魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成と鹿屋特攻基地

2020-05-23 16:29:46 | 論文 川端康成


川端康成と鹿屋特攻基地

拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第四章「戦時下の川端康成」から



 
切迫する戦況―昭和20年―

戦況は、切迫していた。
3月4日には、B29約150機が東京に来襲し、雲上より盲爆した。
3月10日の東京大空襲について、高見順『敗戦日記』(文藝春秋新社、1959・4・20)は、以下のように記している。

三月十一日
夜、義兄来る。9日夜の、というより10日暁方の爆撃の被害は今までにないひどいものだつた由。罹災家屋25万軒、罹災民100万と言われている由。

そして高見は翌12日、浅草へ行こうと東京駅で山手線に乗り換えようとして、歩廊に罹災者の群れを見、息を吞む。上野へ降りて、ふたたび息を吞む。駅前は罹災者でいっぱいだったのだ。
さらに浅草へ行こうとして、「駅前から見渡す限り、ことごとく焦土と化している。ひどい。何んとも言えないひどさだ。想像以上だ」と歎き、浅草に来て、「きれいさつぱり消えている」と、衝撃を隠さない。
3月17日に、硫黄島が玉砕した。大本営の発表は、その4日後だった。
3月26日には沖縄戦がはじまり、4月1日には、沖縄本島に米軍が上陸した。5日、小磯内閣は総辞職し、鈴木貫太郎内閣が7日に成立した。

このような時期、康成は、海軍報道部の吉川誠一の訪問を受けた。
海軍報道班員として、特攻隊基地の鹿屋(かのや)飛行場に行ってほしい、という依頼であった。
今急になにも書かなくてもいいから、後々のために特攻隊をとにかく見ておいてほしい。
そういう依頼である。
康成は二、三日考えたあと、承諾した。
じつは、康成に依頼したのには、以下のような事情があった。
近年に公刊された高戸顕隆『海軍主計大尉の太平洋戦争』に、その次第がくわしく語られている。
この書によると、当時、海軍報道班を統率していた高戸は、昭和20年2月に入ると、大物の報道班員を戦地に送ろうと考えた。というのは、「戦局いよいよきびしく、日本の運命はまさにきわまろうとしていた」ので、「この事態をより的確に語りつぐべきだと思った」からである。そこで高戸は、直接の折衝を吉川誠一に命じた。
吉川は当時、『台湾公論』という雑誌の東京支社長をしていたが、海軍に出入りし、高戸と気が合ったので嘱託として採用していたのである。2月の末か3月の初め、高戸は吉川に、ただちに手配するように言った。
 「作戦開始に当たっては、日本の心を正確に誤りなく次代に語りつぐことのできる人材を選出し、報道班員に任命、フィリピンの現地に派遣したいので、ただちに手配するように。なお、原稿ないし報告書は書いてくれれば結構だが、あえて強制はしない。歴史的壮挙を、その目で正しく見ておくだけでもよい。」
吉川はまず、当時、文壇の大御所といわれていた志賀直哉を訪ねたが、志賀は実際より老けてみえた。そして残念ながら体力的に無理だと断った。そこで吉川が、横光利一と川端康成の名をあげて相談すると、志賀は「横光さんは大きく書くか小さく書くでしょう、川端さんなら正しく書くでしょう」と答えた。

そこで吉川は4月10日ごろ、川端康成を訪ねて要請したのである。
吉川が帰る際、康成は、「場合によっては、原稿は書かなくてもいいんですね」と念を押すように言った。
高見順の『敗戦日記』によると、康成が承諾したのは、4月13日である。それから10日ほどのち、4月23日に康成は、山岡荘八、新田潤とともに海軍省に出頭した。康成は報道班員として初めて戦場に向かうので、報道班員としてはベテランの、山岡、新田を同行させることにしたのである。行先は、フィリピンから鹿屋に変更されていた。
この日、高戸は3名に「みなさんはこの戦いをよく見てきてください。そして今、ただちに書きたくなければ書かないでよろしい。いつの日か30年たってでも、あるいは50年たってでも、この戦さの実体を、日本の戦いを、若い人々の戦いを書いて頂きたい……」と述べた。
山岡荘八は、この言葉に感動し、戦後、『朝日新聞』に、このことを書いた。

