魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

篠田正浩監督「瀬戸内少年野球団」

2013-01-19 02:33:52 | 映画
白鷺城下残日抄(34)
瀬戸内少年野球団                                                            
吉野 光彦

 篠田正浩は、私の尊敬する映画監督である。若いころは「暗殺」「心中天網島」のような前衛的作品を撮ったこの監督も、しだいに写実的な作風に移った。しかし写実的といっても、単に写実に徹するばかりではない。必ず作中に大きな文学的テーマが設定されているのである。
 なかでも「瀬戸内少年野球団」は、私の高く評価する作品である。敗戦まもないころの淡路島を舞台として展開されるこの作品は阿久悠の自伝的小説を映画化したものだという。
 映画と原作のあいだに、どのような違いがあるかは知らないのだが、映画に関する限り、これはまぎれもなく一つの時代と人々をみごとに刻みこんだ稀れな成果である。
 映画は、しんと静まりかえって玉音放送を聴く島の学校の情景から始まる。昔なつかしい木造の校舎を背景に、校庭に整列して終戦を迎えた国民学校五年生の生徒たち。
 ありし日の夏目雅子が演ずる女先生は、水色のブラウス、黒いズボン、そして白いソックスと、まぶしいばかりに美しい。
 村の駐在さんである祖父と暮らす少年竜太は、生真面目な級長である。大滝秀治の駐在さんは、古風な良俗を持った、よき時代の面影を伝えて秀逸。竜太の友達で腕白なガキ大将の自称バラケツは、活き活きとしてこれまたすばらしい。「泥の河」で脇役を演ずる喜一のように、作中できわだって実在感のある少年である。
 そんな敗戦後の島に、ある日、白い麻服の上下を着た長身の紳士が姿を現わす。伊丹十三扮する、かつての海軍提督である。かれは戦争に敗れたあと、東京裁判が始まるまでのわずかな時期を、かつての部下の好意で、静かに暮らすべく島に来たのだ。元司厨長であであり、今は島に戻っている純朴で誠実な漁師を、河原崎次郎が演ずる。
 この元艦長は、娘をひとり連れてきた。むめという古風な名前の三つ編みの少女は、セーラー服を着て背にランドセルを背負っている。
 竜太とバラケツ、いや少年たちはみんな、この少女に憧れる。
 彼女は彼らの同級生となり、少年たちと少女の日々が始まる。
 この少年少女を主軸として、映画は岩下志麻演ずる理髪店猫屋の女主人、女先生をめぐる義弟渡辺謙との物語、米軍の進駐など興味深いエピソードを丹念に描いていく。
 女先生の夫、元陸軍少尉の郷ひろみは、戦死公報が出された人であるが、生きていて、義足をつけた松葉杖の軍人として島へひそかに帰ってくる。かつての全国中等学校野球大会でエースをつとめながら、今は戸籍を失った翳りある人物、しかも理想を失わぬ端正な元陸軍将校を、郷ひろみは好演している。
 上陸用舟艇で上陸してくる米軍の姿も新鮮だ。神社の階段を苦もなく登るジープ、陽気な長身の兵士たち――。かつて異質で圧倒的な文化をもって日本を占領し、日本人に深いコンプレックスと憧れを抱かせたアメリカ兵の姿が、まことにリアルに描かれている。確かに、日本人の眼に映じたアメリカは、あのようなものだった、と私は思う。
 少女の運命は暗転する。逃げも隠れもせず静かに魚を釣って残りの日々を生きていた伊丹十三は東京裁判に召還されて島を離れる。少女は自分の意志で島にひとりとどまる。
 しかしある日、東京に住む、兄である大学生が、少女を迎えに来る。
 少女は白い船に乗って静かに瀬戸内海を去ってゆく。一つの時代の終わりである。突堤の先端まで見送って、波の背の背に、揺られて揺れて……と、船が見えなくなっても声を限りに歌いつづけるバラケツの純情は涙を誘う。
 この作品で印象的なのは、まもなく東京に去ってゆく早熟な少女が、夏祭りの夜、浴衣を着た姿で少年竜太に大人の性の世界を垣間見させるシーンである。
 元提督は刑死し、少女は東京へ帰っていった。女先生は夫の夢を信じて少年野球チームを作る……。
 題名の「瀬戸内少年野球団」は、敗戦後の島の少年たちが野球によって戦後の社会に巣立ってゆく物語であることを示している。しかしこの物語で篠田監督が描きたかったのは、単なる戦後風俗ではあるまい。篠田氏はこの映画で、島の少年たちが遭遇した異文化――カルチャー・ショックを描きたかったのだと思われる。
 淡路島にも押し寄せた戦後の混沌とした世相。米軍という異質な存在が侵入し、彼らを驚かした。しかしそれ以上に少年たちの心を捉えたのは、少女むめのもたらしたものである。
 セーラー服もランドセルも三つ編みも、島の少年たちは初めて見るものだった。しかしそればかりではない。彼らを真に撃ったのは、少女と父親のもつ高い文化の質であった。
 少女はあたかも、掃き溜めに舞い降りた鶴のように、それまで彼らの知らなかった東京の上流階級の文化を、洗練された高い教養というものを彼らに見せたのだ。彼らは確かに少女を通して、一つの別世界を覗き見たのである。
 少女は、級長をつとめる竜太を認め、いつか東京で再会しましょう、と言う。高等学校で、それが駄目だったら大学で、と少女は言う。竜太に生きる目標を与えて、彼女は島を去っていったのである。
 篠田監督は、二時間二十分という時間を全く感じさせないで、次々と幾筋ものエピソードを重ねて、映画の終わりへと観衆をみちびいてゆく。
 岩下志麻は、大陸の慰問団員だった旅役者新太郎と所帯を持ったり、逃げられたり、理髪店をやめてバー猫屋に変じて、いっときは大繁盛したりと、好色でお人好しといった三枚目の女主人役を楽しげに演じている。岩下のなかでもいちばんいい作品ではあるまいか。旅役者を演ずる沢竜二も面白かった。
 夏目雅子は、義弟(渡辺謙)に思慕を寄せられたり、野球チームを作ったり、静かな島の女先生をまっすぐに演じている。その気品のある美しさは、喩えようがない。彼女が放課後の教室で弾くオルガンの懐かしいこと。それにしても、この夏目雅子が、もはやこの世にないとは。
 そしてこれらを通じて観衆の心に残ったのは、敗戦後という時代の転換期に、眠るように静かな島で過ごしてきた少年たちが経験した、新しい社会、新しい文化の衝撃である。この衝撃を通過することによって、少年は一つの目醒めた魂として、成長を始めるのである。

