夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

自分史その10 「夢がやっと叶った」―香港、東京、そして大学教員へ―

2006年05月30日 | Weblog

2000年5月、翌年の3月から3年の予定で夫が香港の領事館に領事として赴任する辞令が出た。結婚後すぐニューヨークへの転勤を断ったからもう一生海外転勤はないはずだったが、人事院の規則が変わり、他省庁への出向経験がないと昇格できないようになり、夫の職位だと国内の出向先も限られることから、外務省に出向する今回の人事になったので、断れなかった。

仕事を辞めたくなかったので当初は単身赴任してもらうつもりだったが、迷った末、銀行を退職して同行した。香港大学に中国法専門の法学修士課程があるのを知り、企業の中国への進出が激増する中需要があるのに専門家の少ない中国法を勉強できるのはチャンスと思えたこと、かつての留学で初めて日本文化のすばらしさに目覚め、それを外国人に伝えるボランティアをしたいと望んでおり、外交官夫人になればそれが実現できること、子供がほしかったことが理由である。銀行の仕事はストレスが多く、全快後も薬なしで眠ることはできなかったが、現金なもので、仕事を辞めると決めたとたん薬なしで安眠できるようになったのである。結局、今でも不妊に悩まされ続けているが。

香港では外交官夫人の公務のほか、前述した大学の点字サークルでの経験を生かして「香港点友会」というサークルを結成して、点字講習会を開いたり、日本人倶楽部のバザーで点字名刺をその場で作って販売し、収益を寄付するという活動を行ったりした。

もちろん、予定通り香港大学で中国法修士号をとった。他にも北京語・広東語をマスターし、中国茶も免状を取得した。

私の毎日は殺人的に忙しかった。朝7時に家を出て、北京語の学校に行き、お昼まで授業、地下鉄の中でおにぎりをほおばって、午後は、広東語、中国茶、二胡、太極拳、中国画、中国料理等の授業を二つか三つ掛け持ち、夜は香港大学の授業を3時間受ける、といった感じである。

大学院修了後は、男女平等が徹底した香港でずっと働きたいと思い、香港の弁護士資格取得の勉強を始めたが、すぐ夫が本省の都合で当初予定の任期より早く帰国することになり、1年8ヶ月の滞在を惜しみながら、昨年末に帰国。

次の地獄は今年の2月に訪れた。香港からの急な帰国は、本省の都合だけでなく、私のせいでもあったということがわかったのだ。思い当たることはたくさんあった。批判を浴びるだけあって、在外公館の腐敗・でたらめぶりは目にあまり(守秘義務に触れるので詳しくは書けないが)、私は堂々と批判していたし、また偏狭な日本人村を代表する日本人倶楽部という邦人団体にも物申していた。たとえば、事務局長の日本人男性が倶楽部の主催する講座の紹介で「このパソコン講座は超入門なので『レディースコース』と名付けたいですね」というセクハラ記事を会報に書いたことに対しては、書面で抗議を申し入れ、それでも謝罪しないので倶楽部の法的代表者である某銀行の香港支店長に書留で抗議文を送って対処させたり、事務局長が自分のミスを弱い立場の中国人講師に押し付けその嘘をごまかすため嘘に嘘を重ねたことも容赦なく追及して、事務局長が総領事に泣きついて夫に注意が来るという公私混同もあった。また、恒例のバザーで手作り食品の販売について正規の認可手続きを得ていないこともまた追及して、「じゃあ点字名刺の販売は認めません」という嫌がらせをされそうになったり、日本人小学校に貼りだされていた教師が生徒の詩を清書して踊り場に掲示していたものの中に、「ジャンプ」を「ジャップ」と書き間違うというしゃれにならないミスがあることを指摘したり、とにかく、「目立たないこと」と至上命題としていた日本人村、外交官村で、あまりにも目立ちすぎる行動をとってしまったのが、「夫ごと帰らせちゃえ」という判断につながったらしいのだ。

 私は夫のキャリアに傷をつけてしまったことがひたすら申し訳なく、泣きの涙で毎日を過ごした。改革するといいながら、こんな卑怯な人事をする外務省、こんな汚い世界にはもう一刻も生きていたくないと思った。私がいくら暗い修羅の道を歩んでも、夫だけはいつも光り輝く場所にいてくれたから私の魂も救われたのに、今度は夫までも暗渠に引きずり込んでしまった、と。

 私は夫のキャリアに傷をつけてしまったことがひたすら申し訳なく、泣きの涙で毎日を過ごした。改革するといいながら、こんな卑怯な人事をする外務省、こんな汚い世界にはもう一刻も生きていたくないと思った。私がいくら暗い修羅の道を歩んでも、夫だけはいつも光り輝く場所にいてくれたから私の魂も救われたのに、今度は夫までも暗渠に引きずり込んでしまった、と。

 それでも自殺しなかったのは夫の愛情のおかげだろう。夫はこの真相を知った後も私に隠し通そうとしてくれた。しかし、ショックで、生まれて初めて不眠や早朝覚醒を体験しながらも(笑いながらあなたのうつの時の気持ちが初めてわかったよといってくれた)、私にばれないように気を使っていた。どうしてわかったかというと、冗談めかして「あたしのせいで帰国になっちゃったんだったりして」といった時に夫の顔色が変わったので一晩かかって問い詰めたらやっと白状したのである。私は罰当たりにも「香港弁護士資格取得の計画があなたの仕事のせいで挫折した」と文句をいっていたのに、「真相を知ってあなたが傷つくくらいなら、そんな風に恨まれた方がましだと思った」というのである。私が逆だったら「あなたのせいで私の出世がだめになるじゃない!」と非難していたに違いない。夫の人間としての大きさを改めて感じた。

泣き暮らす毎日も、徐々に沈静化した。ちょうどその頃発生したSARS騒動の対応で、設立以来の危機を迎えた香港領事館を見て、不遜な言い方かもしれないが、突然の帰国は「ノアの箱舟」だったのかも…と思えてきたからだ。友人も「急な帰国は神の配慮」といってくれた。

気を取り直して3月からは外資系の経営コンサルタント会社に就職したが、すぐに現在教えている大学の話がまとまり、6月に念願だった大学教員になることができた。

法科大学院の設立申請締切を6月末に控え、実務家出身の教員をどの大学も求めていた時期に日本にいたことがラッキーであった。当初の予定通り2004年の3月に帰国しても、その年の4月にスタートする法科大学院の人事は確定してしまっており、こんなにスムーズには就職できなかっただろう。この点でも帰されて却ってラッキー、と思う。

こんな私のジェットコースターのような人生も、若い学生を育てる上ではプラスになると信じている。自信を持っていえることは、どんな苦境にも一度も逃げをうたなかったことだ。学生が、とくに今の日本ではまだまだ虐げられている女子学生が、私を見て、「人生も悪くない」と思ってくれればこれに過ぎる幸せはない。

という自分史を3年前この大学に赴任したばかりの頃書いていたのだが、大学というところは決して理想の職場ではなかった…ということで、5月30日の最初のエントリーに戻ります。

私の人生、いつになったら落ち着くのやら…。


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自分史その9 銀行員時代

2006年05月30日 | Weblog

そんな不純な動機だったせいか、司法試験には失敗し、1987年に卒業と同時にある銀行に女性総合職第一期生として就職することになった。前年に施行された男女雇用機会均等法のおかげで、多くの企業が初めて女性の総合職を採用するという年に、司法試験で留年していたため、たまたま大学を卒業したのである。時はバブル経済の最盛期で、銀行をはじめとする金融界は株式市場や不動産の高騰に業界をあげて驚喜乱舞している時代であった。

他の総合職一期生世代の女性と同様、何をするにしても「女性で初めて」という肩書がついてまわり、マスコミの取材等も受けていたが、私はまず一人前の銀行員として仕事で認められたかった。私が配属されたのは法務部で、銀行のさまざまな法律問題を解決したり契約書を作成したりするのが主な業務であったが、知識がものをいう仕事であったために、女性であるがゆえのハンディをほとんど感じることもなく、懸命に仕事をこなし、銀行内での高い評価ももらえるようになっていった。

そんな私に、転機は入社3年目に訪れた。その銀行では総合職は入社3年目から海外留学生になるための試験が受けられるので、金融のglobalizationの流れをひしひしと感じていた私は、金融先進国である米国のロー・スクールへの留学を志願したのである。しかし、英語も入社当時に比べかなり上達していたのに、結果は不合格。かなり落ちこんで「こんな会社辞めて自費で留学してやる(当時はいくらでも再就職口があると思えたのである)」とまで思いつめたが、一歩進んで、「そうだ、もう一度受験して合格したら留学だし、だめだったら会社を辞めるのだから、どちらにせよ、今の法務の仕事はあと1年しかできない、ならば悔いを残さないように今しかできないことに全力を尽くそう」と思うようになった。それで、事務セクションと定期的に会議を開いてより支店の助けになる連携策を練ったり、書籍や論文の検索を容易にするためデータベース(まだエクセルもない時代であった)の構築を企画・実行したりと積極的に業務の改善に取り組んだ。また、私生活でも、「生まれて初めて海外生活をするには、苦手を克服する精神力がなければ」と思い、子供の頃から大の運動音痴で大学三年になる時「これで人生でニ度と体育をしなくてすむ」と喜んだ私だが、テニススクールに入ったり、スキューバダイビングの免許を取得したりした。

