夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

三浦事件と二重の危険(一事不再理)その3

2008年10月14日 | profession
連休は毎年この時期恒例だが、一日目は金融法学会、二、三日目は私法学会に出席した。私法学会ではある研究グループの民法改正私案についてのシンポジウムがあり、現行民法の問題点を総ざらいする内容で非常に勉強になった。

会場となった名古屋大学では、地下鉄の駅に「ノーベル賞受賞者4名のうち3名が名古屋大学関係者です」という、益川、小林、下村博士の写真入の看板があった。

理系音痴(といっても数学だけは高校卒業までずっと5<もちろん5段階評価>だった。クラス42人中12名が東大に現役合格<うち理系は7人>したクラスでだったのだから理系一般というより化学物理がだめだったのだ)の私にはよくわからないが、報道をみるかぎり、30年も40年も前に発見した原理や法則が後に証明されたり、長い間に多くの場面で応用され、極めて有用だと認識されるようになったため
らしい。二人が80代であることから見ても、長生きすることもノーベル賞をもらえるための要素だと思う。

川端康成がノーベル賞を受賞したとき、理由として本人が「サイデンステッカー氏などの優れた翻訳があったこと、そして三島くんが若すぎたこと」を挙げている。
三島ももう少し長生きすれば受賞できたと思う。

村上龍がアメリカ人を描写するとき、判で押したように「ミシマのペーパーバックを読んでいた」とあるが、アメリカの大きな書店にはfictionのコーナーにアルファベット順でマーガレット・ミッチェルの直前に三島の作品が並んでいる。

香港で中国語のクラスメートだった香港フィルでチェリストをしているアメリカ人に「三島が好きだ」といったら、「僕はGOlden PavillionとCOnfession of Maskしか読んでいないけど」といわれた(この「しか」に三島作品の海外での著名さが表れていると思う)し、イスラエル旅行で知り合ったユーディットの住むオランダの小さな町のカフェに[Lady Aoi]の上演のポスターがあった。


ロサンゼルスに移送されて17時間後に自殺した三浦容疑者であるが、このような結末になったのは残念だ。拘留機関として最も注意しなければならない容疑者を自殺させるという失態を演じたロス警察は責任を問われるだろう。

不謹慎かもしれないが、司法手続が進めば、conspiracyについて本当に二重の危険違反がないのか、日本で裁かれた共謀共同正犯の共謀の部分の構成要件が重複しているのでやはり二重の危険違反であるという反論が予想され、憲法上も刑法上もきわめて面白い法律論争が行われる可能性が高かったので、注目していただけに残念である。

ところで、conspiracyは複数犯を前提としているのだから、三浦容疑者と共謀したとされる実行犯の方をconspiracyで訴追すればいいではないか、という疑問があるかもしれないが、多分実行犯については司法取引で訴追しないことになっているのではないかと思う。

司法取引は日本の刑事手続には原則的にないのであるが、一定の合理性をもった制度だと思う。
人権尊重・適正手続が徹底している国家では、刑事訴訟には膨大なコストがかかる。たとえば、サリン事件等で起訴された麻原彰晃の裁判は、一審判決が出るまでだけで10年近くを要している(私は一度東京地裁に傍聴に行ったことがあるが、麻原は目をつぶって微動だにせず、まったく無反応なのに驚いた)。もちろん、裁判費用等に税金が何億と使われており、その一方で、被害者は十分な補償を受けていない。
犯罪を犯された上に、国民の税金を費消するのでは、泥棒に追い銭である。

そこで、アメリカでは、刑事被告人が有罪を認め、進んで捜査に協力すれば、略式の手続で罪一等減じる司法取引制度を活用し、刑事事件の9割が司法取引で解決されているという。だから陪審のいるtrialまで進むケースは少ないのである。(そうではない日本で、同じリソースで裁判員制度を円滑に進めるために、ここの裁判の拙速は避けられないと思う)

私が2004年に大学のあった県の弁護士会の依頼で通訳としてハワイ州の司法制度視察にいったとき、連邦地裁でまさにこの司法取引に立ち会った。

被告人はシアトルからホノルル行きの飛行機内で、酔って前の席の背もたれを強く蹴り上げ、連邦刑法上の暴行罪で起訴されていた。
アメリカの刑法は州法と連邦法があり、ほとんどの犯罪は州刑法上のものだが、飛行機や列車などの交通手段内での犯罪は、それ自体州をまたぐことが多いので連邦刑法犯にもなっている。

