凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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ザ・ナターシャー・セブン「道づれは南風」

2011年12月29日 | 好きな歌・心に残る歌
 2011年という年は、いろいろなことがあった。
 世間的には、未曾有の大地震があり、その他にも災害が多く、また原発事故があり収束せぬまま年の瀬を迎えている。おそらくは後年の歴史書に特筆され、また永く人々の記憶に残るに違いない。
 そんな年に小さな小さなことかもしれないが、僕個人にも様々な出来事があった。
 以降書くことは、一応虚構だ。僕も具体的なことは語れないしまた書けない。ならば書かなければいいのだが、何となしにその心象風景のようなものは自分史として書き留めておきたくなり、虚構の形を借りて、その思いを刻んでおくことにする。以下に書くことの骨格は作り話である。しかしながら、心が揺れ動くさまは、本当の話である。

 春先、ひとつのチャンスが僕に訪れた。
 それは簡単に書けば、長い間夢見ていた独立起業が可能になるかもしれない、ということだった。今まで模索しても全く取っ掛かりすら見出せなかったものが、突然に開けた。
 夢が、叶う。僕は狂喜し、その日から生活が一変した。一日は24時間しかないため、睡眠を削った。厳しい日々が続いたが、僕の夢を知る家族も共に喜び、助けてくれた。何より目標があるということが、多少の無理を可能にした。僕はとにかく懸命に邁進した。
 だがその夢が、ある日突然に途絶えた。
 遠因には震災もあったのかもしれないが、出資者が手を引いた。それも僕の力不足だったのだろう。夢は途上で潰えた。あとには、負債のようなものが残った。

 僕は悔しさに打ちひしがれていたが、同時に体調がおかしくなっていくのを感じた。いや、そもそももっと以前から体調の異変はあったのだが、そんなことに関わっている余裕がなかったため、覆い隠していたと言ってもいい。それが噴出した。
 胸部の臓器が痛み出した。これは以前からそうだったのだが、ここに来て酷くなってきた。加えて、どうも身体そのものの力が減じていく実感があった。だるく、すぐ疲れ、息が切れる。
 これはもしかしたら病気ではないのか。癌か。
 検診を受けてからもう一年近くになろうとしていた。以降、相当に不摂生を重ねた。そういうことがあったとしても、おかしくはない。
 おりしも、同時期に従兄弟が癌で死んだ。僕より年下だった。日頃から健康には留意していた、と叔母から聞いたが、分かったときには末期だったらしい。痛みが出だしたらもう終わりなのよ、と叔母は泣きながら言った。幼い頃はよく遊んだ従兄弟だったので僕も悲しかったが、「痛みが出たら終わり」という言葉が強く僕に突き刺さった。
 おかしなもので、それ以外にもそういう情報がやたら入ってくる。いや、これは今まで気にも留めていなかったことに過敏になっているからだろう。若くして亡くなった人の話がとにかく耳に入る。共通していることは、自覚症状があればそれは相当に進行している、ということ。
 僕は病院に行くことにした。

 もちろん、直ぐに疑いが晴れることを期待していた。だが医者は、少し深刻な顔をした。とにかくその場ではシロだとの診断はつかず、さらに検査を重ねた。結果が出るのは一週間後だと言う。
 僕はぶっちゃけ聞いてみた。癌の可能性はあるのか、と。医者は肯定した。そして、もしもそうであれば即座に入院加療の必要がある、と。なるほどそうか。
 あの時を顧みるに、自分は非常に冷静だった、とそのときは思っていた。ある程度の覚悟は出来ていたし、精神の平衡を失うようなことはなかった。だが、根のところではやはり冷静さを欠いていたのだろう。まだ結論も出ていなかったのに、俺はもう死ぬ、と思い込んだのだから。

