということ。この味わいは、当時のソロ中心の歌謡曲ではなかなか出せない。強いて言えばジャニーズジュニアスペシャルかな(異論受け付けます)。
 いずれにせよ時代のなせる曲調と編曲であって、今では無理だろう。今の日本の音楽界はグループ全盛時代で、Kinkiなどは拓郎先生門下で本当に歌が巧いと思うけれども、やっぱりJ-POPだなあ。

 そんなこんなでおっさんは、とんぼちゃんを聴く。たまらん。
 名曲が揃っていると思うけれども、中でも「ひなげし」はいい。何度聴いても、いい。ネットで探したらライブ版もあって(これは僕は持ってなかった)、こっちのほうがいいかも。

  風に吹かれて散る花びらをまとった君の花嫁衣裳 僕だけが知っている春は
  遠い昔になったけれど約束どおりやってきました 汽車に乗り君を迎えに

 また詩も哀しいわけで。亡くなっているんだからなぁ…。「微笑はもうかえらないけど」泣けますね。
 とんぼちゃんは、秋田出身のデュオで「トヨ」と「ヨンボ」の二人。だから「とんぼ」ちゃん。お元気なのかな。
 何か「ラブリーフォーク」とか呼ばれてなかったっけ(記憶です)。全国フォーク音楽祭で準優勝、作曲賞。そして「貝がらの秘密」でデビュー。このころはこういうコンテストはいっぱいあったようで、前年にはふきのとう、その前はみゆきさんが入賞している。初代グランプリはチェリッシュ。
 80年代に入って解散されたが、後期の曲はわりにポップだ。もちろんそちらもいい。だが郷愁という点では、やはり初期の曲かもしれない。「ひなげし」はシングル「奥入瀬川」のB面だった。
 
  ひっそりと咲く花の優しさを とても愛した君でした
  薄日ざしの静かなお寺も今は 花盛りです

 せつない。こういううたを、最近はまた聴き返しては浸っている。
 


永井龍雲「問わず語り」

2011年04月30日 | 好きな歌・心に残る歌
 日本のフォークソングは、最初はやはり洋楽の影響から始まったと聞く。それは、ピーター・ポール&マリーであったりキングストントリオであったり、またジョーン・バエズ、ボブ・ディランなど、プロテストソングの系譜がある。僕はまだ生まれていない。そういった音楽があって、日本のフォークというものが誕生してくる。
 僕が生まれた'65年あたりから、関西にフォークの萌芽があらわれる。高石友也や岡林信康、西岡たかし等の大御所が登場し、東京では小室等先生らが活動を始める。僕は言葉もまだ覚えていない頃。
 僕が初めてそういう音楽に触れたのは、三歳のときのシューベルツ「風」であり、また意識したのはTVで流れていたガロの「学生街の喫茶店」であることは、以前にも書いたことがある。
 ラジオの深夜放送を聴きだしたのは、特に早熟というわけではなかったと思うけれども小学校5年くらいであり、その時に僕の中にフォークソングという音楽がどっと入ってくる。まさしくいちどきに、来た。なので、高石ともやも吉田拓郎もかぐや姫も、NSPもふきのとうもみんな既存であり、横一線。時間に差がない。したがって、時系列を追えない(資料的には追えるけれども)。
 だから僕にとってはこの人たち全てが第一世代である。上の世代の人から見れば、高石ともやと山木康世や天野滋が同じくくりとは阿呆かと言われるだろうが、これはもうしょうがない。
 そうして、エアチェックを重ねカセットテープのライブラリーを増やしていた少年時代。そういう'70年代後半に、新たにデビューしてくるフォークシンガーがいる。ここからが、僕の中では第二世代になり、頭の中でも時系列を追って登場してくる。
 僕がラジオを聴いていた頃、「大型新人」としてまず現れたのは、松山千春だった。「デビューの時から知っている」と言えるのは、この人が僕にとっては最初ではないか。
 そういう僕の中のくくりだけで「第二世代」としてしまうのは甚だ恐縮な話ではあるのだが、もうひとつ言えるのは、松山千春は「岡林信康や加川良に影響を受けて音楽を始めた」と公言している。それより上の世代は、だいたいが前述のPPMやボブディラン、またS&Gもあるだろうし当然ビートルズもあるが、やはり洋楽から出でて、自分達で日本のフォークという音楽を作ってきた人たちだろう。そして、そういう「日本発のフォーク」の影響下で音楽を始めた、というのは、やはり第二世代と言ってもいいのではないかと思えてくる(さだまさしが加山雄三の影響を受けた、というのはひとまず措いて)。
 このあと、新人がぞくぞくと現れてくる。
 ここからは時系列で僕の記憶にあるのだが、その翌年あたり、鹿児島出身の歌手が出てくるのではなかったか(僕はこの吉田拓郎に影響を受けたという、今もカリスマ的人気を誇る歌手を全く受け付けないのだが…公けのブログでこういうことを書いてはいけないとは思うのだけれど、だんだんそういう気遣いが面倒になってきた。あくまで僕の好みだと受け取って欲しい)。
 そしてまた翌年くらいに、永井龍雲が出てくる。円広志もそうだったかもしれないが。

 永井龍雲を最初に聴いたときは、なんてきれいな声の人だろうと思った。もちろん、松山千春という人も抜群の歌声を持った人だが、チー様が朗々と歌い上げるのに比べ、もっと脆さを内包した、少年が胸を遠慮がちに張りつつ歌う声。チー様はもう既に老成していたかのような完成した歌声だが、永井龍雲の歌声はまだ途上の、みずみずしさあふれる叫び。
 当時、まだ20歳だったんだな。永井龍雲は。
 そしてその曲が、また不思議な魅力を持っていた。デビュー曲の「想い」。

  どうしたらこの苦しみを逃れることができるのか

 なんでデビュー曲の詞の冒頭が、こんな「一握の砂」みたいに辛いのか。ところが曲調は「永井節」とも言える晴れやかかつ伸びやかなメロディ。しかしこの曲が徐々に進行するにしたがい、まるでグレープの曲のように寂しく終わる。あまりこういう曲調をしらなかったので、少年の僕にはとても印象深かった。
 当時、僕が便宜的にそう書いた「第二世代」は、やはり「○○二世」的な評価のされ方もしていた。マスコミというのはすぐにそんなふうに例えたがるのだが、松山千春が岡林二世だとすれば、あの鹿児島出身の歌手(ゴメンナサイ検索避けです)は拓郎二世、そして永井龍雲は「井上陽水二世」だと言われたのを聞いたことがある。なんだそれは。
 共通項は、同じ福岡出身だったということと、名が「陽水」「龍雲」とまるで僧侶か書道家のような名前であったこと、そして、髪型が似ていたくらいだっただろう。音楽性は僕の判断で申し訳ないが、異なると思う。ただ、陽水になぞらえられるほど嘱望されていたのは確かだ。 

 永井龍雲は翌年「つまさき坂」を経て、「道標ない旅」がヒットする。この曲は、グリコアーモンドチョコのCMソングになったから、僕と同世代、もしくは上であれば知っている人が多いと思う。

  大空に群なす鳥達よ 君の声を見失うなよ
  青春を旅する若者よ 君が歩けば そこに必ず道はできる

 名曲の誉れ高い「道標ない旅」。希望に満ち溢れている。青春とは何と素晴らしきものか。
 話がずれるが、今もそうかもしれないけれど、当時はCMソングってすごかったなぁということを思い出す。CM使用曲はヒットが約束されていた。このグリコのCMも、前年に使用された曲は松山千春の「季節の中で」だ。これがチー様の大変な出世作になったのはいうまでもない。
 その「季節の中で」に劣るとは思えない「道標ない旅」だけれども、そこまでは売れなかった。これは、流されていた期間の問題だった、とも言われている。
 この永井龍雲の曲が採用されたCMがオンエアされていた時、山口百恵・三浦友和が恋人宣言。グリコはこの話題を逃さず、「道標ない旅」CMを打ち切って百恵友和が共演していた過去のCMに切り替えた。よって、「道標ない旅」はオンエア期間が短い。
 この曲がずっと茶の間に流れ続けていたら、とifを考える。そうすれば「季節の中で」や「愛のメモリー」みたいな認知度になっていたかもしれない。であれば、この青春賛歌は、例えば合唱コンクールの課題曲になったり、卒業式で歌われたり…もっと違う残り方をしたかもしれない。永井龍雲その人も、また違った道が出来ただろう。

 永井龍雲は、この「道標ない旅」に続くシングルとして「悲しい時代に」をリリースする。
 僕はこの曲を聴いたときに「道標ない旅」を超えた、と思った。これはいい曲だと思った。しかし予想に反して、それほど話題にはのぼることがなかった。そういうもんなんかな。

  なんて悲しい時代に生まれて来たんだろう 目に見えぬ物に怯えつつ生きている
  せめてお前だけは惑う事なく 僕と歩いてほしい

 この曲には確かに、朗々と青春を賛美した「道標ない旅」とは違う「影」がある。その影が何に起因するのかは、わからない。「人の流れの中で僕たちは同じ型に個性(いろ)を無くした」というその悲しい時代の中でなんとか主人公は希望を見出そうとするけれども、それは「せめてお前だけは裏切らないで」という痛切な叫びとなっている。
 以後、永井龍雲は鮮烈なスポットライトを浴びることはないけれども、音楽活動を今でも続けていってくれている。先日、偶然TVで龍雲さんを観た。年齢を重ね、味わいを増している。今は沖縄在住らしい。なんと羨ましい。そういえば龍雲さんのご母堂は、確か奄美の方だったはず。

 当時僕が好きだった曲に、「問わず語り」という曲がある。3枚目のアルバム「暖寒」所収。

  向かい風に逆らうようにして今日まで俺は生きてきた
  道の小石に足をとられても黙って埃を掃った

 この曲が、なんだか歳を重ねた自分に妙に沁みいる。
 そもそもおっさん対象のうたなのかなとも思うけれど、永井龍雲が当時21歳であったことに気付き愕然とする。まだ「今日まで俺は生きてきた」というほど生きてないだろ。でも、ミュージシャンってそんな感性くらいは持ってるんだな。そういえば河島英五が「酒と泪と男と女」を作ったのも19歳だったというからね。
 そうやって思えば、これは演歌だな。演歌とフォークの違いなんて、編曲と歌唱法くらいだから。

  言い訳じみた強がり吐いてはこっそり震えているのさ
  問わず語りで独り言みたいにこれでいいんだとそっと呟く

 酒をガソリン代わりに呑む、なんてのはさすが九州男児だなと思うけれど。僕にはそんな呑み方は無理かなあ。
 それはともかく、だいたい男なんてのは、こういうものだと推測。観測範囲は、自分を含む狭い範囲だが、多くはこっそり震えていると思われる。ブログ書くのも「問わず語り」であるのは、間違いない。

  コートの襟を立て隠れるように今は風に追い立てられてる

 追い立てられても、なんとか生きていけるよ。そう自分に言い聞かせながら、今日もぽつりぽつりと歩いている。


河島英五「元気出してゆこう」

2011年03月15日 | 好きな歌・心に残る歌
 あの3.11。僕は、とある場所の応接室に座って人待ちをしていた。考え事をしていた。
 突然眩暈を感じた。あ、これは脳に異常が出た、と思った。三半規管がやられている。座っていても何か平衡感覚がとれない。
 それが「地震」と気付くまでに本当にしばらくかかった。関西では、そんな揺れだった。大きな、しかし静かな長い揺れ。
 「今、地震来ましたよね」「ええ、なんだか東京のほうで大変な揺れだったみたいですよ」
 その時、そんな会話をした。大変な揺れだったのはもっと北のほうだったということをその時は知らなかった。
 帰宅。妻が、青森の両親と連絡がとれない、と泣きそうな顔で言う。それまでに僕も多少の情報を得ていたので、未曾有の規模の地震であったことは知っている。この状況では電話が通じないのはしょうがない。問題は、皆があのときどこに居たか、だ。
 義父母はおそらく家に居ただろうから大丈夫だろう。かなり揺れただろうが、地域的にも家が壊れるほどの場所ではない。楽観も出来ないが、命に関わることは多分、あるまい。気がかりは、義兄だ。仕事で八戸あたりに居た可能性も高い。
 電話は、我が家にはじゃんじゃん掛かってくる。殆どが、僕の身内だ。「奥さんのご実家は大丈夫だったの?」そんなこと言われてもこっちだって連絡がとれてないんだよ。「だって心配でいてもたってもいられなくて」有難い話なんですけど、うちの女房はもっと心配してます。「何とか方法はないの?」だからぁ…。お願いだからこれ以上我が家の電話回線を塞がないで。うちはキャッチホンとかつけてません。この瞬間に向こうから電話があったらどうするの。
 結局その夜は連絡がつかず。眠ることは出来なかった。義父母と連絡がついたのは翌日の夕刻、義兄と連絡がついたのは夜半過ぎとなった。
 無事が確認できれば、いい。電気水道に障害が出ているらしいが、そこは田舎の強み。薪ストーブがあるので凍えることもない。水も、水道に頼らなくても確保できる。農家なので食べ物の備蓄もあるはず。

 身内のことはさておき、TV報道を視聴していると、胸が苦しくなる。
 最初は報道も「○○市では死者が2名出た模様です」などと言っている。そんな規模ではないはずなのだが、必ず報道はそう言う。これが、日を追うごとに数字が増える。そういえば阪神大震災の時も「死者が若干名出た模様です」などと最初は言っていた。阪神高速が横倒しになっている映像が映っているのに、である。その様な物申しをしなくてはいけない理由があるのだろうが、現実との乖離が激しすぎる。

 なんとか身内の安否は確認できたものの、妻の友人たちは東北に散らばって住んでいる。久慈にも、仙台にも、相馬にも居る。連絡などつけられるはずもない。妻は安否情報を必死で追っている。

 我が家も、当日翌日は電話を掛けすぎたなと思って反省している。心配ではあったものの、電話回線パンクの一翼を担ってしまったと思う。こういうときには、冷静さを失う。ちょっと落ち着いて考えればわかることなのだが。しかし、普段あまり行き来の無い親戚まで「あんたの奥さん確か東北だったよな」みたいな感じで連絡してくる。身内の恥を晒すようだが、もう少し気遣いも必要だろう。「ところで、久しぶりだけどあんた元気か」なんて会話をこんなときにしなくてもいい。

 以下も、とりとめもないままに。
 僕の携帯にも、例のチェーンメールがやってきた。「関西電力で働いている友達からのお願いなのですが、本日18時以降関東の電気の備蓄が底をつくらしく…」。「このメールをできるだけ多くの方に送信をお願いします」という文言にやたら憤りをおぼえる。ご承知の通り、関電はそんなことを要求していない。ネットで調べると、やたらブログなどでも「拡散希望」と書いている人が多い。
 これはいったい何が目的なのか。単純に考えれば、愉快犯の仕業だ。回線をパンクさせようと目論んでのことか。それとも情報弱者を笑う目的か。
 チェーンメールなど、不幸の手紙と同じ。僕はいつもそう思っている。僕は、おそらく一般的な人より「善意」というものが欠けている冷たい人間なのでこういうものにはすぐ疑いを持ってしまうが、世の中には「何か自分に出来ることを」と真っ直ぐに考える善意の人々が溢れている。そういう人たちを狙ったとしたら、許しがたい。
 関東では、もっと流言飛語が飛び交ったそうな。

 あの阪神大震災の時でも、流言飛語はやはりあったらしい。しかしながら、それは口伝えであり狭い範囲で止まっていると思われる。今回の場合、阪神の時とは比較にならないほど「ネット」というものが拡大している。みんな、メールで送る。ブログに書く。twitterでつぶやく。そして、拡散する。
 阪神大震災なんて、ついこの間のことだ。その短い間に、ネットワークのシステムが急激に進化した。それに対し、使用する側の技量が追いついていないのではないのか。自分のことを省みつつそう思う。

 「被災地に何か出来ることは」ということがやはり話題になっている。
 こういうときにやはりネットの力が凄く、福井や米子で善意の人が呼びかけたらあっという間に支援物資が集まった、と新聞紙上で見た。だが、輸送手段が無い。
 気持ちは、わかる。しかしこの未曾有の事態に、素人が出来ることは限られている。僕は震災を知らない西宮市民だが、周りには被災経験者が山ほどいる。
 ボランティアは、自衛隊と違い自己完結していない。そこを経験者は言う。被災者や支援者がボランティアの世話をせねばならないようでは本末転倒となる。
 今、西日本に居る素人が出来ることは、募金と、あとは献血くらいしかないのではないか。しかしまたここでも、募金詐欺が現れていると聞く。

 報道は、原発の様子を伝える以外は、だんだんワイドショーと化してきたように見える。避難所から中継し、被災者にインタビューしてまわっている。TVは大衆の鏡なので、これは視聴者のニーズがそうさせているのだと理解している。好奇心を満たすため、とはさすがに思わないが。
 まだ震災は収束していない。継続中である。それは、わかっている。だが全てのチャンネルが、被災者以外の人々に発信する内容でなくてもいいだろうとは、思う。
 ラジオ関西のことをまた、思い出す。あの神戸の放送局は、自らが被災したにも関わらず、震災からわずか14分後に放送を開始、被災者に対して必要な情報だけをずっと流し続けた。
 電源の無い現地で、今回、どれだけの情報が被災者側に届けられているのか、それは気になる。
 そしてまた、放送局の役割はそれだけでもないと思う。不謹慎だと言われるだろうが、笑点や水戸黄門などは放送してもよかったのではないだろうか、とも思う。こんなときだからこそ。

 独立U局は、キー局がないため翌日夜には一部通常放送に切り替え始めた。僕の住むところには、神戸のサンテレビがある。津波の悲惨な映像の視聴に苦しくなっていた僕は、ついザッピングの合間にそちらを観た。TVは森脇健児の「走る男F」を放送している。もちろん、津波情報等の外枠付きだったが。
 この「走る男」というTVシリーズは、初回から観られるときはいつも観ている。もう3年目に入った。現在は企画番組になっているが、最初の一年は森脇健児が北海道から沖縄までを自分の足で走りきるという内容で、その日本縦断の風景が、かつて僕が若い頃やった自転車旅行に重なり、毎回楽しみにしていた。
 その初回シリーズの番組のテーマソングは、河島翔馬が歌う「ジョギング」だった。

  夕日に染まるグラウンド 息を切らせ走った日々 いつも何かを追いかけて たどり着けず傷付いたね

 この曲を歌う河島翔馬は、もちろん河島英五の息子である。
 かつて東京のキー局で冠番組まで持つ売れっ子だった森脇健児は、そのうちに時が移ってしまい東京から京都に戻ってきた。そして自らの原点である陸上部出身というアイデンティティを基盤に、「走る」ということを主眼に置いた企画を立ち上げ、東郷Pとようやく実現にこぎつけた番組が「走る男」である。その主題歌を、森脇は河島翔馬に依頼した。
 河島翔馬は苦悩したと聞く。なかなかいい曲が出来なくて悩む翔馬に、翔馬のおかあさん(つまり英五さんの奥さん)が、「そういえばお父さんが書き残している日記がある」とノートを出してきた。その中に、この「ジョギング」の原型となる詩があったという。
 この詩を歌にすべく、姉の河島あみる、河島アナムが協力し、言わば河島英五の子供たちが総力を結集して作ったのがこの曲だ。なので作詞は「河島英五」となっている。
 番組を観ていたこともあり、僕は今でもこのうたを聴くたびジンとくる。

 英五さんが亡くなって、ちょうど10年になる。あのときは、まさに急逝だった。
 「走る男F」を観つつ、思った。そうか、もう英五さんはいないのか、と。
 こういう時にもっとも相応しい歌い手は、もっとも人々を勇気づけられるうたを、まっすぐに目を見て力の限り歌ってくれる人は、河島英五だったのに。
 河島英五は、男の典型を絵に描いたような人だった。いつも大きな身体で、めいっぱいの声で人たちを歌で励まし続けた。あの震災のときも。神戸で毎年チャリティコンサート「復興の詩」を開き、元気出していこうぜと呼びかけ続けていた。
 まだ、今度の震災は継続している。けれども、かならず復興の烽火が上がるときは、来る。そのときに必要になるのが、英五さんのうただったはず。英五さんはもういないけれども、そのうたは今も生きている。
 
  元気出してゆこう! 声掛け合ってゆこう!

