魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

戦時下の川端康成 その12 基地のみどりと「生命の樹(いのちのき)」 

2014-12-04 14:32:43 | 論文 川端康成
戦時下の川端康成 その12 基地のみどりと「生命の樹」(いのちのき)

基地のみどり

 鹿屋(かのや)について間もなく、康成は鎌倉の秀子に手紙を書いた。秀子が読むと、「当地の隊読み物殆ど余りなく、特攻隊員も読み物を熱望してゐる。食べるものより心の糧の書物が欲しいとの事」とあった。
 これは、後述するように、そのころ始めていた鎌倉文庫の人々に、是非、航空基地宛てに本を送ってもらうように、という要請であった。
 死を前にした特攻隊員たちの、「心の糧」をもとめる心情に打たれ、じっとしていられなかったのであろう。
 小山の多い基地は、5月の新緑が眼にしみた。また、野道の溝に垂れつらなる野いばらの花にも、特攻隊員の宿舎の庭の栴檀(せんだん)の花にも、康成は眼をみはった。

 どうして、自然がこんなに美しいのだろう。
 晴れた夜には、満天に星がきらめいた。

 しかし5月の基地は、雨も多かった。作戦が妨げられ、特攻隊員は気を腐らせたが、雨がやむと、紫紺に洗いだされた緑の山がまぶしいばかりだった。そのみどりの中を、特攻隊員たちは飛び去っていった。

 ――康成は鹿屋に1ヶ月いて、5月24日に鎌倉に帰ってきた。
 死に向かう若者たちを身近に見つづけた康成が、どのような心境であったか、知るすべはない。
 ただ夫人によると、「3号報道班 川端 焼却の事」と表紙の裏に記してある小さな手帳が残されているそうだ。その手帳には、90頁にわたって、びっしりと何かが書きつけられているのだが、判読がむずかしい、という。康成が鹿屋で何を見て、何を感じたか、知りたいところだ。この手帳の翻刻が望まれる。

 ――戦後、康成は鹿屋の経験を具体的に素材として、たった一つだけ小説を書いた。
 「生命の樹」(『婦人文庫』、1946〈昭和21〉・7・1)である。
 この作品については、さまざまな論議があるが、それはまた、のちの章で考えることとしよう。
 ともあれ、康成は鹿屋航空基地で1ヶ月、特攻機の出撃してゆく姿を見送った。このことは、戦後の川端康成を考える上に、無視できぬ事実であろう。


杉山幸照『海の歌声』と川端康成

 李聖傑に、康成の2度にわたる満州行と1ヶ月の鹿屋体験を検証した詳細な論考がある。「川端康成における戦争体験について――『敗戦のころ』を手がかりに――」であるが、戦時下の「彼の身の処し方を検討」、というより厳しく論断した労作である。
 ここでは、鹿屋体験の方のみ、取り上げたい。
 海軍報道班員として康成と同行した新田潤、山岡荘八の回想ももちろん言及されているが、特に注目されるのは、特攻兵の生き残りである杉山幸照の『海の歌声――神風特別攻撃隊昭和隊への挽歌』を多く引用して、戦後の康成の沈黙を物足りなく思った杉山の内面を推測している点であろう。
 わたくしも李聖傑に教えられてこの書を入手し、検証してみた。

 この書の巻末に記された著者紹介によると、杉山は1922(大正11)年3月28日、台湾に生まれ、中央大学法学部を卒業。1943(昭和18)年12月、学徒出陣。第14期飛行予備学生、海軍少尉。

 終戦まぢかい昭和20年3月に、特攻昭和隊として鹿屋基地に配属されたが、同年6月、帰隊命令で茨城県の谷田部(やたべ)航空隊へ帰り、終戦を迎えた、とある。
 もっとも、『川端康成全集』第35巻の年譜によると、杉山と同じ飛行機で康成が鎌倉に帰宅したのは5月24日、とあるから、「同年6月」は「同年5月末」と訂正すべきであろう。
 が、それは、ほんの数日の誤差である。
 この紹介にある予備学生とは、本書中にあるように、特攻機に搭乗する大半は、「弱冠20歳前後の、父親のスネをかじって学問をしていた予備学生と、母親の甘い乳を、吸い終わったばかりの予科練生」なのである。

 さて、杉山のこの書には、命令によって特攻機に乗り、散華(さんげ)していった部下や上官、仲間たちへの愛情・哀憐と、「机上の空論」によって彼らを無謀な死へ追いやった「参謀たち」への怒りにあふれている。一人でも多くの、大空に散っていった仲間たちの姿を残したいという痛恨の思いがこもった、美しい文章の集積である。

 この書の第4章「不滅への祈り」の第1に、「『寂』語らず」というタイトルで、康成との交流と、届かぬ無念の思いが語られている。
 さて、杉山はある日突然、本隊よりの命令で谷田部空(茨城県筑波郡にあった谷田部航空隊)に帰隊することになった。自分一人だけ帰隊することに具合の悪い思いをしている杉山は、夕食のとき、戦友と同じ卓につく気がせず、「ちょうど顔なじみになった報道班員の川端康成さんがまずそうに食事しているところ」に近づき、「川端さん、いろいろとお世話になりました……。命令で明朝一時帰隊します。またすぐやってきます。お達者で……」と、こっそり小声で伝えると、