そこでは、まさに裁判官を立会人とする、検察官と被告人の「契約書」が取り交わされる手続が展開されており、裁判官の質問は、「あなたは司法取引をしなければどんな法定刑に処されるかを知っていますか」「あならは取引の内容を十分理解していますか」「精神病歴はないですか」という、まさに契約書締結能力を問う質問ばかりしていた。司法取引のために被告人は保護観察処分だけですみ、調印の直前に検事の要望で断酒プログラムへの参加義務も付け加えられていた。

1985年の日航機墜落事件も、司法取引のためにボーイング社の徹底訴追ができなかったそうだ。

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ゲートウェイの破産と預り金

2008年10月07日 | profession
留学斡旋会社ゲートウェイが自己破産の申立を行い、留学志望者が同社から留学先に送るために預けた預り金が戻ってこないということで問題になっている。

普通に考えれば、この預り金は(準)委任契約上の前払費用にすぎないので、留学志望者は一般債権者になり、回収できないことになる。

互助会やデパートの友の会なら割賦販売法上、会員の保護のために別途保証金を供託する等を義務付ける制度があるので、前払い金を取り戻すことができるが、留学斡旋会社はこれには当たらない。

また、留学仲介に近いものとして、旅行代理店なら、旅行業法上、営業保証金を積まねばならず、旅行者の保護が図られているが、留学仲介業者はこれには当たらない。

この事件を受けて、早晩、留学仲介についても業法上の規制が課されるようになると予想される。

こういう事態について、業法だけでなく、私法上の法律構成による解決はできないだろうか。とくに、今回の事件は、業法上の規制がなかった以上、それしか解決方法はないのではないか。

預り金について、志望者とゲートウェイの間に信託契約が成立しているという法律構成はできないだろうか。

信託の持つ倒産隔離機能こそ、こうした場面で生かすべきではないか。

類似のケースとして、最高裁判所の平成14年1月17日判決が、公共工事の請負人が保証事業会社の保証の下に地方公共団体から預った前払い金について、当該地方公共団体と請負人の間で信託契約が成立することを初めて認めたことがある。

このときは、信託法改正前であり、「信託」という構成に批判的な見解があった。

しかし、信託法が大改正され、信託法の規定(単独行為による信託についてはここでは触れない)が信託契約という一種の契約についての任意規定であるという位置づけがはっきりした(つまり、民法上の典型契約に準ずるものとして信託契約を位置づけることができる)現在、当事者がはっきり典型契約の一つであると意識していなくても、客観的に見て典型契約のどれかである(前納授業料返還訴訟については学生と大学の契約を準委任契約を中核とする無名契約としての在学契約と構成したが)と評価して法律関係を律するように、「信託」という意思を有していなくても、信託契約成立と評価することができるのではないかと考える。

いずれにせよ、この件でまた平成14年判決の再評価が行われるだろう。

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「キサラギ」「ゆれる」「坂の上の雲」

2008年10月07日 | 演劇


「キサラギ」

自殺したとされるD級タレントの一周忌を、ファンのサイト(小栗旬が主宰)で知り合った5人の男がオフ会として行い、その死因について真相を探っていく。

初めはただのファンだと称していた5人が、それぞれに彼女と深い関係をもっているのだということがわかるが、最後に心温まるどんでん返しがあり、見る者に心地よいカタルシスを与える名作。

最後のクレジットが流れるところ、とくに小栗旬の出てくるところを見逃さないでほしい。警視総監の息子である彼がなぜD級タレントの応援に生きがいを見出したかがわかる切ない背景がわかるから。



「ゆれる」
名作と絶賛された西川美和監督の作品。

事故現場になったつり橋の揺れと登場人物の心の揺れ、そしてなぞに包まれたゆれる真相、の全てを象徴する題名だ。

ヒロイン(最近資生堂のTVCMに起用されて話題になっている真木よう子)の死の真相について、「藪の中」のように何通りもの解釈が出てくる。

終始全てを受け入れるかのような香川照之の表情の演技がすばらしい。

上記二作品に出演した香川照之は本当にいい役者だ。





その香川が正岡子規を演じるNHKのスペシャルドラマ(最初の製作発表以来、楽しみにしていたのに、何か事情があったのか放映が延びて、結局来年から断続的に放映されるらしい)「坂の上の雲」が今から楽しみである。

