ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

言の葉(内村鑑三):聖書を読むことについて。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

2022年07月31日 00時07分31秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
   著者の判然としない聖書は信頼するに足りないかというと、
   決してそうではない。
   聖書は聖書そのもののために貴いのであって、その著者のために
   貴いのではない。
   真理そのもの自身の証明者であるから、自身を人に紹介する時に
   人の証明を必要としない。何もモーセの言(ことば)であるから
   といって貴いのではない、神の真理であることによって貴いのである。
   私たちはダビデやソロモンに教えられようとは思わない、神の聖霊に
   導かれたく思う。預言者エレミヤは私たちのような弱い人であった。
   しかし彼の口から神の言葉が出た。私たちは預言者自身を尊ばない。
   彼によって私たちを教えられる神に感謝する。

     (「一日一生」内村鑑三著 教文館 )

   
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 私たちフツーのクリスチャンにとって上記の内村氏の言葉はまことにフツーの信仰であり、フツーの思想である。主はたとえばエレミヤを使って何かを書かせたりしてわたしたちを教えて下さる。しかし、主はエレミヤという個性をもつ個人の全身全霊を使って書かせるのであって、この意味でもしわたしたちがエレミヤだけに注目しエレミヤだけを尊ぶのなら、それはもはや偶像崇拝である。エレミヤの書いたものを各自「主ご自身を祈り求める態度で読むこと」が大切である。そして聖霊は同じ著者のものを読んでも、各個人によって違うことを教えてくださる。もちろん「聖書」は一民族の一宗教の信仰のもとに書かれたものであるから、その民族の歴史、つまりイスラエル民族について少しは専門知識ある程度の専門的知識が必要である。わたしはフツーのクリスチャンとして、「聖書」そのものが語る、聖霊が「聖書」を使って語ってくださるわたし個人にあてた使信を主のわたしへのみことばを読むことを望んでいる。わたしにとって「聖書」は以上のことから、わたし個人にあてられて書かれた「主のみことば」である。




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