   彼は突然箸をふるわせて私をじっと見すえた。皺の多い、痩せた顔を心なしか赤くし、顔に似合わぬ大きな目玉をむいて、
  「自分も急用があり、身体の具合も悪いので、ちょっと帰りたいのだが、飛行機の都合がつかないので困っている」と言う。

 杉山は、ダグラスで帰ることが決まっていたので、「それでは一緒にどうですか?」と言った。すると康成は食事を途中でやめて司令部へ交渉に出かけた。
 その夜、杉山がどこに寝ようかと考えながら特攻隊員たちと盃を交わしていると、康成が駆け込んできた。
 外へ連れ出すと、「ご一緒できます。よろしく頼みます」と康成は言った。

 翌朝、鹿屋基地を飛び立ったダグラスは、燃料補給のため、いったん鈴鹿空(航空隊)へ下りた。士官食堂で食事をすることになったが、「痩せて小さい彼は、飛行機で酔ったのか、顔面蒼白でトボトボとやっと歩く態であり、『こりゃ、いかん』と思」うほどであった。「やっと坐っているようで私は不安を感じた」。
 しかし、出されたライスカレーは、きれいにたいらげ、だいぶ元気をとりもどして雑談になった。

   「特攻の非人間性」については一段と声を落とした語り合った。
   私が予備学生であるのを知って安心して喋るのである。話しているうちに、私を民間人と錯覚して、熱がこもってくるのだった。

 鹿屋基地に1ヶ月滞在して、連日のように特攻機の出撃を見送り、心身ともに憔悴した康成の様子がよくわかる。また、予備学生と親しく本音の会話を交わしたこともわかる。
 このように一緒に帰還した2人であったが、戦後になると状況は変わった。

   彼と私は、それ以来2度と会うことはなかった。戦争が終わると面会すらできぬ、手の届かない遠いところの人になってしまい、ノーベル賞など貰ってますます有名になり、国際的な作家になってしまった。すっかり会う機会は閉ざされてしまったのである。
   いまでもライスカレーを食べるとき、その上にのっていたあざやかな沢庵のきれはしと川端さんを想い出すのである。
   かつての二、三の報道班員の人たちが戦後、鹿屋特攻基地を舞台に特攻隊の姿を紹介したことがあるが、それはまったく、大まかな観察である。しかし彼ら特攻隊のことを「信じられな  い気持」と評して彼らの霊をなぐさめ、ほめたたえてくれた。それだけで私はうれしく秘かに感謝したものである。しかしそれは、うわべの100分の1であり、隊員の心情に関してはなんら掴(つか)むところがない。私の読み方が悪いのか、私が身をもって知りすぎていたためか……。

   私は川端さんがなにか書くのを長い間待った。きっと書くものと思っていた。
   そのときは自分の持っているすべての資料を提供して、死んだ戦友のために、りっぱな特攻隊のことを書いて、後世に遺してもらおうと思った。しかし彼は、特攻隊に関してはいっさい黙して語らない。「寂」である。(中略)

   川端さんの文章を以ってすれば、どんなに人に感動をあたえることだろうと、幾度か相談しようと考えたものだが、あまりにも彼は、私には遠いところの人である。私がこの「海の歌声」を書くのもまた宿命なのかも知れないと思っている。

 先引の李聖傑が書いているように、この文章にある「2、3の報道班員の人たち」とは、新田潤、山岡荘八であろう。それらの文章は杉山を「秘かに感謝」させはしたが、隊員の心情に関しては「うわべの100分の1」しか述べていない、と杉山は思った。
 それだけに杉山は、川端康成に期待したのである。

 しかし戦後の康成は、杉山には「面会すらできぬ、手の届かぬ人」になってしまった。ノーベル賞を受賞して以後は、いっそう遠い存在である。
 杉山には、婦人向けの雑誌である『婦人文庫』に掲載された「生命の樹」(いのちのき)が目に入らなかったのであろう。もっとも、「生命の樹」を読んだとしても、杉山が満足したかどうかは、わからないが……。

 杉山はまた、戦後10年の「敗戦のころ」(『新潮』昭和30・8・1)も、読まなかったのであろうか。
 杉山がたった1度でも、康成に手紙を書いていたならば、と惜しまれる。未知の無名の読者からの手紙をもおろそかにしなかった康成である。杉山から手紙が来たら、無視することはなかったであろう。杉山の刺激によって、新しい作品が生み出された可能性もあった。

 しかし、直接には「生命の樹」一作しか書かなかったとしても、鹿屋基地の体験が康成に深い衝撃を与え、敗戦後の底深い失意とかなしみの心情につながったことに違いはないのである。


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