
ドイツの宗教改革者ルターは書いています。
「人々の生まれながらの堕落や無分別が
あまりにもひどいために、どれほど自分
たちが罪深いか、見ようともせず、感じ
ようともしない」。
(「スヌーピーたちの聖書の話」
ロバート・L・ショート著 講談社)
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わたしはフツーのクリスチャンとして12歳の時に初めて聖書を読んだ。
聖書の中には「罪人(つみびと)」という言葉が頻繁にこれでもかこれでもかと出てくる。幸いにもわたしはこの「罪人(つみびと)」という言葉にあまり反感を抱くことがなかった。
ある牧師さんの話によると、教会の門をたたく求道者の多くの人が「罪人」という言葉に反感を覚えるのだそうだ。ある求道者は怒り出し「わたしは罪人(ざいにん)なんかじゃない。警察のやっかいにだってなったことなど只の一度だってないぞ」と、牧師さんに殴りかからんばかりだったという。わたしは怒ったこの求道者の気持ちは理解できる。
しかし、人間はそんなに清廉潔白な生き物だろうか?
「警察にしょっぴかれたことがない」というだけで、「自分には罪がない」と胸を張って神さまの前で言えるだろうか。
自分の心の中をのぞけば、「自分は罪びとではない」と断言できる人はひとりもいないと思うのだが。
あなたは、どう思うだろうか?
わたしたちの心の中には、他人を貶めたり、妬んだり、苛めたり、無視したりという思いが渦巻いている。他人が持っているものを欲しがったり、自分に必要のないものを手に入れようと躍起になったりして挙句の果ては人を押しのけ押し倒してでも手に入れようとする。手に入らなければ他人や自身の運命を呪ったり恨んだりする。殺人にだって手を染める。みんながそうなのだと思う。
警察に捕まり裁判を受け刑務所に入った人だけが「罪人(つみびと)」なのではない。自分の中には一歩間違えば犯罪に走るかもしれない弱い部分があるのだ。その一歩を踏みとどめているものは、自分の良心かもしれないが、わたしはそれを神さまの祝福と感じている。犯罪に走らなくてもやはりわたしたちは不完全で「罪深い」存在なのだという自覚がないと、犯罪者を糾弾するのみであり、その犯罪者もさらにわたしたちも何も変わらないのだろうと思う。
人間の碌でもなさは自分の心の中を覗いてみれば自覚できる。その自覚をもわたしたちは忘れ去ることがある。だから祈り続けるのだ。主イエス・キリストの御心は深い。わたしという人間がどのような人間かを心の奥の奥底まで知り尽くしてくださるが故に、わたしを愛してくださる。
わたしは人を騙し裏切ることがある。主イエス・キリストの御心までも裏切ることがある。それでもわたしを愛し続けてくださる主イエス・キリストの御心にただただ感謝している「罪人」のわたしなのである。
騙されついでに皆さんも主イエス・キリストに向かって一度お祈りをしてみてはいかがだろうか。
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あまりにもひどいために、どれほど自分
たちが罪深いか、見ようともせず、感じ
ようともしない」。
(「スヌーピーたちの聖書の話」
ロバート・L・ショート著 講談社)
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わたしはフツーのクリスチャンとして12歳の時に初めて聖書を読んだ。
聖書の中には「罪人(つみびと)」という言葉が頻繁にこれでもかこれでもかと出てくる。幸いにもわたしはこの「罪人(つみびと)」という言葉にあまり反感を抱くことがなかった。
ある牧師さんの話によると、教会の門をたたく求道者の多くの人が「罪人」という言葉に反感を覚えるのだそうだ。ある求道者は怒り出し「わたしは罪人(ざいにん)なんかじゃない。警察のやっかいにだってなったことなど只の一度だってないぞ」と、牧師さんに殴りかからんばかりだったという。わたしは怒ったこの求道者の気持ちは理解できる。
しかし、人間はそんなに清廉潔白な生き物だろうか?
「警察にしょっぴかれたことがない」というだけで、「自分には罪がない」と胸を張って神さまの前で言えるだろうか。
自分の心の中をのぞけば、「自分は罪びとではない」と断言できる人はひとりもいないと思うのだが。
あなたは、どう思うだろうか?
わたしたちの心の中には、他人を貶めたり、妬んだり、苛めたり、無視したりという思いが渦巻いている。他人が持っているものを欲しがったり、自分に必要のないものを手に入れようと躍起になったりして挙句の果ては人を押しのけ押し倒してでも手に入れようとする。手に入らなければ他人や自身の運命を呪ったり恨んだりする。殺人にだって手を染める。みんながそうなのだと思う。
警察に捕まり裁判を受け刑務所に入った人だけが「罪人(つみびと)」なのではない。自分の中には一歩間違えば犯罪に走るかもしれない弱い部分があるのだ。その一歩を踏みとどめているものは、自分の良心かもしれないが、わたしはそれを神さまの祝福と感じている。犯罪に走らなくてもやはりわたしたちは不完全で「罪深い」存在なのだという自覚がないと、犯罪者を糾弾するのみであり、その犯罪者もさらにわたしたちも何も変わらないのだろうと思う。
人間の碌でもなさは自分の心の中を覗いてみれば自覚できる。その自覚をもわたしたちは忘れ去ることがある。だから祈り続けるのだ。主イエス・キリストの御心は深い。わたしという人間がどのような人間かを心の奥の奥底まで知り尽くしてくださるが故に、わたしを愛してくださる。
わたしは人を騙し裏切ることがある。主イエス・キリストの御心までも裏切ることがある。それでもわたしを愛し続けてくださる主イエス・キリストの御心にただただ感謝している「罪人」のわたしなのである。
騙されついでに皆さんも主イエス・キリストに向かって一度お祈りをしてみてはいかがだろうか。
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