夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

まんが、アニメとジェンダー(2010年度新入生ゼミナール記録)

2011年02月19日 | profession
2010年度1年生対象の新入生ゼミナールの授業の記録として大学紀要に載せた研究ノートを転載する。
今年の私の担当クラスは非常に優秀だった。

なお、引用されている資料は割愛する。

まんが・アニメにおけるジェンダー~アトムの命題のゆくえ~
(Studies on Comics and Animation from Gender View Point )


はじめに
まんが・アニメ作品をジェンダーの視点から分析する、というある意味手垢のついたテーマであるが、本年度の新入生ゼミナールで学生と講読した大塚英志・ササキバラ・ゴウ『教養としての<まんが・アニメ>』(講談社現代新書、2001年、以下、「メインテキスト」という)が扱っている、「アトムの命題」が達成されたか否か、すなわち、大人になれない身体を抱えた子供はどうやったら大人になれるのか?ビルドゥングス・ロマンは果たして達成されるのか?について、ジェンダーの視点から分析したのが本稿である。
「大人になれない身体」を、ジェンダーの文脈で説明すると、「男は女より優れているべきだ」というジェンダー・バイアスのために、女性だけが、人間としての成長と恋愛の成就を両立できないというジレンマに立たされる、という問題になるが、まんが・アニメではそれがどのように解決されているかという視点で考察した。
新入生ゼミナールでは、「身近にあるどんなものでも学問の対象になりうる」ということを実感してもらうという目的で、本書を講読した後、3班それぞれに、まんがやアニメの作品論を発表してもらった。それに先んじて、「このようにやるのも一つの方法です」ということを示すために、私が授業で作品論を発表したレジュメが本稿の元となっている。学生たちは、「ハウルの動く城」「もののけ姫」「働きマン」「マイガール」といった作品を取り上げ、1回生とは思えない立派な発表をしてくれた。
もとより、筆者は法学研究者であり、このような作品論については素人であるので、このような場で発表するような内容にはなっていないかもしれないが、上記のような経緯があり、むしろ、授業の記録の一部として記録にとどめておきたいという気持ちから今回紀要に掲載させていただくことにした。ご理解を賜れれば幸いである。