秋山真之は本木雅弘、秋山好古は阿部寛が演ずるらしい。

「坂の上の雲」は昨年読んだのだが、改めて二百三高地における乃木大将の無能さに呆れた。

2005年に私も旅行で二百三高地を訪れたが、日本とロシアの戦争なのに、乃木大将が建てた慰霊塔(璽霊山<中国語読みでは「アールリンサン」となり、「203」の中国読みと同じである。戦死した二人の息子への思いもあったのであろう>とかいた弾丸型の塔である)とに「日本の海外侵略の証拠である」という説明が書いてあり、また、修学旅行生らしい中国人の団体がたくさんいたので、「このようにして反日教育をするのか」と思った。

三島の「春の雪」の冒頭に「得利寺附近の戦死者の弔祭」という写真が出てくるが、得利寺が寺の名でなく、中国東北地方の地名だとその旅行のとき知った。

乃木がステッセルと会談した水師営も愛馬をつないだ木も見たが、粗末な小屋のようなものだった。

司馬の著書によると、ステッセルが故国で死罪を宣告された際、乃木の命令で欧露の新聞などに盛んに投稿して助命嘆願したそうだ。

戦況がかなり悪化するまで乃木を外さず、ついに児玉源太郎が交代するときも、乃木の面子を潰さないような巧みな工作を行っていたことまでわかって、「なぜ?」という気持ちを禁じえなかった。

息子二人を二百三高地で死なせても、夫人と共に明治天皇に殉死しても、その戦術の誤りによってたくさんの兵士の命を奪ったという大罪への償いにはなりえないのに、なぜ乃木が軍神扱いされるのか不思議である。

NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 第1部 DVD BOX
本木雅弘,阿部 寛,香川照之,菅野美穂
ポニーキャニオン
ゆれる [DVD]
西川美和
バンダイビジュアル
キサラギ スタンダード・エディション [DVD]
香川照之,ユースケ・サンタマリア,塚地武雅(ドランクドラゴン),小栗旬,小出恵介
キングレコード




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橋下知事敗訴

2008年10月07日 | profession
予想通り、光市母子強姦(どうしてこの文字をマスコミは使わなかったり、「性的暴行」という間接表現を使うのか。「強姦」という言葉を使わないことが、却って被害者に対するいわれなき偏見を助長しているとなぜ気づかないのか。傷害の被害者も強姦の被害者も非難される余地のない被害者であることにかわりはないのに、言葉の禁忌が強姦被害者をして全く感じる必要のない恥を感じさせ、告発するのを躊躇わせるマイナス効果があると私は思う)殺人事件の弁護人が橋下知事のTVでの懲戒請求呼びかけについて提訴していた事件の一審判決があり、橋本知事の責任を認め、800万円(請求額は1200万円)の損害賠償の支払を命じた。

予想通りの判決だが、現在大阪府に在住する者として、その知事の言動に利害関係を持つ者として一言書いておこうと思った。

まず、弁護士の癖に、法の支配の徹底した立憲国家で刑事弁護人が期待されている役割、どんなに許しがたい犯罪を犯した犯人でも、その味方になって弁護するプロのつかないところで裁かれてはならない、その役割を担うのが弁護人であるという基本中の基本がわかっていない。

中国では、刑事弁護人になっただけで、弁護士が信号無視などの微罪で逮捕・拘留されたりして、公正な裁判を受ける権利を被告人が簡単に剥奪され、2002年に南京でおきた御粥に入れる油条に毒を仕込んだ無差別殺人については、わずか数ヶ月で死刑執行までいったりしている(rule of lawの確立している日本では、私も傍聴に行ったことのある麻原彰晃(終始目をつぶっており全く無反応だった)の裁判が一審判決まで10年近くかかっていることと比べてほしい)。

悲惨な戦争を経て、やっと、日本が基本的人権や適正手続を重視する立憲国家になったこと(もちろん、有罪率99.9%とか、皇室については表現の自由が制限されているとか、日本の法の支配にも欠けるところがないわけではないが)を、一体どう考えているのか。

また、「被告人の主張を弁護団が組み立てた」という発言は明らかに名誉毀損に当たるであろう。

何よりも、自ら弁護士であるならなおさら、自分の法的責任が問われている裁判には出廷してほしかったのに、法廷に一度も現れなかったということに大変失望した。また、「自分がまちがっていた」と繰り返し謝罪しながらも「判決が不当だというわけではないが、ちょっと高裁の意見をうかがいたい」などというふざけた理由で控訴するというのも、裁判制度を愚弄している。府民としてこんな人に知事でいてほしくない。

