魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

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戦時下の川端康成 その1

2014-11-18 01:56:11 | 論文 川端康成
戦時下の川端康成 その1

 「雪国」は、昭和10年(1935年)から雑誌に発表され、最終的には、太平洋戦争後の、昭和23年(1948年)12月に刊行された。
 つまり、戦前から書き始められ、戦後に完結したのである。

 川端康成の文学上の生涯を考える場合、太平洋戦争の始まった昭和16年(1941年)末から、昭和20年(1945年)8月の敗戦に至るまでの時期を、どのように過ごしたか、を見ることが、とても大切である。
 戦争に批判的であった康成は、ひたすら古典と歴史の世界に埋没した。そこから、日本古来の伝統を深く体得してゆく。
 また、戦争が次第に敗北に傾いてゆく趨勢(すうせい)に、康成は深く心痛した。そして日本古来の「かなしみ」を味わった。
 そのような康成の、深い内的な体験の時期を、わたくしは「自己変革の時代」と呼ぶ。
 今から、そのような川端康成の戦時下の体験をたどってみよう。
 一見、退屈かもしれないが、これまであまり知られていなかった、康成の戦争体験が、戦後の大きな収穫(しゅうかく)を準備することになるのだ。
 すこし難しいかもしらないが、我慢して、つきあってくだされば、ありがたい。


第4章 戦時下の康成 自己変革の時代(1)

 第1節 古典への没入「東海道」

しづのをだまきくりかへし


1943(昭和18)年3月22日に、川端夫妻は、養女政子を鎌倉市の二階堂にあった家に連れて帰った。
 政子は、康成の母方の従兄・黒田秀孝の三女である。
 しかし、秀孝の放蕩(ほうとう)に絶望した妻・富枝は、いちばん下の子であった政子を連れて家を出た。
 ひっそりと政子を育てていたのだが、病弱のこともあって、生活に窮した。
 そこで、一族のうち、子供がなくて、政子を育ててくれるのに最もふさわしい康成夫妻に、養女として引き取ってもらうことを希望したのである。
 さて、政子を鎌倉の家に連れてきて、およそ4ヶ月のちの7月20日から、康成は、そのころ満州といって、日本が事実上支配していた中国東北部の新聞『満洲日日新聞』と、一日遅れで『大連日日新聞』に小説「東海道」を連載しはじめた。

 「東海道」は、どのような作品であるのか。

 いささか自慢めくが、いち早くこの作品に注目して、戦時下における康成の精神の動向を最初に発表したのは、わたくしであった。この作品に引用されている膨大な古典の量におどろき、そこに康成のただならぬ決意を見たのである。

 旧制高等学校の国語教師をしていた植田建吉は、かつて「日本の旅人」という本を書いたことがあった。
 古典にあらわれた、日本人の旅の心を調べたもので、いわば文学史の領分の仕事である。
 この小説ははじめ、植田と娘絹子との対話から、本筋に入ってゆく。
 絹子が伊勢物語をはじめて読んで、「しづのをだまきくりかへし……」の歌は静御前(しずか ごぜん)の歌ではないのね? と、びっくりして父に訊(たず)ね、さらに「みねの白雪ふみわけて」も静御前の歌ではないのね?
 だれの歌? と訊ねる。
 植田は、「古今集に壬生忠岑(みぶ の ただみね)のこんな和歌がある」といって、

  みよし野の山の白雪ふみわけて、入りにし人のおとづれもせぬ

 を挙げる。また、「しづのをだまきくりかへし……」も、業平(なりひら)の歌とは限らぬ、伊勢物語の「昔男」には、業平以外の人たちも入っているから、といって、いっそう絹子の幻滅をさそう。
 しかし、そう説明しながらも植田は、「しづやしづ、しづのをだまき……」は静御前が歌ったからこそ人々の胸に残り、今に伝わったのだとして、

   悲劇の舞台で、この歌を静(しづか)に歌はせた「吾妻鏡(あづまかがみ)」や「義経記(ぎけいき)」の作者のよろこびは、さることながら、幾百年のあひだ、これを静(しずか)の歌として来た、人々の涙の河は、植田の心にも流れてゐるはずだつた。

