魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成と鹿屋特攻基地(4)

2020-05-26 13:47:39 | 論文 川端康成


川端康成と鹿屋特攻基地(4)

拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第5章「戦後の出発―自己変革の時代(2)」から



 
第一節 「再会」と「生命の樹」つづき


三島由紀夫の批評

じつは、「再会」は、雑誌に3回掲載された分量があった。
しかし、先述したように、単行本『再婚者』(三笠書房、1953・2・10)に収載されたとき、第2回目は削除された。以後の全集でも、「再会」は、この単行本版を踏襲している。
雑誌『文藝春秋』7月号に第2回目「過去」が発表されたとき、後述するように康成によって文壇に出たばかりの三島由紀夫は、『人間』編集長・木村徳三に宛てた手紙のなかで、いち早くこの作品を取り上げ、卓抜な批評を展開している。

――自由の杖といへば、川端さんの「過去」は二回目までの連載(文藝春秋)をよんで「戦後」といふ一つの決定的な運命的な雰囲気を描出した最初のものだと思ひました。
経験としての戦争と、外的事件としての戦争と、そのいづれかを扱つた相不変(あひかはらず)の新小説は無数にありますが、文学、芸術そのものの当然の運命たる傷痍といたましい恢復(かいふく)とそこに象徴される「永遠の無為」とを嘔気(はきけ)のするほど克明に書いた文学、それが「戦後の文学」であるべきです。
精神のどうしようもない、いやらしいほどのふてぶてしさ。揚棄し、あるひは飛翔したつもりでゐ
た本能的な衝動が、再びあらゆる精神と思想と情感と感覚をまとつてあらはれて、我々に自堕落な安心を齎(もたらす)主題、それが「再会」です。 (昭和21年7月24日)


何と鋭い批評であろうか。「『戦後』といふ一つの決定的な運命的な雰囲気を描出した最初のもの」とは、何と的確に、この作品の意義を語っていることだろう。そして「文学、芸術そのものの当然の運命たる傷痍といたましい恢復とそこに象徴される『永遠の無為』」とを「嘔気のするほど克明に書いた文学」であるとは、何と深く「再会」の本質を抉(えぐ)っていることか。

三島由紀夫の、康成に対する深い傾倒と、明敏な批評眼を如実に示した一節である。

「生命の樹」と鹿屋基地の体験

同じ1946年(昭和21年)の7月、康成は『婦人文庫』に「生命の樹」(いのちのき)を発表した。
これは、戦争末期に鹿屋特攻基地に1ヶ月滞在したときの経験と見聞を直接の素材にした、康成の唯一の作品である。

啓子は、近江に生まれ育って京都の女学校を出た娘だ。戦争末期、鹿屋海軍航空基地の水交社の経営を委されていた姉夫婦の誘いにより、九州南端の鹿屋基地に行って、姉夫婦の仕事を手伝った。
それは「特攻隊員のお傍に行つてみたい娘心」からだったが、果たして啓子は特攻隊員のひとり植木と相思相愛の仲になった。

植木は予定どおり5月に飛び立ち、そして帰ってこなかった。
啓子は5月の終わりに、近江に帰ってきた。まもなく沖縄戦が終了し、日本は降伏した。
1年後の春、植木の親友だった寺村が啓子の家を訪ねてきた。自分は今から東京の植木の遺族に会いにゆく、ついては啓子さんも同行しないかと誘った。
啓子の母親が寺村に好意を抱いたこともあって、啓子はあっさり同行を許される。
寺村に連れられて東京に来る東海道の車窓でも、啓子は木々の新芽のみどりに心を奪われる。そして自分が死ぬつもりでいることを思い出す。

出撃の前夜

出撃の前夜、植木は夜空を見上げて、
「星が出てるなあ。これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」と、言った。
しかし、それが植木の星の見納めだった。
植木はその明くる朝、沖縄の海に出撃した。
(我、米艦ヲ見ズ)
そして間もなく、
(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)
二度の無電で、消息は絶えた。