 英五さんの「元気出してゆこう」がみんなで歌える、そんな日が早く来るように。誰に願えばいいのかもわからないけれど、とにかく祈念してやまない。
 
 震災救助・支援にあたられているみなさん。お疲れ様です。ありがとうございます。本当によろしくお願いします。僕たちは今、みなさんに託すしか手段を持ちません。どうか、頑張ってください。
 被災されている皆さんに心よりお見舞い申し上げます。折悪しくまた寒さに厳しさが増すとか。天候を恨みますが、何とか元気でいて下さい。
 そして志半ばにして亡くなられた方々に、慎んで追悼の意を表します。

 いったい何だよあの津波はよ! 神様もひでぇことをしてくれるもんだな! 馬鹿野郎!

甲斐バンド「ポップコーンをほおばって」

2011年02月19日 | 好きな歌・心に残る歌
 なぜか、50代の人ふたりと、おじさん3人でカラオケボックスに行くことになってしまった。この年代はスナック世代であって、こういう若い人ばかりの場所など場違いも甚だしいのだが、そのときはそうなってしまったもの、仕方が無い。
 最も若いのは僕で、僕が仕切らねばならない。が、実は僕もシステムが分かっていないので苦労してしまった。どうやって曲を入力すればいいんだ。半音上げたいのだがどうすれば? その経緯については、別ブログで書いたので参照してもらえれば有難い。
 で、その場の最も年長の人が「今日は甲斐バンドだけでいこう」と提案した。
 その人は僕より9歳上だが、筋金入りの甲斐バンドファンである。頭部に髪はないが、それでも甲斐よしひろよりは若く、若い頃から頻繁にライブに足を運んでいたそうな。曰く「オレはデビューからずっと応援してきた」。なるほどね。
 普通なら「そんな理不尽な」と年長者の横暴に対しひとこと言うところだが、まあよかろう。甲斐バンドだけ歌うのも悪くは、ない。
 まず「かりそめのスウィング」を入力して、その人がマイクを持った。

  ジングルベルに街が浮き足立った夜 人の声と車の音が飛び交ってる

 うまい。さすがに年季が入っている。歌い続けてきた人なのだ。
 その歌の最中に、もう一人の人がこっそりと僕に言った。
 「HIROと安奈だけは歌うなよ。俺の持ち歌だからな」
 はいはいわかりました。おそらく、この人は「HIRO」と「安奈」しか知らないのだろう。「かりそめのスウィング」を知らないと言った段階で予想してますよ。
 僕はその人の「HIRO」を入力し、そして自分のために「LADY」を入れた。

  人はいつも僕を嘲って あの街の角を通り過ぎていった だから…

 とは言うものの僕だって、実は甲斐バンドのことはあまり知らない。「HIRO」と「安奈」しか知らない、ということはないけれども、いいリスナーだったとはとても言えない。いやむしろ、避けていたと言えるかもしれない。
 甲斐バンドのデビュー時、僕はまだ小学生だった。なので「筋金入りの甲斐バンドファン」の人のようにリアルタイムで、というわけにはいかない。けれども、生意気にもその当時から深夜放送ファンだったせいで、その存在と「裏切りの街角」という歌くらいは知っていた。でもあまり興味はなかったかもしれない。
 あるとき「吟遊詩人の歌」を聴いた。とてもいい曲だと思った。当時、フォークばかり聴いていた僕に、しっくりとはまった。甲斐バンド、いいじゃないか。
 (小学生から中学にあがろうとする頃のガキの感想である。生意気なのは勘弁して欲しい)
 
 そう。僕がランドセル背負った小学生から中学に進級しようとする時代。中古のギターを4800円で買い、雑誌に載る小林雄二さん考案の「YUMIN譜」を手がかりにアルペジオだのスリーフィンガーだのを練習しだした時期。ラジオでナターシャセブンの深夜放送を聴き続け、フォークにどっぷりと浸かった頃。つまり、'77年から'78年。
 その頃世の中に「ニューミュージック」なる言葉が頻繁に登場する。
 実にヘンなマスコミ用語で、どういう音楽を指すのかも明確でない。そもそも音楽にジャンル分けは不毛なことだが、それでも「フォーク」「ロック」「クラシック」などと言い分けるのは便利ではある。しかしニューミュージックとは。早晩死語になったが、シンガーソングライターたちの作る楽曲は、みなこのようにひと括りであらわされていた。
 そのニューミュージックの旗頭として、アリスが「冬の稲妻」でブレイクする。天才・原田真二が颯爽と現われる。世良正則と渡辺真知子が新人賞を独占する。サザンオールスターズがデビューする。松山千春が「一夜限り」とベストテンで歌う。
 これらみな「ニューミュージック」と呼ばれた。全く意味がわからないのだが、今も昔もマスコミとはこういうものなのかもしれない。
 そんな中、甲斐よしひろが雑誌のインタビューに答えているのを読んだ。
 以下は、その雑誌を所持していないので(立ち読みだったかもしれない)、出典が明確でないということをまず申し上げておきたい。僕の記憶違いがあるかもしれないし、資料性は全く無く、気分を害される方がいたら誠に申し訳ない。
 甲斐よしひろは「今年はアリス、矢沢永吉が翔んだ。来年は甲斐バンドが翔ぶ」と宣言していた。次代ニューミュージックシーンは俺たちのもの、なんて煽り文句が付いていたような気もする(繰り返すが僕の記憶であり信用はしないで欲しい)。
 その言葉どおり甲斐バンドは'79年に「HERO」を大ヒットさせ有言実行を証明するのだが、そのインタビュー内で甲斐よしひろは「男と女のことが一番大きい」と答えていた。どういう歌を作っていくのか、という話の中で。
 これに、中学一年の僕は強烈な違和感を覚えた。そんなことがいちばん大きなことじゃないだろう、と。高石ともやや、また岡林信康を聴いていた僕は、「男と女のこと」なんて小さなこと、音楽はもっとメッセージを発信して世の中を変革すべし、と思っていた。
 全くのところ、笑止である。だいたい、ついこの間までランドセルを背負っていた少年である。本格的な恋愛など経験もしていない。そんな子供が何故「男と女のこと」を小さいと思うのか。阿呆だと言える。
 さらに、甲斐よしひろが言ったのは一種の比喩だろうとも今にしては思える。結局、人の生き様を歌いたい、ということを「男と女」という言葉で抽出したのだろう。ただ表層でとらえればいいというものではない。
 だが、僕はそれ以降、甲斐バンドを積極的には聴いていない。せっかく「吟遊詩人の歌」という入り口もあったのに、みすみす逃してしまった。

 筋金入りの年長者が次に「きんぽうげ」を歌う。

  こぼれたテーブルの酒 指でたどって 口ぐせのようにお前は何度もつぶやく

 これもいい曲である。切ない若者の心情。初期の名曲なのだが、僕はずっとこの曲を知らずにきた。知ったのは20歳もずいぶん過ぎてからのこと。
 次に「安奈」を入れ、もうひとりのおじさんがひとしきり盛り上がったそのあと、僕は「氷のくちびる」を歌う。

  抱かれてもひとつになりはしない心で 君は僕の腕の中に嘘の涙流してた

 呑み放題プランにしたせいで、何杯も酒を呑んだ。昨今とみに、酒に弱い。酩酊してきた。それは僕より年上のおじさんたちも同じだろう。そろそろ潮時かもしれない。だいいち、ひとりはもう持ち歌が無くなってしまった。年長の人が言う。

 「最後にオレが"翼あるもの"を歌うから、あんたその前に一曲歌いなさい」

 わかりました。じゃ「ポップコーンをほおばって」でもいいですか? 僕なんかじゃとうてい不足であるのは重々承知ですけど、すみません。
 そうして、入力、転送。短いイントロダクションが流れる。

  映画を見るならフランス映画さ 若かった頃の君と僕の想い出話は
  君が手を振り切った二十歳の時 埋もれ陽の道にすべては消えうせた

 このうたは、音楽家甲斐よしひろのルーツのような歌であり、世に出るきっかけとなった曲であることは、ファンなら誰でもが知っているに違いない。彼がまだバンドを組む前に、フォークコンテストにこの「ポップコーンをほおばって」を引っさげ出場し、全国大会で優勝したのは、歌詞と同じ二十歳の時だった。その後、博多の伝説のライブ喫茶「照和」に集う大森信和、長岡和弘、そして松藤英男を加え甲斐バンドを結成し、'74年に「バス通り」でデビューすることになる。
 どうして「ポップコーンをほおばって」がデビューシングルとならなかったのかは知らない。この名曲はなぜか「かりそめのスウィング」のB面としてひっそりと世に出る。

  僕等は飛べない鳥じゃなかったはず 翼を広げたらきっと飛べたんだ
  僕等は飛べない鳥じゃなかったはず 君は翼がある事を知って恐かったんでしょう

 正直に言うが、僕がこの曲を知ったのも、実はカラオケにおいてである。23歳か24歳の頃。
 当時は、やたら忙しかった。解放されるのはいつも夜も更けたころ。それでも、若かったのだろう、身体は休息よりも発散を望んでいた。居酒屋で酒を呑み、日付も変わる頃、いつものスナックへと向かう。ボトルキープしてあるI.W.ハーパーをロックで呑み、青筋を立てて歌う。そんなのが、日課だった。午前様が続いても、平気だった。
 あるとき、常連客の一人が「ポップコーンをほおばって」を歌い始めた。
 なんと格好いい曲か、とそのとき思った。誰の曲だ。甲斐バンド?
 その常連の人(いつも顔をあわせるのでもう馴染みになっている)に、いい歌ですね。また巧い、と伝えた。するとその人は、本物はこんなもんじゃない、俺の歌で判断しちゃいかんぞ、と。その人も甲斐バンドが大好きな人だった。
 その人とは、帰る方向が同じなのでよくタクシーに同乗した。ある日、その人はわざわざウォークマンを持ってきていて「これが本物だ」とタクシーの中で聴かせてくれた。そして、この曲は甲斐バンドのルーツのような曲で…と僕に懇々と教えてくれた。
 その人は、いつ遭遇するかわからない僕と出会うまでずっと、ウォークマンを鞄にしのばせ続けてくれたのだ。若造に本物の甲斐バンドを聴かせるために。
 あれから20年以上経つ。僕は後に結婚し、少しづつ酒場に入り浸らなくなった。また、体力も落ちた。午前様ではもう持たなくなった。そして、転勤しそのスナックがあった街から去った。何年か前に一度訪れてみたら、もう店は無くなっていた。
 みんな元気でいるだろうか。

  君の最後の言葉をおとしていく バスを追っかけて 追っかけて
    
 鼻の奥に何か熱いものが走った。いかん、泣きそうだ。酩酊して、感情の起伏が大きくなってきたんだろう。いろんなものがこみ上げ、声が震えてきた。

  教会の鐘が聞こえるかい 天使の賛美歌は 聞こえるかい

 年長の筋金入りのファンも、一緒に歌ってくれている。あの親切だったスナックの常連客の人も、たしかこの人と同年輩だ。あのときは30歳そこそこだったけれど。
 みんな甲斐バンドが好きだったんだ。

  ポップコーンをほおばって
  ポップコーンをほおばって 
  天使達の声に 耳を傾けている

 最後には声も涸れ果てたが、ただひたすらに懐かしかった。このうたも、歌うのはやっぱり20年ぶりくらいだったのではないか。
 歌う場所も、スナックの時代からカラオケボックスというものにかわり、また我々も老けた。けれども、変わらぬものは変わらない。いろんなことを思い出しながらの帰路だった。


佐野元春 「YOUNG BLOODS」

2011年01月30日 | 好きな歌・心に残る歌
 佐野元春が30周年なのだそうだ。デビューは1980年だから、今年(2011年)で、丸30年という計算か。そんなこんなで、よくマスコミに登場している。そして、30周年記念のセルフカバーアルバムが発売されたらしい(「月と専制君主」2011/1/26リリース)。
 「YOUNG BLOODS」も入っているらしいので聴いてみたいと思っていたところ、先にTVで披露してくれた。とても楽しみにして聴いたのだが、完全に別の楽曲になっていた。
 アルバムを未だ購入もしていないのにこういうことを上っ面で書くことはよくないと思うし、生意気なことだと思う。だいいち、僕は佐野元春さんを最近とんと聴いていない。最近どころか、僕が所持しているアルバムは「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」までである。30年の、最初の10年くらいなのだ。20年も離れていた。
 そして誤解があってはいけないので書くが「別の楽曲になった」というのは僕の独りよがりな感想であり、さらに、悪くなったとも良くなったとも書いていない。実際、悪くなったとは思っていない。
 「セルフカバー」というのは、かつて自らが表現したものと同じものを提供することではなく、またそうであってはいけないと思っている。そして、今の佐野さんが歌う「YOUNG BLOODS」は、見事に現在の佐野元春のうたになっている。50も半ばの、髪も白くなり声質も変わり、それでも第一線を張りつづけている素敵で格好いいおじさんのYOUNG BLOODS。アレンジが変わりなんと言うかジャズっぽくなり、気だるい雰囲気もあり、「Morning Light」を「朝の光」と日本語に替えた。優しく、つつみこむように。そんな突っ張らかしていられるか。
 だから、あの「YOUNG BLOODS」とは、違う。

 僕は、振り返ればそんなに初期からの熱心な佐野元春のファンじゃなかった。「アンジェリーナ」でデビューした頃は、僕はまだ中学生であり、高石ともやとナターシャセブンを聴き吉田拓郎を聴きブリティッシュハードロックに夢中になる少年だった。佐野元春という人のことは、よく知らなかった。
 出会いは「ナイアガラ・トライアングルVol.2」。Vol.1は大滝詠一・山下達郎・伊藤銀次のあの伝説の三人であり、ナイアガラおじさんこと大滝詠一がその第二弾を作成するということで、かなり話題になった。ただ、佐野元春はむろん杉真理という人も、その当時あまり聴いたことがない。
 そのVol.2は、申し訳ないが高校1年の僕には、さほどインパクトは無かった。大滝詠一のアルバム、という印象(ゴメンなさいホントガキでした)。
 その前後から、友人たちが佐野元春を聴き出す。軽音楽部の連中は「アンジェリーナ」「ガラスのジェネレーション」をレパートリーに入れる。僕はそういう友人たちを通じて、佐野元春という音楽を知ることになる。ただ、高校生レベルの演奏では真価が分かろうはずも無い。
 「SOMEDAY」という曲は、その頃から耳には入っていた。いい曲だなと思った。そして、その曲をタイトルに冠したアルバムが発売されたので、とりあえず友人に借りて聴いた。
 びっくりした。「Sugertime」「Happy Man」「Down Town Boy」全てが疾走していく。
 その当時の僕には、どう表現したらいいのか言葉が見つからなかった。センスがいいなぁというくらいのもので。「sophisticated」という覚えたての言葉もあったのだけれども、そういう言葉よりももっと違う何ものかがあるような気がした。で、今もって適切な言葉が浮かばないが、サザンオールスターズが急に泥臭く感じた。
 一般的には「都会的」なのだろう。だが、この言葉には少し抵抗がある。
 今、このアルバムを聴けば、そこはかとない郷愁を感じる。ただそれは、以来30年近く過ごした僕の思いというものも加味されているので、これまた適切ではない。
 表題作の「SOMEDAY」。佐野元春の代表曲でもあり、知らない人を探すほうが難しい。この曲については言い尽くされてもいて、またそれぞれのリスナーに思い入れがあるとは思う。よく、都会へ出てきた若者の「群集の孤独」をこれほど表現した楽曲はない、とも言われるが、その「都会」とはどういう場所なのだろうか。東京のことなのか。
 何だかよくわからないが、イントロにかぶさる車のクラクションを聞くだけで胸が締め付けられる思いがする。俺は人ごみに紛れながら何とか頑張ってんだよ。

 とにかく、このアルバムが欲しくなった。手元に置いておきたい。だが、当時はそんなにホイホイとアルバムを買うほどの金持ちではない。僕は友人に、スコーピオンズのアルバムを示しこれと交換せよと迫った。そういう入手方法で、なんとか「SOMEDAY」を手に入れた。今でもこのLPは我が家にある。

 時は流れ僕は大学生になった。
 実家から自転車で通える距離にある大学である。その空気感は、高校のときとさほど変わりは無い。
 大学一回生の冬。僕は一度、東京に行ってみようと思った。東京という日本の首都には、行ったことがないわけではない。ただ、いずれも子供のときであり、家族旅行だった。20歳になる前に、今の自分の感性で、いつもTVに映る街を見てみよう。そうして、京都発の夜行バスに乗った。東京には、一人だけ高校時代の友人が暮らしている。そこに転がり込んだ。
 僕の生まれた街は大学が多く、わざわざ東京の大学に入ろうというやつはいない。就職した連中はなおのこと。その友人も紆余曲折あって東京に出た。けれども、一人暮らしというのは何だか羨ましい。

 1985年の春。当時、佐野元春の「YOUNG BLOODS」がヒットしていた。

  静かな冬のブルースに眠るこの街のニューイヤーズディ 大地に果てしなく降るモーニングライト
  いつの頃か忘れかけていた荒ぶる胸の想い アクセルためてルーズな空見上げる

 このうたは、アルバムの人だった佐野元春としては、例外的に売れたシングルだった。もちろん、曲の素晴らしさが要因であることは自明だが、何でそんなにシングルとして売れたのかの記憶があいまいだったので調べてみたら、「国際青年年」のテーマソングだった由。なるほど。それで、普段佐野元春を知らない人にまで広がったのか。
 そんなこんなで、この時の東京での日々に、「YOUNG BLOODS」が表裏一体の思い出となっている。

 東京は、面白かった。
 もちろん、僕は旅行に来たのであって、都会への憧れなんてものもなく、また関西人独特のいわゆる敵愾心を持っていたわけでもない。単に観光旅行だった。だから、訪れるところは史跡などが中心だったが、いわゆる「おのぼりさん」的な場所にも出かけた。見聞は広めたい。つまり、ここが新宿か、ここが銀座か、ここが六本木かetc. TVでよく見かける風景が目前に現れるのは面白かった。渋谷のハチ公というのはこういう場所に居るのか、なんて。とにかく、人の多さに驚いた。 
 代々木公園にも、行ってみた。「YOUNG BLOODS」のPVが撮影された、その場所である。
 このPVは、本当に秀逸だったと思う。早朝にゲリラ的に撮影されたと聞くが、佐野元春の血のたぎるような歌声に三々五々人々が集まり、最後にはひとつの野外ライブ会場がそこに生じる。

  冷たい夜にさよなら その乾いた心窓辺に横たえて
  ひとりだけの夜にさよなら 木枯らしの時も月に凍える時も

 今そのPVを見返すと、「時代」が如実にあらわれている。今にして思えば昭和の末期。バブルというかりそめの時代が始まろうとしていた。
 もっとも、学生の分際ではそういう経済状況など何の関係も無い。ただ、もうすぐ二十歳を迎えようとする自分の、若さゆえの衝動的な心の高鳴りと、それを形に出来ない鬱屈した気持ちは常に持ち合わせていた。そんな胸の内が、代々木公園の冬のぬけるような青空に拳を突き出してうたう佐野元春の、若き血の飛沫が吹き出るような声に昇華されていった。Let's stay together!

