主はあなたのすべての不義をゆるし、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを墓からあがないいだし、
いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
あなたの生きながらえるかぎり、
良きものをもってあなたを飽き足らせる。
(詩篇第103篇 3~5節 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
わたしはこの聖句をまさに「体験」させていただいている。ほんとうにラッキーであると思いまた魂の奥底から主に感謝している。フツーのクリスチャンはすべて(人によって主から賜るものは千差万別ではあるが)上記に引用した聖句を体験する。この拙文を読んでくださっているあなたも何か思いあたることがあると思う。
わたしは主に対する信仰を持ち始めた時から、いつも「なぜ病気が癒される人と病気が癒されない人が存在するのだろう」ということを考えていた。いくら熱心なお祈りを捧げても癒される人と癒されない人が存在することは事実である。
なぜだろう?主は不公平なことをなさる方ではない。しかしわたし自身このことについて祈り求めた結果、人間として主からどのような御力を賜っていても「あなたの病気をいやすから○×ドル献金しなさい」などということだけはあってはならないし、やってはいけないと思う。
主は確かに病を癒す奇跡を行われた。
しかし「○×ドル献金しなさい」とは考えてもいなかった。人間のフツーの心理として「主イエスさまに癒していただけたから教会に○×ドル献金して主の御用に役立てていただこう」と癒してもらった人が自分の意思でいくらか献金することはあるかもしれない。
献金や寄付あるいはお布施といったあたりから考えていただければわかりやすいのだが、病気が癒されるか否かはお金のタカや祈りの頻度とは関係がないのだ。これだけ必死になれば癒される、といったある宗教団体の勧誘方法があるが信仰はそのような事柄とはかかわりを持たない。何かを購入するとか寄付をいくら以上納めるという、困っている人の足元をみるような信心は、真の信仰ではない。
人間の判断で、あの人はよく祈ったから「癒された」。あの人は祈りが足りないから「癒されなかった」とするのは馬鹿げたことだ。
「病気が癒される」か否かはあくまで主イエス・キリストのご判断である。キリストの恵みである。これまた人間の眼から見た時に、病が治っていないと思われてもその人の魂は「癒されている」こともあるだろう。病気のままでありながら「癒されている」こともある。あるいはもっと重要なことだが、病気のままで「救われている」ことさえあるに違いない。
主イエス・キリストのみ心は、わたしたちの思いを凌駕していられるのだ。
ただ主に信頼することのみ、信仰のみが、わたしたちを救いへと導くのである。
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↓:♥。癒し。愛。
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あなたの生きながらえるかぎり、
良きものをもってあなたを飽き足らせる。
(詩篇第103篇 3~5節 )
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わたしは主に対する信仰を持ち始めた時から、いつも「なぜ病気が癒される人と病気が癒されない人が存在するのだろう」ということを考えていた。いくら熱心なお祈りを捧げても癒される人と癒されない人が存在することは事実である。
なぜだろう?主は不公平なことをなさる方ではない。しかしわたし自身このことについて祈り求めた結果、人間として主からどのような御力を賜っていても「あなたの病気をいやすから○×ドル献金しなさい」などということだけはあってはならないし、やってはいけないと思う。
主は確かに病を癒す奇跡を行われた。
しかし「○×ドル献金しなさい」とは考えてもいなかった。人間のフツーの心理として「主イエスさまに癒していただけたから教会に○×ドル献金して主の御用に役立てていただこう」と癒してもらった人が自分の意思でいくらか献金することはあるかもしれない。
献金や寄付あるいはお布施といったあたりから考えていただければわかりやすいのだが、病気が癒されるか否かはお金のタカや祈りの頻度とは関係がないのだ。これだけ必死になれば癒される、といったある宗教団体の勧誘方法があるが信仰はそのような事柄とはかかわりを持たない。何かを購入するとか寄付をいくら以上納めるという、困っている人の足元をみるような信心は、真の信仰ではない。
人間の判断で、あの人はよく祈ったから「癒された」。あの人は祈りが足りないから「癒されなかった」とするのは馬鹿げたことだ。
「病気が癒される」か否かはあくまで主イエス・キリストのご判断である。キリストの恵みである。これまた人間の眼から見た時に、病が治っていないと思われてもその人の魂は「癒されている」こともあるだろう。病気のままでありながら「癒されている」こともある。あるいはもっと重要なことだが、病気のままで「救われている」ことさえあるに違いない。
主イエス・キリストのみ心は、わたしたちの思いを凌駕していられるのだ。
ただ主に信頼することのみ、信仰のみが、わたしたちを救いへと導くのである。
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