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魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

戦時下の川端康成 その11 鹿屋特攻基地

2014-12-03 23:41:47 | 論文 川端康成
戦時下の川端康成 その11 鹿屋(かのや)特攻基地

第五節 鹿屋(かのや)航空基地

切迫する戦況


 戦況は、切迫していた。
 昭和20年。3月4日には、B29約150機が東京に来襲し、雲上より盲爆した。
 3月10日の東京大空襲について、高見順『敗戦日記』(文藝春秋新社、1959・4・20)は、以下のように記している。

   3月11日
   夜、義兄来る。9日夜の、というより10日暁方(あけがた)の爆撃の被害は今までにないひどいものだつた由(よし)。罹災(りさい)家屋25五万軒、罹  災民100万と言われている由。

 そして高見は翌12日、浅草へ行こうと東京駅で山手線に乗り換えようとして、歩廊(プラットホーム)に罹災者の群れを見、息を呑む。上野へ降りて、ふたたび息を呑む。駅前は罹災者でいっぱいだったのだ。

 さらに浅草へ行こうとして、「駅前から見渡す限り、ことごとく焦土と化している。ひどい。何んとも言えないひどさだ。想像以上だ」と歎き、浅草に来て、「きれいさつぱり消えている」と、衝撃を隠さない。

 3月17日に、硫黄島(いおうじま)が玉砕した。大本営の発表は、その4日後だった。
 3月26日には沖縄戦がはじまり、4月1日には、沖縄本島に米軍が上陸した。5日、小磯(こいそ)内閣は総辞職し、鈴木貫太郎内閣が7日に成立した。
このような時期、康成は、海軍報道部の吉川誠一の訪問を受けた。
 海軍報道班員として、特攻隊基地の鹿屋(かのや)飛行場に行ってほしい、という依頼であった。

   今急になにも書かなくてもいいから、後々のために特攻隊をとにかく見ておいてほしい。

 そういう依頼だった。
 康成は2、3日考えたあと、承諾した。
 じつは、康成に依頼したのは、以下のような事情があった。
 近年に公刊された高戸顕隆『海軍主計大尉の太平洋戦争』に、その次第がくわしく語られている。
 この書によると、当時、海軍報道班を統率していた高戸は、1945(昭和20)年2月に入ると、大物の報道班員を戦地に送ろうと考えた。というのは、「戦局いよいよきびしく、日本の運命はまさにきわまろうとしていた」ので、「この事態をより的確に語りつぐべきだと思った」からである。そこで高戸は、直接の折衝を吉川誠一に命じた。

 吉川は当時、『台湾公論』という雑誌の東京支社長をしていたが、海軍に出入りし、高戸と気が合ったので嘱託として採用していたのである。二月の末か三月の初め、高戸は木戸に、ただちに手配するように言った。

 「作戦開始に当たっては、日本の心を正確に誤りなく次代に語りつぐことのできる人材を選出し、報道班員に任命、フィリピンの現地に派遣したいので、ただちに手配するように。なお、原稿ないし報告書は書いてくれれば結構だが、あえて強制はしない。歴史的壮挙を、その目で正しく見ておくだけでもよい。」

 木戸はまず、当時、文壇の大御所といわれていた志賀直哉を訪ねたが、志賀は実際より老けてみえた。そして残念ながら体力的に無理だと断った。そこで木戸が、横光利一と川端康成の名をあげて相談すると、志賀は「横光さんは大きく書くか小さく書くでしょう、川端さんなら正しく書くでしょう」と述べた。
 そこで木戸は4月10日ごろ、川端康成を訪ねて要請したのである。
 木戸が帰る際、康成は、「場合によっては、原稿は書かなくてもいいんですね」と念を押すように言った。

 『高見順日記』によると、康成が承諾したのは、4月13日である。それから10日ほどのち、4月23日に康成は、山岡荘八、新田潤とともに海軍省に出頭した。康成は報道班員として初めて戦場に向かうので、報道班員としてはベテランの、山岡、新田を同行させることにしたのである。行先は、フィリピンから鹿屋に変更されていた。

 この日、高戸は3名に「みなさんはこの戦いをよく見てきてください。そして今、ただちに書きたくなければ書かないでよろしい。いつの日か30年たってでも、あるいは50年たってでも、この戦さの実体を、日本の戦いを、若い人々の戦いを書いて頂きたい……」と述べた。
 山岡荘八は、この言葉に感動し、戦後、『朝日新聞』に、このことを書いた。

