ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

言の葉(越川弘英):宣教という恵み。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

2022年05月06日 00時05分06秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
  先ほど、宣教とは「神の宣教」であり、
  私たちキリスト者は「強いられた恵み」として、
  このわざに参加し、「神の民のわざ」を実践するのだと
  申しました。
  しかし、それは宣教において人間が単なる「神の宣教の道具」
  として利用されるにすぎないなどと言いたいわけではありません。
  むしろこの宣教の出来事を通してもっとも大きな恵みを与えられる
  のは、宣教に参加する私たち自身なのです。

    (「聖霊降臨と神の民」越川弘英著 キリスト新聞社 )

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 上記引用の一節に「神の宣教の道具」という言葉があるが、もしわたしたちクリスチャンが「神の宣教の道具」になりきってしまったら、それはもはやロボットの宣教となってしまうだろう。宣教はあくまで主ご自身がなさることである。だからこそわたしたちははわたしたちなりに生かされてみことばを他者に伝え、福音を伝えることができるのである。
 極論を言ってしまえば「神ご自身こそ生きている宣教の道具」となってくださるのである。 
 ではわたしたちにはどのようにしたら、何をしたら宣教をすることになるのだろうか?
 まず、「どなたを、何を宣教するのか」を各自明確にする必要がある。それはオートマチックに「これを宣教さえすればよい」というものではない。
 ある女性にとっては子供にみことばを使用し、説明しながら「文字」を教えることから始めるかもしれない。
 また、ある人にとっては、花や草の名前やその生態を教えながら主の創造について語ることかもしれない。
 日常のちょっとした小さなことから宣教は始まる。


 十字を切れば宣教、というものではない。信仰がなくても十字を切る。悪魔が存在すれば悪魔も十字を切る。
 宣教は神の、主イエス・キリストのみこころを伝えることである。福音はよいしらせ、グッドニュースを伝えるものである。
 銃を向けたり、ミサイルを贈るのは宣教とはまったく逆の行為である。あのプーのような者に騙されてはいけない。
 あのプーの国の人々に、ほんとうに正しい「知らせ」を伝えなければならない。
 そして過去にあっては、日本も欧米も国民を騙して、他国に銃を向けたことがあったのだ、という事実を忘れてはならない。
 プーの行いを糾弾しつつ、過去の過ちにも真摯に向き合うべき時、今という時はそのような時である。




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