その甲斐あって次回の挑戦でめでたく社内選抜に合格し、留学への切符を手に入れたが、行く先まで会社は用意してくれない。自分で志望校に出願するのであるが、ここでも私は他人と違うことに挑戦した。普通、企業派遣留学というのは、米国のビジネス・スクールかロー・スクールに留学して学位を取得するのだが、ビジネス・スクールは2年間でMBAを取得するのに対して、ロー・スクールは1年間でLL.M.(法学修士号)を取得するというように年限が違う、しかし、同じ企業派遣で期間に差を設けるのは…というので、ロー・スクール留学生も2年間留学させてもらえるようになっていた。学位は既にとっているのに、2年目何をするかというと、ほとんどの人は同じかまたは別のロー・スクールで聴講生のような単位取得義務のない立場で勉強するのだった。しかし、私はそれでは時間がもったいないと思い、2年目はイギリスの大学院に行きたいと思い、人事部に許可を得て(バブル経済だから許された贅沢であろう)、アメリカとイギリスの両方に出願し、Harvard, Columbia, Oxford, Cambridgeをはじめとするほとんどの大学から合格通知を得たが、イギリスの大学には「1年後に行かせて下さい」と手紙を出して、1991年にHarvard Law Schoolに留学した。

私は28歳のその時まで、海外旅行どころか飛行機に乗ったこともなかったし、英語の読み書きはできても会話はからっきしだめだったので、Harvardの勉強には非常に苦労したが、それは予行練習に過ぎなかった、と思ったのは翌年Oxfordに行ってからである。外国人留学生に慣れておりある意味お客さん扱いしてくれるHarvardと違い、Oxfordのカリキュラムは厳しかった。Tutorの先生に会う度に「昨日は何時間勉強したの?最低8時間以上は勉強しないと落第しますよ」と脅され、その先生をはじめ回り中の誰もが私は卒業できないと思っていた。しかし、勉強の要領を徐々に覚え、卒業時にはFirst Classという、上位10%の学生だけに与えられる特別賞付きで卒業証書をもらうことができたのである.(日本人では初めてではないかといわれ、初めの頃さんざん脅した先生も「厳しいことをいってごめんなさい」といってくれた)。その先生が、先日自殺されたのだ。

二つの法学修士号を手に、1993年に銀行に復帰した私を待っていたのは、完全に崩壊しきったバブル経済だった。国際業務のセクションに配属された私は、入社当時とあまりに様変わりした経済状況に唖然としていた。バブルの頃、できる銀行員の証であった不動産融資は、(当時の)大蔵省からほとんど犯罪視される等、全ての価値観が180度変わっていた。「鬼畜米英」といっていた学校の教師が終戦を境に掌を返したように米国を礼賛するのとも似た節操のないあり方に、私は「世の中には何一つ確かなものなんかない」と思うようになった。他の(主として男性の)同僚と同様、ジェネラリストとして出世の階段を上がっていくことこそ銀行員の花道と考えていたが、出世して役員になっても、かつて「手柄」だった取引が犯罪扱いになり引責辞任を迫られるケース等を見ていて、出世できなくても法務のスペシャリストとして生きていこう、そしていずれは大学で教えたい、と思うようになった。それで、激務の傍ら法律論文を発表したり、また、「教えたい体質」はその頃からあったのか、ロースクールに関する情報が極端に少ないことに自分自身が悩んだ経験を後進に役立ててもらうため、懇切丁寧な出願手続きのガイドからハーヴァードでの生活体験記までカバーしたガイドブックを出版した。今でもロースクール留学の最もコンプリヘンシブな本として読まれている。日本人留学者で知らぬ人はいないらしく、初対面の渉外弁護士から「あなたの本で勉強しました」と声をかけられることもある。

留学から帰国後2年で夫と見合い結婚もした。初めて会った時に「いずれ大学で教えたいという夢があるのです」と語った私に、夫が義母の教えもあり、「その夢をぜひサポートしたい」と思ってくれたのだ。見合いは夫が8人目であり、一人目の人には、私のロンドン出張帰りに車で成田まで迎えに来るというからお土産をたくさん抱えて搭乗口を降りたところで来られないというメッセージを受け取り、歩く歩道で転んでしまった。たくさんの荷物を散乱させて惨めだった。結局来られない理由も知らされないままフェードアウトという失礼な結果で、しばらくはその人の会社が長年提供している教養番組をみるのさえ嫌だった。

プロポーズは実質私がしたことになるのだろう。従来のキャリアパス上、すぐにニューヨークあたりの領事館に転勤になるだろうという夫に、「あなたと一緒なら仕事を辞めてついていってもいい」といったことに夫が感激して「じゃあ、一緒にやっていこうか」といってくれたのだ。結局、結婚後すぐ来たニューヨーク領事館への出向の話は、私が仕事を続けたいので断ってもらい、詐欺のようになってしまったが。

夫は私を女性というより人間としてみてくれる人で、両親に挨拶に来たときも「ください」などという表現を使わず、「敦子さんとの結婚を祝福していただきたく」といったのも、私を呼ぶ二人称はいつも「あなた」であることも、キャリア官僚の激務の傍ら家事をほとんどやってくれることも理想的だった。先述したお金のことさえなければ…。また、夫は私にとって母親のような存在で、幼児が常に目の端で母親を探しているように、私は夫がそばにいないと情緒不安定になる。私は失われた子供時代を夫とやり直そうとしているのかもしれない。

しかし、結婚後すぐまたも大波が訪れた。結婚後2ヶ月で私はそれまでいた国際審査部から国際事務部に転勤になったのだ。それは、今考えれば、一番優秀な人が行く部署から三番目に優秀な人がいく部署への転勤、くらいのもので、新しい仕事も、大和銀行ニューヨーク支店の不祥事により、金融当局の指導で、海外各拠点のコンプライアンス・オフィサーの統括を本店で行うことになり、その担当という重要な仕事でもあった。それなのに、また、「一番じゃなきゃ生きていけない病気」が前よりも深刻に再発した。出世よりも将来学者に、と思っていたくせに、やはり今現在いる場所が一番じゃないと我慢できないのだ。

新婚2ヶ月なのに私は毎日泣きながら「左遷だからもう二度と浮かび上がれない、この会社でもう私の将来はない、死んだ方がましだ」というようになり、そのうち手首を切るようになった。夫は包丁等の刃物を家のどこかに隠し、残業から帰ってから私にわからないように取り出して食事を作り、泣き止まない私に食べさせた。夫には今でも本当に申し訳ないと思っている。でも私はこの転勤の前の日に死んでしまったのだと思った。奇しくもその日、1995年7月31日は三島由紀夫未亡人の瑤子さんが亡くなった日という偶然の一致もあった。

とうとう一歩も外に出られなくなり、そのくせ一人ではいられなくなり、読書はおろかテレビさえも見ることができない重篤なうつ状態になり、私は会社を休職して入院した。

入院中も地獄だった。そもそも「もう出世できないかもしれない」という理由で病気になったのに、こうして休職して入院していること自体がますます出世の可能性を絶望的にゼロに近づけるのだから。うつの他にたえまない苛立ちで45分の大河ドラマさえ座って見ていることができない。絶望にうちひしがれながら病院の廊下を徘徊する廃人のような日々だった。

完全とはいえない状態で半年後に退院し、家に一人でいられないので会社に復帰した。いまでこそうつ病社員の職場復帰には良心的に取り組む会社が多いが、当時は逆にひどいいじめで返された。エリート総合職一期生、東大出、ハーヴァード、オックスフォードという今までは自分の付加価値を高めていたものが、現状の目はうつろで始終動いている惨めな自分との対比をされた時に、自分を貶め、まわりの嗜虐趣味をあおるだけのものになったのである。

課の誰も私と口をきかない。課長までぐるになって私だけにばれないように周到に飲み会や会議をやる。一般職までが、他の人には注意しないのに薬のために口が渇く私がパソコンのそばに置いた缶のお茶を非難する。私のゴミ箱だけを集配所にもっていってくれない。誰も昼食に誘ってくれないので、一人でそそくさと食べ(銀行は食堂で連れがいないだけで人間失格とみなされる)、残りの時間空いている席で日経新聞を読んでいると、次の日にテプラで「ここは休み時間に新聞を読む場所ではありません」と貼ってあったりする。私はこの時の課員、とくに管理職でありながらいじめに加担した課長を一生許すことができない。ほら、閉鎖されたパリ出張所の所長だったあんただよ。

その上、夫が半年間研修でジュネーブに行くことになった。これも私がいけないのだ。あまりの苦しさに「夫の海外転勤に同行という理由で辞めたい」と思い、夫がこの研修のことをいったとき、「絶対申請して」と頼んでしまったのだから。でも、死んでも専業主婦で終わりたくない、また働きたい、と思えば、たかが半年の転勤のために退職するのは履歴上の傷になり、再就職に不利だろうと思われ、辞めることはできなかった。今思えば、「当初もっと長い任期だったのに本省の都合で短縮されたんです」とか、いくらでも言い訳はきいたし、香港生活の充実を思えば、半年くらいフランス語を勉強するのもよかったかも、と思えるが、当時はそんな理由で辞めることは再就職の道を自ら閉ざすこととしか思えなかった。

夫のいない家で、相変わらず買物にも行けず、テレビも見ることができず、本も読めず、毎朝地獄への出勤時間までぎりぎりまで泣いて、そして満員電車に乗って、会社でも誰とも口を利かずいじめを受け、もちろん昇格は2年続けて見送りになり出世の望みが完全に絶たれた中での文字通り出口の見えないトンネルを這うような状態だった。

だんだんと回復してきたきっかけはやはり本だった。直木賞を受賞した乃波アサ氏の『凍える牙』の音道貴子刑事の、犬の孤高な魂と呼応する私生活の孤独を抱えながらの厳しい職業意識は胸を打ち、病気になって以来1年ぶりに初めて読み通した本になった(以前は月20冊くらい専門書以外の本を読んでいた)。会社でもいじめを受けながらもなんとか仕事をこなせるようになり、夫が帰ってきた頃には転職活動もできるようになっていた。

そんな時、運良く金融法務の分野では業界随一のレベルで研究者も輩出している別の銀行の法務部に転職することができた。その頃には全快していた。

激動する金融業界で、めまぐるしい法改正・新法制定により、銀行の法務業務は量的にも質的にも高度化し、弁護士資格を持つ二人の上司の厳しい指導の下、実践的な法律知識を身につけ、それを用いて現実の問題を解決する充実感を味わえる幸福な日々が3年半続いた。投資信託の窓口販売開始の際の法務責任者になったり、重要なプロジェクトもたくさん担当させてもらい、論文も20編以上執筆した。


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自分史その8 一番じゃないなら生きていけない!