 以来、四半世紀が過ぎた。僕は髪に白いものが増え、また佐野さんも成熟した。そして、再び佐野元春は「YOUNG BLOODS」をうたう。もはや共に、若くはない。
 新しいYOUNG BLOODSには、他にも以前と異なるところがある。TVでは、字幕スーパーで画面に歌詞が映じていた。

  鋼鉄のような意思 輝き続ける自由

 「Morning Light」を「朝の光」と歌い換えた佐野さんだが、この部分は「Wisdom」「Freedom」と原曲どおりに歌っていた。だが、それはメロディーに乗らないのでそう歌ったが、本当は「意思」「自由」と置き換えたかったのではないだろうか。賢明であること。自由であること。それを、もっと我々に伝えたかったのではないだろうか。偽りに沈むこの世界で、願いをこめて。

  いつの頃か忘れかけてた 荒ぶる胸の想い

 この叫びが、今胸に迫る。僕たちは、あれから月落ち星流れ、その荒ぶる魂を忘れかけてたどころか、本当に忘れてしまったんじゃないか。
 佐野元春は、「YOUNG BLOODS」を違う形で我々に提供した。それは、荒ぶる魂がまだ健在であることを示すためであったのかもしれない。50歳代になって、同じ表現方法はとれない。代々木公園の青空に拳突き上げ歌えば、「劣化」を感じられてしまう可能性すらある。だから、優しくうたう。けれども、魂は失ったわけじゃない。それが、強き意思を持ち続けることそして自由であることへの願いを感じさせる今回のカバーとなったのではないだろうか。
 そして、あの1985年の「YOUNG BLOODS」もまた、永遠になった。そんなふうに思っている。

風「北国列車」

2010年12月28日 | 好きな歌・心に残る歌

 明日出来ることは今日しない。そんな、ギリギリでしか物事をやらない癖は今この歳になっても直らない。子供の頃、夏休みの宿題を31日になっても大半抱えていて泣いた教訓を全く生かせていないこの人生。
 あのときもやっぱりそうだった。
 
 大学生活が終わろうとしていた4回生の年の暮れ。僕は卒業論文の締め切りを目前にして焦っていた。提出期限は12/15。何日かは夜を徹した。そして、15日の午前中にようやく教授に手渡した。なんでもっと早く出来なかったのだろう。
 その提出した翌日12/16、僕は運転教習所に向かった。免許を取りに通いだしてから半年が経とうとしていた。明日になれば失効してしまう。そんなギリギリの日程で卒検を受けた。落ちれば大変なことになってしまう。なんでもっと早くに受けなかったのだろうか。
 教官のお情けもあり、なんとかパスすることが出来た。その足で僕は卒業コンパへ向かった。何度目のコンパか。こんなことばかりしているから全てがギリギリのスケジュールになるのだ。
 コンパも終わり、いいかげん酔っ払って深夜に帰宅。しかし眠るわけにはいかない。僕は年賀状作りに着手した。子供の頃から年賀状は木版画を作成している。図案を考え、彫刻刀で板に刻みつけ、刷る。夜が明け、昼過ぎにようやく70枚の年賀状が刷り終った。一睡もしていない。
 その年賀状の束と住所録を持ち、僕は12/17の夕刻、家を出た。駅に着いて東北ワイド周遊券を購入。東海道線の鈍行列車に身をゆだねた。このあと、大垣発の東京行き夜行列車に乗る予定である。冬の東北旅行が始まった。
 
 別に何か予約をしていたわけでもなく、何をそんなに急いで旅立つのだ。一日くらいゆっくりしてから出てもいいだろうと家族に言われた。しかし、寸刻を惜しんで旅立ってしまった。
 祝祭が終わる。そう僕は感じていた。あと何ヶ月かで、こんな自由な時間もなくなってしまう。そんな焦りが、長い夏休みでも春休みでもないこの時期に僕を駆り立てた。

 早暁、東京に着いた。まだ夜は明けていない。
 そこで僕は、持参のウォークマンに電池が入っていないことに気がついた。京都の家を出てからもうずいぶんと経っているのに、音楽を全く聴いていなかったのでわからなかったのだ。車中はずっと泥のように眠って過ごしていた。僕は単三電池を二本買い、ようやくイヤホンを耳にした。
 いつも旅行には、カセットテープを二本だけ持参する。荷物になるから多くは持ってこない。その説明は以前書いたことがある。いつもお気に入りを念入りに編集していくのだが、今回はその時間がなかった。なので、年賀状作成作業中にながら作業で適当に120分のテープにコピーした。
 一本の一つの面にはバッハを、もうひとつの面にはイングヴェイ・マルムスティーンとハロウィンをざっと入れた。そしてもう一本の片面には小泉今日子と太田裕美を乱暴に詰め込んだ。残った最後の一面には「風」を。2ndアルバム「時は流れて…」の全曲と3rdアルバム「WINDLESS BLUE」の半分。そして最後に恒例の「風と落ち葉と旅人」を入れて、急いで旅立った。何のポリシーもなかった。
 東京から、常磐線に乗って北に向かった。そしてようやく僕は再生ボタンを押した。耳にはフォークsideに録音した「風」の調べが流れてきた。冒頭の一曲は当然「北国列車」である。

  僕が 君を追いかけてる夢から目覚めたときは
  汽車は夜を走り続け 朝の駅に着いたところ 

 今の時代には多分こんなイントロダクションはないだろう。編曲は瀬尾一三氏だが、郷愁そのものである。冬の東北に向かうのに相応しく思えた。風の2ndをダビングしたのはたまたまだったのだけれど、その幕開けにこれ以上シンクロする曲は無かったかもしれない。

  去年の今頃汽車にのり 二人で旅した北国の
  あの雪の白さが 何故か忘れられずに

 旅行シーズンではない東北は、ずっと静かだった。日本海側は雪。太平洋側はとにかく冷たい風がいつも吹いていた。
 花巻へ宮沢賢治を訪ねて。農業高校の「下ノ畑ニ居リマス 賢治」の黒板。
 高村光太郎が晩年を過ごした太田村の山荘。山荘は閉まっていたが、その場所に来られたことで満足していた。
 「おれは自己流謫のこの山に根を張つて/おれの錬金術を究尽する。/おれは半文明の都会と手を切つて/この辺陬を太極とする。」
 当時、高村光太郎が好きだった。その頃は、あまり未来を信じられなかった。ただ、この痛切な何ものかが去っていこうとする時代に喘ぎ、光太郎の詩集を繰り返し読んでいた。
 高村光太郎が造形した十和田湖畔の「乙女の像」を見に行った。あまりにも雪深い十和田に、人は誰もいなかった。ただひたすらに寒かった。行きも帰りも、バスの乗客は僕一人だった。
 渋民へ石川啄木を訪ねて。ここにも人の気配はなかった。
 「やはらかに柳あをめる北上の 岸邊目に見ゆ 泣けとごとくに」
 河畔に立つ啄木の歌碑を見てこっちも泣きそうになった。岩手山も早池峰山も姫神山も、神々しいまでに美しい。

 夏に下北半島は細かに歩いたことがあったが、津軽半島はまだ未踏だった。三厩まで汽車でゆき、バスに乗り換えて竜飛を目指す。
 横殴りの吹雪。その先に、荒涼とした竜飛岬が。
 「この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ」
 太宰治の言葉が刻まれている。まだ青函トンネルが工事中だった時代。夏は観光客でにぎわうであろうこの地も、そのとき訪れていた人は誰も居なかった。
 五所川原に戻り、ストーブ列車に乗り金木へ。
 太宰治の斜陽館は当時、まだ旅館として営業していた。喫茶店が併設されている。そこに座り込み僕は持参した年賀状をせっせと書いていた。来年はおそらく、この年賀状の宛先がガラリとかわる。そんなことを考え鬱になりながら、太宰の町でひねもす過ごした。

 人と話す機会が少なかった。YHに泊まってもこの時期、宿泊者はごく少数か、僕一人。18切符も所持していたので、青函連絡船の夜行便にも乗ってホテル代わりともした。朝日に輝く大沼駒ヶ岳は息を呑むほどだったが、そんな光景を見ていたのも僕だけだった。また周遊券を持っているので、区間内の自由席のある夜行急行列車(八甲田と津軽)で夜を明かすことも数度。

  ぼくの他にあと少しの人を降しただけで
  汽車はすぐに まだ暗い朝に消えて行った

 こんなことを僕も何度繰り返しただろう。あの「北国列車」の主人公は、やはり冬の一人旅だった。汽車はすぐに消えていったのだから、終点まで彼は乗っていない。となると行き先は青森ではなく、岩手かどこかの駅かもしれない。

  おもいきり背伸びをした 薄暗い空に君の星座がまだ光ってる
  
 星が見えるのだから晴れている。おそらくは太平洋側か。東北本線の夜行だろう。
 そんなことを考えながら、クリスマスも過ぎていた。僕は遠野へ行った。
 実はその頃、まだ柳田國男は読んでいない。この旅はどちらかと言えば愛読書の文学散歩的な色彩もあったのだが、予備知識のない場所も訪ねてみたい。
 その遠野で、3日間ほどを過ごしてしまった。ちょっと気候が変わり少し日が差して暖かな遠野を、僕はずっと歩いた。ときにはコンセイ様のおやしろに上がりこんで昼寝も。うららかな日差し。しかし3時にはもう日が傾くのがわかる。その斜光線が刈り終わった冬枯れの田に反射し黄金色に輝く。キラキラした水路。あの美しさは生涯忘れないだろう。

 もう大晦日が近づいた。仙台には、何度も訪れた宿がある。知り合いも集まっていることだろう。そこで年を越そうと思った。あまりに人と話さない旅を続け、少し人恋しくなっていた。
 ひなびたところばかりを巡っていた旅だったので、仙台は大都会に見えた。定禅寺通りのイルミネーションが眩い。
 本当は、年内にうちに帰ろうとも思っていた。来年は、家を出て他県で一人暮らしをすることがもう決まっている。最後の正月くらいは、家族と過ごすべきだろう。しかしながら、ずるずると旅を続けてしまった。
 家に電話をした。年が明けてしばらくしたら帰る、と。
 母親は「そう言うと思っていた」と笑っていたが、この歳になっていろいろわかる事がある。あのとき、母親は寂しかったに違いない。少しの後悔が残る。以来、今に至るまで元旦に家に帰ったことは、無い。

 大晦日には寒波が戻ったのか、雪がまたちらつき始めた。北国の、あまりにも細やかに降りつむ雪。輪王寺で除夜の鐘が響いている。この雪の白さもまた、たぶん忘れることはなかろう。いろんな思いが去来する中、僕は学生最後の新年を迎えようとしていた。


谷山浩子「てんぷら☆さんらいず」

2010年02月11日 | 好きな歌・心に残る歌
 聴くとすぐにその頃の自分に引き戻される曲、というものは誰にもあって、僕はそんな話をいつも書いているのだけれども、そういう思い出話とは別に、決まった時間に常にその曲を聴いていたせいで、条件反射的に「時間帯」というものを連想してしまう曲というものがある。
 例えば、全ての人に賛同が得られるわけではないのだが、ある年齢より上の関西生まれはパルナスのメロディーを必ず知っている。そして、聴けばすぐ日曜の朝のような感覚になってしまう。
 小学生の頃。今は週五日制であり子供たちも土日休みだが、僕らの時代は土曜日は午前中授業、そしておなかを減らして家に帰ってくる。給食もいいがうちで食べるごはんもまた愉しい。このごはん以降、1日半の自由な時間が始まる。既にわくわくしつつ、ごはんをパクパクと食べる。流れる音楽は、TVからの吉本新喜劇。これが休日のオープニングテーマである。
 以降、休日を連想させる曲がいろいろある。土曜の夜は、僕らの時代はやはり全員集合のテーマがもっとも親しまれていたか。そして明けて日曜、パルナスである。この哀しげな旋律は郷愁をともなって、いかにも休日の朝である。一部の人には分かってもらえると思う。
 
 先日もそんな話題が酒の席で挙がっていた。これには当然、個人差がある。年代にも地域にも家庭環境にも左右される。
 朝といっても、NHK連続ドラマの数々のテーマを思い浮かべる人や、おはようこどもショー、ピンポンパンのテーマからポンキッキまで様々。関西だと「おはよう朝日です」のテーマである紙ふうせんの「朝(あした)の空」とかね。♪あなたと私出逢った日から~
 これがさらに「深夜を連想させる曲」ともなれば、完全に十人十色である。

 人によっては、深夜といえばウィークエンダーや11PMのテーマを連想するらしい。僕はそんなTV番組は子供の頃見せてもらえなかったので経験が無く深夜を連想出来ない。11PMを観られるようになったのはもうある程度大人になってからで、その時代であれば既に11時は深夜ではなかった。
 例えば僕は、ちょっと想像がつかないかもしれないけれども「シオノギMUSIC FAIR」のテーマ曲を聴くと、ものすごく夜が更けているような感覚にとらわれる。完全に幼児体験みたいなものだが。ミュージックフェアは現在土曜の夕方に放送されているようだが(長寿番組だな)、僕が幼い頃は火曜の9時半からの放送だった。9時半なんてのは宵の口もいいところであるが、その頃にはもう寝ていた時代が僕にもあったのだ。司会は当然長門裕之・南田洋子夫妻。今とはテーマのアレンジも変わっているのだろうか。当時はまず最初にティンパニの音がダン・ダン・ダン・ダンと響く。もうこれだけで「ああ寝る時間をもう過ぎてるな」と思ってしまう。

 僕は小学校の高学年くらいから深夜放送を聴きだしたので、以降はTVからラジオに感覚も移っていく。小学校の時は日本列島ズバリリクエスト。中学からはどちらかといえばMBSヤングタウンに移行していく。曜日によってズバリクとヤンタンを聴き分けていた感じか。日曜は「ぬかるみの世界」。ただそれらのオープニングテーマを「深夜だ」と思うかといえばそうでもない。ズバリクは11時、ヤンタンは10時であり、さほどまだ遅くはない。
 エンディングになるとそれは深夜だろうと思うが、ズバリクなどは終了午前3時であって、もうとてもじゃないが小学生は起きていない。ところがヤンタンは午前1時であり、これはよく番組終了まで聴いた。
 思い出すのは、ニルソンの「Without You」である。ここでもちょっと書いたことがあるが、ヤンタン水曜日(後金曜日)のエンディングテーマだった。谷村新司・ばんばひろふみ・佐藤良子の黄金トリオ。必ずエンディングまで睡魔に負けず聴いた。この曲を聴けば、今でも夜も更けた時間に引き戻される。

 深夜の曲として万人が同意するだろう曲にBittersweet Sambaがある。ご存知オールナイトニッポンテーマ。
 オールナイトニッポンが京都でネットされたのは中学生のとき。これにより近畿放送(もうKBS京都になっていたか)ではズバリクの終了時間が早まり、いや番組そのものが無くなってしまい、最初は相当に恨んだものだ。が、それでもオールナイトニッポンを聴きはじめる。そして結局馴染んでしまうのだから薄情なものである。その頃の話はここでも触れた。
 今思うと、本当に元気だったと思う。いつも一部終了まで聴けたわけではなかっただろうが、松山千春や中島みゆき、こうせつ、つぼイノリオ、鶴光は結構終わりまで聴いていた。それで翌日ちゃんと学校に行って、クラブ活動までしていたのだから。今なら3時まで起きていては翌日使い物にならない。
 二部まで聴くことはめったになかった。そりゃ無理。しかし、パーソナリティによっては何とか頑張って聴いていたときもある。

 谷山浩子がオールナイト二部を始めたのは、もう僕はもう高校生だったか。これは、睡魔と格闘しつつ必死になって聴いていた。こんなの聴いていたらもう睡眠時間は3時間未満であり、授業中よく寝た。高校生ともなれば相当ずうずうしくなっていた。たださすがに周りにはリスナーはおらず「勝手にニャンニャンするな」と言っても誰にも通じないことが哀しかったような。
 その谷山浩子のオールナイトニッポンのオープニングは、もちろん「てんぷら☆さんらいず」。

  午前5時ノ新宿駅 長イホームニ散ラバル
  赤イ朝陽ヲ集メテ 新鮮ナトコロヲ オナベデ カラリト カラリト カラリト
  何度聴いても「午前5時ノ新宿駅"ノ"」と聴こえるのだけれどもなあ
 この曲が、僕にとっては最も深い時間を感じさせる曲だ。完全なる真夜中の曲。
 これについては賛同してくださる方も多いと思う(ことに、谷山オールナイトのリスナーだった人は)。
 もちろん、全くの主観である。曲の解釈をすればこれはちょっと違う。「午前5時~」とうたわれているとおり、これはミッドナイトではない。朝の日の光を天ぷらにしようと言うわけで、もう夜が明けている。
 余談だが、午前5時の新宿駅を何度も経験している。んーと、正確には午前4時半から5時かな。新宿駅の始発はそのくらいの時間だったかと。朝まで呑んでいる不埒な男であるが(最近はそんなことしてないけど)、何故か朝日の記憶がない。つまり、いずれも秋冬春だったのだろう。たいていはまだ暗かった。したがって「てんぷら☆さんらいず」は夏のうただということになる。
 もっともこのうたはそのあと「午後6時の表参道~」と続き夕陽も揚げてしまう。このうたの解釈をするのは野暮の極みだと思うのでこれ以上は避けたいと思うが、ちなみに「春一番ノ酢ノモノ」も出てくるので季節は2月末か3月初旬、その頃はまだ5時は暗いか…ああ本当にどうでもいい話だ。あまり理屈を言うと新宿で壁からはえてくるまもる君を見ることになってしまうので止そう(わかる人はわかりますね)。
 それにしても、