 帰宅途中、様々なことを考えた。妻には、今日病院に行くとも言っていない。おそらくは何の心配もしていないはずだろう。もちろん、それが最悪の結果であれば、告げなければならない。そのことは、気が重い。
 妻との間には、子供が居ない。二人きりの生活をずっと続けている。
 結婚10年目だったか。どうも子供を授かりそうにない僕らは、こんな話をしたことがある。

 「私たち、死ぬときが困るね。たぶん誰も看取ってくれる人がいないから」
 「それはそうやけど、おまえは困らんやろ」
 「どうしてよ」
 「ワシのほうが長生きするからや」
 「わたし、100歳まで生きるかもよ」
 「ほんならワシは101歳まで生きる。心配するな」
 「そうなったらあんたのほうが心配よ。101歳の一人暮らし(笑)」

 そんな軽口を叩き合って、暫らく経った。今さらあのときの約束を反故にする、とは言いたくない。
 不思議と、死ぬことは怖くなかった。ただ全てが終わりになるだけ。僕自身の感覚としては、何もかもおっぽり出して逃げる、ということに近い。これが夢の途中であれば、頑強に生への未練を持っただろうが、ちょうどその時はそういう意識もなかった。 あれもしておけば良かった、これもやっておけば…ということは、きりのないこと。そしてまた、自分という人間がそんなに値打ちのあるイキモノではない、ということもよく自覚している。僕が居なくなって困るという人はそう多くないはず。運命であればそれは受け入れる。ここまでの人生は、少なくとも幸せだった。
 ただ、とにかく気懸りなのは、今一緒に暮らしている人の未来。それだけだった。親や兄妹も悲しむだろうけれども、それはいたしかたない。ただ「一生食わしていくから」といって結婚したこの人のことは、どう責任をとればいいのか。それだけは辛い。僕が資産家であれば何も恐れることはないが、そうではない。生命保険も、高額なものには入っていない。いや、かつては入っていたのだが、子供が結局出来ないことを鑑みて、積立年金型のものに変更した。将来を考えてのことだったが、それが今となっては悔やまれる。

 さて、どうするか。一週間後に結果が出て、それが最悪のパターンとなった場合は当然ちゃんと妻には話さなくてはいけないが、僕はその日は何も言わなかった。それまでは、笑っていてくれ。どんなときでも笑顔を絶やさないこの人の曇った顔を見るのは好きじゃない。また、無理して笑う姿も見たくない。
 その日から、僕は身辺整理を始めた。
 公的には、とにかく辻褄合わせに必死だったと言っていい。何事も継続していれば、見込み報告だって出来る。しかし突然それが途切れると「何月何日には可能」と言っていたことが全て嘘になる。僕が突然いなくなっても、全てがうまく回っていくようにしておかなければいけない。仮に入院したときに「あれはどうなったのか」なんて聞きに来られるのは困る。
 そして、私的にはどうすればいいか。とにかく、手続き的なことを簡略に出来るように用意したいと思った。財産と言えるほどのものはないが、少しでも今後役に立つようなものは全て妻に帰するように。大げさだが、遺言書のようなものも作成した。何せ、もしかして一旦入院すればもう出てこられないかもしれないのだ。従兄弟は、そうだった。