2006年05月30日 | profession
本件は、夫の金銭感覚について改めて疑問を持つ機会にもなった。

性格については非の打ち所のない夫だが、金銭感覚だけはついていけないところがある。私に対してだけけちなのだ。初めてデートした時から私が銀行を退職するまで、全てを割り勘にしてきた。月に一度領収証を持ち寄って互いに差額を一円単位で清算するのだが、私は夫の計算をそのまま信じるのに、夫は私の提出した領収証の品目を全てチェックして「あ、これは生理用品だから割り勘の対象外ね」とかいってさっと何百円か引いたりする。二人で仕事の帰りに待ち合わせて定食屋で夕食を摂るときも、あとで2で割ればいいのに、私が夫より100円以上高いものを頼むと、「ここは別々に払おうね」と確認してからしか箸をつけようとしない。

ま、それは許容範囲として、夫が、マンションのローンを半分ずつ負担(共有持分も半々)していることが、不満でたまらない、私にもっと出してほしいというのが、理解できなかった。私は学者になるくらいだから専門書をはじめ本を尋常でない数持っている上、仕事着もたくさんあり、男としても極端に持ち物の少ない夫から見ると、私の持ち物のために自分がローンを払わされているように見えるというのだ。「あなたは私からスペースを盗んでいることに気づかないのか」などと涙ぐんでいう。じゃあ、一銭もローンを負担していない専業主婦はいっさい荷物を持ってはいけないということになるのか?

また、食器も家具も安いものでいいと言い張るので、趣味のいい食器や家具を買おうとすると私が全額自腹で買い、夫はそれにフリーライドするだけでなく「また場所を食うものを買ってきて」と激怒するのも許せなかった。

バリ島に行った時、ウブド村でいい絵があったので「買ってもいい?」ときいたら「あなたの趣味で買うのだからあなたが全額出しなさい」という。「でも家に飾るからあなたも見るじゃない」というと、「じゃ、私はこの絵の前では目をつぶっていることにする」という。夫に小遣いを渡して残りを自由に使う専業主婦の方が、年収1千万の私よりよほど自分の趣味通りの買い物ができているんじゃないかと憤りを感じた。

車は、夫が通勤に使っていた時期もあったので、全て夫の負担とした上で、ドライブや旅行で私が乗せてもらう時は、その度ごとにメーターをリセットして1kmあたり20円を私が払うことになっていた。

3年前に、高校時代から「こういう教養の薫る町に住みたい」と夢見ていた出身高校の近所にマンションを買った。契約を経営コンサルタントの時にしてしまったので、年収が3分の2の国立大学教員になった今、ローンを払い、東京と松本の二重生活の経費を賄うのは非常に辛いし、第一、私は東京にふだんいない。初めて夫の方が収入が、しかも300万円も高くなり(同じ国家公務員でも夫は管理職手当てや残業手当や調整手当てがつくから)、私の方の事情変更もあるから、持分とローン比率を6対4にしてくれないかという提案に夫は激怒し、「私の方が持分が多くても何の得にもならない(じゃあ、あんたの父親が住みもしない娘の新居の持分半分もってお金も半分出してるのはどうなのよ、とつっこみたくなる)。それなら手付け600万円放棄しても買うのをやめる」というのにもちょっと引いた。

本題はここから。私に対してはこんなに吝嗇な夫が、実家の家族には異様に寛大なのだ。私が誘っても(割り勘なのに)「高いから嫌」といって断る高級レストランに、義妹が東京出張で来た時は連れて行って奢ってやる。私の分は出してくれない。

今回、義父が義妹の新居に半分援助していることも、家に案内された時に義妹一人で買えるはずはないと気づいたはずなのに、何も聞こうとしない。私がやっと事情を聞きだすと、「そんなこと、知ろうとすること自体が卑しい行為だ」という。「あなたは私には経済的な平等平等っていうくせに、民法で平等な相続権が保障されている妹との間の不平等には頓着しないのはおかしい。」というと、「家族と配偶者は違う。そもそも私は親から遺産も一切もらおうと思っていない。もらわないでやっていけること自体が感謝すべきことなのだから」などと奇麗事をいう。じゃあ、いつも私に強いていることは何なの?とどうしても解せないのだ。

四、「一番じゃないなら生きていけない!」―高校から大学まで―
私が汚水にまみれた環境から抜け出す第一歩を記した筑波大附属高校はまさにユートピアだった。私はここで教育を受けたことを心から誇りに思う。

偏差値や東大の進学率のことをいっているのではない。自分の頭で考え、他人を尊重するというリベラルな教育を実践していたからだ。もし、子供に恵まれることがあれば、大学には行かなくてもいいが、(むしろ、職人とか、大学以外の道を見つけることができるような子供になってくれたらこんなうれしいことはない。私は他に何もないから学歴に縋ったが、最上の学歴を身につけても幸せになれなかったいい見本だからだ。)この附属高校で学んでほしいと強く思う。

校則も制服も自治会も生徒指導部も進路指導部もないのに学生は節度を守って行動し、かつ、お互いを尊重するという、私がその後属したどの組織よりも大人同士の関係を取り結んでいた。3年までクラブ活動をしていた生徒も東大に現役合格した。バリバリの理系の生徒でも面白くない授業で机の下で読む内職本はサルトルだった。教師から命令されなくても、民主主義とは何か理解していて、文化祭実行委員会が立候補すると、その委員に民主的正統性を与えるためだけ(つまり選挙で勝たせるため)だけに、負けるための対立委員会候補が自主的に立ったりする理想的な環境だった。

教育内容もすばらしかった。自分で受験勉強できる学力のある生徒でないと成立しないといわれればそれまでだが、歴史科目以外の社会科は全て教科書を全く使わない授業だった。地理ではアパルトヘイトや沖縄問題を扱ったり(その先生は現在琉球大教授となり教科書裁判の原告になっている)、倫社では松本清張の『日本の黒い霧』をテキストにして帝銀事件や下山事件を扱ったり、尾崎秀実の『愛情は降る星のごとく』が夏休みの課題図書になったり、政経も朝日訴訟等の福祉問題を扱ったり、全て世の中の常識を疑い、自分の頭で考える訓練をさせるものだった。私に与えた影響は計り知れない。

私が学者になったのは、金融業界の激変を目の当たりにして「世の中には何一つ確かなものなんかない、でも研究や教育の価値だけは不変だろう」と思ったというどちらかというと消極的な理由からだと自分では思っていたが、高校でこういう教育を受けたことが、人に影響を与える教師という仕事のすばらしさを知らず知らずに心に刻み付けていたこともあったのではないかと思う。

前述した中学1年のガリ勉で身についた勉強の勘所のおかげで、高校では、オーケストラ部、新聞部、文芸部の三つの部を掛け持ちし毎日遅くまで没頭していたが、成績は常にクラスで1、2番をキープしていた。授業を聞けば大体のことは理解でき、試験の直前以外は家で勉強することもなかった。

中学の時に出会った三島由紀夫は近くの小石川図書館で高校1年で全部読破し、ますますのめりこんだ。きっと、似たようなタイプの人間だから(精神科医の牛島定信氏は三島は人格障害だと診断している)、自分の人生の不如意を解決する鍵を三島文学が握っているような気がしたのだろう。毎年11月25日の彼の命日には必ず黒い服を着てくることはクラス中知らぬ者はいない事実だったし、三島がどこかで書いていた「雨が降るからといって傘のようなちゃちなものでそれを防ぐ姑息さ」というような表現を守り、雨でも絶対に傘を差さなかった。

だから、単純だが東大の国文学科に行って三島研究専門の文芸評論家になろうと思い、東大文科三類を受験して現役で合格した。

私はそこで駒場店友会という点字のボランティア・サークルに入った。受験勉強中自分の試験の点数のことしか考えられない自己中心的な毎日が嫌になり、「何か人の為になることを大学入学後はしたい」、ということを目標にして非人間的な勉強の毎日に耐えていた、というと聞こえはいいが、学生時代何か打ちこめるような課外活動をしたい、でも、スポーツは大の苦手である、という消去法的理由があったことも否めない。

駒場点友会は伝統のある本格的な点字サークルで、ベテラン点訳者である深川静郎氏を指導者として厳しい指導を受け、日本語点字と英語点字をみっちり叩きこまれた。当時は、コンピューターによる点訳のような便利なものはなく、専ら「カニタイプ」という、英文タイプライターの中で左から右に動く四角い印字器の左右に、両手の人差し指、中指、薬指を置いて打つためのカニ足のようなキーが付いている道具で点字を打っていた。これらの6本の指のどれを打つかという組み合わせ(2の6乗で64通り)で、日本語も英語も表せるのである。大学を卒業し、点字から離れてからも、流行歌を口ずさみながら、その歌詞(日本語でも英語でも)に合わせて無意識に指を動かしている自分がいた。そのおかげで、香港で約20年ぶりに点字をやろうとした際も、指が完全に点字を覚えており、ほとんど勉強し直す必要がなかったのである。

駒場点友会の活動は、主としていろいろな大学に在籍する盲学生のために教科書を点訳したり、盲学生を受け入れている大学の入学試験の点訳をしたりするもので、とくに後者はとても面白かった。晴眼者の会場と盲学生の会場は分かれており、私たち点訳者も別の部屋で控えている。晴眼者の会場で試験問題を配布すると同時に私たちにも渡され、急いで点字に直したものを、係員が盲学生の会場に持っていく、という臨場感あふれるボランティアであった。それに対して前者の普通の点訳は、割り振られたものを自宅や下宿に持ち帰ってしこしこやるという孤独な作業で、つるんで遊ぶのが真の目的かと疑うようなサークルもある中、主な活動が一人でやる辛気臭い作業ということで、途中で挫折してしまう部員もいた。しかし、私に関しては、すべてのことに意味を求めるという強迫的な性格がものすごくこういう作業に向いていて、全く苦にはならなかった。前述の通り、高校卒業と同時に現金はいっさい渡されなくなり、学費・交通費・本代の全てを家庭教師のアルバイトで賄っていたので、私の生活は、大学の授業、点字ボランティア、アルバイトの3つでほぼ占められていた。

