魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成「篝火」の草稿と生原稿

2022-03-21 22:38:58 | 論文 川端康成


川端康成「篝火」草稿と生原稿

川端康成「篝火」草稿と生原稿


 この3月15日、NHK夜7時のニュースで、川端康成初期の重要作品「篝火(かがりび)」の草稿が発見されたと報じられた。
 私はそのニュースを見ておらず、知らなかったのだが、その深夜、就寝する前にスマホを見て、山陰の松江市に住むSさん(むかしの教え子)から「篝火の草稿のニュースを見ました」とメールをいただいていることに気づいた。
 「草稿」を「原稿」と読み違えた私は、「えっ? 「篝火」の生原稿なら、数十年前に発見されたはずだが?」 と驚いた。
 翌朝、「それは最近のことですか? ずっと前のこと?」と返信すると、「昨夜です。ウクライナ侵略一色のニュースの中で、インパクトがありましたよ。新しく発見されたそうです」。さらに「ネットで川端康成と「篝火」で検索すると、いくつも出ていますよ」と親切だった。

 なるほど。そのネットによると、駒場の日本近代文学館が4月2日から川端康成特別展を開催する、そのための調査の過程で、「篝火」の草稿が発見された、というのだ。もちろん、鎌倉市長谷(はせ)の、川端康成旧邸からである。
 川端は、もらった手紙などを捨てなかった。幾通か手にした太宰治からの手紙も、太宰本人のために不名誉になるものは燃やしたが、それ以外の手紙や、多くの作家、一般人からの手紙も、捨てなかった。だから、この広大な邸には、高価な美術品ばかりでなく、さまざまな膨大な資料、遺品が無尽蔵といって良いほど眠っている。
 それらを、康成の養女政子の夫としてこの家に入った川端香男里先生が少しずつ整理して、ある程度まとまると、メディアに発表してきた。

 今から8年前、2014年7月に発見され、公開された川端康成の未投函書簡1通(岐阜に住む伊藤初代に宛てて書いたものの、投函しないまま、川端の手元に保存したまま残されていたもの)も、その1つだった。
 
 その無尽蔵といってよいほど、遺品や手紙がそのまま残されている事実を、川端香男里先生の懐刀(ふところがたな)であり、定期的にこの邸に通っていた故水原園博(そのひろ)から、私はつぶさに教えてもらったのだ。水原は、公益財団法人・川端康成記念会の実質上の事務局長として、「川端康成と東山魁夷展」を全国的に開催する実務を担当してきた人だ。

 さて、今回発見された草稿の動画を見ると、すぐ分かることがある。それは、今回発見された6枚の草稿が、「新晴(しんせい)」のヴァエリエーション(変型)の1つだ、ということである。
 一般の読者のために、簡単に「篝火」や「新晴」のことを説明しておこう。
 「篝火」は、大正13年(1924年)、『新小説』3月号に発表された川端康成の短編である。川端が、岐阜に住んでいた少女、伊藤初代を訪ねて結婚を申し込み、承諾してくれた、その忘れがたい1日を描いたのが「篝火」という作品だ。
 その3年前の大正10年秋、川端は友人三明永無(みあけ・えいむ)に付き添われて岐阜を訪ね、長良川ほとりの宿、鐘秀館(しょうしゅうかん)で伊藤初代の承諾を得たのだった。そのあとで、宿の部屋から見た鵜飼いの篝火、その篝火を見つめる伊藤初代の顔の美しさが題名となっている。感動的な作品である。

 「私は篝火をあかあかと抱いてゐる。焔の映つたみち子の顔をちらちら見てゐる。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい」。

 こんな美しい文章がある。川端にとっても「一生に二度とあるまい」という瞬間だった。

 しかし康成は、簡単にこの作品が書けたわけではなかった。約束後のわずか1ヶ月後、東京浅草の下宿に初代から、いわゆる「非常」の手紙がとどき、事態は急転する。初代はまもなく岐阜を出奔して上京し、いくつかのカフェを転々とするが、翌大正11年(1922年)の春過ぎには、康成の前から姿を消す。
 そのころの康成の日記(川端康成全集補巻一)に頻出するのが「新晴」という作品(習作)である。

  「新晴」を書く。
  「新晴」を書きなぐる。

 といった記述が、当時の6月の日記に繰り返される。東京本郷のカフェ・エランでめぐり合い、舞台を岐阜に移して結婚の約束をした少女との経緯を、そのまま小説に描こうと、川端は苦闘していたのである。
 カフェ・エランで出合ったのが大正8年、初代が岐阜に移ったのが翌年秋、結婚の約束の成った、最も劇的な秋が大正10年、初代が康成の前から姿を消したのが大正11年の春から夏のころ。
 川端が初めて、この内容を発表したのは翌年、関東大震災直前の7月、仲間と復刊創刊した『新思潮』に「南方の火」①と題して発表したものだった。これが「篝火」の、活字化された最初の原型である。
 続いて、「非常」、「南方の火」②の原型「海の火祭(うみのひまつり)」、「霰(あられ)」「彼女の盛装」など、一連の「みち子もの」が発表されてゆく。
 しかし川端は、これらの作品は未完成だと考え、いずれ、全体を通して描こうと、単行本には入れないでおいた。

