
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は
罪に定められることがない。
(ローマ人への手紙第8章第1節 )
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この一節は毎日このフツーのクリスチャンのわたし自身が体験させていただいているものである。
”キリスト・イエスにある者”とは、主イエス・キリストの十字架の死が「自分の罪のため」、そして主イエス・キリストの十字架の死からの復活は「自分を復活のいのちに生かすため」とハッキリ自分自身で信じることのできる者のことである。
主イエス・キリストを信じ、この方の教えにしたがおうと生きる者は主イエス・キリストの復活のいのちに生かされる。
つまり「永遠のいのち」が与えられる。
”罪に定められることがない”とは平たく言ってしまえば、たとえ「殺人」の罪を犯しても「真の悔い改め」が主イエス・キリストより与えられて決して「自分自身に絶望することなく」生かされているということだ。しかしたとえば一度でも警察のご厄介になったことのある人など「世間」は常に「あんな犯罪人」という目でしかその人を見ようとしない。しかし主イエス・キリストはそのような人を救おうと思って二千年前この世に生まれてくださった。
「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである。(ルカによる福音書第5章31節)」
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罪に定められることがない。
(ローマ人への手紙第8章第1節 )
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”キリスト・イエスにある者”とは、主イエス・キリストの十字架の死が「自分の罪のため」、そして主イエス・キリストの十字架の死からの復活は「自分を復活のいのちに生かすため」とハッキリ自分自身で信じることのできる者のことである。
主イエス・キリストを信じ、この方の教えにしたがおうと生きる者は主イエス・キリストの復活のいのちに生かされる。
つまり「永遠のいのち」が与えられる。
”罪に定められることがない”とは平たく言ってしまえば、たとえ「殺人」の罪を犯しても「真の悔い改め」が主イエス・キリストより与えられて決して「自分自身に絶望することなく」生かされているということだ。しかしたとえば一度でも警察のご厄介になったことのある人など「世間」は常に「あんな犯罪人」という目でしかその人を見ようとしない。しかし主イエス・キリストはそのような人を救おうと思って二千年前この世に生まれてくださった。
「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである。(ルカによる福音書第5章31節)」
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