学園祭では、希望者にその場で点字の名刺を作ってあげ、点字に関するパンフレットを配るという活動を行い、これが後述する香港でのバザーでの活動や教員として大学に赴任してからの点字サークルへの指導につながっている。

こうした活動の縁で、筑波大学附属盲学校の塩谷治先生と知り合い、先生が力を入れている「福島君と共に歩む会」にも参加することになった。福島智氏は、ご存知の方も多いであろうが、現東京大学先端科学研究センター助教授である。当時は、盲学校在学中に聴力も失い、盲聾者となりながらも、勉強を続けようと苦労していた。そんな彼をさまざまな形でサポートする会が「福島君と共に歩む会」であった。

私のような晴眼者だけでなく、多くの盲学生もメンバーになっていた。
そこでは、視力も聴力も失った福島君のために、指点字という驚くべきコミュニケーション手段が用いられていた。彼の両手の人差し指から薬指までの6本を、前述のカニタイプのキーに見たて、その上に話者が自分の同じ指を重ねて置き、カニタイプを打つように指を動かして文字を綴り、それに対して福島君が声で答える(途中失聴者であるため、言葉は普通に話せる)のである。福島君は、聡明なだけでなく明るく前向きな性格で、ハンディを克服して偉い、というレベルでなく、その人間的な魅力から、ハンディがあること自体をこちらに忘れさせる人だった。私の指点字に関西訛りの言葉で答える明るい声を聞いていると、こちらが励まされるような気がしたものである。

忘れもしない、あれは大学2年の夏、「歩む会」の合宿が河口湖で行われた際のできごとである。

当時、私は自分の進路のことで悩み、半分ノイローゼのようになっていた。これを話すためには、少々長くなるが、部外者には極めてわかりにくい東京大学の進路決定システムの説明から始めなければならない。入試の時から学部毎に分けられている他の多くの大学と異なり、東京大学では学生が入学時に自分の専攻を最終的に決定することはない。入学時に文科一類、文科二類、文科三類、理科一類、理科二類、理科三類という6つのコースのうちどれかを選ぶことになっているが、これは大雑把な目安でしかない。最終的に3年次に進学し卒業する学部・学科は、2年生の前期終了時に、学生の希望とそれまでの教養課目の平均点により決定されるのである。この進学先決定のプロセスを「進振り(進学先振り分け)」という。といっても、文科一類の学生は教養課程の単位さえとれば成績如何にかからず法学部に、文科ニ類の学生は同様に経済学部に、理科三類の学生は同様に医学部に進学できるので、実質的に進振りを受けるのは文科三類、理科一類、理科ニ類の学生であったので、人気の高い学部・学科に進学するためには教養課程で良い成績を取らねばならず、そういう学生にとってはもう一度受験があるようなものなのである。文科三類では、人気のある教養学部や、文学部・教育学部の一部の学科を除けば定員割れで競争はなく、第二志望にそうしたすべり止めの学科を書いておけばどこかに進学することはできるが、悲惨なのは理科系だった。理学部・工学部はだいたいどこの学科でも競争があり、しかも、年によって足切りの点が変わってしまうので、安全パイというものがなく、前の年では進学できた成績でも僅差で行けなかったり、同じように第二志望、第三志望にもあぶれて進学先がない、という事態に陥る学生も少なくない。こういう学生は、2年生の前期修了の時点で翌年の進振りに備えるため、もう一度1年生の後期からやり直すことになり、これを、学年末試験で進級できなかった留年と区別して「降年」と呼んでいる。反対に、成績が極めて優秀な学生にはウルトラC的な進学が可能であり、理科ニ類の希望者のうち10名だけ、および理科一類の希望者のうち数名だけが医学部に進学できたり、文科ニ類と文科三類の希望者のうち5名だけ法学部に進学できる制度があった。東大工学部建築学科出身の女優の菊川怜が「医学部にも行こうと思えば行けたけど、そうしたら女優の夢は諦めなければならないと思ったので建築学科にした。」とインタビュー等でいっているのは理科一類でこのウルトラCが可能な成績だったということなのである。

実は、私も文科三類に所属していたが、たまたま、ウルトラCで法学部に進学できる成績だった。勧められもしたが、当時は法学部には興味がなかった。元々、三島の研究者になるつもりで、文科三類に入学したのも、文学部国文学科志望だったからだ。

しかし、大学に入り、社会学や心理学を学んで、文学研究にもいろいろなアプローチがあるのを知ったことが私を迷わせていた。実はボランティア活動も大きな影響を与えていた。私は大学で点字サークルに入ると同時に、育った地元の「葛飾手話の会」という社会人の多いサークルで手話も学んでいた。そのため、盲人と聾唖者の双方に接するようになったが、その両者を比較すると、コミュニケーション手段にハンディをもつという点で共通しているはずなのに、認知の仕方に大きな違いがあった。聾唖者にはリンゴ、みかんの違いはわかってもその上位概念である「果物」というのが理解しにくい、というように、耳で音声をキャッチできないことが、とくに抽象概念の形成、ひいては現実の相対化能力に大きな影響を与えるのに対し、盲人にはそうした問題はなかったからである。ヘレン・ケラーも「何か一つだけ取り戻せるなら、聴覚がほしい」といっていたそうである。このように、コミュニケーションや言葉というものにまつわるハンディの概念形成に与える影響に関心が向き、言語社会心理学の勉強をしたいと思うようになった。盲人や聾唖者がその欠落によって影響を受けているとすれば、三島由紀夫は、既に引用した『太陽と鉄』でわかるとおり、逆にその過剰によって人生を支配されたのではないかと思えたからである。言語社会心理学を勉強しようとすると、当時考えられたのは、教育学部の教育心理学科か、教養学部の相関社会科学科のどちらかであり、ともに人気学科ではあったが、もちろん成績上は全く問題なかった。そのどちらに進学すべきかということを悩むあまり、半ノイローゼ状態になってしまったのである。大学2年の夏中、そのことばかり考え、本屋や図書館に行けばいろいろな本を手に取り、まず著者略歴を見て大学時代どんな勉強をした人なのかばかりを知ろうとする、という状態だったので、世間で何が起こっているか、その頃の記憶がすっぽり抜けている。今はミーハ―で芸能界にも詳しい私が、当時は、流行っていた中森明菜も南極物語も全く知らないでいたのである。

そんな時、参加した「歩む会」の合宿で、ある夜、福島君の弾くピアノに合わせ、会の中心的メンバーで盲学生の女性が歌ったのが尾崎亜美作詞作曲で杏里が歌った「オリビアを聴きながら」であった。前述のような事情で、当時流行していたはずのその曲を私はその時初めて聴いたが、リズムを合わせるために彼女が福島君の後ろに立ち、彼の両肩に手を置いて、指点字で歌詞をなぞりながら歌うその姿は、私の魂を芯から震えさせ、一幅の絵のように私の瞼に今でも焼き付いている。ハンディを負いながらもこんなに美しい姿で人を感動させることができるこの人たちに比べ、私の悩みはなんと卑小なのだろうと恥ずかしくなった。
にもかかわらず、私の悩みは解消されなかった。進振りの希望提出のぎりぎりまで大学の近くの喫茶店で髪をかきむしった末、結局教養学部の相関社会科学科にし、もちろんすんなり希望は通った。カリスマ的人気のあった社会学の見田宗介教授のゼミにはまっており、その影響もあった(ゼミの先輩にエッセイストの岸本葉子氏がいる)。

しかし、私の煩悶はさらに深くなった。2年生の後期から専門課目の授業もたくさんとるようになったが、教養学部であるだけに、課目選択の幅も教官も、1年生の時のように広く自由度の高いものだった。そもそも大学1年次は私にとって夢のように楽しい時だった。カルチャースクールのような感覚で自分が知的好奇心をもてる課目を好きなだけほぼ自由に選び、楽しくてたまらない授業を一生懸命聞いていたら自然に試験でもいい成績が取れた。しかし、このような楽しい日々があと2年以上続くのかと思うと、逆に不安でたまらなくなってしまったのである。これでは、自分が大学で何らかの専門知識を身に着けることはできないまま、浮草のようにふわふわと漂うだけで終わってしまうような気がして、足元が急に崩れて奈落の底に落ちていくような夢をよく見るようになっていた。また、研究者としてやっていくには、言語社会心理学のような学際的な研究分野の場合、ここまでやれば可、ということはなく、大袈裟にいえば、世の中のありとあらゆる文献に目を通す必要があるのでは、そしてその上でオリジナリティを出さなければならず、私にはとてもそんなことできない、という茫洋とした不安にも襲われ、半分ノイローゼから完全ノイローゼになっていき、休学を余儀なくされるような状態に陥り入院することになったのである。

自殺を図ったりもしたその苦しい期間、私は「何でもいい、体系や枠組がしっかりしていて、まじめにやれば一通り専門知識が身につく学問をやりたい」と切実に願うようになり、翌年もう一度進振りを受けて、ウルトラCで法学部に進学しようと思うようになった。成績は十分足りていたので、そのままの成績で臨めるよう、休学中試験はいっさい受けないで翌年の進振りに臨み、無事法学部に進学した。
しかし、ここでも私は自己嫌悪に苦しめられ、結果としてボランティア活動からも遠ざかることになった。