―その前夜、植木は自身が合点ゆかぬ風で、
「どうもをかしいね。死ぬやうな気が、なにもせんぢやないか。星がたんと光つてやがら」と言った。啓子は、「さうよ、さうよ」と言いながら、いいことよ、ちつとも御遠慮なさらないで、手荒く乱暴なさいよ、と言いたかった。
抱きすくめられるのを待っていたようだった。が、植木は、気がつかぬふりをしたのかもしれない。星の見納めだ、という言い方に、啓子への愛がこもつていたと思えてならない。
明日死ぬお方だから、なにをなさってもいいと啓子は思ったのだったが、植木は、明日死ぬ身だから、なにもしないと思ったのかもしれなかった。
小山の多い、あの基地の5月は、新緑が私の心にしみた。植木さんたちの隊へ行く野道の溝に垂れつらなる、野いばらの花にも、植木さんたちの宿舎になつてゐる、学校の庭の栴檀(せんだん)の花にも、私は目を見張つたものだ。
どうして、自然がこんなに美しいのだらう。若い方々が死に飛び立つてゆく土地で……。
私は自然を見に、九州の南端まで来たかのやうだつた。
しかし、5月の基地は雨が多かった。そのために出撃が延び、寺村は生き残ったのだった。

1年後の今、東海道の新芽のあざやかさに目を奪われる啓子は、自分が死ぬつもりでいるからであり、沿線の焼け跡が気にかかる寺村は、生きる人なのかも知れなかった。

邪慳なあつかい

しかし4月25日、東京の植木の実家を訪ねた啓子に、植木の母は心をひらかなかった。むしろ、警戒したようだった。水交社といっても、宿屋か料理屋、水商売の娘と啓子を誤解したのかもしれなかった。
みじめな気持ちで植木の家を出ると、東京は一昨夜の嵐で、いっせいに若葉の世界になっていた。東京の焼け跡にも、こんなに木が残っているのかと思うほど、みどりがあざやかだった。
鹿屋の基地で、植木と寺村が声を合わせて、ドイツ語の歌をうたったことを啓子は思い出した。ふたりは同じ高等学校か同じ大学の音楽部で、合唱隊の仲間だったのだろうか、みごとな2部合唱だった。
それは、寺村と梅田と植木の3人が娼家へ行くのに、啓子を誘ったときだった。
寺村と梅田は娼婦と同衾したが、啓子を連れている植木は、娼婦とは寝なかった。植木だけが童貞のまま死んでゆくことになるのだった。
植木はまた、啓子の学校が京都だったねと念を押して、「京都は今ごろ、祇園円山夜桜だね。平和ならね……。」と言って、「いのちひさしき」という長い詩を朗唱した。
それは、祇園の桜が枯れようとしている、という意味の詩だった。
その詩の終節は、反歌である。詩の全体を反復し要約するもので、日本一と讃えられた桜の名木が枯れるのを、どうすることもできず傍観する、己(おの)が無力を歎いたものである。

ひのもとのいちとたたへし
はなのきをかるるにまかす
せんすべしらに

三好達治「いのちひさしき」

この詩は、三好達治の第12詩集にあたる『花筐』(はながたみ)』に収められた「いのちひさしき」という詩の一節である。
昭和19年6月16日、北海道青磁社から刊行された。石原八束によれば、烈しく思慕した萩原朔太郎の妹、アイに捧げられた愛の詩集であるという。
この詩の主題となった枝垂(しだれ)桜は、京都祇園の円山公園にあって、樹齢三百年と伝えられた名木であった。達治は京都の三高で青春を過ごしたのだった。達治自身、「僕の京都」という文章の中で、この木に対する愛着を述べ、その枯死したことを嘆いている。