1. 「アトムの命題」とは何か。
(1)手塚治虫 「成熟の困難さ」と戦後まんが
 メインテキストによると、手塚まんがの作画技術には、α 記号的表現 β 写実的・映画的表現 の二種類のものが同居している(23頁)。
すなわち、当時の多くのまんがと同様、爆弾に当たっても傷を負わないようなデフォルメされた人物を描く作画技術(α・非リアリズム)のみを当初は用いていたのだが、戦争が激しくなるという現実(β・リアリズム)に接して、技術と対象の間に乖離が生ずるようになってきたのである 。こうして、手塚の中で、戦争で自分も死ぬかもしれないという現実(β) と、自らの本来のまんが表現(α)が出会うことになる。そして、作画技術は記号的(α)なのに、描く対象は死に至る身体(β)だという現実は、手塚まんがにとどまらず、戦後まんが全体に技術革新だけでなく、大きな命題をもたらした 。
大塚は、その命題は、アトムという作品の中に鮮明に見られるという 。
アトムは、天馬博士が事故で死んだ息子トビオの身代わりとして製作したものだが、人間の子供と違って、アトムが全く成長しないことを憎んだ博士自身によって見捨てられ、サーカスに売られてしまう。つまり、ここでは、成長しない・できない子供であるということは、恐ろしい欠点であるとされている。これは、まさに、手塚まんがが記号的表現(α)により、生身の身体が生きねばならない現実(β)を描こうとした矛盾そのものを表していると大塚は指摘するのである 。ここで、アトムの命題=大人になれない身体を抱えた子供はどうやったら大人になれるのか?がクローズアップされてくる。そして、敗戦時にマッカーサーが「日本人は十二歳の子供だ」といったというエピソード に代表されるように、「成熟の困難さ」は戦後日本の課題そのものであると認識される。つまり、まんがという枠を超えて、ビルドゥングス・ロマン は果たして達成されるのか?という視座が表れてくるのである。この点について、大塚は、実は、アトムの掲載雑誌への初出時には、アトムが「大人」になることを暗示するエピソードがあったのに、後に削除されたというエピソードを紹介し、手塚は、この命題の回答を先送りしたのだと指摘する 。
そして、手塚作品には、『ブラックジャック』のピノコや『どろろ』の百鬼丸とどろろ等、アトムの命題を抱え込んで生きるキャラクターが数多くいるとも言及している 。
(2)梶原一騎 未完のビルドゥングス・ロマン
『巨人の星』は、アニメ版アトムの終了した1966年に少年マガジンで連載開始されており、『あしたのジョー』はその2年後の1968年に同じ雑誌で連載開始されているが、原作者は梶原一騎=高森朝雄という同一人物であり、作画はそれぞれ川崎のぼるとちばてつやが担当した。作画技術はどちらもきわめて劇画的(前記のβ)である。
(a)『巨人の星』『新巨人の星』
ストーリーは下記のとおりである。
①かつて巨人軍の名選手だったが魔送球のために巨人軍を追われた父・星一徹が、自らのかつての夢を、息子を通じてかなえるため、息子・飛雄馬に野球のスパルタ教育を施す。つまり、飛雄馬は一徹の野球人形にすぎない(資料1-1参照)。この点は、天馬博士が死んだ息子の代わりにアトム(ロボット=高性能の人形)を作ったことと共通する 。
②スパルタ教育により、飛雄馬は夢を叶え巨人に投手として入団するが、小柄ゆえに球質が軽いという致命的な欠陥を克服するために、次々と魔球(大リーグボール1号、2号、3号)を生み出さざるを得なかった。
③大リーグボール1号は高校時代からのライバル・花形満に敗れ、その後進化したが、なんと一徹自身が中日のコーチとして特訓した大リーグ出身のオズマ選手に完敗。2号も花形に敗れる。
④1号、2号は父に授けられた魔送球の応用だったが、3号は父から与えられた技術を使わず、父を初めて克服して編み出した魔球だった。しかし、今度は、一徹が特訓した、飛雄馬の高校時代からの無二の親友・伴宙太に打たれてしまう。しかし、打つために体力を消耗させられた伴はホームを踏むことができず、完全試合となる。父はここで初めて自分を超えた息子をたたえ、背に負ぶう。また、3号は左腕を酷使するもので、その試合を最後に飛雄馬の左腕は完全に破壊された。飛雄馬はいずこともなく去ってゆく。
⑤『新・巨人の星』 では、1976年長島ジャイアンツの最下位を救おうとそれまで失踪していた飛雄馬が再び右腕投手として巨人軍に入団する。飛雄馬は実は元々右利きだったが、投手に有利なように一徹が無理矢理左利きに矯正したというご都合主義な設定で、飛雄馬の姉明子と結婚し花形モータースの社長になった花形もヤクルトに入団、飛雄馬はまたも蜃気楼の魔球を編み出すが、花形に打たれる。まんがはその直後、魔球の種明かしもしないまま(私見では、原作者がどうしても思いつかなかったのではないかと考えられるが)、唐突に終わっている。
⑥1979年に連載開始された『巨人のサムライ・炎』 では、飛雄馬は、長嶋監督に「彼はやはり左腕投手だった」といわれ、引退し、進んで主人公・水木炎を育てるために二軍コーチとなるというエピソードが描かれている。
やはり、ビルドゥングス・ロマンは達成されないまま、ということになる。
この『巨人の星』について、大塚は、「父が息子の敵に回るのは、大方の解釈のように、息子の成長を助けるためでなく、実は、息子に成長を禁じる父親が背後にいたためなのではないか」と指摘している 。つまり、プロ野球選手である限り、小柄だという欠点を克服するためには父から与えられた野球技術の中でしか生きられない。(天馬博士が成長しない身体:ロボットとしてアトムを製作したことと共通している)。これは、永遠に親離れできず大人になることができないという父の与えた呪縛であり、飛雄馬は「成長」するためには、自らを魔球によって破滅させるしかなかった、というのである。
(b)『あしたのジョー』
ビルドゥングス・ロマンとしては、『巨人の星』よりは、成功しているといえる。
たとえば、「あしたのためにその1,その2…」と続けて少年院に送られてくる丹下段平のはがきによる指導により、自らの成長を実感するジョーの姿は、成長物語そのものといってもいいであろう 。
しかし、やはり、この作品も、「アトムの命題」とは無縁でいられないのである。
年齢とともに成長するジョーの身体は、もはや、バンタム級に留まるのが無理になってくる。フェザー級への転向を進める段平だが、ジョーは、自分と闘うために、命がけでバンタム級に降りてきてくれた力石のためにそれを拒む (資料2-1参照)。つまり、ジョーは、自らの心身の成長を自覚しながら、それを拒むのである。
そして、まんが史に残るとされる、ジョーが真っ白に燃え尽きて死ぬラストシーンは、永遠の少年としての運命を象徴し、やはり、ビルドゥングス・ロマンは達成されないのだということを読者にまざまざと思い知らせる。
以上の、メインテキストの論旨を踏まえ、その観点から、筆者は、下記のような作品をとりあげ、論じてみることとする。