なぜ法学部を選んだのかと聞かれると、三島由紀夫がやはり東大法学部出身だったこと、三島もトーマス・マンの「小説家は銀行員のような生活を送らなければならない」という言葉をよく引用していたように、まず実務家として有用な人間になってから趣味で文学研究をしたいと思って、等と聞こえの良い答えをしている。しかし、実は私は度しがたいほど嫌らしい人間であり、私の中に、「東大でも一番ステイタスの高い学部に所属したい」という上昇指向があったことは否定できなかった。ノイローゼになったのも、一般大衆に一番頭がよさそうとわかってもらえる法学部でなく、通にしかわからない教養学部に属している自分、俗っぽい意味で「一番」ではない自分が許せない、耐えられない、というのが実は一番の理由だったのではないかと今は分析している。世間的に見て一番じゃなきゃ生きていけず、実際に心が壊れてしまうどうしようもない人間だったのだ、私は。この自分の心の醜さに気づいたのがこの時だった。

教養学部や文学部を出て研究者になったのでは、偏差値が低かったのでは、と世間が疑う(なんと歪んだ思考であろうか)。文科三類の同級生が「法律や経済なんて無味乾燥な勉強する奴は馬鹿だ」と批判していたのも私には「すっぱい葡萄」にしか見えなかった。できるだけ文学と遠そうな実学を使う、ステイタスがあり所得も高い職業に就いて、自分は頭も良く有用な人間であるという世間に対するアリバイを作った上で好きな文学研究をしたい、というとことん卑しい願望を抱く人間だということを、自覚するに至ったのである。いわば自分は転向した訳で、熱くマルクスを語った文科三類の同級生にも合わせる顔がないような気がして、本郷でも彼らに会いそうな生協食堂等には行かないようにしていた。そして実は、もっと大きいものも犠牲にしていた。私は入学時から文科三類の同じクラスのある男子学生に片思いしており、進振りのためのオリエンテーションでたまたま彼も私と全く同じように相関社会科学科か教育心理学科かで迷っていることを知り、同じような思考の持ち主であったことに驚喜したが、結局私は全く違う道を選んでしまった。彼は教育心理学科に進学し、クラス中の誰よりも早く卒業時に研究仲間と結婚し、研究者になっているらしい。もちろん私の全くの片思いであったから、たとえ同じ進学先を選んでもどうにもならなかったとは思うが、20年経った今でも彼がくれた聖書(英語の授業でキリストの生涯を扱ったテキストを使っていたので、話しかけるいいチャンスと思い、クリスチャンの彼に「聖書はどこで入手できるか」ときいたらその場でくれたのである)を本棚の片隅に見る度に失ったものの大きさに胸が疼く。

ボランティア活動も、「自分は立派な人間だと思うための手段だったのでは」と思い始め、自己嫌悪のあまり遠ざかるようになっていった。

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自分史その7 「出来の悪い方が得するの?!」―妹たち―

2006年05月30日 | Weblog
理不尽な両親に育てられて歪んだのは私だけではなかった。妹二人もそれぞれに取り返しのつかないほど歪んでしまった。
1. 長妹
2歳下の上の妹は、私と違って勉強ができるだけでなく素直で性格も良くて、小学校でも児童会長をしていた。妹本人は、勉強だけは学校始まって以来というほどできた私と何かと比較され嫌がっていたようだが、実は成績は抜群でも性格に問題ありと先生にいわれる私の方こそ妹に対してコンプレックスがあった。今でも心の傷になっているのは、中学で開校以来の秀才といわれ、超名門校に合格しただけでなく、全国作文コンクールでも大臣賞をもらうような才能をもち、選挙で選ばれ生徒会の副会長にもなった私が、もちろん非行にも全く手を染めていず、目立ったトラブルを起こした訳でもないのに、卒業式で答辞を読ませてもらえず、申し訳のように「記念品贈呈」だけの代表者にされたことだ。私の性格が先生方に嫌われた以外の理由は考えられず、その屈辱は忘れることができない。今のような時代だったら教育委員会にもちこめたのに。

その妹は、高校は都立のその学区(といっても一番偏差値の低い6学区)では一番良い高校に入学し、周囲は学芸大学あたりに進学するのだろうと思っていたが、高校3年の時、突然家出をし、しばらく音信不通になっていた。それも、家族全員が出かける日を狙って引越し屋を呼び、自分のものは全て、アルバムに貼ってあった赤ちゃんの時の写真まで持っていく、自分の痕跡は何一つこの家には残したくない、という堅固な意志を見せた徹底ぶりだった。やっと居所がわかった時、なんと妹は裁判所の職員をしながら都立大学法学部の夜間に通い、下宿も大学のすぐ近くだった。担任の先生も「昼間の大学を受験しなさい」とずいぶん勧めたのに、彼女は誰にも相談せず、初級公務員試験と夜間大学を受験していたのだ。「あんな親の世話になるのは死んでも嫌だった。お姉ちゃんはずるいよ。お母さんを批判しながらも家で食べさせてもらって大学に行っているんだから」と既に東大生だった私にいった。家族の誰にも相談しなかったが、母のきつい性格を嫌っていた名古屋に住む父方の叔父(人間のできた苦労人で56歳の今も独身)がずいぶん相談に乗っていたらしい。

私と違って幸せになれたはずの妹の人生はそれから狂いっぱなしだった。裁判所の事務官で向上心のある者は書記官試験を受けて書記官になるというコースを歩むので、周囲はみな妹に受験を勧めたが、決して受けようとはしない。
かといって、妹本人も自嘲的に「裁判官は駕籠に乗る人、書記官はそれを担ぐ人、私たち事務官は駕籠屋の草履を編む人」というような仕事が、能力のある妹に満足できるはずがない。満足できない仕事をすることは妹にさらに二つの不幸をもたらした。
一つは、心因性の頭痛になり、1年以上の休職を余儀なくされたことである。本人は原因不明といっているが、仕事上満たされないことが原因ではないかと思っている。
二つ目は不幸な結果に終わった結婚相手との出会いである。仕事に満足できない妹は、アフターファイブを充実させようと、夜いろいろな学校に通ったが、中でもコピーライターの学校では、才能をある程度開花させたようで、第一生命の「サラリーマン川柳」にも何度か採用されたりしていた。そこで知り合った3歳年下のプータローと腐れ縁のように長くつきあっていて、彼が介護士の資格を取って老人施設に就職したので結婚したが、2年くらいで離婚した。自分が家にいる時は妹が外出するのも家族からの電話に出ることさえも許さない、自分の怪獣のフィギュアはたくさん並べているくせに、妹の持ち物は「目障りだ」とまとめてごみに出してしまう、という義弟を「どうして離婚しないの?」というと「人生は修行だと思うから」と嘯いていたが、ついに離婚に至った。

最近は母と妙に親しくしていて一緒に旅行に行ったりしている。それはそれでいいことだが、妹のことが気の毒である。なぜなら、彼女は自分の不幸を親のせいにすることで精神のバランスをとっていたはずである。「あんなひどい親だから高卒後自活せざるをえず、したがってこういう仕事にしか就けなかった、もう少しまともな親だったら違っていた」、と。今、母と全面和解してしまったら、つまり「ひどい親でない」ということにしてしまったら、自分の不幸を誰のせいにするのだろう。

否、実は、彼女の選択は親のせいだけではないのだと私は最近考えている。妹は私と同じくらい自己愛の強い人間で、負けを認めることを極端に恐れる性格なのではないか。大学受験の時は、普通に受験したのでは到底東大にはいれないことはわかっていて、そうすると私に負けたことが顕在化する。はじめから夜間大学にしかいけない、という条件下なら真正面から勝負しなくてもすむ。書記官試験を受けないのも、合格しなかった時にプライドががたがたになるから、「自分は受からないのではない、受けないのだ」と思いたいのではないか。「人生は修行だから」と嘯いたり、「仕事は楽さえできればいい、やりがいなんていらない」というのも、求めて得られないのでは敗北だから、はじめから求めていないふりをするのでは、と。こういう見方は肉親として意地悪すぎるだろうか。
私が香港にいる間の彼女の離婚について両親に私に対する緘口令を帰国後も長く敷き、こちらが帰国の挨拶をしようとしても居留守を使う等の様子を見ていて、配偶者にだけは恵まれた私への嫉妬を否応なしに感じたのは確かである。

2. 末妹
9歳下の末の妹はもっと悲惨である。34歳の今も無職と既に述べたが、それだけではない。統合失調症を原因とする精神障害者と認定され、障害者手帳の交付も受けているのだ。いうまでもなく後天的なもので、直截にいえば母のせいである。そしてそのことが私によりいっそう深い世界への呪詛を植えつけた。「出来が悪い方が、努力しない方が得するのか」という逆説的なルサンチマンである。

妹は、母に言わせれば、言葉の取得が遅かったそうだ。でも専門家に何度診せても異常なしと診断されたのだから、母の思い込みだと思う。ともかく、母は事態を改善するには同じ年頃の子供と交わらせるべきだと考え、妹を保育園に入れるためだけに、勤めを始めた。妹は保育園に入れても「母の眼から見て」言葉がはかばかしくしゃべれなかったので、今度は母は「自分が働いているせいではないか」と罪の意識を感じ、妹を甘やかすようになった。