しかし、私見では、光市事件の弁護団は、別の意味で訴訟戦略を誤ったと思う。
いくら被告人がドラえもんがどうとか、蘇りの儀式だとかいっていても、それをそのまま法廷で主張させるのは、「反省の色がない」という心証を裁判官に与え、却って被告人に不利である。現に、差戻審高裁判決では、「反省していない。反社会性は増大している」と厳しいことをいわれ、死刑を回避すべき特段の事由はないとされ、最高裁で死刑判決が出る公算がさらに高まったではないか。
(これはもちろん、懲戒の対象となる非行とまではいえないが)

今後は、以下のような理由で弁護士の弁護方法が厳しい批判の目にさらされることになるだろう。

この話題はしばらく避けたかったのだが、現在既に司法修習生の3人にひとりが就職難といわれ、今後は弁護士の生き残りも大変だと思うが、そんな中、今後日本で成長が期待される弁護士の職域は、弁護過誤で弁護士を訴えるというビジネスだと考える。(アメリカでは医療過誤と比肩される訴訟で、その専門の弁護士ももちろんいる)(光市の弁護団に弁護過誤があるとはいっていないし、現実にこの程度では弁護過誤ではないと考えている。そこは誤解しないでほしい)

従来だったら、依頼人の主張が法的に全く根拠がなく、裁判で勝てる見込みがないようなケース(裁判所が保守的とか,イデオロギーがどうとか、そういうこととは関係なく、主張内容が法律論にすらなっていないトンデモ言説であるケースもある。こんな訴状を受け取った裁判官は気の毒だなと思う。訴訟代理人の引き受け手がないのは、そんな弁護を引き受けたら弁護士としてlegal communityから笑いものにされるからなのに、「自分の弁護の引き受け手がいなかったのだから弁護士は足りないのだ」とか、「弁護士さえつけてもらえば勝てる」と公言し、自分の言説に与しない<といってもそのように本人にいったりはしていない。個人的な会話や手紙を曲解した上で名指しで公表されたり侮辱されたりプライバシー侵害をされ、それこそ訴えれば勝てても、とにかく相手にするのが馬鹿馬鹿しいので、放置しているだけで、「あなたの公開している訴状は法律家から見ると九九もできないのに微積分の問題を解いた気になっているようなあまりにひどい内容だ」なんて親切に教えてやったりしないのに>法律の専門家に対して、名指しで「法律家の癖にそんなこともわからないのか」と公開の場で罵ったりするのに至っては、「どうして法律の専門家でもないのにそんなことがいえるのか」と、その全能感はどこから来るのか、と不思議で仕方なくなり、その傲慢さに唖然とするほかないのである。裁判で負けたのはイデオロギーの問題で、自分は少数派だから公権力から迫害されている、とまでいうに至っては、もう論評する言葉すら浮かばない)では、依頼に応じる弁護士が皆無(弁護士のモラルとしてそういう訴訟は受けない)で、依頼人が裁判を起こすのを諦めたり、本人訴訟をやったりすることになるのだが、食い詰めた弁護士が着手金がほしいばかりに(弁護士の報酬は、着手しただけでかかる着手金と依頼事項を遂行した後支払われるものと両方支払わなければならない)、そうした依頼でも受けてしまうようなことが出てくるのではないかと危惧するものである。それでは依頼人が敗訴した上に訴訟費用に加えて着手金まで弁護士に支払わなければならず気の毒である。

また、裁判官の友人が「司法修習生で民法177条(民法で最も頻繁に争点になる条文の一つ)を知らない者が複数いる。法曹の質の低下はもはや誰の目にも明らかだ」といっていたが、そんな弁護士が、就職できなくてOJTも受けずにいきなり開業したりして、まともな仕事ができるのだろうか。それで迷惑するのは他ならぬ国民なのである。

この点、私の恩師米倉明先生は、戸籍時報の9月号で「弁護士の数が増えても、その能力や得意分野について国民に徹底的に開示すればできの悪い弁護士にあたって迷惑するということはないだろう」と仰っているが、そんな開示のシステムの実現可能性は殆どないのが現実だろう(例えば医師の能力についての開示だって、よほどの名医はマスコミで紹介されたりするが、藪の場合は、近所などのクチコミに頼るしかなく、全国的なcomprehensiveな開示制度などない。
弁護士の場合は、「近所のクチコミ」などというものすら存在し得ないだろう。)