2.ステレオタイプなジェンダー意識
本表は、押山美知子『少女マンガ ジェンダー表象論-<男装の少女>の造形とアイデンティティ』(彩流社、2007年)179頁の表を元に作成したものだが、c, d, e, f, g,h,i, j,kは筆者が追加した項目である。
男らしい          女らしい
A 勇ましい          おとなしい
B 力が強い          力が弱い
C 仕事に生きる      恋愛に生きる
D 指導力がある      誰かに指導される
E 自立している      誰かに頼る
F 家族愛より人生の目標が大事 家族愛が人生の目標より大事
G 身なりに関心なし      ファッションが大切
H 清潔にこだわらない       清潔第一
i 実用性           装飾性
J 理論的           情緒的
K 家事は苦手      家事は得意

3、池田理代子『ベルサイユのばら』 ―ジェンダー、性別役割分業意識の少女漫画表現への影響
(1)なぜ、の主人公・オスカルは男装の麗人なのか?
(a)ジェンダー的限界
女性のままでは、社会に現に存在するジェンダー・バイアス、性差別、性別役割分業のために、主人公に体験させることができることが限られてくるのではないか。
しかし、少女漫画では、主人公が女性でないと、読者が感情移入できない。
そこで、「セックスは女だが、ジェンダーは男」という造形が編み出されたのではないだろうか?
 例1:オスカルは、「男として育てられたからこそ、広い世界をみることができた」と父に感謝している(表のc左。資料3-1)。
 例2:『働きマン』 安野モヨコでも、主人公松方弘子は、「働きマンになると血中の男性ホルモンが増加して通常の三倍の速さで仕事をするのだ。その間寝食恋愛衣食衛生の観念は消失する」(表のc,g,h左)。この作品では、完全に男装するのでなく、仕事モードのときのみ男性ジェンダーが前面に出てくるということで調整している。つまり、部分的な断層といってもいいのではないだろうか。ちなみに、これをマン、といったり、男性ホルモンといったりするのはジェンダー・バイアスであるという解釈もできるが、むしろ、「部分的男装」を表す表現であると考えればそうともいえない。
(b)男性的な女性の方が魅力的に描かれるという傾向
例:『アリエスの乙女たち』 里中満智子
お互いの存在すら知らずに育った、路実と笑美子という異母姉妹が、偶然同じ高校の同級生としてめぐり合い、家族との関係や恋愛を通じて成長していくというストーリーである。ショートカット、さっぱりした意志の強い性格、男物のハンカチを愛用する男性的な路実が、かわいらしい乙女そのもののような笑美子より圧倒的に魅力的に描かれている(表のh,i)。路実という名前自体、演劇部でジュリエットを演じる笑美子が路実に出会った当初、「この人こそ理想のロミオ」と恋情に似た感情さえ覚えるというエピソードのために考えられたものなのである 。
(2)主人公がジェンダー的にのみ男性であることからくる豊かなドラマ性
(a)A:生物学的に女性であることからくるエピソード
反感をもつ部下に女性であるが故に監禁され陵辱されそうになる(表のb右。資料3-2)のも、軍人であり剣の達人であるオスカルも、生身の肉体は弱い女性にすぎないということを如実に物語る。
(b)B:ジェンダー的には男性的な特徴とされる、部下の指導力の発揮が(a)のエピソードを経てより感動的に描かれる(表のd左。資料3-3)。
(c)C:性自認が女であり、D:異性愛であることからくる葛藤が描ける。
とくにフェルゼンへのかなわぬ愛への苦悩(資料3-5)には多くの読者が胸を突かれる。ちなみに、オスカルが一度だけ女性の恰好でフェルゼンと会うシーンは、アントワネットや他の貴族女性と違い、シンプルなドレスを着ており、ジェンダー女性役割が希薄化されている(表c右)。また、女性の幸せは結婚か?と迷う(表c,f右。資料3-4)ところは、働く女性なら誰でも一度は経験する悩みである。
(d)ビルドゥングス・ロマンとしても成功
アトム、巨人の星、ベルばらすべてに共通することとは、主人公が父親の人形であったこと(資料1-1 資料3-6, 3-7, 3-9)である。しかし、オスカルは、自らそれを乗り越え、男性として生きた人生を受け入れ、男性役割=衛兵隊隊長としてフランス革命のために政府軍と戦って死ぬ。オスカルの死は、バスティーユ陥落というフランス革命の成功につながる死であり、飛雄馬やジョーの破滅とは明らかに異質な、栄光の死である。また、義賊ベルナールに「王宮の飾り人形」と罵倒され、より装飾的色彩の強い近衛隊長から衛兵隊長に自ら進んで転属し(表e,i左。資料3-8)、女性であることを放棄したのでなく、決戦の前夜、アンドレと結ばれ、女性役割も全うしている(表c右)。
「アトムの命題」をクリアしただけでなく、男性性と女性性をアウフヘーベンしたのではないか?つまり、筆者は戦後漫画のすばらしい到達点といえるのではないかと考えるものである。女性が女性のままでは活躍できないという少女漫画のジェンダー的限界が、却って、ビルドゥングス・ロマンの成功を導いたのではないであろうか?
手塚の『りぼんの騎士』 で、はじめは両性具有であったサファイアが完全な女性になることによってハッピーエンドになる(表c右)のは、やはり、女の幸せはこう、というジェンダー・バイアスにもとづくものであろう。
それから約20年を経て、『ベルサイユのばら』は、ジェンダー的には長足の進歩を見た作品といっていいのではないであろうか。

