
神よ、あなたのいつくしみによって、
わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。
わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
(詩篇51篇1から3節 )
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これはイスラエルのダビデという王が、主イエス・キリストがかたく禁じた「殺すな、盗むな、姦淫するな」をめちゃくちゃに破って、罪を犯し、預言者ナタンにそのことを指摘され、自分の罪を悟り、悔い改めの祈りの言葉が主より与えられたものである。
フツーのクリスチャンなら、いや、フツーの人間なら誰でも罪を犯せば、いわゆる罪悪感に苛まれる。これは人間にとってとても大切なことである。罪を犯せば100人中100人がみな「罪悪感」を持つのが人間としてフツーである。
ところがそうでないのが、人間としてとても悲しいことだと思う。もちろんこのようなことを書かせていただいているフツーのクリスチャンのわたしも罪を犯して必ずしも「罪悪感」に苛まれるというわけではない。それほどにも人間ってなんて罪深い動物なのだろうと、自分という人間は主の前では無に等しい存在なのだと戦慄を覚える今日この頃である。
罪を犯してしまったらダビデのように主に祈りたいと切に思う。
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