 一日、休日があった。その日は僕も妻も別々の所用があったのだが、僕はそれをキャンセルして、一人うちに居た。
 我が家には、面倒臭い性格の夫がいるために、モノが多い。これらは、僕が居なくなればほとんど必要でなくなるものばかりだ。今のうちに処分してしまおうか、流行の断捨離だ、とも思ったが、そんなことは急には出来ない。僕は、机周りから整理を始めた。
 別に、見られて困るものはもうない。変態趣味のDVDなどもない。押入れの中の箱のひとつに、昔の彼女との手紙などは残っているが、まあそれも愛嬌だろう。いや、やっぱり処分しておくか。そんなことをつらつら考えながらあちこち整理した。
 最も見られて困るのは、PCの中身かもしれない。そう思った。特に、僕がこんなブログを書いていることは知られたくない。恥ずかしい。いざとなれば、履歴とブックマークを消せばいい。しかし、ブログは突然途切れるな。どうしようか。僕は、オンとオフに全く接点はない。  
 一人気の弱い後輩が居る。こいつにだけ因果を含めて打ち明けるか。で、そういう局面が来たら「もうこれで終りです」という記事を書いてアップして、全てのPC内履歴を消す。そして「死んだらあいつには連絡してくれ」と妻に言っておく。あいつはその記事に「凛太郎は逝きました」とコメントしてくれればいい。
 そんなことまで真剣に考えた。
 山のような書籍は、もうしょうがない。特に値打ちのあるものもないから、ブックオフに電話して引き取ってもらえばいい。あとは、音源とか。カセットテープはもうゴミだな。ビデオテープも山ほどある。もうビデオの時代も終わったな。中身はほとんどプロレスである。僕が居なくなれば、これもゴミだ。
 CDなどはあまり大したものはないが、レコードはどうだろうか。もしかしたら売れるかもしれないな。オークションのやり方を教えておこうか。そんな末梢的なことまで考えた。しかしこれもよく考えたら、今はよっぽどの好事家でないと、レコードプレイヤーさえ持っていないよね。やっぱりゴミか。

 ふと思いついて、プレイヤーを開けた。しばらく使っていないが、まだ現役だ。
 ラックには、LPレコードがずらりと並ぶ。どれもこれも、愛着のあるものばかり。入手したときの思い出がこもる。その中に、ごく僅かだがシングルレコードがある。 
 ナターシャーセブンのものばかりだ。
 少年の頃は、財力がない。なので、1曲あたりのコストが高いシングルにはまず手を出さない。ただナターシャだけは特別だった。
 僕が生まれて初めて買ったシングルレコードは「孤独のマラソン・ランナー」。小学生だった。ナターシャに、夢中だった。

  若者が走るよ 街のビルの谷間を 若者の足どりは 風を切ってゆくよ

 レコードに針を下ろすという作業も、久しぶりだった。
 孤独のマラソン・ランナーは、自切俳人(北山修)の作詞作曲。北山修氏の作曲というのも珍しいと思うが、これはいい曲だ。今聴き返して、しみじみそう思った。同時に、脳内が当時にフラッシュバックした。あの頃は、夢しかなかったような気がする。
 その後ナターシャは「107ソングブック」という大企画を完成させ、絶頂期を迎える。「ズバリク(京都の深夜放送)」のリスナーだった僕は、宵々山コンサートにも出かけた。
 ナターシャが次に仕掛けた企画は「シングル文庫」だった。その第1弾・あき「私に人生と言えるものがあるなら」の発売は中学2年。もちろん、予約して購入した。
 以降、ふゆ「時には化粧を変えてごらんなさい」、はる「春を待つ少女」と続くが、ここらで主要メンバーである木田高介氏が脱退してしまう。
 木田高介氏が脱退したのは、確か冬。そして春に、木田さんは衝撃的な交通事故死を遂げる。31歳。
 こういう死に方というのは、あんまりじゃないかと思う。突然にぷつりと生への道を閉ざされるのは。木田さんの奥さんの嘆きはいかばかりだったか。そのあまりの悲嘆の場面を葬儀で見ていた五輪真弓が、その嘆きをもとに「恋人よ」を作ったという話がある。
 こういう予期せぬ突然の死というのは、最も避けたい。これなら、まだ別れの時間をくれる病死の方がいい。この震災で亡くなった多くの人たちも、突然に命を奪われた。またナターシャ関連で言えば、マネージャーの榊原詩朗氏がそのあと、ホテルニュージャパンの火災で死去する。こういうのは、家族にも何も告げられない。
 シングル文庫の第5弾・なつ「君よそよ風になれ」が木田高介氏の編曲で、遺作となった。