4、ジェンダーフリーな梶原一騎
(1)梶原一騎は作品ではジェンダー的に進歩的な考えの持ち主
劇中の主人公の恋人や家族は、みな自立した女性で、男に頼らず、自分自身の信念を持って仕事をしている。1960年~1970年という時代からは考えられない先進性をもっているといえよう。
(a)『巨人の星』の初恋相手美奈
余命幾ばくもない難病に冒されながら、残りの人生を山奥の診療所での奉仕に捧げる(表c,e,f左。資料1-2)
(b)『新巨人の星』の女優・鷹ノ羽圭子
自らのギャラをなげうち、障害児施設を経営する。(表c,e左)
(c)『あしたのジョー』の白木葉子
ジョーの所属する白木ジムの会長であり、終始ビジネス・パートナーとしてジョーに接する。しかし、終盤では女性性を前面に出して、所属ジムの会長としてでなく、ジョーを愛する女性として、廃人になる危険の高い試合をやめるよう説得する(表e右。資料2-2。)ジョーに拒まれ、いたたまれず、試合会場から去るが、「自分が首謀者なのだから見届けなければ」と戻る。結局、男性的なジェンダー役割が強調されている(表e左 資料2-3)。
(d)『巨人のサムライ・炎』の風吹梢
女子野球チームのエースで、恋愛より仕事と明言している。なお、炎の親友馬耳への対応は『巨人の星』の明子に似ている(表c,e,f)。
(2)明子に関しては問題あり
(a)巨人の星
『巨人の星』飛雄馬の姉、明子は、本編では、きわめて自立した女性である。成功した弟と住む高級マンションから「お互いのためにならない」と独立し、ガソリンスタンドで働く。飛雄馬との長年の友情から中日移籍を躊躇する伴に対しては、「青春にはけっして安全な株を買ってはならない」とその甘さを指摘、求愛も退ける(表のc,f,j左。資料1-2).
(b)新巨人の星
『新巨人の星』では、花形モータースの社長夫人になり、骨肉の争いはもういや、と豪華なリビングルームで泣くばかりである(表a,e,f,j右).ジェンダー的には、堕落以外の何物でもないと思われる。