 瀬戸内少年野球団・青春編と銘打った「最後の楽園」が全国で封切られたのは、三年後の昭和六十二年である。三村晴彦監督によって撮影された。これまた、なかなかに忘れがたい作品である。
 敗戦から十年――昭和三十年、淡路島で育った竜太の後身、櫟壮介は上京して明治大学に入学する。バラケツの後身、不破二郎も翌年上京して、十年後の青春の物語が始まる。
 壮介はあのとき島に舞い降りた少女――二宮菜木と再会することを目標とし、二郎はボクサーをめざす。
 壮介を演ずるのは田原俊彦。純情で一途な、時に汚れた世界にも敢然として飛び込む壮介を、俊ちゃんはまことに自然に演じている。
 一方、二郎はチャンピオンをめざす。「チャンピオンになってやる。白井義男になるんや」という二郎の決意に、昭和三十一年という時代が見える。
 二郎はデビュー戦であえなくKO負けを喫するが、この二郎を演ずる若者も、新鮮で生き生きとしている。
 しかしこの映画で圧倒的な存在感を見せるのは、当時の新人、鷲尾いさ子である。
 なかでも、とうとう壮介の前に姿を現わしたシーンは、この映画のハイライトであろう。
 戦争犯罪人として処刑された父を今なお慕う菜木には、堕落した母と兄のいる鎌倉の家は耐えがたいものだった。母は進駐軍将校たちと危うい交際を重ね、兄は毎夜のように女を変える。彼女は家を出て、クラブでジャズのピアノを弾いている。
 ここに登場するのは、「亜米利加囃子」という名の、ジャズが生演奏されるクラブである。赤いネオンの看板が点滅するこの店は、戦前に上海や横浜で天国を見てしまったオールド・ジャズ・マンたちの、敗退の人生の最後を生きる場所である。この店のマスターを演ずるケーシー高峰が、思いやりと悲しみと、人生の転変を垣間見させて、とてもすばらしい。トランペットを吹く根上淳も、誇り高く敗北してゆくオールド・ジャズ・マンを好演している。
 そのオールド・ジャズ・マンの死に近い病院で、菜木と壮介は再会する。
 壮介君、遅いわよ。遅いじゃないの――。
 とうとうめぐり逢ったとき、菜木の放つ愛の言葉である。それにしても、このときの鷲尾いさ子は、令嬢の名にふさわしい美しさと気品をたたえている。彼女は数知れぬ男たちの求愛を受けながら、しかしすべてを撥ねのけて壮介を待っていたのだった。
 ピアノを捨ててクラブを脱した菜木には、このとき今夜の宿のあてがなかった。
 菜木を真ん中に、壮介と二郎と、三人が川の字になって下宿で眠る場面は美しい。
 壮介と菜木の根底にあるのは、空襲を受けて炎上する神戸の街を対岸から見ながら誓い合った、幼い日の愛である。一方、二郎は菜木を慕いながらも、壮介と菜木が結ばれるよう、必死になるのである。
 しかし、菜木の母が言うように、ふたりの階層の違いはどうしようもなかった。菜木の母は言う――戦争がなかったら、あなたがたは逢わなくて済んだのよ。逢ったのが間違いだったのです。
 いったん遠ざけられた二人だが、物語の終盤で、実業家と結婚させられることになった菜木は、逃げだして壮介のもとに来る。
 二人は東京を脱して、美しい土地へ行く。箱根だろうか美保の松原あたりだろうか、美しい水辺があって秀麗な富士山の見える場所。
 ――富士山がなければ、淡路島とそっくりね。
 二人はあの少年の日々を思い出しながら浜辺でベースボールをする。砂にくっきりと刻まれてゆくライン。架空のボールを壮介が投げ、菜木が打つ。ホームベースに駆け込む菜木ののびやかな肢体――。
 所詮は別れなければならない二人の、つかのまの楽園の日々を描いて映画は終わる。
 それにしても、昭和三十年代は、ジャズの時代でもあった。作中を通じて、バックにジャズの名曲の数々が流れる。田端義夫の「別れ船」とジャズが共存した時代――。
 まだ戦後の風俗と痛みの残る最後の時代を、青春の夢と無残、宿命的な愛の終わりを、映画は見事に描ききった。
 俊ちゃんの歌を私は一曲も知らないが、この映画で壮介を演じた田原俊彦を、私はいつまでも忘れないだろう。