  君のベスト・フレンドは君だから 思いどうりに生きてごらん
  やりたいことに手を伸ばして 行きたい所に足を伸ばして

 僕はシングル文庫では、これがいちばん好きだった。何よりシングル文庫オリジナルであるし、爽やかだ。 
 ナターシャは、その後徐々に活動をしなくなり、僕が大学に入る頃には活動を停止した。僕も、この世に生を受けて以来、いろんな人の音楽を聴いてきたけれども、明確に「ファン」になったのはナターシャが最初だ。シングルもアルバムも、初めて買ったミュージシャンはナターシャ。コンサートも、初めては宵々山でありナターシャが出ていたからである。
 いろんなことを、思い出していた。
 僕の好きだったナターシャはもういない。坂庭省吾さんも、もう亡くなって久しい。53歳、癌だった。そんなに若いのに、とあの時は思った。しかし病魔は、年齢に関係ないんだ。
 シングル文庫を聴き終わって、僕は「道づれは南風」に針を下ろした。

  南の風が好きだよ 涙を吹き飛ばすから

 この曲を最後に、僕はナターシャのシングルを買っていない。それは、ナターシャの活動が下火になったこともあろうし、僕も高校生となって、いろんな音楽に広がりだしてナターシャ一辺倒ではいられなくなったからだろう。
 ただ、この曲は好きだ。

  きみはまだ眠っているだろ 安らかな窓の下で
  青い絵はがき届いたら 思い出してよ僕を

 僕がこの世から消えたら。誰かはふと思い出してくれるときがあるだろうか。
 もしも強く思い出す人がいたとしたら、それは忘れてもらったほうがいい。強い悲しみは僕も望むところではない。ただ、記憶の片隅に留めてくれればいいんだ。で、ときどき、あんなやつが居たな、と思い出してくれればいい。
 人は忘却の生き物。そんなことこちらが望まずとも、みんな忘れてゆく。それでいいのかもしれない。

  光の中のかたつむり せめて夢を背負いながら
  歩いてゆくよこの道を 君に逢えるまで

 「光の中のかたつむり。せめて夢を背負いながら…か」
 そのとき、僕の箍が外れた。
 想いが、堰を切って溢れた。出てくる涙を、もう止めることは出来なかった。嗚咽が出た。誰もいないことを幸いに、ただ泣いた。

  光の中のかたつむり せめて夢を背負いながら
  
 俺だって生きてきたんだよな。小さな存在だったけれど。
 毎日、世界中で溢れんばかりの数の子供達が生まれ、そして同じように人は死んでゆく。大きな歴史の流転を考えれば、一人一人の生き死になんて、ただの小さな波にすぎない。さざなみにも満たないかもしれないよ。でもその一人一人は、懸命にもがきながら生きてるんだ。小さな夢を背負いながら。
  
 涙は、悲しみからきたのではなかった。それははっきりしていた。じゃなんだと言われたらそれはよくわからない。強いて言えば、自分の軌跡を思い出したからかもしれない。あの両親の元に生まれて、愛されて育って、旅をして、恋をして、共に歩む人と出逢って…。よく「走馬灯のように」という形容詞があるが、あれは本当なのだなと思った。自分がいちばんよく知る物語、その追憶というドラマに心が震えてしまったのだろう。

  光の中のかたつむり せめて夢を背負いながら
  歩いて行くよこの道を 君に会えるまで


 僕は、今も生きている。こうしてブログも書いている。
 幸いにして、妻に、そして多くの人に別れを告げずに済んだ。
 だからと言って、別に精神的なものでもなく、疾患がないわけでは無かったが、それでも生き延びている。しかしおそらくは、まだまだ死なないだろうと思っている。
 このときのことは多分にノイローゼ的なことになってしまったのだと思うが、僕としては貴重な経験だったので、備忘録的に文章にしてみた。以後、身体を大切にしていきたいと思っている。
 繰り返すが、この話は虚構である。
 

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10 コメント

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そっか。 (よぴち)
2011-12-29 15:47:04
凜太郎さん