法律家としても人間としても世界一尊敬する先生であるが、この点だけは賛成できない。先生は正義感が強すぎる方(そもそも、これだけ問題点が指摘されている法科大学院制度なのに、その当事者はなかなか口を開こうとしないところ、先生は法科大学院で教鞭をとっておられる立場で果敢に意見を述べてこられたのである)
なので、司法試験合格者数拡大に反対する弁護士は自分たちの既得権を守りたいからだと考えてらっしゃるのだろうが。

ところで、光市の被害者が残した手紙が「天国からのラブレター」として出版されており、映画化もされたのだが、これも被害者への同情という点ではマイナスになるのではないかといわれている。被害者が親友から洋氏を奪ったエピソードなどが赤裸々に描かれ、被害者の、よくいえば人間くさい(悪く言えば…)姿が浮かび上がるから。しかし、これはおかしい。被害者を美化し、人格高潔な人であったから殺人は許せない、という論法は実は危険で、被害者がどのような人となりの人であれ、強姦して殺害するなどとという行為は、絶対に許してはならないのだ。

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金融安定化法案 放火と殺人

2008年10月07日 | profession
アメリカで修正された金融安定化法案が成立した(是が非でも通すために反対派議員の利益誘導を含んだもの。「ラム酒業者税金還元」とか。また、来月の選挙に備え、共和党の牙城の州の消費税連邦負担まで盛り込まれている)にもかかわらず、世界同時株安が止まらず、日本株も今日中に1万円を割りそうである。
政府も何らかの対応を迫られることになりそうである。


1日未明に起きた個室ビデオ店での放火事件は私の家のすぐ近所だった。
早朝からヘリコプターがたくさん上空を飛んでいた。
犯人は「火をつければ人が死傷するかもしれないと思った」といっていると報道されている。これは殺人罪の「未必の故意」にあたり、現住建造物放火致死だけでなく、殺人罪でも立件するつもりなのだろう(現住建造物放火致死だけで極刑に処されたケースは案外少ない)。しかし犯人は自分のこの自白の持つ法的意味を多分理解していない。もちろん、身勝手な理由で15人もの尊い命を奪う行為は絶対に許すことはできないが、適正手続ということを考えると、日本にもアメリカで用いられているミランダ・ルールの導入が必要なのではないかと考える。

ミランダルールについては下記のエントリーを参照。

http://blog.goo.ne.jp/otowa1962/e/9be9c578508210ae0675dc198709c857

もちろん、避難誘導について適切な処置をとらなかった店側も過失致死の責任を負うべきだし、実際は安い宿泊所として用いられているのに旅館業法の規制を受けていない状態を野放しにしていた行政側にも問題があるだろう。

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比較法学会で報告(目的信託について)2

2008年10月07日 | profession

(承前)
以上のように、母法である英米信託法では、広義の目的信託の中で許容されるのは、公益信託と狭義の目的信託だけである。
実は、公益信託と狭義の目的信託の境界は曖昧である。
とくに、前述したEnforceability Principleでも説明できない二つの例(動物:Re Deanと一族のmonument: Re Hooper)は、いっそ公益信託といってしまった方が理論上もすっきりする。現に、動物に関しては、2007年2月27日に施行されたばかりの新公益法(Charities Act 2006)第2条(2)(k)に動物の福祉が入れられたので、現在は公益信託に分類されるようになった。
つまり、目的信託と公益信託をどのように区別すべきであるかという問題がよりクローズアップされているのである。2006年11月8日に成立し、2007年2月27日に施行されたCharities Act 2006は、それまでのCharities Actを抜本的に改正するものである。
無論、Charities Actは公益信託のみに適用されるものではないが、初めて条文上「公益目的」の定義を行うなど、公益信託にも画期的な変化をもたらすものである。
この改正法が成立した背景には、従来の公益・非営利信託/団体の法規制が現状に合わなくなってきているという問題意識があった。
benefit要件、つまりどのような目的が“公”の利益といえるか否かについては、MacNaghten卿がCommissioners of Special Income Tax v Pemsel (1891年) で打ち出した、いわゆる「マクノートンの分類」が指針になっていた。
それによると、次の4つのカテゴリーのいずれかに該当しないと原則として公益目的とはいえないことになる。
A:Relief of Poverty 貧困からの救済
B: Advancement of Education 教育の振興
C: Advancement of Religion 宗教の信仰
D: Other Purposes beneficial to the community not falling under any of the preceding heads
DはA~Cでカバーされないものを補充的に救済するためのものであるが、”beneficial to the community”といえるためには、Statute of Charitable Uses 1601 (1601年エリザベス法)の前文 に列挙されているか、または、アナロジーによってその精神と目的を反映したもの(” which by analogy are deemed within its spirit and intendment ”)でなければならないとされてきた。
これは、前文に位置するという点で、厳密にいうとstatutory definitionとはいえない。また、この法自体が、1888年にMortmain and Charitable Uses Actによって廃止されたが、前文だけは同法第13条2項によって効力を保存された 。しかし、この1888年法も1960年のCharities Act1960 によって廃止されたので、1601年法の前文も効力を失ったことになるわけだが、Pemsel判決で提唱された「マクノートンの分類」の中にその精神は生きており、Charities Act 2006(以下「2006年公益法」という」が施行されるまで公益信託解釈の指針となっていたのである。
この点、2006年公益法は、第2条(2)で12項目の公益目的を明示した。これは、公益目的について初めてstatutory definitionを行ったという点や、判例法によって蓄積されてきた事例を法文化した点で注目に値する。