  タタケ桜貝! 吹キ鳴ラセ白熊! 踊レレレレオ!
  本日開店 御来店オ待チ申シ上ゲマス

 この世界に入ってしまえば、時制など彼岸のことのように思える。これら幻想の世界は、街に音が溢れる昼間よりも、深閑とした、夾雑音が全く無いミッドナイトがやはり相応しい。妖精たちが人目をはばかることなく踊りだせる、夜も深い時間。

 考えてみれば、谷山浩子のうたとの出会いは、いつも深夜から始まった。
 谷山さんのうたを最初に聴いたのは「河のほとりに」だったと記憶している。ラジオ「コッキーポップ」においてであることは間違いない。この人は14歳で曲が世に出、15歳でもうアルバムを編んでいる早熟な人であって、昔のことはさすがに知らない。コッキーポップが出逢い。
 このコッキーポップが既に、真夜中の番組である。僕が聴きだした頃は、谷山浩子とN.S.P.がいつも流れていた。

  黙ってこのままそばにいてください 悲しい思い出流してしまうまで

 透明感のある声。静寂の中をそっと降りてくるように囁きかける。
 よく谷山さんのうたは「童話」「メルヘン」「少女漫画」「幻想」などというキーワードで語られる。それも一応、分かる。ちょっと不思議な世界であり、僕などのような理屈っぽい男からすれば異質な世界なので、そういう表現をしてしまった方が楽だ。
 ただそう紋切型だけで言ってしまいたくはないので、いろいろ考えてみる。しかしなかなか言葉が浮かばない。だいたい、谷山さんのうたは、そんなメルヘンチックな童話的世界ばっかりではない。怨恨や情念もある。そして不気味な感覚。本当は怖い世界もある(この本当は怖い…というのはメルヘンと相通ずるのでまたややこしいけど。しかし「Cotton color」は多分日本で一番怖いうただろうな)。
 ひとつだけ言えるとすれば、谷山さんのうたは、何かをしながらでは聴けない。例えば掃除しながらB.G.Mに流すのに相応しくない。街を歩きながら聴きたくない。といって集中しないとダメだ、というわけでもない。そのときの自己の世界に、谷山浩子の音以外のものを入れたくない、と思わせられるのだ。少なくとも僕にとっては。
 やっぱり「夜深い時間」に馴染んだ習いが影響しているのかもしれないとも思うし、僕が俗世に浸り切っているので、世界観を移さないと染み込んでこない、ということもあるのかもしれないとも思う。夾雑物を除き、無垢な状態で聴きたい。そして、ちょっとした無重力空間に入りたいのだ。
 その空間に入ったとたん…陳腐で申し訳ないけれども不思議な浮遊感を得る。そのメロディーは、とにかく透き通っていて美しい。もちろんフォーク調の旋律もあれば古い歌謡曲を連想させるものもあるが、大部分はあまり聴き馴染のない世界観を与えてくれる。前衛芸術か。いや、そんなのもあるにはあるが、もっと人間の根源的な部分に問いかけてくる調べを持っているような。
 何を書いているのかよくわからなくなってきたけれども、綺麗な旋律なのだ。そして、谷山さんの声がまた僕たちに魔法をかける。その年齢不詳の声が。その声と旋律が、夢とうつつのはざまに僕を誘う。
 ただ、浸っていると「暗い緑は骨が好き あなたの骨を舐めて溶かします」なんて言われてしまうので僕はまた漆黒の闇を右往左往しなくてはならなくなるのだけれど。「Rolling Down」のラストシーンなんて映画「キャリー」より怖いぞ。

 谷山浩子は深夜がふさわしい、と言っておいてあまり怖いうたばかり聴いてしまうと寝られなくなってしまうので「てんぷら☆さんらいず」に戻りたいけれども、このうただってその不条理感を思えば、背筋にモゾモゾしたものを感じてしまったりするわけで。これはもしかしたら「注文の多い料理店」かもしれないと思ってまた右往左往するのだけれど。

  一度食ベタラ モウ帰レナイ

 魔術にかかってしまうとでも言うんだろうか。ただ、その「取り込まれる」感覚というのはなんとなしに分かる。谷山さんには中毒性がある。
 初期の「お早うございますの帽子屋さん」「ねこの森には帰れない」。名作「カントリーガール」。またCMになった「風になれ」。人に提供した「MAY」「土曜日のタマネギ」「うさぎ」。「みんなのうた」で高名になった「恋するニワトリ」「まっくら森の歌」などの一群のうた。最近では「ゲド戦記」の音楽。
 こうした「誰もが知ってる谷山浩子」だけを取り上げても、その中毒性をある程度は理解していただけると思う。まさに「一度食ベタラモウ帰レナイ」のだ。
 
 ただし、「夾雑音のない時間に谷山浩子」をあまりやりすぎるのは身体に毒なような気がしたりもしている。僕はこの記事を書こうと思って、数日間、夜に谷山浩子をずいぶん聴きなおした。さすれば、寝不足になった(分かりきったことだが)。夢もみてしまう。もうおっさんなので、体調と話し合って聴かねばならないと当然のことを反省したりもしているのである。昔、オールナイト二部を聴いてそのまま学校に行った若い頃とはもう違うのだ。

根田成一 「哀しみのバラード」

2009年12月28日 | 好きな歌・心に残る歌
 「哀しみのバラード」という曲を僕が初めて聴いたのは、おそらくコッキーポップだっただろう。僕は小学生か、あるいは中学に入っていたか。以降、数度ラジオで聴いた。そのうち一度は、うまくエアチェックに成功して、僕の雑音だらけのカセットテープにまだ残っている。
 当時僕はまだ少年だったけれど、心に残る曲となった。

  北へ 北へ 北へゆく船の 汽笛さえも遠のくよ 
  街を 街を 街を追われて 涙ぐんでた哀しい友よ

 北へ、北へ北へと三度繰り返す。以後もこの言葉の繰り返しがきわめて印象的だった。シンプルながら、その強調が響く。この繰り返しは、哀しい。タイトルどおりだけれど、ここには慟哭がある。傷つき旅立つ友への歌だけれども、見送る側もまた、哀しい。

 根田成一というミュージシャンについては、全く知識がない。ずっと知らないままだったのだけれど、ネットの時代となっていろいろ調べることが出来た。
 当然ポプコンに出場しているはず、とサイトを見れば、第11回にその名がある。優秀曲賞だ。出身支部は「仙台」となっている。東北の方か。確かになんだかそんな感じがするな。この年のグランプリは「グッドバイ・モーニング」。「あぁ…褪せた夕陽に包まれて今…」という歌か。知ってる知ってる。この歌の作詞は上記サイトでは「ゆいまこと」となっているがこれが庄野真代のペンネームだということを知ったのはずいぶんと後の話である。他には佐々木幸男、また渡辺真知子の名前も見える。
 では世界歌謡祭は。第7回の入賞曲に「哀しみのバラード」がある。やはりグランプリは「グッドバイ・モーニング」だった。

 この曲は当時、どのくらい知名度があったのだろうか。僕はまだ小学生だったのでよく分からない。前年度のポプコンは中島みゆきの「時代」そして因幡晃の「わかってください」という大ヒットを生んだのだが、「哀しみのバラード」はラジオで数度聴いただけであり、僕がラジオっ子でなければ知らずにきた可能性もある。
 そして、僕の中ではどちらかといえば「隠れた名曲」の世界に属すると思っていた「哀しみのバラード」だが、後に意外な場所から聴こえてきた。それからまた何年かのち、学生の時に旅していた北海道である。
 僕は19歳の夏に自転車で自宅から北海道まで走るという旅行をしていたのだが、その北の果ての稚内にあるユースホステルで「哀しみのバラード」を聴いた。いや正確には、旅人が数人で歌っているのが聴こえてきた。  

 「哀しみのバラードじゃないですか。いい歌ですよね」
 「ん、知ってるの?君も島帰り?」
 「え??」  

 どうも礼文島にあるYHでの愛唱歌のひとつになっているらしい。
 今から四半世紀も前のこと。YHでは「ミーティング」と称して食事後のひととき、宿泊者が集まって交流を深める時間というものがたいてい設定されていたが、そこで皆で歌をうたったりすることも多々あった。歌のセレクトはYHにより様々だったが、どうやら礼文島にあるYHでは「哀しみのバラード」もそのひとつであるらしい。なるほど。

  北へ 北へ 北へ行く船の 汽笛さえも遠のくよ

 北へ行く船というのは、「北」を北海道と考えてももちろん青函連絡船や様々なフェリーなどがあったが、最北をゆく船は利尻島、そして礼文島へ渡る船だろう。正確には稚内からだと「西へ」だけれども、この最北の地でそんな細かいことはどうでもいい。イメージとしては、北だな。「哀しみのバラード」がそんなところで歌われているのも分かるような気がする。
 僕は、その旅では島に渡れなかった。北海道へ、北の果てへやってくるだけで日程をほぼ費やし、あとは帰るしかなかったからだ。
 利尻島。道北を走っているときにもうその姿は見ていた。洋上に突然浮かぶ山塊。険しく厳しいのにも関わらず流麗さも併せ持つその山容。奇跡的に美しい。そして、その北に位置する礼文島。細長い台地の島で、季節には花が咲き乱れる。さぞかし素晴らしいところに違いない。

 それから2年後、僕はその島たちに渡る機会を持った。今旅はフェリーでいきなり自転車ごと北海道に来たので、十分な時間があった。小樽で船を降り、そのまま北に向けてペダルを漕いだ。島に渡ろう。
 3日かけて稚内まで走り、早朝のフェリーターミナルに僕は立っていた。そして利尻島行きの切符を持ち、船上の人となった。約2時間で船は、利尻の鴛泊港に着く。
 独峰・利尻岳。とにかくカッコいい。日本は山国でどこに行っても山が連なっているが、独立峰も富士山を筆頭にいくつかある。だが、海の上に凛然と聳えたち、しかもここまで美しい山はそうないだろう。
 とりあえず島のYHに投宿したが、まだ午前中である。自転車から荷物を外し身軽にして、島を一周する。約60kmでありさほど労力はかからない。姫沼、オタドマリ沼、仙法志、景勝地が多い。そしてどのポイントで仰ぎ見てもコニーデ型の山は美しい。ただ、少しづつ形を変えていく。それがうれしい。

 一周の後、小休止。少し眠る。今宵に備えて、である。これから夜間登山を試みるのだ。
 夕食を済ませた後、出発する。メンバーはYHの宿泊者有志約30名。まず海岸へ出る。ここは当然標高0m。標高どおり登りきろうという算段である。利尻は1721m。実働1721mというのは、日本アルプスでもそうはない。富士山だって五合目は2000mを超える。相当にキツい登山となる。我々は素人でも登りやすい鴛泊ルートを選択したが、それだってキツい。
 夜の登山は眺望がない。ただ黙々と歩く。最初はわいわいと話しながらであったが、だんだん寡黙になる。厳しいのだ。加えて、天候も怪しくなる。霧が出てきた。
 急登が一服したところが八合目。山小屋がある。僕は先頭集団にいたので、ここで後続を待つ。しかし、天候悪化と、思った以上の険しさにリタイヤする人が増える。そうだろう。ライダーブーツで登っていた人もいたのだ。結局、これより先に進めたのは6名だけだった。僕以外は、山経験のある人やワンゲル出身者など。そんなに簡単に登らせてはくれないのだ。
 八合目からはさらに厳しくなる。徐々にぼんやりと薄明るくはなってきているが、稜線は両手両足を使わねば登れない場所も。なんとか歯を食いしばって登る。視界が悪い。だが、霧の向こうにローソク岩という鋭い岩峰が浮かんできた。もう少しだ。
 そして登頂。なんと山頂は晴れていた。雲を抜けたのだ。眼下には雲海が広がっている。そして雲の色が刻々と変わり、御来光。こんな美しい朝日を今まで経験したことがない。僕に味方してくれた全てのものに感謝した。

 下山は天候に恵まれた。太陽光が雲を吹き飛ばすのだろう。遥か遠くまで見渡せるのはさすが独立峰ならでは。隣の礼文島もよく見える。降りて少し休んだら、あの島へ渡る。
 
 午後の便で礼文島に渡る。香深港へはあっという間だ。下船して自転車にまたがる。香深は島の南に位置し、ここが島では最も栄えている。
 どこに泊まるかについては考えた。どうも「哀しみのバラード」が歌われているのは島の西岸にあるニシン番屋を改造したYHだと聞いている。しかし、人がどうも多すぎる。あまり騒がしいのは困るので、僕は島の北まで走り、船泊という集落のYHに投宿。
 後の話になるが、数年後島の西岸にあるYHにも泊まってみた。熱烈なファンが多いYHであり頷かせる部分も多かったのだが、このときは、違う宿にして正解だったと思う。少し個を大切にしたかった。

 その夜はゆっくり休んで体力を回復させ(なんせ前夜は徹夜で登山をしたのだ)、翌日は宿泊者20名程で漁船をチャーターし(割勘にすると千円ちょいだから大したことはない)、島の北に浮かぶ「トド島」という無人島へ渡る。ジンギスカンの用意をして。ビールもしこたま積み込む。
 いい島だ。さすがにトドまでは見られなかったが、ロケーションは最高である。島を探検して後、海岸でパーティー。日本各地から集まってきた旅人と楽しいひとときを過ごす。
 実は、ここはウニ漁が盛んな場所。透明度の高い海であり、上から見下ろすだけでもうウニが手の届くところに見える。実際ちょっと潜ると、いくらでもバフンウニを手に取ることが出来る。もちろん、漁業権というものがあり勝手に獲ったりしては絶対にいけない場所である。
 約20年以上も前の話ではあるが、やはりこれ以上は書けない。類推に任せる。ああ美味かった(ジンギスカンとビールが)。

 礼文島は南北に細長い島である。そして車道は東海岸にしかない。だが景勝地は西岸に多く存する。岩礁険しく美しい風景。お花畑。それらに出逢おうと思えば、もう歩いていくしかない。遊歩道が西岸に延々と続く。この遊歩道を旅人は「愛とロマンの8時間コース」と呼ぶ。
 これが目的で島へ渡ってくる人も多い。何ゆえ「愛とロマン」なのかと言うと、これは約30kmのトレッキングコースであり単独行はなかなか難しく、多くは何人かで誘い合って行く。つまり同宿した知らないもの同士が8時間も一緒に歩くわけだ。たいていは若い男女であり、ガレ場など足元の悪い場所も多く皆で協力して歩を進めるために、見知らぬもの同士が急接近する可能性も高い。実際、これがきっかけで結婚まで至った旅人同士も多いと聞く。
 僕も、もちろん歩く。男性メンバーは、一緒に利尻山頂にまで登った仲間のうち2人と僕はまだつるんでいる。これは精鋭部隊である。ただ、男ばかりで歩いていては愛とロマンは生まれない(嗜好によっては生まれるかもしれないが僕はそうじゃない)。果たして参加者は他にいるか。
 トド島から帰った日のミーティング(宿泊者の交歓会)。「翌日8時間コースに行く人は?」と声がかかると数名が手を挙げた。僕たち3名の他には、それこそ千差万別の旅人。総勢8名であり、比率は4:4。おっとこれは愛とロマンが生まれる可能性が出てきた。
 その8名で自己紹介。大学の研究者、デザイナー、会社社長、ダンサーの卵etc…。旅でなければ絶対に接点のない人たちばかり。これは面白くなってきた。こういう言い方は宜しくないが、女性は皆奇跡的に美人ばかりである。男たちは張り切った。
 
 翌日早朝、礼文島最北の「スコトン岬」まで送ってもらう。ここが出発点。ここから、島の南端まで歩くのだ。
 僕はなぜか「リーダー」になっている。バカ体力を自慢するサイクリストだったからだろう。このお調子者の僕を含む男性陣はいろいろ考えた。まず、全員で島土産のTシャツを購入、ユニフォームとする。8人で揃えると一体感が生まれる。さあいこう。
 道は、遊歩道とはいえ結構険しい。小山を登り、また岩場を歩き。しかし風景はさすがと言うべきで、海の青と空の青が融けてみえる。花もシーズンを外しているとはいえしっかりと咲いている。僕たちは語らいながらその空気を満喫していた。先日登ったばかりの利尻岳も姿良く天に向かって伸びている。
 トレッキングコースとしては秀逸だと思う。気分がいい。山場かと思えば浜、草原のような尾根道、そして海沿いの道。僕たちはすっかり打ち解け楽しんでいた。
 昼に差し掛かり、大休止。弁当を広げる。ここで男たちは集落で買ってきたスイカを割った。女性たちから歓声が上がる。よしよし。重いのを分担しつつここまで担いできた甲斐があったぞ。
 後半も厳しい道は続いたが、すっかり和気あいあいとなった僕たちは多少の疲れも気にならず、夕刻、ゴールの地蔵岩に着いた。記念撮影会は延々と続いた。

 「愛とロマン」が生まれたのかどうかはよく分からない。どちらかと言えばグループ交際的な感じもするのだが、何をやっても楽しい。宿に帰れば、みんなで寄せ書きをして興じた。あれだけ長い時間一緒にいたのに話は尽きない。
 その翌日はメンバー全員で早起きし、宿近くの牧場へ遊びに行き、乳搾りをさせてもらう。その牛乳は「最北端牛乳」として売られている。さすがに濃厚なミルク。またすぐそばで「最北端たいやき」なるものも。何でも最北端と言えばいいものではないが、こういうものは旅情がある。

 「たいやき、半分づつしようよ」

 ダンサーの彼女が僕に言う。彼女とは、トレッキングの後半はずっと話をしていた。旅の話。今の自分の話。これからの夢の話。これが「愛とロマン」なのかどうかはよく分からない。共通体験が気持ちを盛り上げてくれているのだとは思うが。
 僕たちは、全員昼の船で礼文島を離れることになった。香深港にフェリーが接岸している。僕たちは名残惜しくなかなか船に乗船することが出来ない。
 港に、名物のジャンボソフトクリームがある。女の子たちはそれを食べている。でも大きすぎるようだ。ダンサーの彼女が「もうダメ。いっしょに食べて」と。なんだかとてもいい雰囲気になってしまっている。こんな美人とひとつのソフトクリームを一緒に食べていいものなのか。
 そして出航。島の人たちの見送りがいつまでも響く。いいところだったな、利尻・礼文。忘れられない思い出を作ってもらった。