5、最近のジェンダー的に注目すべき漫画
(1)『大奥』 よしながふみ
若い男性のみがかかる赤面疱瘡により、男子の人口が女子の4分の1になったために、男女の役割が逆転し、将軍も代々女性になり、大奥には男性が侍るという歴史SF。史実がそのような前提でむしろ説得力をもって説明されるのが痛快である.
男性優位であった歴史を知らない吉宗と家臣の会話から、ジェンダー問題への自覚が目覚めるシーンが、ジェンダー的にはとくに圧巻である(表a,c,d,e,f,i、j左)。
(2)『のだめカンタービレ』 二ノ宮知子
(a)性別役割の逆転
主人公ののだめは、腐臭のあるゴミだらけの部屋に住み、料理もできず、楽だからという理由だけでいつもワンピースを着ている(表のg,h,k左)。それに対して、千秋真一は、家事が得意で清潔好き(表のg,h,k右)という点で、このカップルの性別役割は逆転している。のだめの人物像は、やはりドラマ化された人気まんが『ホタルノヒカリ』 の「干物女」主人公蛍とも似ている。ちなみにこの二つの作品は、連載された媒体も連載時期も完全に重なっている。
(b)しかし、限界
しかし、他の点では、ジェンダー・バイアスをなぞっている。千秋は両親の離婚で別れた父との関係がきわめてドライだし、仕事に生き、理論派(表のc,d,e,f,j左)。のだめは、一目惚れした千秋につきまとい、才能がありながら野心はなく、幼稚園の先生になるのが目標で、フランスに留学したのも、千秋と共演したいからというだけである(表のc,d,e,f,j右)。
(c)ギャップ
実は、主人公がジェンダー的に女性とは遠いのに、男性にもなりきれないギャップがこの漫画のおもしろさなのだろう。そして、(b)の点でものだめが女性性を捨て去り、芸術に生きた場合に、二人の関係はどうなるのか、が見物であった。ジェンダー・バイアスとは無縁で、男女でありながら、仕事人としてもお互い一流をめざす、という『同級生』(柴門ふみ) では不可能だった命題が、ここでは解決されるかと期待していたが、大変肩すかしな最後だった。
千秋は、ジェンダー的にのだめに「女性」を求めず、むしろ、もっと成功させたいと願う。のだめは音楽家として先を行く千秋に不安を募らせ自分からプロポーズしながらも、シュトレーゼマンの下で才能を爆発的に開花させ、千秋と離れる。この先が楽しみだったのに、結局のだめは千秋の下に戻り、連弾でのだめの夢は叶ったこととし、当初の目標通り幼稚園の先生になる将来を示唆して終わる。なんともお茶を濁されたような中途半端な最後で、がっかりである。

6 .まとめ
最近人気のある少女まんがには、主人公が、ジェンダー的には典型的な女性ではない(『大奥』の女性将軍や『働きマン』の松方弘子はその仕事への姿勢において、『のだめカンタービレ』ののだめや『ホタルノヒカリ』の蛍はその「女子度」の低さや仕事や音楽の能力において)という共通点がみられるようである。
しかし、いずれも、「恋愛もしたい」という点では、女性的ジェンダーを捨てておらず、そのギャップが常にテーマとなる。仕事等を通じて人間的に成長しつつ(ビルドゥングス・ロマン!)、先進国一ジェンダー・バイアス意識の強い日本人男性を相手に恋愛も成就できるのか?革命で死ぬという運命が待っているわけではない現代の日本で、ジェンダー・バイアスに満ちた日常生活において、その二つのジェンダー役割が果たして両立できるのか、というのが、現在の少女まんがの永遠にして最大のテーマであり、これに答えを与えてくれる作品の登場が待ち望まれる。

教養としての〈まんが・アニメ〉 講談社現代新書
大塚 英志,ササキバラ ゴウ
講談社

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