しかし、注目すべきことは、Englandでは、このようにCharities Actを抜本的に改正しても尚、公益目的以外の目的信託は原則として無効という態度を堅持していることである。
公益信託についてまだ経験の浅い日本で、目的信託は全て有効としてしまってよいものだろうか、という問題意識を論じたのである。

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比較法学会で報告(目的信託について)1

2008年10月07日 | profession
話は古くなるが、6月に比較法学会で研究報告を行った。

一昨年のジェンダー法学会、昨年のアジア法学会に続き、3回目の発表になる。

私が所属している学会は大会の開催場所を、東京、翌年は他の地方、また東京という具合にローテーションしているものばかりで、今年はたまたま東京以外で開催される年にあたる(日米法学会はずれていて今年が東京だった)。

今年の比較法学会は大阪大学で開催されたが、私は昨年秋からずっと体調が悪くて、夫に付き添ってもらって行った(学会が終わるまで夫は豊中の実家(夫は京都は高野、宮本武蔵の決闘で有名な一乗寺下り松の近くで生まれ育ったが、実家は現在、豊中にある)に行き、また迎えにきてもらったのである)。

発表したのは「改正信託法の比較法的考察―目的信託を中心に」というテーマ。

1922年に制定されて以来、実質的な改正がなされていなかったわが国の信託法を抜本的に改正した新信託法が2007年9月30日に施行され、最近の社会経済の発展に的確に対応したもの であるだけでなく、信託宣言や後継ぎ遺贈型信託など、英米信託法に固有の制度とされてきたものを取り入れるのみならず、英米信託法でさえ原則としては認めていない目的信託を導入するなど、比較法的に見てもかなり思い切った内容になっている。
とくに目的信託については、Englandにおいて2007年当初にCharities Actが大改正され、初めて条文上公益目的の定義がなされるなど、目的信託の解釈にも影響を与える可能性のある変化があるので、この目的信託について、母法である英米信託法でなぜ目的信託が原則として認められないのか、改正Charities Actはどのような影響を与えるか、そして、日本の改正信託法の目的信託導入をどう評価するかについて発表したのである。

信託を三大確定性のひとつである受益者の確定性を重視した分類をすると、α-1 受益者の存在する信託
α-2 受益者の存在しない信託=広義の目的信託
 α-2-1 公益信託
 α-2-2 狭義の目的信託
目的信託(purpose trust)とは、受益者が特定されていないが、一定の目的に従って設定される信託である。
こうした目的信託は、その目的がcharitableである場合、すなわち公益信託(Charitable Trust)が成立する場合以外は原則的に無効とされる。これは、公益信託以外の信託には受益者=beneficiaryの存在が不可欠という意味でBeneficiary Principleと呼ばれる原則である。そのBeneficiary Principleの基盤になっているのは、Enforceability Ruleといわれるルールである。しかし、このEnforceability Ruleをつきつめると、受益者でなくても、enforceする者さえいれば信託の成立を認めてもよいのではないか、という理論も成り立つ。
 こうした考え方から、England判例法上、非公益信託である目的信託の有効性を認めた例外が、大きく分けて二つある。
ひとつは、potential enforcerが存在する場合であり、たとえば、会社の福利厚生施設として運動場を作るという信託が会社の従業員=potential enforcerであるとして有効と認められたケース(Re Denley[1969年]) がある。
もうひとつは、potential enforcerが存在しないのに、特別目的ありとして例外的に有効性を認めたケースだが、例外中の例外なので、二つのケースに限定されている。ひとつは死後のペットの飼育を目的とするRe Dean〔1889〕 もので、もうひとつは、一族の墓とmonument の21年間 の管理を目的とした信託(Re Hooper[1932]) である。ちなみに、自分のためにmonumentを立てるという信託は認められなかった(Re Endacott 1960年) 。(にもかかわらず、法案審議に呼ばれた法務省の参考人は、第165回国会参議院法務委員会 財政金融委員会連合審査会(2006年12月6日)で、「英米法では目的信託は広く認められており」「自分の死んだ後に自分の墓を管理する」場合も目的信託になると発言しているが)