 そして船は稚内に着く。
 旅の仲間たち。僕はまだまだ旅を続けるけれども、もう帰らなくてはならない人もいる。女性たちはみんな札幌に向かうようだ。男たちと言えば、ひとりは「オレも一緒に列車乗るよ、ここで別れるの寂しいじゃん」。二人はライダーで「俺達も列車追いかけるぜ。ぶっ飛ばすから札幌で待っててくれよな」。そして一足先に爆音を残して走り去った。
 僕も一緒に行きたかったが、自転車では追いかけられない。ここまで来るのに僕は3日もかかったんだ。無理だよ。僕は、ここでお別れになる。さよなら。

  何処に 何処に 何処に行ったって俺は お前の事を信じているさ
  果てしない夢と自由の中で 生きてた事をいつまでも いつまでも

 旅はいつも出逢いと別れ。その繰り返し。僕はホームまでみんなを見送った。この別れを涙で表現してくれた貴女のことは、いつまでも忘れない。自分のために泣いてくれた人をみたのは、そのときがはじめてだった。
  
  北へ 北へ 北へ行く船の汽笛さえも遠のくよ
  涙 涙 涙流したけどそれでも生きていくだけ

 「哀しみのバラード」 から遠く離れた話になってしまったけれども、僕がこのうたを今聴いて思い出すのは、その時の稚内駅のプラットホームだ。見えなくなるまで手を振ってくれた人。そしてホームが尽きるまで走った僕。列車が去った後の、あの寂寞とした風景。 

 そして僕は夕刻、ひとり北の果ての街にいた。寂しいな。無性に寂しいな。でも、明日も旅は続く。

俄「雨のマロニエ通り」

2009年10月17日 | 好きな歌・心に残る歌
 秋らしい日々が続いている。近くの高校では学園祭が行われたようだ。通りすがりに見ていると、自分にもあんな時代があったなと懐かしく思う。夢中になっている彼ら彼女らに、今が黄金時代なのだぞと声を大にして伝えてやりたい。悔い無き青春を過ごせよと。
 いきなり年寄り臭い書き出しだが、ある程度年齢を重ねると、可能性というものが徐々に狭められていくことを感じるものなのだ。比べて10代後半なんて年齢の時は、未来は全く見えなかったものの、漠然とでも可能性だけは無限に広がっていくように思えていた。だから、その一瞬一瞬で燃焼できた。
 そんな気持ちだけは、取り戻したいものだと切に思う。

 高校の学園祭など、思い出が甦る人も多いだろう。何と言っても思春期全盛時代である。体育祭や文化祭。仲間意識を育む絶好の機会である。仮装行列や、クラス対抗リレー。いずれもいい思い出になるはずだ。また部活動に賭けていた人も、その発表の場が与えられる。体育系と異なり文化系の人間はインターハイなどもない。外部で成果を示せるチャンスは、合唱部や吹奏楽などごく一部。同好会などの連中はここぞとばかりに自己主張を始める。
 僕が通っていた高校では、この前後にカップルになるやつらが実に多かった。夜祭があったせいだろう。祭りのプログラムもほぼ消化した夕刻、グラウンドの真ん中で盛大に火を焚き、フォークダンスの輪が生まれる。それは、男女の祭典だ。男も女も、好きな人に照れながら告白して輪に加わる。明々と燃える火に照らされた女の子は、それだけでも綺麗に見えるものだ。いつもは内気なヤローどももここでは勇気を振り絞って取り残されないように急ぐ。
 僕はと言えば、ずっとそのファイアーを焚く側の人間だった。何故か義理のようなものもあって、一年の時から学園祭の実行委員となってしまい、二年の時はあろうことか全体の責任者に奉り上げられてしまっていた。何かと忙しい。充実してはいたものの、好きな女の子に告白して甘酸っぱい時間を、なんて思い出はない。もちろんそんな裏方の仕事などをしていなかったら誰かを誘って踊りの輪に入れていたか、は微妙なところではあるのだが。

 高校三年ともなれば、そんな役職を担うこともない。「受験準備」なんていう言葉が耳によく入る頃だ。僕は夏休みの宿題を休みが明けてから必死になるような怠惰な性格であり、まだ秋口にはのほほんとしていたものの、何かと気ぜわしい季節ではあった。
 そしてまた学園祭の季節がやってきた。
 今年は、僕は何もやることがない。ただブラブラと遊んだ。後輩たちが出す模擬店のタコヤキをハフハフと食べ、茶道部の茶室に行って菓子をつまみ無作法に茶を喫し、演劇部の近未来を舞台にした劇を観たり軽音楽部の演奏を聴いていた。つい「今年は幕間が開きすぎるな」などと小姑的発想をしたりして苦笑していた。
 中庭では小さなステージが今年も出来ている。主としてフォーク系のアコースティックな音で勝負する連中が中心になって盛り上がっていた。
 このステージには僕はちょっと思い出がある(→秋の気配)。僕は、その舞台を仕切っていた後輩に「時間が余ったら僕も出してくれよ」などと言っていた。これはもちろん冗談である。プログラム外の出し物など、リハもしていないのにスタッフはやりたくないに決まっている。何をこのおっさんは先輩風を吹かして横暴なことを、と思われてしまうだけだ。
 だが、素人が仕切る舞台にはアクシデントがつき物だ。現に昨年もPAが故障した。その時に僕は友人と場繋ぎでマイクなしの舞台に出たことがある。その時は岡林信康をやった。これは、即興のように見えて実はずっと練習していたのでうまく出来た。
 僕は多分に当時は自意識過剰であり(18歳だもの許して欲しい)、今年もそんなことがあったなら出ちゃおうと思っていたのである。そのため、昨年の友人と受験勉強もせずに3曲ほど練習していた。曲目は、拓郎の「元気です」ふきのとうの「やさしてとして想い出として」そして、”俄”の「雨のマロニエ通り」だった。

 「雨のマロニエ通り」は僕が好きだったのでやろうぜ、と言ったものだが、友人はこの曲を知らなかった。なので「オマエ歌え」と僕に言ってきた。
 僕は歌には本当に自信がない。悪声の部類だろう。友人は上手い。なので抵抗したのだが、じゃ別の曲にしようとすぐに言うので、しょうがないから歌うことにした。何、これはあくまで「仮」に考えているだけで実際に皆の前で歌うとは限らないのだから。まあいいか。

  降り続く雨の足音に 愛のメロディーのせて
  遠くに住んでるあの人に 伝えられるならば

 と言って、僕も「俄(にわか)」というフォークグループをよく知っているわけでもない。というか、全然知らない。何かのアンソロジーに入っていたのをたまたま聴いて、その叙情性溢れる世界を僕が好きになっただけであり、詳しいことは全く知らずに来た。
 有難いことに今はWebでどなたかが情報を発信してくれている。検索してみると、こちらの方のブログによれば、1975年の曲らしい。確かに、大ヒットとまではいかなかった曲なのだろうか。知名度が低いかもしれない。
 歌詞に特にメッセージ性が強いわけでもなく、ただただ優しく流れていってしまう。ではあるが、何故かは説明できないが僕の琴線には触れていた。なので、以前からギターは何とかコピーしていた。これは、ちゃんとコピーして弾けば実に綺麗に聴こえる。
 
  雨に煙るマロニエも 君の思い出とともに
  僕の心の中では 今も生き続ける

 マロニエの木というものさえ、具体的にどんな木か知らなかった。何となしにパリなどの外国にある木だろうと思っていた。花や木々に疎いとこういうところで弊害が出る。果たして僕の住む街にもマロニエはあったのだろうか。そんなことを書いていたらマロニエのこみち…さんにありますよと怒られてしまうが、僕の住んでいた近所にあったかどうかは思い出せない。自分がいかに潤いのない無粋な人間であるかが如実に分かる。そうかトチの木の仲間か。栃餅はよく食べたな。その程度である。

 結局、それらの歌は披露する機会は無かった。ステージではやはりアクシデントはあったようなのだが、もちろん後輩たちは自分たちの力でそれを乗り切っていた。当たり前だわな。古株のおっさんたちにしゃしゃり出て欲しくはそりゃないだろう。

 徐々に祭も終わりに近づき、夕暮れが迫ってきた。学校の前には、マロニエではないもののイチョウ並木はある。秋には見事に黄金色に染まる。このイチョウはある瞬間にはおそらく京都一美しく染まると僕たちは信じていた。この年も、見るも鮮やかに輝いていた。その並木を横目に、グラウンドへと移動した。そろそろ火が焚かれ始める頃だ。
 そして、今年もフォークダンスの輪が広がっていく。僕は、その踊りの輪を仲間と遠巻きに見ていた。周りには、昨年一緒に苦労した元実行委員の面々。今年は何もすることがないな。去年はスピーカーの音が止まって罵声をもらったよな。ファイヤーで燃やす木を調達したのはお前だったっけ。あれ手続きが面倒なんだよな。
 一年前の話なのにもう既に懐かしい。僕らは雑談に興じていた。

 その時、その仲間の一人が僕に唐突に言った。「ね、踊らへん?」と。
 僕はキョトンとした顔をしてしまったのだろう。その人は、いわゆる「学級委員長タイプ」の女性でとてもそんなことを言い出す風には見えなかったのだから。
 もちろん心の準備など出来ていない。僕は内心狼狽していたのだが、周りが冷やかすので、それから逃げる意味もあり彼女と踊りの輪に加わった。
 
 その先のことは、恥ずかしながらあまり記憶に無い。おそらく緊張してしまったのだろう。いつもはおしゃべりな僕が無口になってしまったことはなんとなしに憶えている。何をしゃべっていいのか分からなかったのだろう。今の僕であれば…と悔やむが、時間が遡れる訳がない。
 やがて日もとっぷりと暮れ、夜祭も散会の時間となった。僕たちはそのまま別々に帰宅してしまったようだ。今であれば、せめて喫茶店くらいは誘うのにな。全く若い頃は思慮が足らん。そのずるがしこくないところが青春ではあるのだが。
 歌う機会の無かった「雨のマロニエ通り」とあの時の心臓の鼓動が妙にリンクして僕の片隅に今も残っている。

RCサクセション「あの歌が思い出せない」

2009年05月06日 | 好きな歌・心に残る歌
 忌野清志郎さんの訃報は旅先で聞いた。
 癌であることは公表されていたけれども、こんなふうに足早に逝ってしまうとは思わなかった。5月2日。憲法記念日の前日。第九条、戦争放棄の条項に対して「この条項はイマジンの詩じゃねーか、自慢しよーぜ」と言われていた。その言いようがいかにも詩人の清志郎さんに相応しかった。ちょっと早すぎる。僕は、RC及び清志郎さんの音源に全て接しているというわけでもなく、追悼の意をネットに書き込む資格があるのかどうかも分からないが、ショックであることには変わらない。
 RCサクセションの記事を以前書き出したことはあったのだが、書ききれず長い間オクラ入りさせていた。草稿時の日付を見ると2006年になっている。3年も放置していたのか。なんで書けなかったのかと言えば、生意気に思えたからである。世の中には清志郎さんを慕っている人は多い。人生の師であるとまで言う人も身近に居る。そんな中で僕が書くなどおこがましいことだと思い、もう少し熟成してからと考えていたのだが、そうしているうちに清志郎さんが亡くなられてしまった。
 2009年5月現在、ネットにはたくさんの追悼記事が溢れている。それに紛れて、僕も昔書いた拙い文章に少し手を入れてアップしようと思う。

 RCサクセションを最初に聴いたのは、やっぱり「雨上がりの夜空に」だったかと思う。中学生だった。その時は、見栄を張らず正直に言ってさほど強い印象は持たなかったように憶えている。フォーク少年だった僕がようやくロックに目覚めた頃だったのだが、ロックと言えば洋楽ばかりで、日本のバンドにはさほど興味を持っていなかった。邦楽で言えば、同時期に例えばP-MODELであるとか、ヒカシューとかのテクノ系が出だした頃で興味はそちらに向いていた。
 訳知り顔の友人が現れる。「RCって実はフォークなんやぞ」と。
 実はフォークってどういう意味だといぶかしむ僕に彼は一本のカセットテープを貸してくれた。彼の兄は大学生で音楽に造詣が深いので時々情報をくれる。そのカセットテープは、後から知ったのだがアルバムではなくシングルを編集して録音したものだった。私家版ベストだな。
 「ぼくの好きな先生」「キミかわいいね」「上を向いて歩こう」そして名曲「スローバラード」などが録音されていたのだが、その中に「あの歌が思い出せない」が入っていた。
 僕は当時かぐや姫が大好きで、山田パンダさんの歌う「あの唄が想い出せない」はよく知っていた。やさしくやわらかなパンダさんの声で奏でられるこの曲は好きだった。その曲と同じものである。
 かぐや姫のLPのクレジットを見ると「作詞:忌野清志郎/作曲:武田清一」となっている。そうか、この曲はかぐや姫のオリジナルではなかったのだな。こっちが本家なんだ。
 後に知ったのだが、この曲が世に出たのはかぐや姫の方が先であり、RCのはそのあとのセルフカバーという形になる。デビュー以来売れなかったRCであり、かぐや姫のファーストアルバムに先に採用してもらったということか。
 武田清一さんという人を僕は全然知らなかったのだが、後にこの人は「日暮し(「い・に・し・え」で有名)」を結成された方らしい。
 このことはよく知られていることで言わずもがななのだが、そもそもRCサクセションの原型は中学校の時に結成された「ザ・クローバー」というバンドである。メンバーは清志郎さんと破廉ケンチ、小林和生氏。完全にRCの初期メンバーである。そして高校進学によりバンドは一時解散、清志郎さんとリンコさんは先輩だった武田清一さんとバンドを結成、これが「リメインダーズ・オブ・クローバー(Remainders of Cloverつまりクローバーの残党)」である。ここで武田さんが出てくる。後に武田さんが離れ破廉ケンチ氏が再び合流して三人で結成されたのが「Remainders of Clover Succession(継承の意)」であって、つまりRC SUCCESSIONである(以上、なぎら健壱「日本フォーク私的大全」より)。なお、このバンド名については「ある日作成しよう」という言葉をもじったという説もあるが、これも清志郎さんが言ったことであり冗談にせよ間違いということもないだろう。
 
 さてその「あの歌が思い出せない」。今まで知っていたかぐや姫バージョンとは全く印象が異なった。そして、かぐや姫ファンには誠に申し訳ないが、圧倒的にRCの方が感動した。

  この街角 一人で何のあてもない ついてないよ ぼくに雨もふりだした

 もちろんパンダさんのもいいということは繰り返しておかなければならないが、僕には(あくまで僕にとっては)RCの歌声がより琴線に触れたということだろう。
 タイトルは、かぐや姫の方が詩的である。「歌⇔唄」。「思い⇔想い」。ここには清志郎さんの含羞が込められているようにも思う。「想い」なんてオイラには気取り過ぎじゃん、みたいな。
 歌詞も一部異なる。
 かぐや姫「君はいつもどうして今日も生きてるの/わからないよ僕は信じたいのに」
 RCサクセション「君は何を信じて今日もそこにいるの/わからないよ僕は信じたいけど」
 どちらが本当のオリジナルであるかは知らないけれども、こういう別バージョンというのはよくあること。例えば小椋佳は「白い一日」を井上陽水版と少しメロディを替え、「俺たちの旅」は中村雅俊版と歌詞を一部替えている。
 ただ、文脈、文章の意味はかぐや姫版はよく分からない。君はいつもどうして今日も生きてるの、ではどこか不自然ではないか。君はいつもどうして今日'を'生きてるの、であるなら話は分かるのだが。またもしかしたら、君は(僕は'いつも'君について考えるんだけど)どうして今日も生きてるの、の省略形であるのか。後者であるとすれば、つまり「君はどうして今日も生きてるの」が主文であり、相当にキツい一言ではないか。まさか死ねと言うはずも無し…。
 「どうして」の解釈が難しいのだろう。これを「なぜ?どんな訳で?」と読んでしまうからややこしくなる。「どういうふうに?」であるなら、助詞の「も」でもかまわない。君は、いつも(の日常を)どんなふうにして今日も(昨日も、そして明日も)生きているの、ということで、別れてしまった彼女への追想と断ち切れない恋慕の感情が浮かび上がる。文脈から言ってこれが正解だろう。ただ、ややこしい。
 RC版の方がすっきりしている。「君は何を信じて今日もそこにいるの」と歌い、後段の「わからないよぼくは信じたいけど」とも合わせて、価値観のズレが別れに繋がったことも浮かび上がる。
 かぐや姫がまさか勝手に改変したわけじゃないだろう。どっちも清志郎作だと考えられる(詳しい事情をもちろん知っているわけではないので詳細をご存知の方は教えて欲しい)。そして、かぐや姫版には当惑が、RC版には後悔の念が僕には感じられる。どっちがいいのかな。でもRCは、君は何を信じて…と歌い、僕にはそちらの方が強烈に響く。
 細かい重箱の隅をゴタゴタと言ってしまった。そんなことはどうでもいいことなのだろう。

  曇った街並み 僕には歌う歌もない 君がいつも歌ってた あの歌が思い出せない

 この部分、清志郎節が映える。言葉のひとつひとつを刻み付けるような。切なさが胸に沁み入る。大切なものを失ってしまった空虚さ。寂寞の思い。降り出した雨に傘を差すことも忘れているのではないか。

 忌野清志郎という人は本当に歌うその言葉に力を持たせる。このパワーはいったいなんだろう。
 話はそれるが、清志郎という人は「日本語ロックのさきがけ」とも評される。そもそも洋楽に日本語を乗せる事は本来難しいはずで、音楽に詞を乗せる場合、一音符一音節で通常は当てはめるものだが、一音節でひとつの単語を乗せられる欧米言語に対して日本語は基本的に一音節一文字である。構造が異なるため、洋楽の旋律に日本語を乗せると雰囲気が出にくいし意味も伝えにくい。
 例えばシャンソンだと「C'est une chanson qui nous ressemble…」とフランス語で歌えば極上であるのに「か・れ・は・よ~ 枯葉よ~」と一音符一音節の原則に忠実に歌えばとたんに間延びしつまらなくなる。♪ひとつにC'estを充てられる仏語と'か'しか充てられない日本語。
 だから、思いや雰囲気を込めようと思えば、吉田拓郎のように細かくたたみ掛けて情報量を増やしたり、桑田佳祐のように英語風に歌ったりになってしまう(しかし桑田さんの歌って清志郎さんの対極にあるような気がするなー。これはこれで好きだけれど)。
 洋楽のひとつの極みであるロックンロールを容易く歌おうとすれば、どうしても歌詞に英語が混ざった方が耳馴染みがいいのだ。けれども清志郎さんは、徹底して日本語を遣う。清志郎さんの紡ぐ詩は、外来語や決まり文句のような簡単な英語(I Love youとかベイベ~)以外は、分かりやすい母国語だ。あのライブのいつもの台詞「愛し合ってるかーい」ですら、敬愛して止まないオーティス・レディングの「We all love each other」を訳したもので、完全に自家薬籠中のものにしてしまっている。
 言葉を大切にしている人だとつくづく思うし、詩人だと思う。
 そしてさらに、言葉ひとつひとつが実に聞き取りやすい。滑舌がしっかりしているのか、子音を大切に発音しているのか。聴いていて歌詞が聴き取れないなんてことがない。こんなにはっきりと発音する人は、あとはポルノグラフィティの岡野昭仁君くらいかなぁ。しかもこんなに聴き取りやすいのにものすごく個性的な歌唱法であるのはどういうことか。
 身体の奥底から搾り出すように叫び言葉を刻む。言霊を表現できる人。本当に稀有なボーカリストだ。