 4月24日、鹿屋に飛び立つ朝、厚木飛行場にリュックサックを背負って現れた康成を、高戸は「痩身(そうしん)鶴のごとき」と形容し、山岡は「鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった」と語っている。
 康成は、2年前に亡くなった徳田秋聲からもらった、小さな赤茶の編み上げ靴をはいていた。
 昼ごろ神奈川県の厚木飛行場から輸送機に乗ったが、敵機とハチ合わせの危険があったので、大井飛行場にいったん着陸、そこから乗りついで鹿屋に着いた。


本州南端の特攻基地

 鹿屋(かのや)は、大隅半島西部の、鹿児島湾にのぞむ鹿児島県南端の特攻基地である。本州最南端の基地の一つだ。

 いったい、鹿屋特攻基地は、どのような歴史をもつ基地なのだろうか。
 鹿屋が町制を敷いたのは大正元年(1912)。民営の鉄道も敷設されて、大隅半島の中心地となった。
 昭和11年(1936)、鹿屋航空隊が開隊した。翌年、北支事変(のちの満州事変)が勃発すると同時に航空機が増勢され、台湾、海南島などに進出し、中国上海周辺華南方面を猛爆した。

 昭和16年5月、鹿屋町、大姶良(あいら)村、花岡村が合併して鹿屋市となった。

 その12月8日未明、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したが、同時に鹿屋基地からはフィリピン・ルソン島の米軍クラーク基地攻撃に参加。マレー沖海戦にも参加。以後、ラバウル、カビエン、テニアンなど南西方面艦隊作戦に従事して多数の戦果を上げ、事実上、鹿屋航空基地は、日本海軍航空基地の最前線基地となったのである。
 しかしまもなく形勢が逆転し、昭和19年秋のマリアナ海戦に敗れて以後は、神風特別攻撃隊を端緒に、特別攻撃が最後の手段として常套化されていった。

 昭和20年一月二十八日、神雷部隊は九州に転出を命ぜられ、第五航空艦隊所属となった。同時に司令部も鹿屋航空隊に移された。この第五航空艦隊の司令長官は宇垣纏(うがき まとい)中将、参謀長は横井俊幸少将であった。

 そして4月1日に米軍が沖縄本島に上陸すると、鹿屋航空基地を中心に、南九州の基地から菊水作戦と呼ばれる特攻作戦が継続されていったのである。
 菊水作戦は4月6日からはじまり、6月22日まで、第1次から第10次まで、断続して続行された。康成らは、その最中に鹿屋に到着したのである。

 4月末、康成らが鹿屋に着いてみると、格納庫の屋根は爆撃でゆがみ、壁は機銃掃射でえぐられて、完全に戦場の様相だった。滑走路のほかは、たび重なる爆撃で穴だらけだ。滑走路だけは、爆撃のあと、すぐ補修するのである。
 康成たち3人は、第5航空艦隊(司令長官宇垣纏中将)付きとなり、海軍専用クラブ水交社に泊まった。おそらく基地の近くにあった料亭水泉閣であろう。
 3人が着いて間もなく、練習中の飛行機が飛行場のはずれに落ちて炎上した。「こんなところでは、死んでも死にきれないだろう」と、山岡はショックを受けたという。
 康成は黙って、その方角を見ていた。目は、真っ赤だった。

 夜となく昼となく、空襲があった。そのたびに、山の中に掘った防空壕に駆け込むのであった。
 特攻隊の攻撃によって、沖縄戦は一週間か十日で日本の勝利に終わるだろうからと、康成は出発を急がされたのだったが、九州についてみると、むしろ日々に形勢の悪化していることが、偵察写真などによっても察しがついた。艦隊はすでになく、飛行機の不足も明らかだった。
 また、鹿屋基地は、初めから特攻隊員が集結しているのではなく、飛び立ってゆくための最後の足場なのだということも知った。

 各地の飛行隊から、特攻隊員は自分の用いる特攻機を操縦してやって来る。そして、翌日か翌々日には、発進してゆく。その後に、また新しい隊員と飛行機とが到着してまた出撃する、ということも知った。
 康成は水交社に滞在して、将校服に飛行靴をはき、特攻隊の出撃のたびに見送った。

   私は特攻隊員を忘れることが出来ない。あなたはこんなところへ来てはいけないといふ隊員も、早く帰つた方がいいといふ隊員もあつた。出撃の直前まで武者小路氏を読んでゐたり、出撃の直前に安倍先生(能成氏、当時一高校長)によろしくとことづけたりする隊員もあつた。
   飛行場は連日爆撃されて、ほとんど無抵抗だつたが、防空壕にゐれば安全だつた。沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。
   特攻隊についても、(私は)一行も報道は書かなかつた。

 敗戦後10年たった1955年(昭和30年)8月、『新潮』に「昭和20年の自画像」と題して掲載された文章「敗戦のころ」の一節である。


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