四月二十四日、鹿屋に飛び立つ朝、厚木飛行場にリュックサックを背負って現れた康成を、高戸は「瘦身鶴のごとき」と形容し、山岡は「鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった」と語っている。
康成は、2年前に亡くなった徳田秋聲からもらった、小さな赤茶の編み上げ靴をはいていた。
昼ごろ神奈川県の厚木(あつぎ)飛行場から輸送機に乗ったが、敵機とハチ合わせの危険があったので、大井飛行場にいったん着陸、そこから乗りついで鹿屋に着いた。

本州南端の特攻基地

鹿屋(かのや)は、鹿児島湾にのぞむ鹿児島県南端の特攻基地である。本州最南端の基地の一つだ。
いったい、鹿屋特攻基地は、どのような歴史をもつ基地なのだろうか。
鹿屋が町制を布(し)いたのは大正元年。民営の鉄道も敷設されて、大隅半島の中心地となった。
 昭和11年、鹿屋航空隊が開隊した。翌年、北支事変(のちの満州事変)が勃発すると同時に航空機が増勢され、台湾、海南島などに進出し、中国上海周辺華南方面を猛爆した。
昭和16年5月、鹿屋町、大姶良(おおあいら)村、花岡村が合併して鹿屋市となった。
 その12月8日未明、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したが、同時に鹿屋基地からはフィリピン・ルソン島の米軍クラーク基地攻撃に参加。マレー沖海戦にも参加した。

 以後、ラバウル、カビエン、テニアンなど南西方面艦隊作戦に従事して多数の戦果を上げ、事実上、鹿屋航空基地は、日本海軍航空基地の最前線基地となったのである。
 しかしまもなく形勢が逆転し、昭和十九年秋のマリアナ海戦に敗れて以後は、神風特別攻撃隊を端緒に、特別攻撃が最後の手段として常套化されていった。
 昭和20年1月28日、神雷部隊は九州に転出を命ぜられ、第5航空艦隊所属となった。同時に司令部も鹿屋航空隊に移された。この第5航空艦隊の司令長官は宇垣纏(まとめ)中将、参謀長は横井俊幸少将であった。
 そして4月1日に米軍が沖縄本島に上陸すると、鹿屋航空基地を中心に、南九州の基地から菊水作戦と呼ばれる特攻作戦が継続されていったのである。
 菊水作戦は4月6日にはじまり、6月22日まで、第1次から第10次まで、断続して敢行された。康成らは、その最中に鹿屋に到着したのだ。

 4月末、康成らが鹿屋に着いてみると、格納庫の屋根は爆撃でゆがみ、壁は機銃掃射でえぐられて、完全に戦場の様相だった。滑走路のほかは、たび重なる爆撃で穴だらけだ。滑走路だけは、爆撃のあと、すぐ補修するのである。
康成たち3人は、第5航空艦隊付きとなり、海軍専用クラブ水交社に泊まった。基地の近くにあった料亭水泉閣が水交社に宛てられた。
 3人が着いて間もなく、練習中の飛行機が飛行場のはずれに落ちて炎上した。「こんなところでは、死んでも死にきれないだろう」と、山岡はショックを受けたという。
 康成は黙って、その方角を見ていた。目の中は、真っ赤だった。
 夜となく昼となく、空襲があった。そのたびに、山の中に掘った防空壕に駆け込むのであった。
 特攻隊の攻撃によって、沖縄戦は1週間か10日で日本の勝利に終わるだろうからと、康成らは出発を急がされたのだったが、九州についてみると、むしろ日々に形勢の悪化していることが、偵察写真などによっても察しがついた。
 艦隊はすでになく、飛行機の不足も明らかだった。
 また、鹿屋基地は、初めから特攻隊員が集結しているのではなく、飛び立ってゆくための最後の足場なのだということも知った。
 各地の飛行隊から、特攻隊員は自分の用いる特攻機を操縦してやって来る。そして、翌日か翌々日には、発進してゆく。その後に、また新しい隊員と飛行機とが到着してまた出撃するのであった。
 康成は水交社に滞在して、将校服に飛行靴をはき、特攻隊の出撃のたびに見送った。