いったいに母はやはり情念の濃すぎる人なのか、私や長妹への虐待も程度が激しかったが、甘やかすとなると末妹への甘やかしも一通りではなかった。家の中で妹の望むことは食事でもテレビのチャンネルでも何一つ叶わないことはなく、家族はひたすら忍耐を強いられた。だから、今に至るまで、妹は自分の少しでも気に入らないことがあると顔を真っ赤にして絶叫する。学校でも当然宿題はやらない、掃除当番もやらない、眠いから遅刻も当たり前で成績は下がる一方。友達と約束しても面倒くさいというだけで何の連絡もしないですっぽかす。このままでは普通の高校受験に耐えられないと思った母は、偏差値40くらいの中高一貫私立女子校に中学から妹を押し込んだ。そこでも相変わらずの態度で、義務教育でない高校では何度も落第、退学の勧告をされ、その度に頼りにならない父に代わって母が学校に乗り込んで「人権問題で学校を訴える」と先生方を脅してなんとか卒業までもっていったが、卒業しても2ヶ月と仕事が続かない。そればかりか、怪しい印鑑を高額で買わされたり、雑誌の文通コーナーで知り合った男に連れ出され、何ヶ月もラブホテルを泊まり歩かされ、その間預金のほとんどを引き出されて逃げられるというような事件も起こしている。「これは専業主婦になるしか生きる手段はないな」と思っていたら、奇跡的に人のよい元自衛官と21歳で結婚してくれたが、すぐに夫婦仲は険悪になった。その際の親の甘やかし方もすごかった。妹が所帯をもったのは千葉県の君津市だが、なんと「夫婦喧嘩の際の避難用」にと君津に中古のアパートを一棟買い、その一室を妹のために確保したのだ。父は既に定年退職し、葛飾区内でいくつかのアパートを経営する不動産業に専念していたとはいえ、幼い頃からキセルを強いられたり、高校卒業後一銭も学資をもらえなかった私は「どこにそんな金があったのか」と憤った。

それだけでない。とうとう離婚して戻ってきた妹のために、葛飾区にも一室マンションを買ってやったのだ。問題はそれが、その少し前、私と夫が結婚した時、一銭も親に頼らず買ったマンション(結婚式の費用ももちろん全く親の援助はなし)の真上の部屋だったということだ。しかも両親はそのことを私たちに内緒にしていたのである。

え、どうしてあれほど嫌いだった葛飾区にわざわざマンションを買ったのかって?それは魔がさしたとしかいいようがないが、オックスフォード大学に留学中、ハーヴァードの時と違ってあまりにも日本の事物・情報に飢えていたところに、大学のジャパン・ソサエティの行事で寅さんの映画を上映していたのに参加し、江戸川の土手を見て不覚にも涙を流してしまったことが大きい。やっぱりふるさとはふるさとだと思ってしまったのだ。念願の留学を果たし、少し世間への恨みが軽減されていた時期でもあった。

そもそも妹が出戻りの癖に実家に帰りたくないというのは、父は何もいわないが、母はやはりあれこれ厳しいことをいうので、母と一緒に暮らすのがいやだというわがままなのに、それを聞いてやり、そればかりか、専業主婦だったくせに料理もしない妹のために母が作った食事を父が運んでやっていたのだからいい面の皮である。実家とこのマンションは自転車で10分くらいの距離だった。それだけでなく、妹は父にいつも「小遣いが足りない、もっとよこせ」とせびり、父が「今ので十分だ」といおうものなら、大声で叫びながらそこらじゅうのものをひっくり返す。また、父を正座させ、「私がこうなったのもあんたのせいだ」と延々と何時間もなじり続ける。父が「トイレくらい行かせろ」というとバケツをもってきてそこでさせる、等でよく大声が聞こえるというので、警察が呼ばれたりして、私が妹の存在を知ったのも、近所の人に「妹さん、大変ですね」と同情っぽくいわれたからである。仕事で夜遅い私はそういわれるまで気づかなかったが、確かに中庭でも何かの絶叫を聞いたことがあった。あれは5階に住む妹の声だったのか、中庭まで届くくらいならさぞかし同じマンションの人に迷惑かけているんだろうな、と恥ずかしかった。何よりも、親に買ってもらったマンションなら仕方ないが、私たちが自活して買ったマンションでの近所の評判を「気違いの身内がいる」という最悪の形で地に落とす親の無神経さが許せなかった。

後述するが、私が20歳の時死のうとして睡眠薬を大量にのんだ時も、母は「近所の手前恥ずかしい」と救急車を呼ばず、自転車で昏睡状態の私を近所の病院に連れて行った。その病院の受付に知り合いが勤めているのであんたのせいで恥ずかしい思いをした、とさんざん愚痴った。そんな人間が私の近所の評判を慮らなかったのだから尚更絶対に許せないのだ。

すったもんだのすえ、ようやく妹を実家に帰したが、妹は父の勤め先の不動産会社に一日何十回も電話したり、父の上司が電話を代わって意見したら、腹いせに実家の食器棚の中身を全部床にぶちまけたりした。これも、私が小学生の頃、「熱が出たから早退する」という電話さえ「お母さんの職場には電話したら絶対許さない」と怒った同じ人間たちかと憤懣やるかたなかった。

このように、私は妹のふるまいに直接傷つけられるだけでなく、それに対する両親の対応の自分への対応とのあまりの違いをいちいちまざまざと見せ付けられて二重に深く傷つけられているのだった。そして両親の死後彼女の面倒を見なければならないのは他ならぬ私なのだ。

妹はその後精神病院への入退院を繰り返し、将来のことも考えた両親が障害者認定を受けて障害者年金をもらえる手はずにした。人格障害や神経症では障害者になれないので、病名は「統合失調症」になっているが、本当はただ性格が破綻しているだけだと思う。そういう人の生活保障のために厳密には精神病ではなくても精神病の診断書を書く医師もいるときく。これは、それ以外に生活の手段のない人を救済する社会保障の一環であり、一概に医師を責めることはできないと思う。

こんな大事なことも、両親はなかなか教えてくれず、父にやっとの思いで聞き出した。

そもそも、両親が死んだ後、妹の面倒を見なければならないのは長女である私である。民法上も兄弟姉妹には互いに扶養義務がある。まさか、法科大学院で民法を教えている人間がそれをばっくれるわけにはいかないだろう。

そこで、妹の将来の展望について機会あるごとに尋ねてきた。しかし、その度に「あんたなんか、タバコのポイ捨てがどうとかいってしょっちゅう人のうらみ買っているからそのうち刺されるよ。だからお母さんたちの方が長生きするんだから関係ない」といって電話をガチャンと切ってしまう。その話題に触れないようにしようと思っても、結婚当初は仕事のストレスのため薬なしでは眠れずそのために子供を作れなかったし、香港に行くために仕事を辞めて初めて眠れるようになったが今度は不妊に悩まされている私に無神経にも「仕事や勉強より女としてまずやるべきことがあるだろう、孫の顔を早く見せろ」と電話してくる親には、つい、「結婚も仕事もして親から完全に自立している私をかまうより、まず人間として自立できない娘の方をなんとかしなさい。いずれ私に迷惑がかかるんだから」といいたくなり、「○子のことを話題に出すんなら切る」とガチャンと電話を切る、この不毛なやり取りの繰り返しだった。

もっとひどい迷惑もあった。後述するように、私は1997年10月にそれまで勤めていた銀行から別の銀行に転職したが、その直後に、私の留学中に、私が預けていた実印を使って父が不動産投資のための借入金の保証人に私をしたてていたことが発覚し、私が「絶対許さない、保証人になった覚えはない」といったら、父は転職したばかりの私の職場の上司に「娘が親不孝で困るんです」と電話してきたり、「お前が俺の保証人にならないのにどうして俺がお前の保証人にならなきゃいけないんだ」と転職の際差し入れた身元保証契約書を人事部から取り返させたりして私のキャリアにもダメージを与えた。ちなみに父が融資を受けたのは私の勤め先ではない。海外留学中とわかっていて意思確認もせずに保証人にした杜撰な事務に呆れたが、やはり後日事実上破綻した。ちなみにこの銀行は中村うさぎにも希望額満額ではないが住宅ローンの審査を認可したと彼女のエッセイから知り、「作家ならどんな本を書いているかくらいチェックしないのか。税金滞納してると書いてあるじゃないか。いくら抵当権設定しても、納付期限がそれより先の税金の方が優先するのに、その危険性も判断できないのか、なんて間抜けな銀行だ」と呆れたこともある。

とにかく、愛情の上でも経済的な面でも徹底的に甘やかされて育った妹に対して、愛情面ではもちろん(私は親に生まれてから一度もほめられたことも、味方してもらったこともない)、経済的にも虐待され続けた私。とくに幼い頃強要されたキセル、高校卒業後学資を一銭も出さなかったことは、そのためにアルバイトしなければならず、在学中司法試験に受からなかったのでは、親のせいだと思っている。そればかりか、母はこんなひどいこともいったことがある。「あんたが東大に行けたのもあんたが2歳の時にうちが東京に引っ越していたからだよ。だって、地方にいたらいくらあんたが東大受かっても仕送りするお金がないから入学させてやれなかったよ」と貧乏自慢するのである。また、滑り止めに受けた早稲田大学の入学金をいまだに返せというのもひどいと思う。

両親は全財産を末妹に残すそうだ。
そればかりか、せっかく買ったマンションで悪い評判が立てられたり、せっかく転職した会社で失点になるようなことをされたり、積極損害まで与えられている。

私は叫びたい!「私だって生まれつき頭が良かったわけじゃない。多分生まれ持ったものは妹と同程度、でも血を吐くような努力と犠牲を払って自立できる力を自分で身につけたんじゃないか。それをしないで、自分はだめだから何とかしてくれ、という人間の方が得をするなんておかしい。出来が悪い方が結局得をするのか?!」と。

3. 義妹
妹と親との関係から生じた私の被害者意識、「弱いと開き直る人間がその弱さを逆手にとって私のいろいろなものを奪いに来る(文字どおりのルサンチマン)!」は、私と夫の実家との関係をも壊した。