そっか、凜太郎さんの原点はナターシャセブンか…。
日本のフォーク黎明期と言ってもいいほどの、いわゆるアメリカのカントリー色濃い、バンジョーの爽やかな響きを感じる曲たち…。

私の原点の音とは少し違うけれど、
原点に対する思いや感覚のようなものは、分かるつもりです。

この話は虚構、といいつつ、どこまでが虚構でどの部分は本当なのか、
なんとなく、邪推してしまう。

私は自分で自分の細胞を見てしまった。
病院で診察を受ける前に、すでに8割、自覚してしまった。
当然、荷物の整理、葬儀の時に他人が来ても恥にならないよう自宅の片付け、掃除…、やりましたねぇ(笑)。
娘に教えておきたかったことを、これからノートに記載していこうか、とも考えましたねぇ(笑)。

私にとっての今年も、
大きな変革の年でした。
人生に、また彩が増えた気がする。
世の中に、先が見えずに、いや、いやな先が見えすぎて、
力なく失望の中で生きる人たちが増えてしまった今年、
私は、申し訳ないけれど幸せだったとしか言いようがない。

その幸せを分けられるほどの力量もない、情けない自分ではあるけれど、
せめて、自分も不幸だなんていうのだけはやめる。

今年も凜太郎さんには力を戴きました。
ありがとう。
そして、来年もよろしくお願いします。

オフ会はキライ、と言っていたけれど、
来年は、1度くらい、江坂GAROで一緒に歌えるといいなぁ。

相変わらず、記事の内容と全く関係なし。コメントになっておらず。

ま、こんな人間ですが、何かの縁で繋がっちゃった以上、諦めて、どうぞよろしくお願いします(笑)。

隣にあるもの (アラレ)
2011-12-30 02:37:15
何気ない毎日のありがたさに気づいた春まだ浅い日

生と死を分けるものは運命でしかない。
生きるも運命
死すも運命

目の前に広がる
虚の空間で
誰もが感じた運命の存在

人は忘却の生き物

されど
瑣末な出来事
プライドという自我だけは忘却の波に解き放たず
運命の存在だけを忘れ去る。

生きるということは死の隣にあるもの


この世にいた存在を時が消し去る日が来ても

今…私が感じている幸せ
甘い痛み

すべては
心の隣にいる人がくれた宝物


書かれた文章が虚構か真実か

それは
あまり関係なく


生きる時間の隣にある停止の時間までを今一度…感じさせてくれた。

ありがとう。

同じ時代に生まれ育った者の幸せを感じながら

再びこの場所を訪れたい。

コメントに
どんなことが書かれていても。

Unknown (こねこ)
2011-12-31 09:17:06
わたしはナターシャセブンは詳しくないのですが、夫が大ファンでして、、
ここに上がってるレコード、全部あります。
「107ソングブック」もあります。でも、肝心のレコードプレイヤーがありません

今年も残すところわずかです。来年も遊びにきますのでよろしく
、、、ちなみに、うちは結婚以来はじめての大喧嘩中の年越しになりそうです
はじめまして (COLTVICH)
2012-01-02 12:14:00
今は兵庫県の南西の端の街に住んでいますが、4年ほど前までは京都に住んでいました。

私も中学生の頃から、前の記事の「ばっくすばにぃ」や「ナターシャー」を聞いて
青春期を過ごした世代の一人です。

この歳になると、若い頃には考えもしなかったことで思い悩むことも多くなりますよね。
私たち夫婦も子供を授からないまま昨年結婚20年を迎えました。

それでも思い返してみれば、もちろん辛いこともありましたが、楽しく過ごせてきた事の
方が多かったようにも思います。

無理せず、ふたりでできることをやりながらこの先も生きてくんだろうなって思っています。
二人で正月のお節をつつきながら楽しく酒を飲んで、そんなことを考えていました。