――わたくし(森本)はこのたび、詩の言葉のしらべと、京都というヒントから、作者は三好達治ではないかと見当をつけ、みごとにこの詩の出典を発見した――と思ったが、武田勝彦『川端文学と聖書』(教育出版センター、1971・7・2)の第12章「生命の樹(3)」にこの出典が明示されていた。
それどころか、「終戦前後の青年の愛唱してやまなかったもの」「終節の『ひのもとのいちとたたへし/はなのきをかるるにまかす/せんすべしらに』に詠いこまれた亡びの哀調が、空襲に荒廃する祖国をせんすべしらに眺めていた青年には深い感銘を与えていた」と述べられているのを読んで、兜(かぶと)をぬいだ。
須藤宏明も、『川端康成全作品研究事典』(勉誠出版、1998・6・20)の「生命の樹」の項で、三好達治と明言している。
長谷川泉「生命の樹」論(後述)も、同様の事実を指摘している。

啓子は、今から考えると、植木はこのような日本の運命を知りながら、飛んでいったのではなかろうかと思われた。
また、植木は、自分の死後、啓子を、せんすべしらにかるるにまかす宿命の女と 、いとおしく思ったのであろうと、武田は推測している。

生命の樹

山手線の電車で、そのように植木の思い出にふけっている啓子に、寺村が声をかける。
焼けた木に、芽が噴いているのだった。
街路樹だつた。枝はことごとく焼け折れて、炭の槍のやうに尖つた、その幹から、若葉が噴き出してゐるのだつた。若葉はぎつしり、重なり合ひ、押し合ひ、伸びを争ひ、盛り上つて、力あふれてゐた。
焼けただれた街に、自然の生命の噴火だった。
突然、ヨハネ黙示録の一節が啓子の心に浮かぶ。

御使(みつかひ)また水晶のごとく透(すき)徹(とほ)れる生命(いのち)の水の河を我に見せたり。……都の大路(おほぢ)の真中(まなか)を流る。河の左右に生
命(いのち)の樹(き)ありて……、その樹の葉は諸国の民を醫(いや)すなり。……

さらに、別の一節も啓子の心に浮かぶ。

我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前(さき)の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。

武田は、この部分を、次のように解説している。すなわちこの一節は、天上の最後の審判が終わり、悪魔の活動は停止させられ、死人もすべて復活し、人々は過去の行為によってさばかれたのちに、第21章の新天新地は到来するのである、と。
この一節のあと、「本郷にある、寺村さんのお友達のおうちへ、私たちは帰るのだつた。」で、作品は結ばれている。

作品の主題

とすれば、作品「生命の樹」の主題は、明らかであろう。
焼け跡の木が芽を噴き、若葉を噴きだしたように、再生、復活がこの作品の主題である。ひとたび滅びたものが、新たな生命を得てよみがえる。
植木のために死ぬつもりであった啓子が、寺村と結婚することによって、新しい人生を生きはじめる、と暗示しているのである。
康成は、作品の初めの方でも、鹿屋特攻基地の自然が美しかったことを強調している。
どうして、自然がこんなに美しいのだらう。
作品「生命の樹」は、このように自然の再生の力を強調し、あるいは発見することによって、啓子の人生の新たな出発を描いた作品であるといえる。
武田は前掲の論において、この作品について、およそ次のように述べている。
血みどろの長い戦争のために学徒出陣、学徒動員し、暗い青春を送ることを余儀なくされた若者は無数にいた。そして180度の逆転の中で、信念を奪われ、希望を失った青年たちは、肉体的にも精神的にも生と死の間を彷徨していた。「生命の樹」は、その人たちの再出発に捧げられた讃歌ではなかろうか、と。

さらに武田は、これを「神の啓示」である、として、これが作品の主題であるとする。すなわち、「恋人を戦争に奪われた啓子が生命の樹を発見することによって、人間としての自我を恢復したことである」と説いている。