 私は特攻隊員を忘れることが出来ない。
 あなたはこんなところへ来てはいけないといふ隊員も、早く帰つた方がいいといふ隊員もあつた。出撃の直前まで武者小路氏を読んでゐたり、出撃の直前まで武者小路氏を読んでゐたり、出撃の直前に安倍先生(能成氏、当時一高校長。)によろしくとことづけたりする隊員もあつた。
 飛行場は連日爆撃されて、ほとんど無抵抗だつたが、防空壕にゐれば安全だつた。沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。
 特攻隊についても、一行も報道は書かなかつた。

 敗戦後10年たった昭和30年8月、『新潮』に「昭和20年の自画像」と題して掲載された文章「敗戦のころ」の一節である。

基地のみどり

鹿屋について間もなく、康成は鎌倉の秀子に手紙を書いた。秀子が読むと、「当地の隊読み物殆ど余りなく、特攻隊員も読み物を熱望してゐる。食べるものより心の糧の書物が欲しいとの事」とあった。
 これは、後述するように、そのころ始めていた鎌倉文庫の人々に、是非、航空基地宛てに本を送ってもらうように、という康成からの要請であった。
 死を前にした特攻隊員たちの、「心の糧」をもとめる心情に打たれ、じっとしていられなかったのであろう。
 小山の多い基地は、5月の新緑が眼にしみた。また、野道の溝に垂れつらなる野いばらの花にも、特攻隊員の宿舎の庭の栴檀の花にも、康成は眼をみはった。
 どうして、自然がこんなに美しいのだろう。
 晴れた夜には、満天に星がきらめいた。
 しかし五月の基地は、雨も多かった。作戦が妨げられ、特攻隊員は気を腐らせたが、雨がやむと、紫紺に洗いだされた緑の山がまぶしいばかりだった。そのみどりの中を、特攻隊員たちは飛び去っていった。
 ――康成は鹿屋に1ヶ月いて、5月24日に鎌倉に帰ってきた。
 死に向かう若者たちを身近に見つづけた康成が、どのような心境であったか、知るすべはない。
 ただ夫人によると、「3号報道班 川端 焼却の事」と表紙の裏に記してある小さな手帳が残されているそうだ。
 その手帳には、90頁にわたって、びっしりと何かが書きつけられているのだが、判読がむずかしい、という。康成が鹿屋で何を見て、何を感じたか、知りたいところだ。この手帳の翻刻が望まれる。
 ――戦後、康成は鹿屋の経験を具体的に素材として、たった一つだけ小説を書いた。
「生命の樹」(いのちのき)(『婦人文庫』、1946・7・1)である。
 この作品については、さまざまな論議があるが、それはまた、のちの章で考えることとしよう。
 ともあれ、康成は鹿屋航空基地で1ヶ月、特攻機の出撃してゆく姿を見送った。このことは、戦後の川端康成を考える上に、無視できぬ事実であろう。
 昭和20年の3月11日から6月21日までの間に、鹿屋特攻基地から発進した特攻隊は70隊、445機、将兵828名という(米永代一郎『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』による)。

杉山幸照『海の歌声』と川端康成

李聖傑に、康成の二度にわたる満州行と一ヶ月の鹿屋体験を検証した詳細な論考がある。
以下つづく


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