神おひとりのほかに、だれが罪を許すことができるのか。
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上記のことばは、主イエス・キリストがある病人をいやし、いやしただけではなくその病人に「人よ、あなたの罪は許された」と言った時、当時の宗教指導者たちが主イエス・キリストをいわばイジメにもならないイジメのために言った言葉だ。
この言葉だけを見るとまぎれもなく「正論」だ。彼らは「正しい」。
しかし、当時の宗教指導者たちは主イエス・キリストの瞳から見たら「心」を失っていた。「正論」を支えてくださる主イエス・キリストの心が分からなかった。
よく宗教家にありがちなことだが、○×さえお祈りしていれば救われます、○△を行っていれば救われます式な、何かそれをさえしていれば祈っていれば、自動的に救いがポンと出てくるような機械(ブラックボックス)になり下がっていた。
主イエス・キリストが病気をいやすと同時になぜ「人よ、あなたの罪は許された」と言ったのかが分からなかった。実は、このフツーのクリスチャンのわたしも何年も何年も分からなかったことだ。
主イエス・キリストは「人間になった神」だ。だからわたしたちはこの方に向かって「お祈り」をする。わたし流に言えば「この方とおしゃべりする」。ではいったい何のためにお祈りをするのか?
ごく単純に言ってしまえば、主イエス・キリストの心と同じ心を持つ者にして頂きたいからだ。
ただ機械的に病人の世話をするのではない。
「いつもこんな場合、主イエス・キリストだったらどのような心でどのように行うだろう」という日常の「心の在り方」をいついかなる時も主イエス・キリストに祈り求める。
主イエス・キリストに聴く。
上記の「人間の罪を許す」ということも「この人をいったいどうやってゆるしたら」といつも主イエス・キリストに聴いている。そして人間にとって、この最も難しい「人を許す」ということは、ただひとえに主イエス・キリストの心(愛)をお互いにもたなければ 、許し合うなんてことは人間同士にはできっこないという結論に達している。
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上記のことばは、主イエス・キリストがある病人をいやし、いやしただけではなくその病人に「人よ、あなたの罪は許された」と言った時、当時の宗教指導者たちが主イエス・キリストをいわばイジメにもならないイジメのために言った言葉だ。
この言葉だけを見るとまぎれもなく「正論」だ。彼らは「正しい」。
しかし、当時の宗教指導者たちは主イエス・キリストの瞳から見たら「心」を失っていた。「正論」を支えてくださる主イエス・キリストの心が分からなかった。
よく宗教家にありがちなことだが、○×さえお祈りしていれば救われます、○△を行っていれば救われます式な、何かそれをさえしていれば祈っていれば、自動的に救いがポンと出てくるような機械(ブラックボックス)になり下がっていた。
主イエス・キリストが病気をいやすと同時になぜ「人よ、あなたの罪は許された」と言ったのかが分からなかった。実は、このフツーのクリスチャンのわたしも何年も何年も分からなかったことだ。
主イエス・キリストは「人間になった神」だ。だからわたしたちはこの方に向かって「お祈り」をする。わたし流に言えば「この方とおしゃべりする」。ではいったい何のためにお祈りをするのか?
ごく単純に言ってしまえば、主イエス・キリストの心と同じ心を持つ者にして頂きたいからだ。
ただ機械的に病人の世話をするのではない。
「いつもこんな場合、主イエス・キリストだったらどのような心でどのように行うだろう」という日常の「心の在り方」をいついかなる時も主イエス・キリストに祈り求める。
主イエス・キリストに聴く。
上記の「人間の罪を許す」ということも「この人をいったいどうやってゆるしたら」といつも主イエス・キリストに聴いている。そして人間にとって、この最も難しい「人を許す」ということは、ただひとえに主イエス・キリストの心(愛)をお互いにもたなければ 、許し合うなんてことは人間同士にはできっこないという結論に達している。
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