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野田秀樹 The Diver, The Bee 三島由紀夫・近代能楽集

2008年10月04日 | 演劇
京にあれば右側に立つ電梯を 鶏が鳴く東にしあれば左辺にぞ立つ

9月末、早稲田大学で日米法学会があり、東京に出張。
その夜シアタートラムで野田秀樹「The Diver」を見た。

能「海人」「葵上」、源氏物語、北海道で実際に起きたOLが不倫相手の家に放火して子供を殺した事件が、重層的に絡み合う。

鼓や謡の演奏、扇を小道具にし、英訳版「葵上」の表紙の能面を野田が顔に当てるなど、能の様式を意識しつつ、野田以外の役者は全員外国人で英語で上演されるという意欲的な試みだった。

能の様式と外国人・英語の使用が作品のテーマの普遍性を主張している。

野田の並々ならぬ才気を感じさせる作品だったが、一点だけ、誤りがあった。

放火事件の容疑者の女性が源氏物語の夕顔の人格で語ったとき、診察中の野田演ずる精神科医が「夕顔の源氏は結婚していなかったが、あなたの恋人は結婚していた」と語る部分だ。

光源氏は12,3歳で葵上と結婚しており、頭の中将の思い人でもあった夕顔と出会ったときはもちろん妻帯者だったはずだ。


ついでに昨年見たThe Beeについて。

筒井康隆の原作で、妻子を人質にとられた善良なサラリーマンが、犯人の家族を人質に取り、狂気に陥っていくさまを、巨大な紙を舞台装置として、紙を破いたりめくったり合わせたりを演出の基本とするという革新的な方法でエ巧みに描いていた。
紙を使ったのは「き○がいと正常は紙一重」ということを表したかったのではないかと思う。

このブログでその前の作品「ロープ」について、「再婚して毒気を抜かれたのか」などとと書いてしまったが、不明であったと思った。

http://blog.goo.ne.jp/otowa1962/e/8d75f7910a28651c2dfc855b06f11777


「The Diver」は現代能楽集シリーズの第四弾だったが、今回は三島の「近代能楽集」、綾の鼓、弱法師も新国立劇場で見た。

綾の鼓の上演は、卒塔婆小町、葵上、弱法師等に比べると珍しい。可もなく不可もなくというところか。

弱法師は、俊徳によって双方の両親が道化にされていることを四人の白塗り(実父の国広富之にいたっては白いテープを顔にたくさん貼り付けている)の化粧が象徴しており、その服のvividな色調と舞台の模様が一致しているなどの工夫は目新しいが、俊徳役の木村了が力不足。俊徳の役にはカリスマ性が必要だと思う。

以前蜷川演出で見た藤原竜也の俊徳があまりに印象的なせいかもしれない(彼は同じしゅんとく丸の説教節等を題材にした寺山修司の「身毒丸」で衝撃のデビューを果たしたのであるが)。

そのときは、最後のシーンに三島の自衛隊での演説の録音がかぶさっており、よく遺族が了承したものだと思ったが、瑤子夫人の死後(1995年7月31日)はかなりその辺が緩くなったようだ。

瑤子夫人の、三島作品上演の際のチェックの厳しさはtptのスタッフの人に聞いたことがある。山中湖の三島由紀夫文学館でも、三島由紀夫と自衛隊の関係を出すことを夫人は異常に嫌い、その部分をほとんど展示できていないということだ。