大阪に住む夫の両親はとてもいい人だ。今でもそう思う。そもそも夫がこれほど私のキャリアを応援してくれるのは、義母が高校まで非常に優秀だったのに家の事情で大学に行けず、専業主婦になったことを後悔している人だったので、息子に常々「結婚した相手の仕事を応援してあげるような男になりなさい」と言い聞かせていたからだ。また、義母は体が弱くよく入院していたので、夫が(妹二人いるのに)受験生の時も含めて家事を切り盛りしていたので、実際に料理をはじめ家事は何でもできる。正月を日本で迎える年は、夫が一人で三段重ねのおせちを作ってくれる。
結納で初めて義母に会った時、「敦子さん、平日は外食でいいし週末は息子が料理するから、仕事を思う存分してね」といわれ感激した。夫もいちおう京大出でキャリア官僚になった自慢の息子、嫁にここまで寛大な姑はそうないないだろう、と。
その良い関係は私たちが香港に赴任するまで続いた。私は大阪出張の度に一人で夫の実家に泊まって義母とのおしゃべりやカラオケを楽しんだし、転職する時には、大手損保会社を定年退職したばかりの義父に親身に相談に乗ってもらった。夫が外務省に出向して香港の総領事館に領事として赴任することが決まった時も、仕事を辞めてついていくべきかどうか相談した。「嫁として同行するのが当然」ということは一切いわず、私のキャリアの問題として真剣に相談に乗ってくれた。

私と夫の実家が決裂したのは、香港赴任前の最後の正月(2001年)に帰省した時だ。私はその直前にようやく同行することを決意し、義父母にもそのことを報告するつもりで門をくぐったら、開口一番「君たちの車をS君にあげたいから私が東京まで取りに行くから」と義父にいわれ、びっくりした。私は「迷っている」、と相談していたので、行くことにしたことは義父母は知らないはずなのに、S君にただで車をあげられるというアイディアに酔うあまり、私も同行すると勝手に決めてしまっているのだ。S君というのは、その数ヶ月前に夫の長妹が結婚した相手だ。私の妹の元亭主と同じように、年下のプータローだった。夫の妹二人は性格はとてもよく美人(上はマルシア、下は田中美奈子に似ている)だが、勉強は好きでなかったらしく、二人とも地元の短大を出て、長妹は金融機関で、末妹は出版社で一般職OLをしている。夫(私と同じ歳)より2つ下の長妹のさらに5歳年下の結婚相手は、高卒後定職につかないで「本人にいわせれば」ボランティア活動をしていたそうだ。義妹とも手話のサークルで知り合ったらしいが、結婚式で義母のカラオケに合わせて彼が披露した手話は、手話の心得も少しはある私から見てとても下手で、「こんな程度で無職を正当化していたのか」と胡散臭く思っていたのだ。また、彼の両親が髪結いの亭主になる息子を申し訳ながって、それほど裕福でもないのに、1カラット以上ある婚約指輪を義妹に贈っていたのも、「貧しいなりに、結婚は自分たちの身の丈にあったものにすべきで、負い目から親に法外な値段の婚約指輪を買ってもらったりするのは筋が違う」と違和感をもっていた。しかし、これらのことは、私が口出しすべきではないと思い何もいわなかった。

しかし、婿かわいさのあまり、私の一生をかけた悩みすらきれいに忘れて私たちを香港に行くと決め付ける義父母を見て、ふつふつと怒りがわいてきた。それは、妹との関係でトラウマになっている「出来ない奴の方が得をするのか?!」という被害者意識を逆なでするものだったからだ。義父母から見て私とS君は同じ義理の子供であり、比較したくなるのも仕方ないではないか。「またか?また、弱くて努力もしない奴がそれを武器にして私の大事なものを奪うのか?」と叫びたくなった。

だいたいプータローにどうして車がいるのだ。その上、私たちの結婚では一銭の援助もしなかった義父母は、義妹夫婦がすぐ近所に中古の一戸建ての家を買う資金を半分も援助している。あと半分は食費も入れずパラサイトで溜め込んだ義妹の貯金をつかうというのもすごいが。新居を見に行ったら、S君が何回も大学の通信教育を途中で挫折したらしく、いろいろな大学の通信テキストが本棚にあったのを見て、内心「けっ」と思った。

後述する私が半年以上入院した時も、見舞いに来なかったのに(私は義母の1週間の入院でも週末見舞いに行った)、義父は車の輸送代を浮かすために新幹線で取りに来て帰りは運転して帰るという。

安手のドラマ風にいえば、同じ義理の子でもプータローは冷遇し、私のようなエリートを優遇する両親の方が多いしそれを批判的にみるのが良心、みたいなとらえ方をするんだろうから、逆の対応をする義父母は人間的には偏見のないすばらしい人ということになるのだろうが、それこそエリートへの偏見だ、「エリートは心が冷たい、社会的弱者は心がきれい」、みたいな。

それで一挙に夫の実家との仲は悪くなった。義父母には私は人間味のない冷たい人間に映ったのだろう。義母は「あっちゃん、S君にも事情があるのよ。あの人弱視なのよ」という。私は「ふん、弱視が車の運転免許取れるはずないじゃないか、嘘つくな」と思いつつそれはいわず、次の食事の時にさりげなく、「私、実は右目が先天性の白内障なので、眼鏡で矯正できなくて、常にひどいがちゃめ状態だから勉強したり仕事したりすると目がひどく疲れるので苦労してきました」(本当のことである)といったりする。本当は「私はS君よりもっとひどいハンディを抱えながら英米日の一流大学を卒業し一流企業で仕事してきたんだ」といいたいことはちゃんと全員に伝わっていたと思う。

東京に帰ってから、夫に誓約書にサインさせた。「不妊治療は身体的に多大な苦痛を強いるものなので、義父母に絶対子供を抱かせない、私が今後二人になるべく会わないですむように配慮するという条件下でなければ私が協力しないことを夫が了承する」という内容である。法務のプロだから契約書としても漏れがなく整ったものだ(公序良俗違反で民法90条違反で無効になる可能性という大穴があるが)。残酷だろうか。私が作った誓約書を受け取った夫はしばらくその姿勢のまま何時間も固まっていた。健全な環境で育った夫には私の歩いてきた修羅などわかるはずがないのだ。


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自分史その6 両親のこと

2006年05月30日 | Weblog
母の言葉以外の暴力も始まった。口げんかでは私の方が勝つようになると、今度はひどい暴力をふるうようになったのだ。掃除機のホースで鼻血が出るほど殴られたり(その後その鼻血を母のよそ行きの服になすりつけたりするいやな子供だった)、熱いご飯粒を投げつけられて手の甲をやけどしたり、包丁の柄で爪を叩かれてそこが壊死して生爪を剥がしたり、枚挙に暇がない。

こうした環境で、中学1年の時、私は初めて精神科のお世話になった。病名は強迫神経症で、不潔恐怖の逆で、自分がとても汚い存在に思え、電車のつり革にも「汚してしまうようで」触れない、学校の教室でも自分のいすはいいが、音楽室や美術室のいすは自分が使った後汚れがついたような気がして、次に使う人に申し訳なくていつまでもハンカチでこすって拭く、洗い物をすれば洗剤分が取れないような気がして手の皮が擦り切れるまで皿を漱ぐ、といった状態になったのである。

この強迫神経症は、強度はその時によって変化するものの、今に至るまで完治していない。一番軽い時でさえ、ガス、電気、戸締りの確認恐怖は毎日必ずある。ガスの元栓は目で確認しただけではすまず、必ず両手を発火口にあてて熱くないから大丈夫、と声に出さないでは出かけられない、それを毎朝毎朝繰り返す、戸締りも必ずドアを10回以上ガチャガチャさせるので近所から苦情が出ることもある(研究室のドアもいつもうるさくしてすみません)、それでも2回に1回は引き返してもう一度確認する、この状態ですら、私の病歴では一番軽い状態である、というこの苦しさ、わかるだろうか。そして、今、私が確認すべき場所は、二所帯プラス研究室というおぞましい状態だ。おそらくこれから死ぬまで、これより重くなることはあっても軽くなることはないのだろう、一生付き合うのだろうと諦めている。廃人同様のうつ状態に何度もなったことを考えればこれでも上々なのである。

私は知性にどんなに憧れても、両親や、末の妹(東京に越してから生まれた9歳下)が偏差値40くらいの高校もやっとのことで卒業し34歳の今も定職に就いていないことからはっきりわかるように、遺伝的にはけして上等な知能をもってはいない。それでも、前述したような学歴や職歴をもてたのは、ひとえにこの強迫神経症のおかげだった。

第一に、この病気には罪悪感が付きまとう。私は中学1年生の時、罪の意識から病的なほど勉強にのめりこんだ。そうすると、勉強全般のこつがなんとなくわかるようになった。どうしたら一度聞いただけで授業の勘所をつかめるか等は文字通り体得した。だから、これをいうと眉をひそめられるかもしれないが、強迫神経症が少し落ち着いた中学2年以降は私は授業を聞く以外の勉強をしたことがない。それでも区立の中学から数年に一人しか合格しない国立の附属高校に入学し、高校でクラブを三つも掛け持ちしながら東大に現役で合格し、そこでの成績もアルバイトやボランティア活動に追われながらも上位数パーセントだったために法学部に転部できた。合格しなかったのは司法試験ぐらいであるが、この時初めて「勉強ってある程度の量をこなさないとできないものなんだ」と認識したくらいなのである。

第二に、極端な左脳人間で、目に映る全てのことを言葉/ロゴスを媒介にしてしか認識できない。言語化、論理化できない曖昧な事実は気持ち悪くて受け付けられないのである。つまり、事物や現象を名付けるだけでなく、全体の体系の中でどこに位置しているかまで把握してからでないと脳が受け付けない。だから、夫や友人から呆れられるのだが、テレビドラマの端役級の俳優も科白が一言でもあるような役が就く人であればほとんど名前や以前にやった役等もたいていいえる。そこまで全てのことを認識しないとドラマさえ楽しめないのである。大学時代に点字のサークルで覚えた点字を、20年のブランクがあっても全く忘れていず、香港で点字講習会を開いたりすることができたのも、20年間音楽を聴きながら歌詞の通りに点字タイプライターを打つように指を動かす癖がぬけきれなかったからだろう。全てを言語化しないと気がすまない私だからこそ身についた癖である。

