凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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村下孝蔵「松山行きフェリー」

2011年07月31日 | 好きな歌・心に残る歌
 村下孝蔵さんが逝ってしまってから、今年(2011)で十三回忌を迎えていた。亡くなったのが梅雨時だったので、ファンからは「五月雨忌」と呼ばれている。もちろん、この「五月雨」は、村下孝蔵の代表曲である「初恋」から採られている。

  五月雨は緑色 悲しくさせたよ一人の午後は
  
 村下孝蔵は、遅咲きだった。この「初恋」は30歳のときの曲。オリコンチャートを駆け上がり、誰もが知る大ヒット曲となった。

  好きだよと言えずに初恋は 振り子細工の心
  放課後の校庭を走る君がいた 遠くで僕はいつでも君を探してた

 「初恋」がヒットするのと時を同じくして村下孝蔵は肝炎を病み、メディアに姿を現すことが出来なかった。残念なことだったと本当に思う。当時、フォークシンガーにはTVに出ない人も多くいたが、村下さんはそうじゃなかっただろう。それ以前にも夜ヒットだったかは忘れたが出演していたし、またそれ以上にファンを大切に思っていた人だったから。惜しいことだった。
 
 村下孝蔵は熊本水俣に生まれた。水泳選手として大会優勝経験も持ち、高校卒業と同時に実業団入り(新日鐵)。しかし芽が出ず退社、実家が広島に越していたため村下孝蔵も広島へ移り住むことになる。
 僕はずっと長いこと、村下孝蔵は広島の人だと思っていた。広島フォーク村に居たことはよく知られていたし、後述するが「松山行きフェリー」が僕にとってあまりにも印象が強かったから。だが、実際は広島には19歳のときにやってきている。
 もうこの頃自主制作レコードを出している。そしてヤマハにピアノ調律師として在籍しながら音楽活動を続け、デビューのチャンスを掴んだのは27歳のときだった。だから、村下孝蔵のプロ歌手としての歴史は、20年に満たない。

 村下孝蔵がいいのは、その紡がれる叙情的な旋律もさることながら、その精緻に綴られた言葉の数々。

  長い壁には落書き 頭を垂れ黙り込む空に花吹雪美しく
  はらり風に舞った されど寂しき鐘の音が鳴る その紅きくちびるよ  (花ざかり)

  指切りしてさよならを言った遠い夕暮れに 綿毛の雲が流れた夏の日 覚えていますか
  明日もきっと晴れるはずとみんな信じていた  …追いかけていた小さな影に今も届かない  (かげふみ)

  白い壁を染めて草笛が響く丘 菜の花とそして夕月
  切れた鼻緒 帰り道の少女が一人 灯りが恋しくて震えてた
  あはれ 恋も知らないで睫毛濡らした少女は 悲しき夕焼けの幻か  (少女)

 完璧な詩人だろ、この人。曲がなくても遜色なく成り立ってる。

 そして、何とも声がいい。
 歌のうまさというものは相対的な部分もあり、楽曲によっても異なる。声楽における巧さと浪曲における巧さは違うだろう。そういうことを踏まえつつ、村下孝蔵は歌がうまい。さらに声の響きが実に心地いい。この声の心地よさは、小椋佳、さとう宗幸、大塚博堂と並んで僕の中では四天王。

 「松山行きフェリー」という曲は、村下孝蔵のデビューシングル「月あかり」のB面であり、デビューアルバム「汽笛がきこえる街」の第一曲目に採用されている。それに、それ以前の自主制作アルバム「それぞれの風」の掉尾を飾る曲ともなっている。
 村下孝蔵の代表曲が「初恋」であることに異論はない。ある一定の年齢以上であれば誰もが知っている曲。そして初期の「初恋」を中核とした「春雨」「ゆうこ」「踊り子」などの一群の曲の認知度は高く、ある意味村下孝蔵の黄金期であったとも言える。
 そして後期を象徴する曲はアニメ「めぞん一刻」の主題歌となった「陽だまり」だと考えてもいい。この曲によって村下孝蔵を知りファンとなった若い世代もいる。
 そうした表立って知られている村下孝蔵の曲たちに対し、「松山行きフェリー」は、もう一面において村下孝蔵を代表する曲だとずっと思っていた。裏の代表作とも言えばいいのか。村下孝蔵自身も、「ロマンスカー」などと並んで思い入れの深い曲であると発言している。だが、ファンの支持は集めてもあまり一般的な認知度は高くない。シングルになっていないので仕方の無いことではあるのだが。