 話がずいぶん脱線してしまったが、そんなこんなで僕はRCの「あの歌が思い出せない」が大好きな歌になった。
 この歌はアルバムに収録されず、「ハード・フォーク・サクセション」という初期のベストには入っていたらしいのだが廃盤となっており、僕の音源は長らく、例の友人のテープのコピー、つまりダビングのダビングで相当音質の悪いモノラル版だけだった。だが、近年これが「HARD FOLK SUCCESSION」としてCD化されたのは有難いことだった。幻の歌ではなくなったのだ。
 
  君はいつも やさしく僕を抱いてくれたけれど

 この最後の言葉も、清志郎さんが歌うと何だかいい。パンダさんは大人だが、清志郎さんはどこか少年ぽいところがある。それが、女性の母性本能をくすぐって思わず抱きしめたくなるこの主人公に似合う。男は、好きな女を抱きしめたいと願うけれども、時には抱いて欲しい時もあるんだ。いつもは突っ張って突っ張って生きている男も、それだけじゃ生きていけないんだよ。
 本当の弱い自分を見せることの出来る数少ない、もしかしたらたった一人だったかも知れない人。抱いてくれる人ってのはそういう人のはずだ。その人を失ったら、そりゃ雨にも打たれるだろうよ。忘れる事など出来ないはずのあの歌も、今は思い出せない。忘れちゃったんじゃないんだけど思い出せないんだよ。
 何と痛切な叫びなのか。

 その痛切な思いを伝えてくれた清志郎さんが逝ってしまうとは。お別れは突然やってくる。
 空がまた暗くなる。でも、風の中に君の声が聴こえる。どうか安らかに。合掌。
 

喜納昌吉&チャンプルーズ「すべての人の心に花を」

2008年12月31日 | 好きな歌・心に残る歌
 喜納昌吉という人を最初に知ったのは中学校くらいの時だったかと思う。もちろん、「ハイサイおじさん」のヒットによってである。
 記憶違いだったら申し訳ないが、当時喜納昌吉&チャンプルーズはハイサイおじさんを引っさげ、確かドリフの番組にも出ていたような記憶がある。売り出し中だったのだろうか。後に志村けんが「ヘンなおじさん」という替え歌を作ってこのメロディーをさらに浸透させたが、この時の記憶が志村さんにあったのかどうか。

  ハイサイおじさん 昨夜ゆうびぬ三合ビンぐわ ぬくとんな ぬくとら我んに 分きらんな
  ありありわらば いぇーわらば 三合ビンぬあたいし我んにんかい ぬくとんで言ゅんな いぇーわらば

 当時はおきなわの言葉など全く分からない(今もヒアリングは難しい)。ただ楽しいので丸暗記して意味も分からず歌った。後に読んだ喜納昌吉自伝「泣きなさい笑いなさい(リヨン社)」によれば、このうたには相当に哀しい背景があったのだが、無論そんなことは子供には分からない。また、今でも分からなくてもいいと思っている。そんな背景など吹き飛ばすくらいにこのうたは広がってしまった。
 このうたは、喜納昌吉が17歳の時に作り(原案は中学生の時らしい)、そして彼が服役中に沖縄のコザで火が付き、長い時間をかけて本土上陸したということも彼岸のことのように思えるほど人口に膾炙している。おきなわのうたの代表曲だろう。全ての先駆であったと言えるのではないだろうか。このうたがもしもなかったならば、後の「ウチナー・ポップ」と呼ばれる一群の音楽の様相はずいぶん違ったものになっていたかもしれない。

 僕はと言えば、20歳の時に初めて沖縄に旅に出た時から、沖縄旋律に夢中になってしまった。マルフクレコードで沖縄民謡のカセットを買い、熱病のように繰り返し聴いていた。もちろんその中には「ハイサイおじさん」も入っている。
 むろんそれだけでは飽き足らなくなり、さらに喜納昌吉を聴くべく1stアルバム「喜納昌吉&チャンプルーズ」そして2ndアルバム「BLOOD LINE」を入手した。1986年のこと。
 1stアルバムには矢野誠、矢野顕子、林立夫らも参加し、日本のベストロックアルバム100にも選出された名盤である。そして「BLOOD LINE」はライ・クーダーが参加、細野晴巨やチト河内、久保田真琴らとともにものすごいサウンドを作り上げている。そして、このアルバムの中に「すべての人の心に花を」が収録されていた。喜納昌吉30歳のときの作品と言われる。

  花は流れてどこどこ行くの 人も流れてどこどこ行くの

 ボーカルは喜納昌吉ではない。当時の奥さんだった友子さんである。どこまでも高く響く、おきなわの人ならではの透明なうたごえは本当に美しかった。心にしみいる旋律とともに。
 だが、僕は告白しておかなければならない。この曲を初めて聴いた当時、現在ほどのこの曲に対する思い入れは持ちえてはいなかったことを。
 不明を恥じるばかりだけれども、あの時は、同じアルバム「BLOOD LINE」の中でも、「じんじん」や「アキサミヨー」「イヤーホイ」などのもっと沖縄色の濃い曲に耳が行き、「すべての人の心に花を」が、そこまでの曲であるとは正直思わなかった。ロックミュージシャンがアルバムによく一曲入れるバラードである、という位置づけにしか受け取ってはいなかったのだ。

 うたの心が分かるのには人生経験も必要なのだなと今あらためて思う。
 「BLOOD LINE」を聴いてから約2年後、僕はなんだかもみくちゃになっていた。旅ばかりを繰り返していた青春時代を過ぎ、既に僕は社会人となっていた。ノルマに追われる生活。ひっきりなしの催促。焦燥。数多くの失敗。自己の未熟さ加減への悔恨。罵倒や裏切り。好きだった人も遠い存在になり、安らぎを失い、酒に逃げ荒んでいた。人ってこんなに冷たい存在だったのか。何かが違う。何かが…。
 そんな時に、ふと喜納昌吉のライブアルバムを買った。「THE CELEBRATIONS LIVE」。何かに逃げ込みたかったのかもしれない。
 そのアルバムの終わりに、「すべての人の心に花を」が収録されていた。今度は喜納昌吉が歌っている。タイトルは「花」に変わっていた。
 その時僕は、顔をくしゃくしゃにして泣いてしまったのだ。

  泣きなさい 笑いなさい いつの日か いつの日か 花をさかそうよ

 今でこそ年をくって涙もろい僕だが、当時は涙などほとんど流すことなど無かった頃。自分で泣いていることに狼狽したことを憶えている。
 「BLOOD LINE」も取り出して、「すべての人の心に花を」をまた聴いてみた。圧倒的な友子さんの声とライ・クーダーのスライドギターにやっぱり涙が出た。そうか。そういうことか。「泣きなさい 笑いなさい」ということは。生きていくことってこういうことを越えていくんだ。みんなそうなんだ。

 「すべての人の心に花を」改め「花」は、その後CMソングとしておおたか静流が歌い、一気に世の中に広まっていく。辛い思いを抱えている人が多いのだろう。昌吉は紅白にも出場し、また石嶺聡子によるカバーがヒットしてもうこの曲を知らない人はいなくなったと言っていいだろう。
 この曲をカバーした歌手は50名を数え、実は実数が掌握しにくいらしい。この歌だけを集めたコンピレーションアルバムもある由。本当なのかどうかは確認していないが、Wikipediaによると昌吉はこのうたの著作権を放棄したと書かれている。「自分は忘れられてもこのうただけは後世に残ってくれればいい」という発言をどこかで聞いた記憶もある。上記リンクによれば、このうたは世界60か国以上でカバーされ、3000万枚を売り上げたという。もの凄い数字だ。シングルとしては、現在「ホワイトクリスマス」の記録を塗り替えたエルトンジョンの「風の中のキャンドル(ダイアナ妃の追悼歌)」が世界で一番売れたと言われているが、「花」もいい線いくのではないのか。いまや「上を向いて歩こう」と共に、日本を代表する曲になったと言っていいと思う。
 
 喜納昌吉も還暦を迎え、今や議員さんである。そして、このうたの位置付けも少しづつ変わってきたように思う。このうたはピースソングとして「すべての武器を楽器に/すべての基地を花園に」を合言葉に平和を希求するうたとして歩み始めた。確かにこの曲は、ジョンレノンの「イマジン」になれる可能性は十分に持っていると僕も思う。
 ただ、このうたを聴いて涙を流した日のことを僕は忘れない。いついつまでも、心の安穏を求める人々の底辺で流れていて欲しい。どこか遠くで上の方から聴こえて来るうたであっては欲しくない。
 今日もどこかの街で、どこかの国で、「すべての人の心に花を」を耳にして涙を流している人がいるはずである。そんな人たちのために、いついつまでも存在していて欲しいうたである。

井上陽水「おやすみ」

2008年11月10日 | 好きな歌・心に残る歌
 井上陽水について書こうと何度も思って、その度に筆が止まる。難しい。
 吉田拓郎と並ぶフォークソング界の巨頭、と書き始めてもいいのだが、そうすると「陽水の音楽は果たしてフォークなのか?」という問いに繋がり、フォークとは何なんだ、から書き起こしたくなる。カテゴライズすら難しい。じゃ個々の音楽について語ればいいか、と言えば、それもまた困難だ。
 楽曲が「理解」しにくいのではないか、とも考えてみる。それはひとつ言えそうだ。身近に迫り来るわけではない。「共感」から来る感動とは何かが違う。どうも超越している。手の届かない場所に存在しているのかもしれない。
 この「手の届かない」というのは、心に響かないという意味ではない。僕は陽水のコアなリスナーではないが(アルバムをフルで聴いているのは「9.5カラット」までであり、その後はメディアで流れる程度でしか聴いていないのだが)、浮気性の僕にしては比較的聴き込んでいる方ではないかと思う。にもかかわらず、手が届く感じがしない。
 この感覚をどう言えばいいのか困るが、傲慢な言い方を許してもらえれば、僕は絶対に井上陽水に成れないということがよく分かっているからだろうと思うからだ。僕は悪声で音痴で歌など人前で歌うには憚りがあり、楽器も才能がない。作曲能力も無い。だが、言葉は日本人なので綴ることは出来る。しかし、陽水の書く言葉の数々は、ひっくり返っても自分には書けない。
 さらに傲慢な言い方を許してもらえれば(許されないかもしれないけれど)、人生経験を積み恋をし辛酸を舐め、さらに本を山ほど読み言葉を練り上げることを続け習熟していけば、もしかしたら小椋佳やさだまさしや谷村新司にはなれるかもしれないのでは、と勘違いをしてしまったりすることもあるのだが(間違いなく勘違いだが)、井上陽水にはどう逆立ちしても成れないのだ。それがつまり「手が届かない」ということの意味である。
 しかし、手は届かないにも関わらず、その楽曲のひとつひとつがどうにもこうにも耳から離れない。なんだこれは。これが芸術の持つ力なのか。
 だから陽水を書くのは難しい。いや、ブログなんだもの、書けないわけじゃないと思う。しかし、書き始めると論文のようになってしまわないかという危惧がある。分からないのに惹きつけられるとは何事か。なので分析し、その凄さを何とかして伝えたくなってしまうだろう。

 理屈ばかりだな。人の意見を聞こう。
 陽水は福岡の出身。この地出身と言えば、語り部は武田鉄矢さんだが、彼はチューリップを語るのと同様、陽水のこともネタにする。
 陽水は博多の音楽シーンの中では、まず一番に頭角を現した人なんだけど、なんと言っても暗かった、と言い、必ず一曲の歌を引き合いに出す。それは「たいくつ」という曲の一節。

  アリが死んでいる 角砂糖のそばで 笑いたい気もする あたりまえすぎて

 これは凄いでしょう、と鉄矢さんは言う。確かにシュール過ぎて凄い。このあと鉄矢さんの話は「傘がない」の無常観の話に続いていく訳だが、人生幸朗の漫才風の鉄矢さんの話はさておき、陽水の描く世界は凡人にはなかなか理解に屈するものが多い。
 幻想的である、とか不条理、とか前衛的とか言葉を並べることは出来るがどうも本質を突いているような気がしない。形式や約束事などに囚われないその世界は、思った通りを言葉にしているようにも思えるし、文学的技巧の限りを尽くしているようにも聴こえる。魂の赴くままにひたすら煌めく言葉を羅列しているのか。それとも…。

  帽子を忘れた子供が道で直射日光にやられて死んだ
  僕の目から汗が滴り落ちてくる 本当に暑い日だ
  いやな夏が 夏が走る           (かんかん照り)

  電車は今日もすし詰め 延びる線路が拍車をかける
  満員 今日も満員 床に倒れた老婆が笑う
  だからガンバレ みんなガンバレ 夢の電車は東へ西へ (東へ西へ)

 「本当は怖いグリム童話」を思い出す。これは果たして何の比喩なのか。陽水の深さは底が無い。

 僕が陽水に出会ったのはやっぱり深夜放送で、当時「心もよう」「闇夜の国から」「白い一日」「青空、ひとりきり」なんかが流れていた。子供ながらそのメロディーラインの美しさに幻惑されていたけれども、今思えば「言葉の軽さを二人で笑い続けて/俺の腕枕お前は眠れそうかい」なんて言葉はマトモに咀嚼してはいなかった。子供だったからしょうがないとも言えるけど。
 初めて向き合ったのは、アルバム「氷の世界」である。
 この日本で初めて100万枚を売り上げたというLPは、今の100万枚とは比べ物にならない程人口に膾炙していると思うけれども、中身は確かに凄い。「あかずの踏み切り」「はじまり」「帰れない二人」と続くオープニングは組曲であり、「目の前を電車が駆け抜けて行く」から始まるその組曲は、様式を自ら作りつつ「帰れない二人」の地の底から湧き上がるようなドラムスの音で昇華していく。凄まじいまでの芸術だとも思う。「チエちゃん」「小春おばさん」「桜三月散歩道」と傑作ぞろいのこのアルバムは、その金字塔に相応しい。
 僕は井上陽水を漁って聴くようになった。子供のこととてアルバムを大人買いするわけにはいかなかったけれど、幸いなことにこれだけ売れている人のレコードは誰かが持っている。「断絶」「センチメンタル」「二色の独楽」「招待状のないショー」と聴き及んだ。きれいなきれいなメロディーラインと伸び渡るヴォーカル。溢れる美意識。そして刻み付けるひとつひとつの言葉。時に理解に苦しむこともあったけれども、それでも心を動かされるのは何故なんだろうか。そう自問しながら。

 井上陽水は1972年にデビューする以前に「アンドレ・カンドレ」なる芸名で「カンドレ・マンドレ」という曲で一度デビューしている。この伝説の曲がとあるオムニバスアルバムに入っていたのを当時聴いたのだが、それはまた驚きの曲だった。広がるリリカルな世界。美しくも儚いメロディーに乗せて恥ずかしいほど素直な言葉を繋ぐ。

  一緒に行こうよ 私と二人で愛の国 きっと行ける 二人で行けるさ夢の国

 「アンドレカンドレサンタリワンタリ…」と二人で愛の呪文を唱えようとするこの歌のヒットを陽水は確信していたのだと言う。だが意に反して全く売れず、井上陽水名義で(本名は陽水を「あきみ」と読む)「人生が二度あれば」で再デビュー。アンドレカンドレとは一転してこの背筋が伸びるほどに内省的な歌は、広く人々に知れ渡ることになる。この歌をご存知の人は多いと思うが、救いがない。淡い恋や甘い感傷などどこかへ飛んでいってしまう。
 この「人生が二度あれば」や「傘がない」などの作風。そして「待ちぼうけ」や「夢の中へ」等のアンドレカンドレ以来の軽快で流れるメロディー。「愛は君」「氷の世界」「夕立」等の叩き付ける楽曲。分類などとても出来ないが、それらを共存させ重なり合わせて井上陽水の世界は重層的になっていく。いずれも根底に流れるのは美しい旋律と、何かを超えた言葉の数々。
 
 僕がリアルタイムと重なるのはアルバム「white」からである。このLPは例の事件後であって、セールスは伸びなかったらしい。しかし、このアルバムは実に格好いい。冒頭の「青い闇の警告」にはシビれた。

  星の零れた夜に 窓の硝子が割れた 俺は破片を集めて 心の様に並べた

 後期の高村光太郎を連想させる詩。そして力強い旋律。陽水の格好良さはそれまでも例えば「ロンドン急行」の「恋人よ/行く先は/着いた時に知らせる」などで十分発揮されていたとは思うが、やはり何か経験が加味されたのかもしれない。
 以後陽水は、「スニーカーダンサー」で復活し、名盤「LION&PELICAN」を経て「9.5カラット」で二度目のミリオンセラーを叩き出し、シングルも「なぜか上海」「ジェラシー」「リバーサイドホテル」とヒットを連発させ再び黄金時代を到来させる。僕は社会人になってしまったりで以降それほど熱心なリスナーではなくなってしまったのだが、その活躍ぶりは凄い。現在でも無論第一線である。

 井上陽水について書きたいと思って、昔のアルバムなどを折に触れ聴きなおしていた。ブログではたいてい表題に一曲選んでそれについて書く形式を採っているので、どの曲にしようかと考えつつ。
 友人のよぴちさんは「からたちの花」をピックアップされている。なるほどそういう切り口もあるなと思う。
 実にシンプルに「陽水さんの初期、というのは、いつ頃までを言うのか」という言葉で集約して提示されている。僕のようにクドクド言わない。この曲は歌謡曲風に仕上げてあるが、「あんたとあたい/運も悪いし身体も弱い」などと切り込んで行くあたり、陽水の凄さがやはりある。

 どの曲が一番好きか、というのは愚問中の愚問だとは思うが、あえて自分にしてみる。しかしやはり答えは日替わりになってしまう。
 しかし、その中でも例えば「いつのまにか少女は」なんて曲は、いつも心に引っかかり続けているような気がする。その独特の美しい調べ。いい曲だなーといつも思う。