川嶋至の厳しい批判

以上のような武田勝彦の説の以前に、「生命の樹」に激しく反発し、否定した川嶋至の有名な説がある。
川嶋は、前掲『川端康成の世界』の、戦後を論じた第7章「美への耽溺――『千羽鶴』から『眠れる美女』まで――」の冒頭で、康成の鹿屋基地体験と「生命の樹」にふれて、次のように激しい言葉で康成の戦後の文学を根底から批判し、否定した(243頁)。

川端氏は敗戦の年、昭和20年4月、海軍報道班員として鹿児島県鹿屋の特攻隊飛行基地におもむき、一月あまり、死に飛び立つ特攻隊員や、敗北の色濃い基地のもようをつぶさに視察した。短篇「生命の樹」(昭和22年)(ママ。正しくは、昭和21年)は、その見聞を土台にしてなった、唯一の作品である。

小山の多い、あの基地の五月は、新緑が私の心にしみた。(中略)
どうして、自然がこんなに美しいのだろう。若い方々が死に飛び立ってゆく土地で……。(以下略)

川嶋は「生命の樹」の中でも最も印象に残る自然の美しさを描いた部分を引用したあとで、川端康成のいわば根幹の主題について、次のように、問題を提起する。

それにしても、お国のためにと散っていく若い生命の最後を目(ま)のあたりにし、基地内に流れる暗い戦況の情報からそれらの死がいかに無意味なものであるかを熟知しながら、ひたすら自然の美しさにうたれている人間とは、いったい何なのだろうかと思う。
戦中戦後の荒廃が自然をより美しくふりかえらせたことも、若い死にかこまれた自然が心にしみたこともわかる。しかし、それだけにとどまっていられるものだろうか。と言っても、川端氏には通じないだろう。
駒子のひたすらな営為を「徒労」とみる島村に、特攻隊員の死もまた大きな徒労と写ったに違いない。「禽獣」たちの死を黙って見過ごす「彼」を創造した川端氏は、沖縄の死地に飛び急ぐ魂を、むなしく凝視するだけなのである。確かに、一個人が誤った現実にいかに切歯扼腕したところで、傍観者と何ら異なるところはなかったであろう。

しかしそれにしても、川端氏の特攻基地での体験が、「生命の樹」という一短篇しか生まなかったこと、それも「私」の眼に映ずる自然の美しさが語られる作品しか生まなかったことに、私たちは愕然とし、あの大きな戦争にすらも人間的な関心を示さずに素通りできた作家に、恐怖に近い尊敬の念を捧げないわけにはいかない(245頁)。


戦争を素通りできた作家

川嶋の批判は、鹿屋特攻基地をつぶさに経験したにもかかわらず、「あの大きな戦争にすらも人間的な関心を示さずに素通りできた作家」康成に向けられている。しかも「自然の美しさ」を主題とした「生命の樹」一編しか書かなかった作家のあり方に「恐怖に近い尊敬の念」を捧げる、と痛烈な皮肉を浴びせているのである。

川嶋の批判は、まだつづく。

日本の近代文学が、1、2の例外を除いて、「政治や社会の問題に触れることをやめて、ひたすら個の内部を凝視しつづけてきた伝統」を康成はかたくなに踏襲し、「かくて、川端文学は敗戦後も変ることなく、政治や社会から隔絶した『非現実』の美を追求しつづける」と述べるのである。

川嶋の批判は、ここからさらに、戦後の川端文学全体を否定するところにまで進む。


従って戦後の、あるいは「雪国」以後の川端文学には、「現実精神の強さ」も「浪漫精神の高さ」もない。あるものは、もの悲しい情緒だけである。古美術や女体のかもしだすあえかに美しい雰囲気だけである(249頁)。

