
<三>:第三は言語の使用である。
当然のことながら、人類がいつ言語を習得
したかの証拠は皆無である。しかし、一般には
その開始は早い時期であったろうと考えられている。
(『緑の世界史』クライブ・ポンティング 朝日選書)
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『緑の世界史』についての続きである。
この第三の特徴「言語の使用」の根底にあるのは、やはり神や仏に対する祈りが可能になったことが挙げられる。祈りの言葉がさらに新たな言語を生み出して行き、脳の発達をさらに押し上げ、人間同士の交流も広がっていったものと思う。
ただ残念なことに、このことが新たな争いを生むことにも繋がっていったのだ。
人間にしか出来ないことが、人間しかやらない凄惨な争いを生み出したという事実をもわたしたちは忘れてはならないのだと、つくづく思うのである。
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<四>:第四は、さまざまな技術的手段の獲得である。
これによって人類は、厳しい環境に打ち勝って
世界各地へと定住、拡大していった。
ヒト以外に道具を使う動物がいないわけではないが、
「自分で高度な道具を作るのはヒトだけである」。
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この第四の特徴の根底にも、わたしはやはりフツーのクリスチャンとして神の創造のわざを見る。
つまり「神や仏に祈ること」によって人間は進化して現代に至ったのだと信じている。神や仏に祈ることによって、まずそれぞれの宗教祭具が造られたことが根底にある。
現代は宇宙時代である。神や仏に祈ることはもはや時代遅れではないかという考え方がフツーのクリスチャンのわたしの耳にも入ってくる。しかし神に造られた人間のひとりとして、あらゆる宗教の奥底にわたしは「わたしの神」を見るのだ。
宗教を信じているなどというと、なんだか前時代的に映るという人もいるのは知っている。何かに頼っていることが弱さや愚かさのように見える人もいるのだ。
しかし、みんなが持っているからといって自分も持っている、といった類のものが現代にはたくさんある。携帯電話もそのひとつだろう。町を歩けばケイタイに当たる。まるでお守りのように見える。これがないと生きていけないのだろうか。
何かに頼ることが弱さの象徴なのではない。無自覚にいつの間にか依存しているそのことが問題なのだと思う。神や仏に対するとは、自分の愚かさやそこから生まれる問題を直視する機会と力を与えてもらえることなのだ。わたしはそう考えている。
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