  君は静かに音もたてずにおとなになった
  燃える夏の太陽はそこまで来てる
  だけど春の短さを誰も知らない…

 最後の「大人になった…」というフレーズでメジャーキーに展開するのかと思わせてそのまままた静かな旋律へと戻っていく。やさしくてきれいだな。

 「ゼンマイじかけのカブト虫」では、うたの持つ怖さと深さがよく分かるような気がする。

  カブト虫 こわれた 一緒に楽しく遊んでいたのに
  幸せに糸つけ 引きずりまわしていてこわれた

 この歌は四番まであり、全部聴かないと真意が伝わらないというのもまた当時にしては実験的だったと思うけれども、全てをここに書くわけにはいかない。また、この歌の中に流れるある種の「無機質な不気味さ」というものについて言及したいのだが、それを書き出すと無限に話が延びるので別にひと記事書くことにする。(→別記事)
 ともかくも、言葉を削ぎ落としながら歌は進む。

  君の顔 笑った なんにもおかしい事はないのに
  君の目が こわれた ゼンマイじかけのカブト虫みたい

 こうして歌は終わる。これは単なる失恋の喪失感を歌ったものだろうか。それだけでは、この胸に残るもやもやした感情を僕は整理できない。わざと言葉足らずにして余韻を生み出し、何か聴いた後に得体の知れないものを生み出させる。そんな歌は他にないぞ。

 もう書き出すとキリがないのだ。「能古島の片思い」について書きたい。「ミスコンテスト」について書きたい。「冷たい部屋の世界地図」「帰郷(危篤電報を受け取って)」も語るに値する。

 終わりが見えないので思い出でも書こう。
 中学三年の時だったと記憶している。多感な時期だった。僕はクラスの友人たちと放課後、誰もいない体育館に居た。確か、文化祭か何かに催されるクラス対抗の英語劇の練習をしていたのだったと思う。男子三名、女子三名。ひとり帰国子女の女の子が居て彼女がリーダーだったのだが、僕を含む男三人は全然モノにならず足を引っ張り続けていた。
 全くうまくならないので飽きてしまい、いつの間にかダベリングに替わっていた。思春期のガキにはこういう時間がたまらなく楽しい。帰国子女の優等生彼女も呆れたのかもしれないが笑いながら話に興じていた。
 体育館は講堂も兼ねていて舞台があり、そこにピアノが一台ある。鍵もかかっておらず、帰国子女が蓋を開けて音を奏でだした。それが陽水の「おやすみ」だった。

  あやとり糸は昔 切れたままなのに 想い続けていれば 心がやすまる

 陽水にはこういう抒情的なうたが時々ある。「Fun」「家におかえり」「眠りにさそわれ」「月が笑う」等々、しなやかな感性が溢れるような曲。多くの不条理な歌と違ってこうしたリリカルな調べは万人の共感を得るはずだ。
 僕は、帰国子女に声を合わせた。お、知ってるの、と言わんばかりに彼女がこちらを見る。そりゃ知ってるよ。英語は不得手だけど陽水は好きなんだ。あっ帰国子女がハモり出したぞ。音痴の僕はつられないように必死である。
 二人だけの世界に入ってしまってはクラスでウワサになってしまうので(こういうところ15歳だな)、その後メンバーの一人のヤローの家にみんなで練習のために集まった時、僕はLP「氷の世界」を持ち込んだ。オリジナルをみんなに聴かせてやろう。
 そして、「氷の世界」を英語劇班のメンバー全員がカセットにダビングして僕は洗脳に成功するわけなのだけれど、集まったヤツの家は金持ちで応接室にやっぱりピアノがあり、そこでもまた帰国子女が弾いてくれた。いいなやっぱりピアノが弾けるって。僕はギター少年だったけれども、猛烈に「おやすみ」を自分でも弾いてみたくなった。
 
  深く眠ってしまおう 誰も起こすまい 暖かそうな毛布で 体をつつもう

 その英語劇は大した成績にはならず終わってしまったのだけれども(みんな足引っ張ってゴメンな)、僕はその後、電器屋の特売で単三電池6個で鳴るカシオの小さなキーボードを見つけ、ごく廉価だったので衝動買いしてしまった。中学生が小遣いで買える値段だったと思う。
 僕の頭の中には帰国子女が弾いた「おやすみ」と、もう一曲彼女が弾いたRCの「スローバラード」しか無かったわけで、端的に言えば「おやすみ」と「スローバラード」を弾くためにキーボードを購入してしまったとも言える。自分でもどうなのかとは思うのだが、ギターと異なり鍵盤は難しくそんな一朝一夕には弾けない。今の僕であれば、帰国子女に教えてくれと頼み、同時に仲も深めようとするところだけれどもそこは15歳、そんなことは口に出せない。そうこうしているうちに受験の季節を過ぎ、僕は公立高へ、彼女は国際科のある私立へ進学しもうそれきりになった。
 結局、イントロしか弾けるようにはならなかったと思う。そして人前で弾くことなど全くなくそのまま挫折した。けれども、そのキーボードは処分もせず今も部屋の片隅にある。押入れにしまう事もせず、電池さえ入れればまだ鳴る。けれど、全然手には取っていない。

  もうすべて終わったから みんな みんな終わったから… 

 なんだか懐かしいな。あの頃の自分が。淡き想い。駄弁っているだけで感じるときめき。そんな人を想い初めし感情なんてどこ行っちゃったのかな。すっかり鍵盤の運指など忘れてしまった僕は、陽水の「おやすみ」を聴きつつぼんやりとそんなことをまた思っている。

古時計「ロードショー」

2008年05月08日 | 好きな歌・心に残る歌
 五月の連休、普段ならまず旅行を計画するところなのだが、全く情けないことに久々に腰痛を発症した僕は、数日間引きこもりになっていた。まあそれはいい。引きこもりには引きこもりの楽しさがある。久々に読書三昧をしようと思った。手元には買うだけ買って積読になっている書籍が山ほどある。インプットもしないとブログだって筆が鈍る。
 そうして寝転んで本を読んでいると、僕も久しぶりに「粗大ゴミ」という言葉を思い出した。自分でもそう思うのだから、同居人にとってはさぞかし邪魔な存在に見えるのだろう。
 「暇ならちょっと片づけを手伝ってくんない」
 腰に負担がかからないことであれば、と僕が了解すると、たちまちのうちに僕の周りにミカン箱がドンドンと並んだ。その八つの箱を、せめて五つにして欲しいとのこと。
 冬物の衣類を仕舞って夏物に入れ替える作業を妻はしていたのだが、どうしても押入れに入りきらないらしい。そんなもの、冬の間に無計画に服を買うから仕舞えないなどという事態が起るのだ、身体はひとつなのだからそんなに服があってもしょうがないだろうしそっちを処分すればよかろう、と僕が至極真っ当なことを言うと、相手も反撃してくる。あんた引っ越してきてからこれらの箱を開けたことなんて殆どないじゃないの。何年も押入れで眠っているものなどいらないに等しいのではないか、と。
 議論では絶対に負けない僕なのだが、それは確かに悔しいが正論である。
 僕は物を捨てられない性格で、人から見ればいらないものを山ほど所持しているのも確か。思い出というものは他人に理解してもらうのは難しいもので(女房だって結局は他人だ)、僕は折れて整理をすることにした。
 しかし、これでも厳選して八箱になっているはずである。以前引越しのときに相当処分したのだ。かつてはこれが十二~三箱あったはずなのだから。
 内訳は、ひと箱は完全に思い出箱である。幼い頃山で拾った水晶。家族旅行で海に初めて行ったときに拾った貝殻。死んだじいさんに買ってもらった既に壊れて聞こえない携帯用ラジオ。貰ったキーホルダーや土産物の類。旅の記念に持ち帰った様々な入場券等。自転車の部品。古い日記。自分も執筆していた同人誌。手紙の束(妻には見せられないもの含む)。その他思い出に直結する品々。これらは厳選しようが無く、そのまままた封印である。
 もうひと箱は写真のネガ箱だ。僕は若い頃旅行ばっかりしていたので、写真はもう撮りまくっている。言わば僕の人生の軌跡そのものであり、これも捨てるわけにはいかない。あとの箱は、カセットテープの山がひと箱と、それ以外は皆雑誌のバックナンバーである。
 整理するとすればこれしかない。僕はそれらの箱を開けだした。
 雑誌などというものは、これはもうどうしようもないものである。開けるとつい読みふける。これでは長い休みがあっても終わらないので心を鬼にして整理を始めた。
 しかし、結構これでも厳選して残しているのである。出てきたものは、アニメージュ(アニメ雑誌)。新譜ジャーナル(音楽雑誌)。BE-PAL(アウトドア雑誌)。UFOと宇宙(超常現象雑誌)。週刊ゴング(プロレス雑誌)。歴史読本。歴史と旅。その他。むろん買ったもの全て保存しているわけではない。選んでいるのだが。
 創刊号やそれに近いものはそれだけで値打ちがあり簡単に処分出来ないが、それ以外は資料性を重視して仕分ける。そう考えると、BE-PALなどは思い出はあるもののもう殆どいらないことに気が付く。特定の記事を切り取ってスリム化する。歴史関係の雑誌もそうである。僕はブログで歴史記事を書くことが多いのだが、それらを書く際にこれらの雑誌を参照したことがない。飛ばし読みすると、歴史雑誌などは同じ企画を何度も繰り返しているものだということが分かる。なので、どんどん間引きしていく。一冊全て捨てるというより、いらないページを切り取り捨てていく。これだけでこの分厚い雑誌はずいぶんスリムになるものである。
 ずっとそんな作業を続けた。

 全然音楽の話になっていないが、その作業と平行して、もうひと箱のカセットテープにも及んでいる。
 カセットテープというものは、完全に消耗品である。保存が長期に及ぶと、テープは磨耗しまた伸びる。もう現在では、こういう音源など完全にデジタルに駆逐されたと言っていいだろう。もうMDの時代でもなくiPodの登場でWalkmanなど何処へ行ったか。前世紀の遺物と言ってもいい。
 しかもこれらのカセットテープの中身は、全てエアチェックである。それも深夜放送(AM)から録っている場合が多いので、大半がモノラル録音である。音質も酷い。僕は音楽ファンからすれば信じられないほど音質を重視してはいなくて、聴こえればいい程度に捉えているのでオーディオマニアに耳を疑われたりするのだが、その耳はこのカセットテープ時代に培われたものであろう。
 整理しようと思うのだが、これらの一群のテープには致命的欠陥がある。インデックスが無いのである。普通はカセットケースに書き込んでおくのが当たり前だが、これらのテープには「№○○」としか記していない。これらのテープは僕の小中学校時代のものである。この頃は小遣いとて少なく、テープは使いまわしていた。録音してはダビングを繰り返していて(その時点で音質無視である)、インデックスは書き込めなかったのである。そして、一冊の大学ノートに「№24→○○、××(曲名)」と記しておいたのだが、そのノートは何たることか既に無くしてしまっているのだ。どうしようもない。
 僕は雑誌整理の傍ら、そのテープ群をBGMとして流し、曲名をメモっていくことにした。

 聴きだすと、こうもバラバラに曲が入っているものかと驚く。小学生高学年から中学に至る時代に録音したものが殆どだが、ジャンルなど全く意識しないで録っては聴いていたと感心する。
 あるカセットに収録されている曲一覧。「教えてください神様(天馬ルミ子)」「ブルースカイブルー(西条秀樹)」「土曜の夜は羽田に来るの(ハイファイセット)」「思秋期(岩崎宏美)」「たえこMY LOVE(吉田拓郎)」「あのひとはやってくる(北炭生)」「わかれうた(中島みゆき)」「恋は水色涙色(N.S.P.)」「あなたセ・ラ・ヴィ(湯原昌幸)」「霧にぬれても(紙ふうせん)」「ソウル若三杉(うわー誰が歌ってるのか分からん^^;)」…
 見事なまでに統一性のないラインナップ。天馬ルミ子はどこへ行ったのかということはさておき、吉田拓郎と湯原昌幸が同じテープに入っているなんて普通は考えられない。
 しかしこうして聴いてみると時代が分かる。そしてこうした乱聴(こんな言葉あったっけ)の中から、趣味嗜好が生まれてくるのである。吉田拓郎や中島みゆき、N.S.P.などは、もう少し成長して金銭的に裕福(?)になってからLPを買い出す。だが、こうしたエアチェックから残念ながら発展しなかった場合も多い。
 このラインナップで気になるのは北炭生である。タイトルに「あのひとはやってくる」と書いたが、本当にそういうタイトルだったのか。Wikipediaで調べてそういう題名があったので便宜的にそう書いたが、自信がない。

  木枯らし吹く坂道を あの人はやってくる

 こういう歌いだしなので多分そうじゃないかと思うだけだ。或いは「こがらし」であったかもしれない。確か資生堂のCMソングになっていたと記憶しているのだが定かでない。詳しい人は教えて欲しいのだが。
 この頃は、男性フォークシンガーで新しい人が何人も登場していた。北炭生もそうだし、永井龍雲や松山千春。千春さんはもちろん今でもご活躍中だが、当時は僕などは同列に見ていた。が、残念ながら北炭生さんは僕の中ではそれ以上発展しなかった。

 こんなふうにテープを整理しながら聴いていると、北炭生さんのようにエアチェックした曲以上のことを知らない人が沢山出てくる。別につまらなかったからLPを買うまでには至らなかった、ということではもちろん無い。でも、全ての人のレコードを聴くなんて無理なことだ。
 例えば田山雅充。僕は「春うらら」以外にこの人のうたを知らない。

  みぞれまじりの春の宵 二人こたつにくるまって

 強烈に印象に残る曲だがそれしかテープに音源は残っていない。おそらく他にもいい曲はたくさん作られているのだとは思うのだが。なので田山さんの曲で僕が知っているのは結局「春うらら」だけである。
 そんな曲がたくさんある。

 マイペース「東京」
 クラフト「僕にまかせてください」「言問橋」「さよならコンサート」
 深野義和「風信子どこへ」
 シグナル「二十歳のめぐりあい」「BGMはため息で」
 伝書鳩「目覚めた時には晴れていた」
 根田成一「哀しみのバラード」
 ジャックと豆の木「二十才の手紙」
 日暮し「い・に・し・え」
 すいかずら「花火」
 ちゃんちゃこ「空飛ぶ鯨」
 うめまつり「北山杉」 等々。

 珠玉の名曲ばかりだと思うのだが、もはや音源を他に求めにくい曲も多い。ジャックと豆の木について詳しい方はいないだろうか。「いつかふるさとを捨てて一人旅に出た僕~」九州の人たちだと思うのだが。

 いろいろ聴いていると懐かしくてたまらなくなる。
 テープの片隅に、古時計の「ロードショー」があった。これもまた郷愁を呼ぶ。

  映画館のロビーであなたの笑顔を見てしまいました
  私にではなく誰か知らない人にそそぐほほえみを

 古時計という男性デュオについては、この「ロードショー」以外に僕は知るところが全く無い。残念なのだけれども、沁み入るうたである。
 そういえば「ロードショー」なんて言葉もついぞ聞かなくなった。僕はロードショーなどほとんど行くこともなく(金欠だったので)、二番館や三番館、名画座専門だった。そんなことも思い出される。しかし整理中のダンボール箱からは、昔観た映画のパンフレットもたくさん出てきた。これは封切りと同時に観に行った証しでもある。殆どがアニメーションのものだが、これも処分するには実に惜しい。
 話がまたそれるが、「うる星やつら・ビューティフルドリーマー」のパンフ。これを観に行った時は、大学受験が終わり、まだ合格発表がなされる前の宙ぶらりんな時期だった。不安定な揺れ動くココロを今も思い出す。そして「風の谷のナウシカ」。この時にはもう既に合格発表が終わり、これから始まる大学生活に夢を馳せていた自分をまた思い出す。ヲタク丸出しだが、宮崎駿という人に魅せられていた僕は、封切り日に一番で観ようと「京都ロキシー」という今はない映画館の前で徹夜で並んだ。そんな時代だった。
 またいくつかのパンフレットが出てくる。僕は映画はめったに連れ立って行くことは無かったが、これは女性と観に行ったっけ。いろんな思いが沸き起こる。

  「忙しくて逢えない」あなたは電話でそう言ってました
  私にごめんとすぐにあやまったのはこんなわけですか

 いいうただなあ。あらためて本当にそう思う。
 またそれに加えて、古くなって音がこもりまくったカセットテープの音色がそれに拍車をかける。こういう、ステレオでさえ無い、聴き取り難い歌声がまた胸を突く。こうして必死で昔は耳をそばだてて聴いていたのだな。あの頃に逆戻りしてしまう。思わず「デジタルくそくらえ」と乱暴なことを考えたりもしてしまうが、こんな感覚は誰も同意してくれないに違いない。

  「冬の海を見せたい」私の心に届いた絵はがき
  あなたのあとからついてゆこうと決めて二年過ぎました
 
 連休中に、なんとか雑誌の整理は終わり、八箱を五箱にすることには成功した。けれども、まだカセットテープの整理は終わっていない。しかし妻が出した宿題は終わったんだ。あとは、こんなのゆっくりやろう。


うめまつり「北山杉」

2008年02月13日 | 好きな歌・心に残る歌
 ご当地ソングというものがある。
 これは歌詞の中に街の名前や山や川の名称、また例えば祭りなどの習俗を織り込んだもので、なんと言うかな、郷愁のようなものを生み出す効果を上げようとしている歌のことを指す。
 あらゆるジャンルに存在する。クラシックに至ってもオペラと連動すれば、例えばロッシーニの「セビリアの理髪師」なんてのはスペインのご当地ソングであると言えれば言える(無理があるか)。また民謡なんてのは当然地域に密着しているわけで全てがご当地ソングであるとも言える。
 日本ではまず演歌だろう。それこそ列挙に暇がないが、最近は水森かおりなんてご当地ソングしか歌わない人もいるほどで、たいていヒットする。試みに47都道府県全てにあるかと思い浮かべてみたら、ずいぶん偏りがある。演歌に詳しければ全て列挙できるのだろうけれども、疎い僕はどうしても思い浮かばない都道府県もある。また教えてください。→ご当地ソング

 演歌は詳しくないし話が進めにくいのでフォーク系に絞っていきたいと思うけれども。
 この「ご当地ソング」には二つの視点があると僕は考えている。それは旅人視点か、それとも現地視点か。
 北海道を例にとると、「知床旅情(加藤登紀子)」「襟裳岬(吉田拓郎)」「岩尾別旅情(さとう宗幸)」なんてのは旅人視点である。「宗谷岬(ダカーポ)」などは旅人が出てこないけれども、現地に密着しているとも言い難い。これはやはり観光客視点だろう。
 逆にふきのとうの「山のロープウェー」「初夏」や中島みゆきの「ミルク32」「南三条」、また松山千春の数多くの曲などは北海道の人が歌う北海道の歌だ。
 そんなふうにして地名や土地の風俗を綴った歌を聴いていると面白い。 