川嶋説の限界

しかし、はたしてそうだろうか。
川嶋は、康成が、戦争を素通りしてきた、という。それなら川嶋は「英霊の遺文」を、どう考えるのだろうか。
あの、戦死していった兵士たちや残された家族に暗涙を流した康成の至情は偽りだったとでもいうのだろうか。
「日本の母」を訪問して、質問もようしなかった康成の心情を、ありふれた心というのだろうか。
「哀愁」の源氏物語との邂逅は、決して偶然に源氏物語を読み、感動した、というようなものではない。その背景に、日本の戦況が次第に不利に傾き、日本の国土が次第に焦土と化してゆく現実があった。
その祖国への深い悲しみが、源氏物語の中を流れる「あはれ」と共振して、はじめてあの異様な感動へと導かれたのである。
康成の文学的生涯は、決して戦前から戦後へ、ひと筋に直線的に連続してきたものではない。
戦時下の川端康成については、第4章において詳しく検証してきた。
戦後については、これからおいおい語ってゆく予定だが、戦中から戦後にかけて、康成の内部は大きく変貌しているのだ。
川嶋の批判は、戦後の川端文学を理解できないところから来るものである。「山の音」も「千羽鶴」も、「みづうみ」も「眠れる美女」も「たんぽぽ」も、川嶋の実証のみを基礎とする方法では追尋することができない。その限界が、このような無理解な批判をもたらしたのである。

川嶋は、前節で見たように、「生命の樹」の、あまりに自然の美しさを強調した作風から、戦争を素通りした作品、と批判した。
これに対して、前引の武田勝彦は、この作品の主題を、「恋人を戦争に奪われた啓子が生命の樹を発見することによって、人間としての自我を恢復したことである」とした。

一方、長谷川泉は「『生命の樹』と戦争」(『国文学』1981・4・1)において、寺村の啓子への求婚は、「啓子の植木への追慕の愛を包摂したものとして表現されている」として、「戦争と、焦土からの再出発の一つの姿が、そこにある」と結論づけている。
「生命の樹」の主題が、再生、再出発にあることには、わたくしも異存はない。明らかにこの作品は、焦土に芽吹いた緑によって、生命の再生を確認したところで終わっている。作品末尾の、「本郷にある、寺村さんのお友達のおうちへ、私たちは帰るのだつた」が、啓子と寺村の結ばれることを暗示していることも、異論のないところであろう。

釈然とせぬ結末

――だが、わたくしは、この作品の結末に釈然としないのである。
この作品の美しいことは認める。全編に、敗戦の年、鹿屋基地の、春の自然の美しかったことがあふれていることも、1年後の敗戦後の日本の東海道沿線の新芽の美しいことも認める。康成は鹿屋基地体験を決して素通りしてきたのではなく、太平洋戦争全体をも素通りしてきたのでないことは、これまでわたくしが説いてきたところから、明らかであろう。
しかしわたくしは、啓子の再生が、寺村との結婚によって実現すると暗示されているところに、決定的な不満を抱くのである。
長谷川泉も、その論で、作品の冒頭を引用し、「戦争」のため「日本の春」が失われたと、作者の嘆いていることを指摘している。
また、作品の初めの方では、死んだ植木に殉じて啓子が自殺する覚悟でいることが、幾度も暗示されている。
・私はかぶりを振つた。そして、とつさに、自分が死ぬつもりでゐることを思ひ出した。
・これが、東海道の春の見納めなのだらうか。
・寺村さんは私が死ぬつもりでゐることを御存じない。

それなのに、作品の終りでは、啓子は寺村と結婚する気持ちへと変心するのである。
わざわざ聖書の詩句まで引用されて、啓子の再生は描かれている。
それなら、死んだ植木の魂はどうなるのだろう。
植木の悲壮な死に殉ずるつもりで、啓子は死ぬつもりでいたのではなかったか。それなのに、樹木の再生、生命の再生を目撃しただけで、植木への愛を葬り去ってしまうのである。

もちろん、長谷川が説いたように、寺村は、啓子の植木への愛を包摂した上で、啓子と結婚するつもりだとは書いてある。
しかし、他者との結婚は、どんなに糊塗しようと、死者を裏切ることになるのではないのか。
このような再生が、真の再生といえるのだろうか。
わたくしは、この点で、「生命の樹」を、心底から肯定する気にはなれないのである。