また、ときどき寄せてもらいますね。
>よぴちさん (凛太郎)
2012-01-05 21:56:33
この話は虚構だと断っていますので、そうなると命を弄ぶような話になってしまいよぴちさんもご立腹かもしれませんが、そこを措いていただいて、やっぱり身辺整理とかしてしまいますよね(笑)。僕の場合、一部ネットのブックマークの整理までしました。なんでそんな末梢的なことまでしたのかわからないのですが、精神的にやっぱり平衡がとれてなかったのかも、なんて思います。あ、あくまで虚構ですよ(笑)。
音楽的な原点はいろいろあって、ナターシャはそのひとつの象徴であるのかもしれないのですけれどもね。初めて自分で買ったのはナターシャかもしれませんが、「ねだって買ってもらった」となると小椋佳。よくわかんないけど、何でもひとつではないんですな。でも、ナターシャは今でもやっぱり好きです。聴くと泣く、とまでは思わなかったんですけれどもね。ま、そういう心の揺れみたいなものは、よぴちさんには分かっていただけるのではないかと(笑)。
>アラレさん (凛太郎)
2012-01-05 21:58:18
僕は運命論者ではなく未来には数多くの分かれ道がまだ待っている、という考えでいつもいるのですが、やっぱり運命だと感じてしまうことはありますね。逃れられないものはない、とはまだ信じていたいのですが。
ちょっとややこしい記事なんで、書いた僕ですら何とも申し上げにくいのですが、ある意味哲学的にとらえていただいて嬉しく思っています。どうもありがとう。まだまだ生きて書くつもりでいます。
>こねこさん (凛太郎)
2012-01-05 22:02:19
おおっと、年越しはご無事だったのでしょうか(汗)。仲良くいきましょうね、仲良く♪
プレイヤーがないと、それは本当に宝物となってますね。「たからもの」と読むより「ほうもつ」と読んでいただく感じでしょうか(なんやそれは?)。
こねこさんちの安寧を切にお祈り申し上げております(笑)。
>COLTVICHさん (凛太郎)
2012-01-05 22:06:38
ばっくすばにいやナターシャを今聴きますと、そのフラッシュバック感にどうもイカれてしまいまして…。それだけ、あの時から時間が過ぎたのでしょうね。確かに、若い頃には想像もつかなかったような出来事が起こります。しかも、なんとなしに自分がまだ若いと錯覚しているので困るのです。今回のことは、いい経験になりました。
おだやかであれば、それでいい。今そんなことを心底から思っています。
あんまり更新しないブログですが、よろしければまた見てやってください。どうもありがとうございます。
Unknown (まっちゃん)
2012-06-24 22:08:59
いつの懐かしく拝見しております。私は生れてから兵庫県民、大阪府民、そして現在は滋賀県民として暮らしています。大学時代は大阪から京都まで阪急電車で通学していました。そして京都=フォークソング・ナターシャとイメージしていました。そして憧れの宵宵山コンサートに参加した時にこの歌を聞きました。それから30年後の昨年の最後の宵宵山コンサートに大学の時に一緒に行ったメンバーに私の嫁さんが加わり参加してきました。城田さんの登場、米朝師匠の登場ほんとに過ぎた月日を思い返しました。青春とは現在は死語かもしれませんが何か自分探しをしていたあの頃がよみがえりました。これからも楽しみに拝見させていただきます。

>まっちゃん様 (凛太郎)
2012-06-27 05:30:43
最後の宵々山、行かれたのですか。それは羨ましい限りです。情けないことに僕は行くことが出来ませんでした。そのことを今も引きずっています(笑)。
このうたを聴いていると確かに「あの頃」にぐんと引き戻されます。その「あの頃」とは「青春」であったのかもしれませんし、「自分探しが出来た時代」であったかもしれません。模索が可能だった時代。それが「あの頃」。今はもう自分なんぞを探していたらアホかいなと言われる年齢となって、あの頃のことを痛切に思い出します。
読んで下さってありがとうございます。更新も滞っておりますが、また見てやってください。

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