  こんなにつらい別れの時が 来るのを知っていたら
  君を愛さず友達のままで 僕は送りたかった

 なんともせつない。こんなにポップなメロディーなのにどうしてこう哀しいのか。
 僕は、全くのところこういう旋律に弱い。何かが揺り動かされてしまう。Without Youに似ているが 
 村下孝蔵ホームページの目次から「歴史館」→「村下孝蔵/傷心の旅」と進む。すると、エッセイが出てくる。ご本人が書かれたものかどうかはわからないが、内容から考えても村下孝蔵さん自身だろう。
 そこに、
傷心の旅
あの日は「松山行きフェリー」(当時の歌詞は今とは違う)を書いて一年後、3月28日だった。
まだ、あの人を諦め切れないぼくは、あの人のいる松山へ向かった。おそらく、その日が最後になることを予期しながらも。(以下略)
 と、ある。このうたは、つまり実体験に基づいて書かれている。
 これを読んで、ああ、別れは春だったのだなとあらためて思った。僕は、このうたを始めて知ったときと、また曲調の爽やかさから勝手に夏だと思い込んでいた。そうだな。別れの季節は、春だった。

  港に沈む夕陽がとても悲しく見えるのは すべてを乗せた船が遠く消えるから

 村下孝蔵という人は、前述したがとても精緻な詩でうたを提示してこられる。それが天賦の才能なのか、それとも努力の賜物であるのかそれはわからない。一切外国の言葉は使わず日本語だけで編み上げてくる。
 ところがこの「松山行きフェリー」には、そういう文学的な側面は影を潜めているようにも思う。これは僕だけがそう思っていることかもしれないので異論はあっていいと思うけれども、とても言葉がストレートに感じる。
 思うに、このうたは飾れなかったのかな、とも考える。あの日の想いが強すぎるのかもしれない。また飾る必要も、ない。確かにへんな衒いなど邪魔だ。素直な吐露が、強く胸に迫ってくる。
 だが、これもまた術中にはまっているのかもしれない、とは思う。前の引用にある「当時の歌詞は今とは違う」という言葉。
 「松山行きフェリー」の詩には、変遷があるのだ。

 何度、改稿を重ねたのか、それはわからない。だが、僕らがわかる範囲で一度、歌詞はかわっている。メジャーデビュー以前の自主制作盤「それぞれの風」に収められている「松山行きフェリー」の歌詞と、デビュー以後のものは、異なっている。
 インディーズ盤である「それぞれの風」は当然ながら入手困難であろうと思われるので(僕もちゃんと持っていない。一部ダビングを繰り返されたカセットテープの音源のみ)、ちょっとここに提示しておいた。
 これをみると、単に言葉の調整だけではないことがわかる。
 「それぞれの風」盤のほうが、強気にも見える。少なくとも、自分よりも彼女の方を気遣っている。そして「僕がいなくても」君は大丈夫さ。発展的な別れにも、見ようと思えば見られる。
 しかし、メジャー盤はがらりと変わる。強い悲しみ。
 別れを切り出したのは彼女だったことがわかる。その原因は、もしかしたら村下孝蔵のデビューにあったのかもしれない。ピアノ調律師のままの地道な暮らしを選んでいれば、彼女はついてきてくれたのかもしれない。けれども「そんな事など今の僕に出来はしない」のだ。
 想像でしかないけれども、「それぞれ」盤のときは、村下孝蔵は本当にそんな発展的な別れだと思っていたのかもしれない。いや、思い込もうとしていたのかもしれない。そうでなければ、男は別れの悲しみに耐えることが難しい。
 しかし、エッセイに書かれているように、一年後「既に婚約している」彼女と逢い、想いが噴出してしまったのかもしれないな、とこっそり思ってみる。
 「貴女を乗せた船が遠く消えるから」が「すべてを乗せた船が遠く消えるから」に替わるとき。つまり貴女は僕のすべてだったのだ。そして、港に沈む綺麗な夕陽は悲しみに染まる。
 先ほど「文学的ではない」と書いたことを訂正したい。異論は僕自身から出た。言葉は確かにストレートだが、その「想い」を伝えるにはそれが最上の言葉だったのだ。