新しい解釈

……以上が、これまでこの作品を読んできた、わたくしの結論であった。
しかし今回、入念にこの作品を読み返すあいだに、新しい解釈が浮かんできた。
康成がそんなに安易に、死者の魂を冒瀆するような作品を書くだろうか、と疑問が湧いたのである。
「英霊の遺文」で、あれほど深く死者の魂に心を寄せた康成が、その死者の霊魂が悲しむような、また彼らが心から愛した祖国を汚すような作品を書くだろうか。
もっと別の意味がこめられているのではないのか。
すぐ思い浮かぶのは、この作品の発表舞台が『婦人文庫』である、という事実だ。この雑誌は、出版社鎌倉文庫が、戦後に生きる婦人向けに創刊した雑誌である。だからこそ康成は、この雑誌に作品を書いたのだろう。そして当然、その読者が女性たちであることを十分に意識していたはずである。
とすれば、この作品には、戦後日本に生きる女性たちに対する康成のメッセージがこめられていた、と考えるべきではないのか。

そこで注目されるのは、『婦人文庫』という雑誌の性格である。
『人間』昭和21年6月号は、その編集後記に、5月に創刊されたばかりの『婦人文庫』について、次のように記している。

★鎌倉文庫は過日最も新しい婦人雑誌として「婦人文庫」第1号を世に問ふたが、倖ひ予期どほり大きな好評を獲ることができた。鎌倉文庫独自の清新な色調と香気にみちた、あくまで新時代の婦人雑誌を創造すべく、既に第2号は刊行の運びとなり第3、第4号まで編輯(編集)が進行してゐる。「人間」の読者の方々も大きな御期待と御愛顧を傾けて下さるやうお願ひする。

「あくまで新時代の婦人雑誌を創造」するとして、この雑誌を創刊したのである。
そして第2号の6月号では「座談会・結婚と道徳について」を特集している。出席者は、河盛好蔵、今日出海、芹澤光治良、川端康成の4名である。

『婦人文庫』の座談会

「結婚と道徳」――まさに、「生命の樹」の主題と重なっている。「生命の樹」は、この座談会の翌月に発表されているのである。
とすれば、康成には、「生命の樹」を書くとき、『婦人文庫』の読者である「新時代の婦人」たちに向けて書く、という意識が強くあったはずである。また、座談会で話し合われたばかりのテーマも、執筆に入ったとき、つよく頭に残っていたことであろう。


では、この座談会では、どんなことが話し合われたのだろうか。
実際に6月号の座談会を読むと、冒頭で記者が問題提起をしている。
戦後の民主主義の導入、婦人の権利の向上や参政権といった改革の動きがある。そのなかで、「この新しい時代を迎へた日本婦人に、新しい家族制度とか、特に婦人の一番大きな結婚の問題、それに関係して道徳の問題等をどう考へてゆくべきか」を識者に話し合ってもらおうというのである。
しかし記者の意図を離れて、座談は、戦後日本の婦人と進駐兵の道徳的問題や、ドイツに占領されたときのフランス女性の場合、というふうに進んで、「結婚と道徳」の問題には、なかなか入ってゆかない。これはフランス生活の経験をもつ芹澤光治良と河盛好蔵の発言が中心になっているからのようだ。

康成は、はかばかしい発言をしていない。強いていえば、日本の今の娘たちが結婚に臆病になっている、という発言を受けて、次のように発言しているくらいである。


「結婚を考へ得ないお嬢さんがあるとすればそれも敗戦の打撃の一つですね。あらゆる面に敗戦の悲しみは深い。」

座談会は、結局、「若い娘と結婚」「男女同権と家族制度」「民主主義」といった項目を提示しながらも、話題の進展はなく、主題もあいまいなままに終わっている。
では、この座談会は、出席した康成に、何の示唆も与えなかったのだろうか。
むしろ、論議が深まらず、座談会がうやむやのうちに終わったことで、かえって康成には、自分の内面的課題が明らかになったのではなかろうか。
康成は、「結婚と道徳」という、記者からあらかじめ知らされていたであろうテーマ、また座談会の中で少しだけ話が出た「若い娘と結婚」というテーマから、自身の内部に発酵しかかっていた課題に目醒めたのではなかろうか。
では、康成がこの作品にこめた意図は何なのか。