 ようやく太平洋戦争の後、昭和23年(1948年)から最初の川端康成全集(第1次、16巻もの)が刊行されるに際して川端は、これらの作品の重要性を思い、「篝火」など四作品を、その第1巻と第2巻に掲載した。
 「南方の火」②は、このとき、かつて「海の火祭」の「鮎」の章として書いたものを独立させて整理し、収録したものである。また同時に、各巻の「あとがき」において、学生時代の日記を引用しつつ、いかに当時、自分が長く伊藤初代に執着したかを克明に告白したのであった。

 さて、ここで本題にもどる。
 今回、NHKで放映された草稿の動画を見ると、これは「篝火」の草稿というより、「新晴」の草稿の1つだと分かる。なぜなら、登場するヒロインの名が「稚枝子」となっており、これは既に発見され活字化されている「新晴」28枚と同じネーミングであるからだ。「篝火」では、「みち子」となっている。「非常」でも同様である。

 今からちょうど50年前、川端康成が没した、その昭和47年の8月、「篝火」の自筆原稿が秋田県で発見された。『秋田魁(さきがけ)新報』がスクープしたのである。むかし東京で文学修行をした人が故郷秋田で刀匠になっていた。その人の古い本箱から、この原稿が出てきた、というのであった。全国の各紙も後追い報道をした。
その原稿冒頭の、題名が消されて「篝火」と直された写真を見て、当時川端研究第一人者であった長谷川泉が、画期的な説を提示した。あの日記に書かれた「新晴」を、川端が提出直前、題名を「篝火」と改めた、という説であった。

 しかしこの説は7年後、川端香男里「川端康成の青春─未発表資料「新晴」併載」によって否定される。川端邸から発見された、28枚から成る「新晴」が活字化されて発表されたからだ。それは「篝火」とは大きく異なり、ヒロインや他の登場人物の名も異なり、また内容的にも、明らかに未熟な習作であった。
 だが、この「新晴」原稿が発表されたことにより、川端の内部でどのように「篝火」が形成され、より良い作品に成長していったかが窺われる、貴重な資料であったことはもちろんである。

 ところで、秋田県で発見された「篝火」の生原稿(なまげんこう)(自筆原稿)は、どうなったのか?
 くわしい経緯は、ここでは省くが、ほぼ40年後の平成22年(2010年)、川端の故郷である大阪府の茨木市立川端康成文学館がこの原稿を入手して、「川端康成の初恋」展において、この原稿を公開したのであった。

 ふたたび冒頭に戻ると、今回発見された草稿は、その早朝(大正10年10月8日)、東京から乗った列車が岐阜駅に着いたところから書き出されている。修学旅行の季節で、この列車に、名古屋と和歌山の女学生たちが乗り込んでいたことも、他の作品と重なり、康成の実際の体験であったことが分かる。
 「篝火」冒頭は、岐阜駅から歩いて、みち子が身を寄せている寺についたところから始まっている。つまり康成は、初めの方に描いていた岐阜駅着の場面を削り、寺に着いたところから書き出すことにして「篝火」の原稿を完成させることが出来たのだ。

 これらの作品は、「新晴」を含めて、もちろん川端康成全集で読むことができるが、近年刊行された新潮文庫の『川端康成初恋小説集』に収められているので、便利になった。ただ、解説が不親切で、「南方の火」だけでも4編収録されており、ふつうの読者は、どの順番で読めばよいか、困惑するだろう。

 「南方の火」①(『新思潮』に掲載されたもの)、「篝火」、「非常」、「南方の火」②、「霰(あられ)」「彼女の盛装」……の順番で読むのが良い。それから、参考のために「新晴」を読めば良いだろう。

 なお、手前みそになるが、私の近刊『川端康成の初恋のひと 伊藤初代』(ミネルヴァ書房)は、この4月初旬には刊行される予定である。如上のくわしい内容、川端康成と伊藤初代のすべてを、分かりやすく、存分に語ったつもりである。岐阜における「篝火」研究史、伊藤初代研究史、二人の詳細年譜、初代晩年の日記も、ご遺族の了解を得て収録してある。


(注) 「南方の火」は、同じ題名で4つの作品(未定稿を含む)がある。まぎらわしいので、以下のように番号をつけている。
 「南方の火」①……最初に『新思潮』に掲載されたもの。
 「南方の火」②……はじめ、新聞に連載された「海の火祭」の「鮎」の章として活字化されたものを、昭和23年(1948年)、最初の川端康成全集に川端自身が整理して収録したもの。岩手県岩谷堂(いわやどう。現江刺市)に、伊藤初代の父親を訪ねた時から描かれ、また全体の経過が比較的よくまとめられている。
 「南方の火」③④……のちに発表された断片など。




<link rel="canonical" href="https://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/c105eca9cbb0311abe435706e0aaa566"/>
<link rel="alternate" media="handheld" href="https://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/c105eca9cbb0311abe435706e0aaa566" />
<link rel="alternate" type="application/rss+xml" title="RSS2.0" href="https://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/rss2.xml" />
<link rel="alternate" type="application/rss+xml" title="RSS1.0" href="https://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/index.rdf" />


 




最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
川端康成「篝火」などについて (泊瀬光延)
2022-05-05 22:25:56
素晴らしいブログを読ませて頂きました。有難うございます。ツイッターで思うところを投稿させて頂きました。https://twitter.com/hatsusekouen/status/1522198848864911362
返信する

コメントを投稿