 しばらく前の話だが、高浜の松山港に立ち寄ったことがある。その時は自動車で旅行中であり、ちょっとのぞいてみたくなったのだ。そしてここが「松山行きフェリー」の着岸する港か、と感慨を覚えた。
 広島の宇品港には、実は二十歳の時に行ったことがある。そのときは、別府から船で着いた。でもその時僕はまだ「松山行きフェリー」といううたを知らなかった。だから、残念ながら思いに浸ることは出来ずじまい。再訪したいと願っているがまだその機会を得られずにいる。
 村下孝蔵さんが亡くなったのは46歳。そして、今年(2011年)とうとう僕もその年齢になった。
 村下さんは学生の頃は水泳選手であり、おそらく丈夫な身体を持たれていたのだと思われる。しかし肝炎を病んでしまった。だがそんなこともあってか、体調には人一倍気を遣われていた、との話も聞く。
 その村下さんは、あっという間に逝ってしまわれた。死因は脳内出血。リハーサル中に突然「体調がおかしい」と感じられて病院へ。そのまま昏睡状態となり、4日後に死去。
 死は、突然にやってくる。しかしこれでは、あまりにも猶予が無い。
 僕も、昨年あたりから死を強く意識するようになった。昔は「オレだけは大丈夫」と思い込んでいたし、自負もあった。けれども今はそんなことは微塵も思ってはいない。明日はどうなるかはわからない。村下孝蔵さんもそうだった。
 もちろん覚悟なんて全くできないが…村下孝蔵さんはそのときどう思ったのだろう。そんなことを考えるゆとりも無かったのかもしれない。しかし、無念だっただろうことは想像できる。志半ばであったことは間違いない。我々も、今思い返しても無念だ。
 でも、村下孝蔵さんはこんなにも惜しまれている。沢田聖子女史のこのうたを聴くと、本当に胸が詰まる。そして志半ばだったとしても、それまでに成し遂げたことは、あまりにも大きい。死後も、若いファンが増え続けていると聞く。
 そんなことは、僕らには出来ない。何も成し遂げたものもなく、惜しまれることもおそらく、ない。けれども、遥かなる巨人として、村下孝蔵さんを見上げていきたい、とは思う。
 何を書いているのかわからなくなったが、着地点が見つけられないのでこのへんで。

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3 コメント

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初めまして♪ (すず)
2011-08-11 07:07:33
アクセス解体からお邪魔しました♪
水俣市生まれの村下さんファンです。
松山フェリーもロマンスカーも大好きな曲です。
余りにも早すぎる死に、当時、ショックが大きすぎて言葉にもなりませんでした。
それでも彼の曲はずっと生き続けています。
きっと今も天国からファンを見守ってくれていることでしょうね。

>すずさん (凛太郎)
2011-08-12 05:56:43
はじめまして。ようこそ♪
アクセス解体とは何のことかよく分かりませんが(笑)。
(アクセス解析体験のことかな。ランダムブログで僕のが偶然出たのか)
村下さん、いいですよね。僕も、ロマンスカーとこの「松山行き」は好きです。村下さん自身もお気に入りでしたね。
ミュージシャンは、うたが残る。それは彼の人にとっても本望でしょうが、同時に我々も有難いことです。繰り返し聴ける佳曲を残してくれたということはね。
昔の事 (peke)
2016-09-09 20:06:58
私が村下孝蔵さんに初めてあったのは彼が松山で彼女の婚約をしらされたであろう日。たまたま階段を上がって来たフォークソング喫茶。
もっさりとした彼は19歳の私には随分大人に見えた。縁があったのだろう。幾度も来るうちに演奏したり歌ったりと店に馴染みみんな随分と親しくなっていった。二人で店にいる時は色々な話も聞かせてくれたし、気さくな人だった。
回りの大人達は結婚式にも参加していた。あれから40年あまり、彼の追悼コンサートをきっかけに懐かしくて、初めてネットで彼を検索して驚愕した。なんて大変な人生だったんだろうか。松山で過ごしていた時間が彼にとって幸せなひと時であった事を願いたい。もう17年。早いね。

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