戦争で恋人を失った女たち

戦後まもない日本には、おびただしい数にのぼる戦争未亡人や、恋人や婚約者を戦争で失った若い女性たちがいた。
彼女たちも、男たち同様、祖国の勝利を信じ、そのために全力を尽くした。戦況が変り、日本が次第に敗亡にむかって、なだれを打つように頽勢(たいせい)に傾いていったとき、彼女たちも深く心を痛めた。さらに敗色が濃くなり、外地の日本軍の玉砕が次々と伝えられ、空襲によって国土が次第に焦土と化していったとき、彼女たちの悲しみもまた、男たちに劣ることはなかった。

そんな彼女たちのけなげな生き方は、戦時下に書かれた「さざんか」「十七歳」「小切」「さと」「水」などの小品に描かれている。
戦後まもなく発表された前述の「感傷の塔」は、戦中から戦後にかけての、転変する運命に翻弄される女性たちの、精いっぱい生きようとする心を描いたものだった。
そのような無数の彼女たちの現実を考えたとき、康成の心にあったのは、そのように生きてきた女性たちに、生きる勇気を与えたい、ということであったろう。
「生命の樹」の作中に取り込まれた三好達治の「いのちひさしき」という詩は、実際には枯死する桜の老樹を歌ったものだ。しかし、その詩句が戦争末期の個人の、どうしようもない心情を表現したものとして愛唱されたとは、前引の武田勝彦の証言にある通りだ。漢字をまじえて、わかりやすく記すと、

日の本(ひのもと)の一と讃(たた)へし
花の木の枯るるにまかす
せん術(すべ)知らに

祖国が枯死してゆくのを、なすすべもなく傍観するしかない悲しみを、男も女も、ともに深く悲しんだのであった。
そのような人々に、日本の自然の美しさが、末期の眼に映るように、いっそう美しく映った。
一方、康成の内部には、敗戦の年の鹿屋基地での体験を書き残したい、という思いは、つよくあっただろう。あの1ヶ月の異様な体験は、結局、一言で表現するしかないものであった。
「生命の樹」の、「どうして、自然がこんなに美しいのだらう」という一言は、作者康成の肺腑から出た言葉だろう。
国家や人間の運命のはかなさと、それに関わりなく燃えさかる自然のみどり――。

あのときの実感を書きたいという思いと、座談会で発想を刺激された、おびただしい数の未亡人たちと若い女性たちの結婚問題、というテーマが、康成の内部で結合し、「生命の樹」という作品を生んだのだのではなかろうか。

――敗戦後、康成は、一方では「再会」に、男女間の些事がよみがえり、「生き生きと復活してくるもの」があったことを描いた。他方で、この「生命の樹」に、敗戦間近な一年前の日本の悲しみと自然の美しさを描き、さらに戦後の、自然の再生による、よみがえりを描いたのである。
康成はこの作品に、1つのメッセージを託した。
環境の激変にとまどい、夫や恋人を失って茫然としている、おびただしい数の女性たちに、再生の希望と、新しく生きる可能性を示唆する具体的なメッセージである。


すなわち、死者を心に秘めながら、再婚、あるいは新しい恋人を見つけること、などによって、新しく生き直してもいいのだよという、現実的な提言が、この作品には埋め込まれていたのではなかろうか。当時、啓子のように、戦死した恋人を胸に抱いている女性は、驚くばかりの数であったろう。
ヨハネ黙示録の一節は、ひとたび死んだ人間が、新しく甦(よみがえ)ることの象徴である。あえてこの一節を引用することによって、康成は、彼女たちに再生の免罪符を与えたのではなかったか。
この作品に勇気づけられて、新しい出発を選択した女性が、当時の日本には数多くあったはずである。
康成には珍しく、「生命の樹」は、そのような現実的な救済の道を示唆した作品であると思われる。