コッポラのプロデュースした米国映画「MIshima」(緒形拳主演。はじめ顔が似ているというので小林薫にofferされたが「恐れ多い」と断ったとのこと)も、たった一箇所三島がダンスホールで若い男性と社交ダンスをしているシーン(会話からは恋人同士だとわかるのだが)があるだけで、夫人が反対し、日本国内では上演できなかった。三島が幼少期祖母夏子(加藤治子)に歌舞伎座によく連れて行ってもらい、その度に買ったという「ぶどう餅」は包装された状態で出てくるのに中身までちゃんと作ったという熱の入れようの作品だった。
歌舞伎座の売店にきいても現在は売っていないので残念であるが。

元高校教師(男)が三島との交際を綴った芥川賞候補作品「剣と寒紅」が、著作権法違反(三島の手紙を無断引用したというので)で遺族から訴えられ、(別件逮捕みたいなもので、他の三島の手紙を引用した作品にはこうした訴えは全く起こされていない)発禁になったこともある。

夫人の死後著作権を承継したのは息子の威一郎氏(私と同じ年齢)だが、著作権延長論の一つの理由として「遺族の財政的保護」というのがあるときいて、彼のことをまず思い出した。

野田秀樹は三島に影響を受けているようで、プロフィールに「中学生、ハードルを跳んでいたら三島由紀夫が自殺した。」という件があるのを見たことがある。

先日、「僕が21世紀と暮らしていた頃」(1993年)という野田の著書を読んでいたら、21世紀に秀樹おじいさんが孫の威一郎とまり子(三島の長女は紀子だが)に、21世紀には消えゆくであろう懐かしいもの(牛乳瓶、ガリ版印刷等)について語る中で、循環論法に陥りそうなときに「これじゃあ永劫回帰だ。豊饒の海だ。」という記述がある。確かに三島作品にも三島の影響が見られる。「パンドラの鐘」とか。

僕が20世紀と暮していた頃 (中公文庫)
野田 秀樹
中央公論社




日本の文学者研究において、遺族の意見や思惑が障害になることが案外多いのでないだろうか。

妻籠にある藤村記念館の年表にも、姪と関係したという重要なことが完全に抜けていた。これは単なる私事ではなく、そのために藤村が逃げるようにパリに行き、また「新生」という作品を書くきっかけになったという、作品研究上も無視できない重要な事実ではないだろうか。

津軽にある斜陽館でも、「斜陽」というタイトルを思いつくきっかけになった漢詩が書かれている屏風は説明と共に展示されているのに、その元になった太田静子との交際、治子の誕生のことが全く抜けており、唯一太田静子の「斜陽日記」が資料として展示されているだけだったのも不自然。

外国の文学研究ではこういうことはあるのだろうか。日本特有の現象なのだろうか。それについての比較研究があればぜひ読んでみたいものだ。

津軽の津島家をモデルにしたのではないかと地元青森県庁の人もいっている高村薫の「晴子情歌」(晴子の初恋のエピソードがこよなく美しい)、その続編「新リア王」

(後者の連載がよくわからない理由で打ち切られ(この件では高村と日経の間で悶着があった。その後完結したものが単行本で出された)、ポルノ小説「愛の流刑地」に変わったというのは日経新聞の見識を疑わせる事件だった。
「失楽園」のときもそうだったが、経済記事を読むふりをして毎朝ポルノが読めるのだから親父たちの受けがいいのは事実なのだろうが、あまりにも嘆かわしい)

の最後の方で、

「マークスの山」
「照柿」(高村の最高傑作。最後の方の、合田の元義兄であり親友の加納検事が「ダンテが<あなたが人であれ影であれ、私を助けてください>とヴェルギリウスに呼びかけたように、君が夢中で声をかけたのが○○(ヒロインの名)だった。恐れおののきつつ彷徨してきた君が今、浄化の意志の始まりとしての痛恨や恐怖の段階まで来たのだとしたら、そこまで導いてくれたのは○○…だったことになる。そう思えばどうだろう。ところで、小生も人生の道半ばでとうの昔に暗い森に迷い込んでいるらしいが、小生の方はまだ呼び止めるべき人の影も見えないぞ」という件りには泣けた)
「レディ・ジョーカー」三部作の主人公の刑事合田雄一郎が出てくる。その続編はもう出版されたのだろうか。

照柿(上) (講談社文庫)
高村 薫
講談社
照柿(上) (講談社文庫)
高村 薫
講談社
照柿(下) (講談社文庫)
高村 薫
講談社

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