 と思う。

 ここから物語は転じて、小野小町(おの の こまち)が出羽(でわ)の国から13歳のころに都へ上った姿を植田は空想する。さらに、菅原孝標女((しがわら たかすえ の むすめ)が上総(かずさ)の国(現在の千葉県あたり)から、東海道を都へ上ったのも13歳だったと絹子に説明する。
 それというのも、絹子がいま女学校の1年生で13歳であることから、植田は自分の娘と彼女たちを思いくらべることになったのだ、と作者は説明する。

 つまり、「東海道」という作品を発想した康成の動機の1つに、12歳の政子が、京に近い土地から、平安時代の女たちとは逆に、東海道を下ってはるばる鎌倉に来たという事実のあったことが確認されるのである。

 小野小町と孝標女についても、作品はかなり詳しく彼女たちの行跡をたどる。とりわけ孝標女(たかすえ の むすめ)については、康成は更級日記を精読したらしく、じつに詳細に彼女の東海道の旅と、その文学にあこがれつづけた生涯を語る。そうして最後に「王朝の女性文学は、小町に始まつて、孝標女に終つたともいへる」と結論づける。また小町から六歌仙についてもいくらか触れ、在原業平(ありわら なりひら)の旅についても語り、その兄・在原行平(ありわら ゆきひら)についても述べている。


柴屋寺(さいおくじ)の宗長

 また植田は日曜日に学生を連れて旧東海道を歩いたり、絹子を吐月峰(とげつほう)の柴屋寺へともなったこともあると述べて、室町時代の連歌師・宗長(そうちょう)についても思いを寄せる。

   またその道には、宗祇(そうぎ)に扈従(こじゅう)して、宗長が歩いてゐる姿もあつた。
   宗長は十六歳で宗祇の門に入つてから、「宗祇終焉記(そうぎ しゅうえんき)」を書くまで、40余年、宗祇の長い旅から旅へも、影の形に添ふや  うに歩いたのだつた。
   16で京に上る前、少年の宗長は今川義忠に近侍して、三年のあひだ寵愛されたといふ。丸子(まりこ)から3つ上の宿の島田の生れである。後年、この泉谷に草庵を結んだ。
   宗祇は82で死んだが、宗長も長命で、享禄5年(天文元年、西暦1532年)皇紀2192年、85歳で、この草庵に死んだ。「宗長日記」は、享禄(きょうろく)3年と4年の日記である。

 一般にはさほど知られていない宗長について、康成の関心は深い。

   
応仁の乱と累代(るいだい)の足利将軍

 こうして「東海道」は、しだいに核心に入ってゆく。なかでも康成が心惹かれたのは、室町時代、特に応仁の乱の時代であるが、その前に、室町の将軍たちの数奇な運命を描いた部分に、「東海道」という作品の真の意味がある。

   足利将軍家となると、15代のなかで、50の寿を保つたのは、初代尊氏、3代義満、8代義政、10代義稙(よしたね)、15代義昭の、5人に過ぎない。
   しかも5人のうちの義稙は阿波8あわ)で死に、義昭は流浪の身を織田信長にかつがれて、京都に入つたけれども、また追はれて流落、毛利を頼つて、豊臣秀吉の中国征伐となり、後には秀吉から1万石を給ぜられて、大阪で死ぬといふありさまだつた。

   4代の義持は子の義量(よしかず)に将軍職を譲つたが、義量が19で死んだので、再び政を見るうちに、後嗣(こうし)も定めないで死んだ。関東管領の持氏(もちうじ)は、その後を襲(つ)げるものと待ち望んでゐたのに、管領畠山満家らの諸将は、義持の弟が出家して、青蓮院に入り天台座主(ざす)となつてゐたのを迎へて、義教(よしのり)将軍とした。
   持氏は憤激して、公然と反抗し、兵を率ゐて西上の気配も見えた。尊氏の長男義詮(よしあきら)、次男基氏(もとうじ)以来つのつて来た、幕府と関東との不和対立は、いよいよ険(けわ)しくなつた。
   義教が持氏をいましめる使者を出すと、道中で盗賊に襲はれて、京都へ逃げ帰るといふやうなこともあつた。

 ここから、強権を発動して恐怖政治を布(し)き、ついに嘉吉(かきつ)の乱で赤松満祐(みつすけ)に弑殺(しいさつ)される六代将軍義教(よしのり)の「富士遊覧」が筆たっぷりと描かれる。