――なお、「生命の樹」について、若干の補足をしておきたい。
まず、この作品は鹿屋特攻基地を舞台としながらも、いくらかのフィクションが加えられている、という事実である。
ヒロインの啓子は近江に生まれた娘であるが、姉が経営を委託されている鹿屋基地の水交社の仕事を手伝うため、鹿屋に来たことになっている。
ところが、鹿屋基地の中に、水交社はなかったのである。兵舎として接収された野里小学校内にはなく、少し離れたところにある旅館・水泉閣が水交社とされた。
「鹿屋の水交社は、急拵えの場末の小料理屋といった感じだった。荒削りの床の上に白木の食卓が並んでいて、そのあいだを和服姿で襷(たすき)がけの年増の女たちがせわしげに立ち働いていた」と、『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』(米永代一郎、南九州新聞社、1989・9・13)には描かれている。
前掲の杉山幸照『海の歌声』を精読すると、特攻兵士(多くは学徒兵であるから、少尉以上の士官である)の食事を作ったのは、男性の炊事兵である。
また、当時の基地内に女性がいなかったことは、理髪の無料奉仕に来てくれていた理髪店の女性春田ハナに、隊員たちが唯一の女性として憧れを抱いていたという記述から明らかである。

一方、基地から離れた市街地に娼家があり、特攻前日の兵士たちの幾人かがそこへ行って童貞を捨てたこと、また、相手をした娼婦が、その兵士が明日死ぬことを知り、手を握って放さなかった感動的な事実なども、杉山は例を引いて印象深く描いている。

特攻基地の近くに娼家があることは常識かもしれないが、杉山から聞いた実話をもとに、康成は寺村たちが娼家をたずねる挿話を描いたのかもしれない。
また前述したように武田勝彦は、戦時下の学生たちが、自分たちの無力感を、三好達治の「いのちひさしき」に託して歌ったものだ、と述べていた。
あるいは鹿屋基地でも、特攻兵たちがこの詩を朗唱するのを耳にして、それに心うたれて、康成は作品に書き込んだのかもしれない。「生命の樹」を感動的な作品にしている一つの要素に、この詩が大きな役割をはたしているからだ。

康成は戦争を素通りしたのか

最後に、先引の川嶋至の批判について、もう少し述べてみたい。
川嶋はさきほどの批判のなかで、「あの大きな戦争にすらも人間的な関心を示さずに素通りできた作家」と康成を決めつけた。
だが康成は戦後、数々の古典回帰宣言をした。その最初の「島木健作追悼」の中の「私の生涯は……すでに終つたと、今は感ぜられてならない。古(いにしへ)の山河にひとり還つてゆくだけである」という言葉、「山里に厭離(おんり)したい気持」と
いう言葉だけでも、いかにこの作家が敗戦を心の内奥で受け止め、深い悲しみに包まれていたかを、如実にあらわしている。

「私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない」という決意は、日本の敗亡の悲しみの中からほとばしり出た、不退転の言葉ではなかろうか。
戦争を素通りしたどころか、敗戦を真正面から受けとめた、決然とした覚悟の言葉なのである。
そして実際、これから見てゆくように、康成はこの決意を、愚直といえるほど正直に、作品に直接に実現してゆく。
生(なま)なかたちで戦場の悲惨を書くことだけが、戦争の文学なのではない。戦争を心の奥底で受けとめ、そこから得たものを自己に忠実に表現してゆくことこそ、作家の誠実なのである。川嶋至は、この点でも誤解していた。康成ほど心底から戦争を受けとめ、それによって作品を根本的に変貌させた作家は、ほかになかったとさえいえるのである。


「生命の樹」の項は、この第4回で終わりです。
また、別の章を、つづきに掲載します。




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