逆に右脳の発達した人は物事を虚心に見つめられるので芸術方面に才能を発揮するのだろう。デッサンのとき、対象を左脳に邪魔されずありのまま眺めるために逆さまに見るといい絵が描けるそうだが、私の事物の認識はそれと全く逆である。そのせいか、42人中13名現役で東大に合格した高校のクラスで1、2番だった私も、子供時代から音楽や美術、体育、家庭科といった右脳系の科目は苦手だった。
つまり、そういう変わった認知方式が左脳系の勉強には最適なだけではないだろうか。自閉症児だって『レインマン』のようにある特定の分野についての記憶力だけは天才的だったりするではないか。こんなところも、私が三島由紀夫と共通する部分である。『太陽と鉄』でに以下のような件がある。
「つらつら自分の幼時を思いめぐらすと、私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世の常の人にとっては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであろうに、私にとっては、まず言葉が訪れて、ずっとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は云うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていた」

こういう認知・思考方式は、もたらす不利益の方が大きい。曖昧なものへの耐性、つまりアンビギュイティ・トレランスは人格の成熟度を測る基準にもなるそうだ。他人を白黒に分類せず、グレイのままありのままうけいれてゲットアロングできるからだ。逆に私は人との距離がうまく測れないし、他人について100%好きでなければ大嫌いという極端な分類しかできない。殊に非言語コミュニケーションの比重が高く、人間関係においても曖昧性が重視される日本の社会では私のような人間は絶対に成功できない。

つまり、私の唯一の取り柄である学歴や職歴も、実は私がもつ性格上の弱点に過ぎないと思うと、素直に喜ぶことができないのである。

私は、自分をこのような境遇に追いやった両親、とくに母親に殺意に近い憎しみをずっと抱いていたが、今は彼らがそうなった理由をある程度理解できる。というのも、父も母もそれぞれに父親のインテリ的な生活力のなさに苦しんだ経験の持ち主だからである。

父方の祖父は前述のとおり貧乏山寺の住職だが檀家もろくにいないから経済的には困窮しており、高校時代から父が稼いで家に金を入れても4人の弟の中で大学に行けたのは末弟一人だけという状態なのに、郷土史研究等をしていたそうだ(それも学問的にどうこういえるほどのレベルではない)。父から祖父への仕送りは1996年末に祖父が亡くなるまで続き、母との喧嘩の種になっていた。私自身も遠く離れているだけでなく、親孝行揃いの父や4人の叔父たちのふんだんな送金で何不自由なく暮らしながら、私が東大に現役入学した時でさえ入学祝すらくれず、よく読めない字で説教めいた手紙をたまに書いてくるだけの祖父には正直愛情を感じることができなかった。

父は一応大学出(といっても夜間なので学歴としては短大扱いらしい)だが教養は全くない。短い文章でも書けば必ず誤字脱字や文法の間違いがあり、祖父の葬儀で喪主として読み上げたあいさつ文も日本語になっていない小学生以下のもので、顔から火が出るほど恥ずかしかった。聞いてみたことがあるが、小説というものは生まれてから一冊たりとも読んだことがないそうだ。後述するように、私が企業派遣留学生としてアメリカのロー・スクールをいくつか受験し、第一志望のハーヴァード・ロー・スクールに合格した時は、ふだん自分を馬鹿にする娘に父親を見直させようとしたのか、「敦子、父さん、お前が留学する大学知ってるぞ、日本語にすると『港大学』っていうんだろう」とにやにやしていうのを聞いたときは本当にがっくりした。「何でこんな親から私が生まれたのか」と正直思った。ちなみに冗談ではなく、父には本当にHarvardとHarborの区別がつかないのだった。

ハーヴァード・ロー・スクールを無事卒業後、母と父を別々にアメリカに招待した。母は西海岸の国立公園をめぐるツアーに連れて行き、父とはボストンの名所を回った後、南米を2週間ほど一緒に旅行したのだが、ボストンで、日本語の多少できるアパートの大家さんの運転してくれる車で独立戦争の古戦場を回ったとき、私が「お父さん、ここはアメリカがイギリスから独立した時の戦争があった所だよ」と説明すると、「ええ!?アメリカってイギリスから独立したんだったの?知らなかった。じゃあ、今でも仲悪いのかな?戦争なんか起きないよね?」と心配そうに大家さんに聞く無知さを暴露して再び私を深く落ち込ませた。

しかし、父は子供がそのまま大人になったようなピュアな人である。心がきれいで人を疑うことを知らないから、一緒にいると本当に癒される。南米の旅行中本当にそう思った。英語のガイドしかつかないのでずっと父に通訳してあげるのも、文句の多かった母と違い苦にならなかった。ブエノスアイレスで観光からホテルに帰る途中、父が昨日「ガトーブランコ(白猫)」というワインを買った近くのスーパーに寄ってまたワインを買いたいという。私は父の酒好きに呆れ、「疲れたから先に帰らせて」といい、スペイン語どころか英語も話せない父は諦めると思ったらなんと一人でちゃんと買ってきた。「どうやって買ったの?」と尋ねると、「自分の歯を指さして(白)、ニャーって鳴いた(猫)の。そしたら大笑いしながら持ってきてくれたよ。こっちでは猫はミーって鳴くらしいな。それを教えてくれた」と聞いて大爆笑。ガイドブックに紹介されている牧場ツアーに連れていたらわざわざ主催者にうれしそうにその本を見せに行って当惑されていた。

でも、いくら天真爛漫の癒しキャラでも、大人の男や夫、父親としては失格なのだろう。頭に浮かんだことをその効果を考えないですぐ口にするのも悪い癖で、私が中学の時、「あつこ」が濁ると「ばつこ」になるという発見を父が自慢して「ばつこ、ばつこ」と連呼する癖がついていたが、友達を家に連れて来た時、友達の目の前で「あ、ばつこが帰ってきた」とおどけて叫んだのには本当に穴があったら入りたかった。

だから、もちろん会社でも出世せず、私は銀行に入ってすぐに50台前半だった父の当時の給料を追い越した。その憂さを晴らすように酒を飲んだり(といっても暴れはしないが)、不動産業の副業に入れあげて後述する迷惑を私にかけた。
残業はなく4時半には家に帰る父はひと時もじっとしていない。スーパーのチラシを見ては安かったからといっていらないものを買っては母に怒られ、家でもかなりまめに家事をやらされていた。

父としても頼りなく、子供にも怒ることができないので、母が留守だと父がいても子供たちは好き放題、父はなんと「母さんにいいつけるぞ」しかいえないのだった。

母があんなきつい性格になったのも、父が頼りなくて、家庭で夫や父の役割まで果たさなければならなかったことが原因の一つなのではないかと思う。

母方の祖父は、秀才で、当時の大日本帝国が上海に設立した東亜同文書院に国費で留学していたそうだ。夫の領事館転勤で思いがけず香港に住み、中国の法律の学位をとり、北京語と広東語を勉強した私は、「これも祖父の縁なのか」と感慨にふけったものである。

今年の2月に出張で上海(4度目)を訪れた際、仕事の合間に、東亜同文書院のあった現上海交通大学を訪れ、「これが私が生まれる20年前に死んだおじいちゃんが学んだ場所か」としみじみした。

6ヶ国語のできた祖父は神戸で裁判所の通訳をしていたが、戦時中も疎開先の山から毎日何時間もかけて英字新聞を買うためだけに町に歩いていっていたという正真正銘のインテリだった。が、目端はきかず、財産もほとんど書画・骨董購入に充てていたため、戦災で焼けて、晩年の恥かきっ子だった末っ子の母が小さい頃相次いで亡くなった両親は遺産を残してくれなかった。それから姉や親戚を頼って四国へ、そして徳山へと移った母は、経済的に困ったわけではないにしろ、「インテリの生活力のなさ」を体感したのだろうと思う。

母も頭の回転は悪くないと思うが、変な占いに凝っていて、私に「絶対に○月は△しちゃだめ」としつこくいってきたりするところがとても教養のある人間には見えない。自分の興味のないことはすぐ「くだらない」と一刀両断にするのも、都合の悪いことは全て他人のせいにするのも我慢がならない。




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もう我慢できない

2006年05月30日 | profession

ブログの更新が遅れてすみません。

それどころでない疾風怒濤の毎日でしたので。

夫の容態について、たくさんの方からご心配いただきましたので、ご報告します。
摘出した腫瘍は良性でした。

思いもかけないほど大勢の方に気にかけていただき、恐縮です。

ずっと書きたくても書けないことがありました。

昨年の本学大学院の設置申請にかかる不祥事について、私がリークした犯人だと疑われていることに起因する人権侵害が、いよいよ座視できない状況になってきました。

事を荒立てるのは避けようと思っていろいろ苦心していたのですが、どうやらそれ以外に降りかかってくる火の粉を避ける術がなさそうです。

正式に争うことになれば、私だけでなくあちらも、あちらがそのために利用している個人(その人の不正行為が発端になっているため今は伏せられているそのことも、彼を証人として呼ばざるを得ないので公開の場にさらされることになるでしょう)も傷つくことになるでしょうが、それが、私は黙って泣き寝入りするような人間でないことを百も承知の上でのあちらの選択のようですので私を恨まないでいただきたい。
もっとも私の方も、守秘義務その他に縛られて公表できないことも、公に争う場なら、立証事実との関係で公表できるのだから、悪いことばかりではないと自分を慰めている。


こういうことを書くと、被害妄想的に「僕ちゃんのことを言っている。僕ちゃんを脅迫した」と実際に訴えた御仁がいたので釘をさしておきますが、当該書き込みは、誰が何をしたのか具体的な事実を摘示していない以上、名誉毀損罪にはあたらないし、対象者がこれだけでは特定できませんから、脅迫罪の構成要件にも該当しません。
(というのも、私はこのブログで一切名乗っていませんし、大学のHPともリンクしていません。
もっとも自分のブログでこのブログを引用して私の実名を暴露している有名人がいますが、それは私の責任ではありません。)

だから、そういうことをいえばいうほど、自分に、私に対して後ろ暗いことがあるのだと自白しているようなものですから、やめておいたほうがいいですよ。


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