 この富士遊覧の関東下向には、もちろん、鎌倉の動静をうかがい、また威圧を加える意図があった。
 その記録は、「富士紀行」「覧富士記」「富士御覧日記」など、この旅に従った連歌師たちの紀行に詳細に描かれている。康成はこれらを自在に引用してその模様を伝えながら、「さうして実のところ、この仰山(ぎょうさん)な一行のなかで、ほんたうに富士を見たのは、義教ただ一人だつたと、植田は思つてみたりする」と、義教の峻烈孤高の精神に思いを馳せたりするのである。

 康成の描く将軍たちの生涯を、ここで摘記しておこう。
……4代義持は後嗣も定め得ずに死に、5代義量(よしかず)は19歳で病死、6代義教は赤松満祐に謀殺され、7代義勝はわずかに10歳で夭逝、9代義尚(よしひさ)は近江の鈎(まがり)の陣中で25歳で病没、11代義澄(よしずみ)は近江岡山城で流亡のうちに死、12代義晴も近江の穴太(あのう)に敗残中に病死、13代義輝は松永久秀の軍勢に囲まれて凄惨な討死、14代義栄(よしひで)もまた信長の上洛によって摂津の富田(とんだ)に逃げ、腫物(はれもの)を病んで29で死んでいる。

これらの将軍の流亡と死の常なさにこそ、室町時代の本質はあった。乱世と流離――。
 康成の筆は必然的にこの時代に吸い寄せられてゆく。それは太平洋戦争が緒戦の勝利から次第に敗戦へ傾斜してゆくさなかのことであった。すなわち康成は、自分のいま生きている時代が戦乱の室町時代に酷似していることを、鮮明に意識しているのである。

   かうして、東山時代を迎へ、応仁の大乱を招いたのだつた。

 と康成は書く。応仁の乱こそ、室町時代の混迷を象徴する大乱であった。


義政と義尚(よしひさ)父子

 10年つづいた応仁の乱の前後で、いちばん劇的なのは、8代将軍義政と、9代義尚(よしひさ)の生涯であろう。
 政治から逃避し、ひたすら自己の趣味に没頭して東山文化を築いた義政。そして義政と日野富子との間に生まれた、美貌の貴公子・義尚――。義尚(よしひさ)は幼少のころから和歌や古典に鋭い感受性を見せ、その関心は深かった。武人というより、ゆたかな教養人であった。

   義尚は戦乱の世を招き、また足利の衰滅を誘ふかのやうに、妖(あや)しく咲いた花一輪であつた。

 康成は、「東海道」において、このように義尚を足利時代の花にたとえる。実際、義尚の近江出陣のときの華麗な図(地蔵院蔵)が現在も残されている。
 あるいは康成は、いずれかの書で、この図の写真を眼にしたのであろうか。

 ――赤地金襴(きんらん)の鎧直垂(よろい・ひたたれ)に身をかため、重藤(しげどう)の弓をもち、太刀を佩(は)いて河原毛の馬に乗った姿は、彩色の図で見ると、眼にもあざやかである。さればこそ、相国寺鹿苑院内の蔭涼軒主・亀泉集証は「その御形体、神工もまた画き出すべからず、天下の壮観之に過ぐるものなし」(『蔭涼軒日録』)と記し、また『鹿苑日録』も、その英姿を絶讃しているのである。

さて、「東海道」のなかで、いちばん興味深く描かれているのは、このような義尚の死と、その死をめぐる逍遙院・三条西実隆(さねたか)と連歌師宗祇(そうぎ)のエピソードであろう。
 近江の南半分の守護であった六角高頼(たかより)が、将軍家や家臣たちの所領と寺社領荘園を横領したのである。家臣たちはこれを義尚に訴えて六角氏の処罰を乞うた。
 その願いを請けて討伐にむかった義尚は、近江鈎(まがり)の里に在陣中、京から宗祇を招いて8回、伊勢物語の講義させたり、飛鳥井(あすかい)雅康を招いて歌会をひらいたりしたが、やがて義尚が病臥したとき、実隆が後土御門(ごつちみかど)天皇の勅使として近江に下向(げこう)して義尚と対面する。
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