 僕は京都で生まれ育ったので京都について考えてみたいと思うのだけれど。以下書くことは僕個人の感想であり京都出身者全ての感想ではないことは申し添えなければならないが。
 京都にも旅人視点か現地視点かで二面性がある。名だたる観光地であり旅人はガンガンやってくる。そして、住んでいる人間も多い。学生が多く、かつては「関西フォーク」のメッカであった土地柄で、地元から住人視点で作られた歌も多い。それらが混在している。だから面白いのだけれども。

 京都にまつわる歌と言えば、デュークエイセスの「女ひとり」や渚ゆうこの「京都慕情」などのいかにも観光地の名称をつらつらと並べた歌を連想する人が多い。「京都~大原三千院~」とか「あの人の姿懐かしい 黄昏の河原町~」とかね。フォーク系で言うとかぐや姫の「加茂の流れに」を思い出す人が多いと思う。

  やさしい雨の祇園町 加茂の流れにうつるあなたの姿

 いかにも「京都」である。祇園、清水、嵐山と並べ、マイナー調の情緒豊かなメロディーが演出する。知り合いにもこれを聴くと京都に行きたい、と思う人が多いようだ。
 でもこれってやっぱり旅人視点だなぁと思う。こうせつおぃちゃんのことは大好きだけれども、僕が聴くとなんだか違和感が。祇園だと流れる川は「鴨川」で「加茂(賀茂)川」とは高野川と合流する手前の川なのだがなぁと杓子定規なことを思ったりもする。また、祇園と嵐山は離れすぎていて、ひとつの歌にポンポンと出てくるとなんだか観光バスに乗っているような感じがする。もちろん旅人として観れば京都らしい。伊勢正やんの風にも「古都」という曲があって、「別れた人には京都が似合うと初めて気づいた木屋町通り」とやっぱり京都を歌っているがこれも同様。「嵯峨野のあたりに沈む夕日さえ~」おいおい、木屋町からいきなり嵯峨野かいっと驚く。
 嵯峨野・嵐山は観光客の実に多いところで、渡月橋あたりはいつ行っても混雑している印象がある。まあね、少し離れればすぐに深閑としてはくるのだけれども。 このあたりの情景を歌ったうたは多い。そういえば「雨の嵐山」なんて歌がある。初めて聴いたときには「嵐山には登らへんで」と思わず突っ込んでしまったものであるが。この鹿児島出身の歌手は京都のことを知っているのだろうか。
 観光地羅列には興醒めしてしまう傾向があるのだが、不思議と羅列していてもすっと入ってくる曲もある。完全に僕の主観だけれども。

  京都嵯峨野の直指庵 旅のノートに恋の文字 どれも私によく似てる
  嵯峨野 笹の葉さやさやと 嵯峨野 笹の葉さやさやと

 これはタンポポの「嵯峨野さやさや」。落柿舎だの祗王寺だのと羅列なのだが、妙に平日の時期でない京都が浮かぶ。この歌は伊藤アキラさんの作詞でこの人は関東の人であるし、歌詞も旅人視点であるのは間違いないのだが、子供の頃から地元の歌であるという意識が強かった。何故だろう。愛染倉という着物の店のCMソングになったので馴染み深いからか、とも思ってもみるが、それ以前にラジオで流れていた頃からいいなと思っていた。小林亜星さんのメロディーも純和風であるのに。こうして考えると歌の感じ方って主観だなぁと本当に思う。なので抗議されても困る。

 京都の冬は本当に寒い。盆地特有の気候であり「底冷え」とも呼ばれる。京都を離れてその寒さに気が付いた。雪深い北陸に住んでいたときも、京都の方が寒いと思った。
 その寒さを実感させてくれる名曲として六文銭の「比叡おろし」がある。

  風は山から降りてくる レタスのかごをかかえて
  唇はくびれていちご 遠い夜の街を越えて来たそうな
  うちは比叡おろしですねん あんさんの胸を雪にしてしまいますえ

 この歌は京都出身の奇才、松岡正剛氏が初めて作詞作曲をした歌であるが、なんとも寒い。松岡さんはこの曲を高校生のときに書いた、と言われているが、ご本人は21歳のときだったと言っている。どっちでもいいけれども、思わず身を屈めたくなる曲である。京都らしい。

 地名が出てきても、どちらかというと三千院や清水寺や嵐山じゃないところだと少し安心したりして。例えば「貴船川」という歌。

  恋に苦しむ女の涙を流す川があると聞き 私も一人で訪ねてきました鞍馬の貴船川

 少年の頃に繰り返しラジオで流れていて耳にこびり付いて離れない曲なのだけれども、誰が歌っていた曲なのかさっぱり思い出せなかった。検索してみたらきくち寛という方の曲だった。大変失礼しました。

  あの人への愛しさなんです 結ばれない愛なんでしょう 私の流す涙をどうぞ貴船川よ流しておくれ

 これ、詳細を知らないわりには非常に好きな曲。名古屋の方なのだそうだ。古いカセットを探してみたくなる。

 ピンポイントで言えば、例えば高田渡の「コーヒーブルース」なんてのはそうだろう。「三条へ行かなくちゃ 三条堺町のイノダっていうコーヒー屋へね…」イノダの珈琲は美味い。と言って、火事で焼けて新館が建ってからはまだ一度も本館に行ったことがないのだが。ここは何も言わなければ砂糖とミルクを入れて混ぜた状態で持ってくる。いつも僕はコーヒーはブラックだが、ここの珈琲はミルク入りで喫する。美味い。サンドイッチも絶品なのだけれども高い。うーむ。
 そんな話じゃなかった。

 地名が全然出てこなくても「京都」であるとわかる曲もある。ナターシャセブンの「街」などはそうかもしれない。

  下駄の音 路地裏通り 雨上がりの屋根 窓越しの手まり唄 おさげ髪の思い出
  この街が好きさ 君がいるから この街が好きさ 君の微笑あるから

 どこにでもある風景を歌った曲であり、後から「夕焼け雲 五重の塔…」とか「大学通り 流れる川 走る路面電車 背の低い山を見て…」とか出てくるので京都と類推されるのだが、嵐山とか祇園とかは出てこない。でも京都である。完全に住人視点の歌である。心地いい。
 京都にはミュージシャンが多く住んでいて(昔は、と注釈をつけなければならないかもしれないが)、地元視線での歌がいくつもある。ばっくすばにぃの「しあわせ京都」とか。

 そうして地元の歌をいろいろ思い浮かべていると、どうしても外せないのは、うめまつりの「北山杉」である。

  四条通りをゆっくりと君の思い出残したとこを 黒いダッフルコート着て背中丸めて歩いてます

 この「うめまつり」というユニットについては、僕は全然知るところがない。昔ラジオで繰り返し流れていたのを聴き覚え、エアチェックにも成功したのでいまだに音源を所持しているだけなのである。当時は小学生で、レコードなど自由に買えるほどの小遣いは持っていない。
 検索してみると、Wikipediaにメンバーだった岡本正さんの記述があった。しかしポプコンに出場経験があるという程度のことしかわからない。だがこれによると「北山杉」は2006年11月22日に再発売されたと書かれている。よかった。幻の曲ではなかった。
 やさしい、やわらかな曲。今でもつい口ずさみたくなる。しかしながら、実はこの曲は清水寺だの大覚寺だの観光地羅列でもあるのだ。だが、それが全く嫌味でない。地元の人間だって清水の三年坂くらいは歩く。そういう視点に聴こえる。これは全くの主観であって「加茂の流れに」とどう違うのだ、と問われても答えようがないのだが。ごめんなさい。
 よくよく考えてみる。これは耳に入ってきたときの状況にもよるのではないかと。
 これまで、旅人視点だの地元視点だのと七面倒くさい理屈を書いてきたが、ああおらが街の歌だと思う過程はそれだけではなく、その街に住んでいて、地元の放送局から繰り返し流れてきて心にしみ込んで行く過程。それも結構重要な事柄であったりする。「嵯峨野さやさや」にせよ「比叡おろし」にせよ「貴船川」にせよこの「北山杉」にせよ、みんなそういう過程を踏んできている。なので、今でも沁み入るのかもしれない。

  冷たい雨が雪になり 君の足跡隠れて消えて 涙まじりの雪払い 北山杉を思い出します

 この曲を聴くと、様々なことが思い出される。少年期から青年へと移りゆく多感な時期。僕も覚えたてのギターを抱えて、自分の住むこの街のことをいくつも歌にした。これは相当恥ずかしい行為で、現在は全てその頃のことは封印しているけれども、今でも残念ながらほとんど記憶している。
 うたをずっと作っていきたいとあの頃は思っていた。プロとかそんな大それたことは考えなかったけれども、どこかで発信できるチャンスもあるかもしれない、なんて夢想していた。あの頃は、今よりももっと歌が身近だったような気がする。今は、何故か発信者と受け取り手に距離感を感じる。僕が若くなくなったせいだろうか。

  あの頃二人は清水の白い石段登って降りて 青春色の京都の町を静かに静かに歩いていました

 ふるさとを思い出せる歌があるということは幸せなことだと思う。「ご当地ソング」などという言い回しはどうも宣伝臭がしてしまうのだが、そんなのもたまにはいい。

THE ALFEE 「Rockdom-風に吹かれて-」

2007年12月28日 | 好きな歌・心に残る歌
 このブログに自分の「好きな歌」とそれにまつわる思い出話などを書き始めてしばらく経つ。振り返ると、個人はともかくグループ、ユニットなどは皆解散したか、活動停止をしたか、或いは活動を再開したとしてもスペシャル的なものであったりとか、様々に変遷していることに気が付く。僕が音楽になんとなしに興味を持ち始めてから30年を過ぎ、自我意識が特に高いと思われる(そうでなければやっていけない)ミュージシャンにとってはそれはもう必然とも言えるべきことで、発展であったり進化であったりする場合が多いので慶ぶべきことであるのかもしれない。でも少しは寂しかったりもする。
 そうした中で、アルフィーというユニットの息の長さにはひたすら驚く。

 アルフィーは、この記事を書いている時点で結成33年、その前身のコンフィデンス時代を含めるともっと長い。メンバーが桜井賢、坂崎幸之助、高見沢俊彦の三人となってからでも30年は超えている。チャゲ&飛鳥だってサザンオールスターズだって30年は超えていない。ずっと継続して活動を続けていたユニットとしては、これは記録ではないのか。あんな個性の強い、志向も同じとは言えない面々がこうして続けてこられたことに驚愕の思いがする。
 デビューは、小室等さんにコンテストで認められた事がきっかけ、とはよく知られる話。もともとはフォークグループだった。現在、坂崎幸之助氏は「フォークの伝道師」という役割を担われていてそのことに何の不思議も無いのだが、「メリーアン」のヒットとあの高見沢氏のド派手なヘビメタファッションを知る人は実に違和感があるのではないかと思う。
 僕はアルフィーというユニットの活動を知るより以前に、坂崎氏にまず憧れを持った。なんとギターの巧い人なのだろうと。丁度中学生でギターを始め出した頃、しばしば坂崎氏がTVに出てはギターを弾いていた。タモリが漫談をする後ろで伴奏を付ける。タモリの話はいつものように変幻自在に移るが、それに合わせて伴奏がバラードになったりスウィング風になったりはたまた中国音楽風になったり。それらを全てアドリブでやってのける坂崎氏に驚き、ギター一本の可能性というのはここまで広がるのかとまた驚いた。
 当時は「無言劇」がラジオで流れていた。

  裏切りの舞台 三文芝居のタイトルは台詞無用の無言劇 主役は冷めきった心と心

 リリカルな叙情で溢れている。いい曲だな。それからしばらくしてアルフィーは突出したヒット曲もないまま武道館公演を成功させ(これはあの時代から考えれば凄いことだ)、それが契機となったかのように「メリーアン」の大ヒット、それ以降はもう僕が書く必要など無い。現在も第一線で在り続け出す曲全てがヒットチャートを昇る。

 「Rockdom-風に吹かれて-」がリリースされたのは'86年。僕は大学生になっていた。
 その頃の僕は、有体に言えば生き方に迷っていた。しかしこれは当然のことで、この時期迷っていない若者など少数派だったに違いない。人生に指針を見出し、それに向かって突き進んでいる立派なやつもそりゃ居たけれども、大多数はこれから先どう生きていこうかという事に悩み、陽炎のような未来に漠とした不安を持つ、それが当然だったと思う。
 ただ、僕はもっと低いレベルのところで右往左往していたように思う。未来のこともそうだが、まず今をどう生きればいいのか。人に言わせれば「青春時代」と言われるこの時代だったが、その定義ってなんだろう。そんなことも分からずに二十歳を過ぎてしまったことへの悔いと焦燥。
 
  若さの他には何もない 俺達の愛は転がる石のようだった

 昔から理屈先行だった僕は、その「青春」と言われる時代を無為に過ごしたくはなかった。「風に吹かれて」。「転がる石のように」。ボブ・ディランがそう言っていることは知っていたけれど、どうしたら転がる石のようになれるのか、どうしたら風に吹かれていられるのか、それが全く見えてこなくてただ焦っていた。そうしている間にもどんどん時が過ぎていく。
 学生の多い街に生まれた僕は、幼い頃から若者の居る風景というものを見ていた。そして憧れを持った。デモやヘルメットや立看板も身近にあった。若者とはああいうものだ、と刷り込まれていたようにも思う。
 中学生の頃、甲斐よしひろが「男と女の事がいちばんデカい」と言い放っていた。当時その言葉に反発したのを憶えている。そんなことが一番大きなことじゃないだろう。若者は社会を変えるべく起たなくてはいけないのじゃないのか。
 今にして思えばあまりにも蒼い。その蒼さが青春の青だとはもちろんその時は気付いていない。それに、男と女の事なんてまだ何も知らなかったくせにそんな反発は不遜である。しかし当時は大真面目で考えていた。
 高校時代。クラスメートには民青に入っている男も居た。僕も勧誘された。しかしそれに対して怖さよりも、自分の立ち居地がまだ見えなかったために断った。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読み、若者はこうあるべきだと強く思った。しかし具体的にどうすればいいのかまだ見えてはいない。今僕は何をすべきか。若者群像を知りたかった。指針を見出したかった。
 柴田翔の「されどわれらが日々」を読んだ。庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読んだ。高野悦子の「二十歳の原点」を読んだ。時代の空気とそこに身を投じている若者の気持ちは本当によくわかる。しかし、自分には置き換えられない。

  ロックアウトされたキャンパス やりきれないほどに灰色の毎日だった
  あいつが死んだ夜も 何も知らずに俺達は抱き合ってた

 何も分からないまま、ただモラトリアムの続きとして大学に進学してしまった。その大学には、もはやロックアウトなどという言葉を実感として知っている同級生は居ない。僕自身、何かを始めようという気力は全く無かった。その頃には、もう自分が頭でっかちのしょうがない人間だということは気が付いていた。しかしそんな自分が嫌いだった。なんとかしたい。けれども「自己嫌悪」なんて言葉ももう流行遅れになっていた。そして、甲斐よしひろに反発するだけの恋愛もまだ経験してはいなかった。男と女の事すら、流されるままだった。
 僕はいったいどうすればいいのだろう。途方に暮れた。

 先日、時代の先達と話していた。その人はこう言った。「あの頃~反戦運動華やかなりし頃~の若者は、まだ自分たちによって世の中が変わるのではないかと信じていたんだよ」と。
 しかし若者の望んだ未来は潰える。その後に「シラケ世代」が形成されていく。僕はさらに後の世代であり、若者のムーブメントさえ彼岸のことのように思えていた。ただ焦燥感だけがあった。それ自体が若者特有の蒼さからきていることにはまだ気付いていない。

 僕は、その空虚感を埋める為に、ただ旅ばかりしていた。せめて自分の限界点を知っておきたい、と思って始めた自転車による日本旅行だったが、そのときは受動的だと思っていた行動も、採点の甘い今となっては能動的であったようにも思える。いたたまれなくなって飛び出した、とも言えるが、当時は焦りから来る無為な行動~実際に「そんなことばっかりやってて何になるんだ」とはよく言われた~とは思っていたけれども、今になって思えば全く無為ではなかった。少なくとも「思い出」だけは僕に残してくれた。

 その時は何も分からないのだ。
 甲斐よしひろが言うことも今となっては理解できる。自分の軌跡を残すということが人生において「いちばんデカい」事だと言っていたんだろう。男と女のことというのは比喩であるとも言える。
 デカいこととは、社会に名を残すことばかりじゃない。自分の内面に残ることであってもまた。自分がどう生きたかがいちばんデカいことであって、例えば途方に暮れていたこと、焦っていたこと、悔いとして残ったこと、全てが糧になっているとは言わないけれど、紛れも無く追憶として残っている。

  陽炎のように光の中で揺れてる想い出たち
  懐かしき恋人 仲間たちの笑顔 眩しく輝くその時

 「Rockdom-風に吹かれて-」。アルフィーは、13年かけてこの曲にたどりついたと言う。そうだろう。この曲はその時代の真っ只中に居ては作れないはず。そして聴く側もまた然り。この曲は振り返ることの出来る軌跡を持っていてこそその真価が分かる。僕も本当にこの曲の良さがわかったのは、リアルタイムでは無かった。
 今の人生はもはや80年時代とも言える。それに従えば、青春・朱夏・白秋・玄冬という区分も20年サイクルだろう。さすれば、青春なんて時代のことは夏の時代にようやく分かることなのだ。渦中に身を措いているときに客観視など出来るはずが無い。
 あの時代はやはり黄金色した日々だったんだ。無為に見えてその実、あの頃がなければ今もない。

  俺達の時代を忘れないで 風に吹かれていたあの頃を

 懐かしむという行為をつまらないと言う人も居る。人間は前をただ向いて進むべきだ、とも。その意見に抗おうとも思わない。しかし、人は何故前を向いて進まなければならないかと考えるときに、それは後ろに連なる軌跡を作るためだということに気が付く。
 その軌跡こそが人生なのじゃないか。
 そうして自己弁護を続ける間に、僕も四十歳を過ぎた。四十の手前で僕はちょっとした病気になり、しばらく安静にせざるを得ない時期があった。動けない日々の中で僕は、「もう自分は白秋の時代に入ろうとしているのだ」と感じた。
 こんなことを言うのはおかしな事であるというのは承知している。そのときは分からないのだ、と前述したことと矛盾している。しかしそう思ってしまったものはしょうがない。そして同時に、自分の軌跡を残しておきたい衝動に駆られた。
 もちろんアルフィーの「Rockdom」には及びもつかないことはよくわかっている。それでも僕はまた今日もブログに記事を積み上げている。自分が過ごした春と夏の季節を留めておくために。